第61話.逃げ出した先は3
幼い頃から、リーナは双子の姉のことが大嫌いだった。
リーナがルイゼを嫌う理由は、いくつでもある。
その中でも大きいのは、姉のルイゼが誰にでも優しい子だったということと――ルイゼにだけは、誰だって優しかったということだ。
「この方がフレッド殿下だ。ほら挨拶しなさい、ルイゼ」
――ほら、いつもこうよ。
父は、恥ずかしそうにもじもじしているルイゼの背を優しく押している。
そうして父によって導かれた少女は、頬を染めながら素敵な王子様に挨拶するのだ。
まるでそれは、おとぎ話に出てくるワンシーンのように輝いた光景で。
「ルイゼ・レコットといいます。ほ、本日は素敵な会にお招きいただき――」
それが許せなかったリーナは、ルイゼの背中を力任せにつねってやった。
ビクッ、と震える姉に、他の誰にも聞こえないように囁いてやる。
「ルイゼはあっちに行っててよ。アンタみたいな冴えないのと姉妹だって王子様に思われたくないから」
……こうでも言ってやれば簡単だ。
心優しいルイゼはすぐに頷く。コイツはいつもこうなのだ。
誰が相手だろうと笑顔で接する。嫌なことを言われても言い返したりしない。
でもリーナはムカついたらすぐ手を出すし、悪口だって言う。だからいつも、父や母に怒られてばかりだ。
(ふたりとも可愛い娘だから――、ってお父様もお母様も言うけど)
そんなのは嘘だと、リーナはよく知っている。
その嘘を貫こうと両親は必死だが、いつも、決まった場面では必ずルイゼを優先させるのだ。
(わたくしが、魔法を使えないから)
ルイゼはよちよち歩きを始めた頃から、魔法を使えたという。
しかも二系統の魔法が使えて――その二系統というのも、六系統の中で一番目と二番目に稀少だとされる、光魔法と闇魔法だった。
まだそのときのリーナはよく分かっていなかったが。
父のガーゴインは強力な闇魔法の使い手として魔法省大臣にまで上り詰めた男で、母であるティアは聖女と崇められるほどの光魔法の使い手だったのだという。
だからこそルイゼの素養を知った二人の喜びようは凄まじかったのだろう。
褒め称えられるルイゼの姿を遠くから見るたび、リーナはぼんやりと思ったものだった。
(きっとこれからも、わたくしが魔法を使える日は来ない)
理由ははっきりしている。
ルイゼが、それを妹から奪い取ったから。
リーナのために用意されたはずの祝福を、ルイゼが全て。
(わたくしの魔法を、ルイゼが奪った)
同じ顔なのにルイゼばかりが贔屓される理由はそこにある。
ルイゼが魔法を手にしているから。リーナから盗んでしまったから。
だから、他のものなら何だって奪ったって良いはずだ。許されるはずだ。
それなのに今も目の前から、ルイゼから奪い取ってやったはずの人が――居なくなろうとしていた。
「……ごめん、ちょっと用事を思い出したんだ」
やたらとそわそわしていたフレッドが、話の途中にそんなことを言い出して。
リーナが何か言う前に急に背を向けてしまった。
「フレッド様っ?」
リーナがその名前を呼んでも、フレッドは振り返りもせずに走って行ってしまう。
取り残されたリーナは憤慨した。
走り出した方向を見れば分かる。
フレッドはきっと、お茶会の会場から姿を消したルイゼを探しに行ったのだ。
(…………何でいつも、こうなの!)
会場を見回すと、いつの間にか父も大人たちに囲まれて談笑していて。
リーナの周りには誰も居ない。
気がつけば、誰もが憐憫の眼差しでリーナのことを眺めている気がする。
「ねぇ、君。良かったら僕と話さない?」
「っ」
リーナは、声のする方をおずおずと見つめた。
同い年くらいだろうか。リーナのことを見て微笑んでいる少年が立っていた。
「僕はハリーソン・フォル。君は?」
「わたくしはリーナ・レコットよ」
(……王子様ほどじゃないけど、ちょっと格好良いかも)
「良かったら僕と話さない?」
「い、いいけど」
「本当? ありがとう。じゃああちらの席に行こうか」
少年に手を引かれて、リーナは言われるがままに歩き出した。
他に空いている席はいくつもあったが、なぜか広い会場の隅にまで連れていかれる。
そこに用意されたのは明らかに人払いされた、特別で豪華なテーブルだった。
その席に座っている壮年の男の容姿は、リーナの手を引くハリーソンによく似ていた。
おそらくは父親だろう。こちらを見て、にこにこと笑っている。
(王家が主催する茶会で、わざわざ席が用意されているなんて)
目の前の男はよほど偉い立場なのだろうとリーナは思った。
「やあ、可愛いお嬢さんだね。お名前は?」
「リーナ・レコットです」
「……ああ! 思い出した。レコット伯爵の娘さんだね」
実際は何もかも把握された上でハリーソンに声を掛けられたことなど、そのときのリーナには気づきようもなかった。
「私はセオドリク・フォルというんだ。ハリーソンの父親だよ」
「……セオドリクおじさま?」
「ふふ。そうだよ」
ハリーソンは咎めるような目でリーナを見ていたが、セオドリクは笑顔で返してくれた。
それがリーナには嬉しかった。両親はいつも、リーナがやりたいようにやると注意しかしないからだ。
セオドリクとリーナ、それにハリーソンの会話は初対面にも関わらずよく弾んだ。
ふたりは話を熱心に聞いてくれたので、リーナは日頃溜まっている鬱憤を晴らすかのように話し続けた。
「お姉さんが嫌いなんだね?」
「……嫌いよ。大嫌い、あんなヤツ」
「お父さんに愛されたいんだね?」
「そんなの当たり前じゃない!」
数十分も経てば、セオドリクはすっかりリーナのことを理解してくれていた。
それが嬉しくて、さらにリーナはルイゼの悪口を話そうとした。
しかしそのとき、セオドリクが言ったのだ。
「それなら私が、君に"魔法"をあげよう」
「……まほう?」
リーナが聞き返すと、「そうだよ」と彼は緩慢に頷いた。
「でもわたくし、魔法は使えないもの……」
「そんな君にも使える魔法を、私がプレゼントしてあげるよ」
「わ、わたくしも魔法が――使えるようになるのっ?」
そんなことが可能なのかとリーナは驚いた。
内緒話をするようにセオドリクが口元に人差し指を立てる。
リーナはごくりと唾を呑んだ。
「――これはね、人の心を操る魔法なんだ」
誰かひとりにだけ、使うことができる魔法だよ、とセオドリクが囁く。
「こんなにすごい魔法は、君のお姉さんだって使えないだろうね。これはリーナ、君だけの特別な力だ」
「わたくしの……わたくし、だけの……!」
それは、なんて甘美な響きだっただろう。
「これで、何をすればいいか分かるかい?」
「お父様を操る!」
意気込んでリーナが答えると、セオドリクは笑顔で頷いてくれた。
「お父様を操って、わたくしのことだけを好きになってもらって、わたくしの言うことだけを聞いてもらって――ルイゼのことを大嫌いになってもらうの!」
「……素晴らしい。君は将来、"才女"と呼ばれるかもしれないな」
パチパチと拍手をされ、リーナはますます顔を輝かせた。
しかしそれも、次第に沈んでいく。
「でも、家にはお母様が居るから……お母様はきっと、ルイゼの味方をするわ」
心を操る魔法がたったひとりにしか使えないなら。
父がリーナの味方をしても、母はそうはならないだろう。それではきっと、上手くはいかない。
「――そうだね。でもきっと、何とかなるんじゃないかな?」
唐突に、セオドリクの言葉はひどく曖昧なものになった。
だがリーナは「そうかもしれない」と思った。
(だって、セオドリクおじさまの言うことだもの!)
不思議と、彼の言葉にはそう思わせる力があった。
「ねぇおじさま。――わたくし、ルイゼが光魔法を使うのが許せないの」
リーナがそう切り出すと、セオドリクは「そうだろうね」と相づちを打った。
「あれはきっと、元々はわたくしの力だったもの。ねぇ、おじさま……どうすればいいかしら?」
セオドリクが考え込む仕草をする。彼の答えを、リーナはハラハラとしながら待った。
「そうだなぁ、それなら……君付きの侍女見習いが居るだろう?」
「侍女見習い……」
「確かケイト、って名前だったかな?」
居たかも知れない、とリーナは思ったが、いまいち確信はなかった。
侍女の、しかも見習いの名前なんていちいちリーナは覚えていない。
そしてその見習いの名前を、何故セオドリクが知っているのか。
悪巧みの最中で高揚する幼いリーナは、それを疑問に思うこともなかった。
「それで、ケイトをどうするの?」
「病気の幼い弟が居るそうだから、そこにつけ込むんだ。協力すれば金をやると言えばいい」
「お金を……?」
「心配ないよ、資金は私が出そう。侍女見習いに大怪我の振りをさせて、それをお姉さんに治させるよう仕向けるんだ」
リーナは固まった。
急にセオドリクの言葉遣いが難しくなったために、いまいち理解が追いつかない。
「大怪我……でも、ルイゼは治せちゃう……と思うわ」
「君は馬鹿だね。怪我の振りだと言っただろう?」
セオドリクが失笑する。
「顔には傷のメイクを施して、辺りに撒く血液には鶏の血を使うんだ。倒れるときは、万が一にもメイクだとバレないように俯いて倒れるのがいいだろうね。ケイトは協力を渋るかもしれないけど、硝子の花器を壁にぶつけて壊すから、硝子で怪我を負うことは無いって説得するといい」
「え、えっと……えっと……」
「ああ。――こんなことも覚えられないか」
冷たい、温度の無い目だった。
リーナは息を呑んだ。
一瞬、頭が真っ白になる。それでもどうにか、震える口を開いた。
「……ちゃ、ちゃんと覚えたわ。えっと、ケイトの顔に傷のメイクをして、血は……鶏の血を使って。ケイトが倒れるときは、俯いて倒れさせる。メイクだってバレないように。あとは、その、硝子の器を壁にぶつけて壊すから、ケイトは怪我をしなくて……」
「そうだね。よく出来ました」
ほっとして、リーナはぎこちない笑みを浮かべる。
「そうすればきっと、君のお姉さんは魔法が使えなくなるよ」
「……ええ! ええ、きっとそうだわ!」
治癒魔法が使えるはずなのに、目の前で苦しむ人を助けられなかったら。
セオドリクの言うとおり、きっとルイゼは自分を責めて魔法が使えなくなるはずだ。
(すごいわ。考えるだけで最高!)
「それでね、リーナ。お父様が君のことを大好きになった後は、私もいくつか君にお願い事があるんだ。聞いてくれるかい?」
「もちろん、いいわ! 魔法をくれるお礼だもの!」
「ありがとう、リーナはとても良い子だね」
自分がその日、取り返しのつかない闇の中へ足を踏み出してしまったことに――リーナは、気がついていなかった。
(どうして今、あの日のことを思い出すの……)
やっとの思いで、リーナは屋敷の前に辿り着いていた。
ぐちゃぐちゃに流した涙は頬にこびりついている。
右膝の血は少しずつ乾いてきているが、痛みが治まることはない。
我ながらひどい有様だが、笑えるほどの気力もリーナには無かった。
ここに来るまでの間に、何十人もの人々とすれ違ったが、しかしリーナに声を掛けてくる者は居なかった。
リーナの鬼気迫る様子に驚いたのだろう。だが、もはやそんなことはどうでもいい。
「お父様!」
リーナは久方ぶりに帰る家の中へと飛び込んだ。
なぜか使用人の迎えはない。人の動く気配も感じられない。
それでも、求める人はただひとりで――リーナは迷わず、父の書斎へと飛び込んだ。
「お父様ぁっ!」
書斎の椅子に、その人は座っていた。
窓の外を眺めている後ろ姿を見た瞬間に、リーナの瞳からはまた涙が溢れ出す。
「お父様聞いて! ひどいの、みんながひどいのよっ……! わたくしを蔑ろにして、虐めて、傷つけるの! ルイゼなんて、わたくしの振りをしてわたくしを嘲笑ったのよっ! どうしてあんなにひどいことが出来るのっ?!」
堰を切ったように涙がこぼれ落ちる。
「お父様は、そんなことしないわよね……? お父様だけはずっとわたくしの味方よねっ? ねぇ、お父様! 早く答えて!」
リーナは一所懸命に強請った。そうすれば父は応じてくれると知っているからだ。
この十年間、ずっとそうだった。父はリーナの思うがままに動いてくれたのだ。
「ねぇ、お父様! お父様っ!」
「…………言いたいことはそれで終わりか?」
「……っっ!」
リーナは凍りついた。
父の声ではない。だが、それは確かに聞き覚えがある声だった。
低く艶めいた男の声。
その声の主が、ゆっくりと立ち上がり――振り返る。
目が合った途端に。
リーナは恐怖に震える唇で呟いていた。
「ルキウス・アルヴェイン……」
冷徹な美貌の男が、そこに立っていた。






