43. 冷たい晩餐をいただきます(本編)
慰霊祭の儀式が終わり、エーダリアがリーエンベルクに帰着したのは、会場を発ったという一報より一時間程過ぎた、薄暗い一日の夜の入りのことであった。
聞けば、エーダリアの判断で火事になった区画を経由して戻ってきたそうで、警備上の問題で、馬車から降りる事は出来なくても馬車が近くの道を通るだけで領民達は嬉しかったことだろう。
同じ馬車にはヒルドとゼベルだけでなく、思いがけない魔物が同乗しており、そのお陰でまだ危険があるかもしれない中を回り道出来たらしい。
「おや、ヨシュアもいたのだね」
「むむ、そのヨシュアさんは帰ってしまったのですか?」
「ええ。イーザから、リーエンベルクまで馬車に同乗するように言われただけらしいので、中には入られずそのままお戻りに。あの方も、イーザが巻き込まれたのであまり愉快ではないのでしょう。道中、本来の………というのもおかしな表現になりますが、怨嗟の火による小さな火事があり、不愉快そうにすぐさま消しておられましたよ」
「お二人が狙われてしまったのは、やはり、欄干の魔物さんの行動を調べてくれていたからなのでしょうか?」
それは、イーザの友人が受けた呪いが発端ではあるのだが、ネアは自分も不自由な身でこちらを案じてくれたイーザの優しさにふと、心配になった。
イーザまでもが呪いを受けてしまったことで、ヨシュアが、ウィームという土地に関わることを問題視して、大事なイーザを遠ざけようとしても不思議はない。
(………イーザさんとヨシュアさんは、イーザさんのお友達の方がウィームに多いというだけの理由で、昔からウィームに遊びに来ていたようだけれど、せっかく私やディノだけではなくて、ノアや、エーダリア様やヒルドさん達も仲良くなれたのに、それが丸ごと失われてしまったら………)
強欲な人間は、こんな時なのに、そのような身勝手な恐れを抱いてしまうのだ。
ここはネアの大事なウィームで、いつの間にか近くに居心地が良くて素敵なものがたくさんある。
自分のものではないそれを、失いたくないと声高に叫ぶのはとても我が儘なのに、それでもやはり、失われないで欲しいと思ってしまう。
しかし、不安の棘がまた胸の内に現れてしまったネアを、続いたヒルドの言葉がすっと楽にしてくれた。
「そう思われていたのですが、ディノ様に捕縛していただいた欄干の魔物をゼノーシュが引き取ったところ、ヨシュア様に個人的な恨みがあったことが判明しまして………」
思いがけない事実に目を瞠ったネアに、いつもの会食堂にみんなで集まり、出てきたお茶を一口飲んだヒルドは、ほっとしたような目をした。
窓の外は相変わらずの暗さだ。
夜だからこその暗さではなく、べったりと黒い闇の重さは、夜の光そのものが弱いのだと教えてくれる。
そんな夜にどこかで、ぼうっと赤い焔が燻る様は、統一戦争の苦しみを知らなくても胸を掻き毟る息苦しさだろう。
毎年、ウィーム全域が暗い雰囲気に包まれる火の慰霊祭だからこそ、今年のように人為的な事件が引き起こされると、その心労はかなりのものになるのは間違いない。
(ヒルドさんは、そんな夜の中にまた出て行かなければいけないのだわ…………)
今はやっとひと息吐けた様子だが、一時間程こちらで過ごしまた出なければいけないそうなので、このような場面では軍師として書架に篭るダリルとは違い、現場に出ることの多いヒルドが休める時間は少ない。
ネアも少しでも手伝えればいいのだが、今日は不要な外出をしないことが一番の助けなのだった。
困ったような微笑みを浮かべたのはエーダリアで、こちらはツダリ原産の心を和らげる香草茶を飲んでいる。
テーブルの上に並んでいるのは、それぞれの嗜好に合った飲み物だけではない。
リーエンベルクの料理人達は、大切な主人のために、すぐさま一口サンドイッチと、各種のチョコレート、さっぱりとした甘さが嬉しい果物のゼリーを用意してくれた。
こんなテーブルの上を見ると、いつからか我が家のような不思議な安堵に心が震えるようになった。
それはきっとネアだけではなく、みんながそうなのだろう。
だからこそ、この大切な棲み家の深い傷の記憶は、心を大きく揺らすのだ。
「………以前に住んでいた橋を、雲の魔物が引き起こした水害で流されてしまったのだそうだ」
「…………わーお」
「その恨みが深かったのだろう。今回の一件で、系譜の上位にあたる橋の魔物から印付けの役目を授けられた際に、最近は雲の魔物が火の慰霊祭でウィームに力を貸しているようだと進言し、そこから、まずは雲の魔物を封じようという結論に至ったらしい。このあたりはデルフィッツ子爵の意思を反映しておらず、魔物達の意向であったようだ」
(………それだけの魔物さん達と手を組んだにせよ、デルフィッツ子爵も、計画を危うくするような相手を巻き込まないで欲しかったのではないかしら………)
相手は憎っくき主犯なのだが、何となく不憫に思えてくるのは、火の慰霊祭で姿を見たデルフィッツ子爵が神経質そうな面立ちだったからだろうか。
勝手な印象だが、思わぬところから計画を崩した魔物達の話を聞いたら、わぁぁぁと声を上げて暴れそうな雰囲気がある。
「………言われてみれば、ヨシュアは、癇癪の後の大雨のとばっちりで酷い目に遭う河川周りや橋回りの生き物には、恨まれていることも多いだろうね。うーん、サルルカムも何か因縁があったのかな?」
「それについては、ダリルが調べたようだ。以前、橋の魔物の活動が報告されていたザルツのカムス橋と同様の事件が、アルビクロムでも起こっている。記録を調べさせたところ、当時その橋に住んでいたのは、サルルカムという名前の魔物であったらしい。そこも、古い記録ではあるが橋が損傷する程の局地的な大雨が降ったという記録があった」
「イーザによると、ヨシュア様が系譜の妖精の粛清をされた際のものらしいですよ」
会食堂は、少しだけしんとした。
よりにもよってな恨みの重なりに、ネア達は顔を見合わせてしまう。
「で、でも、火の慰霊祭をどうこうしようという、悪巧みの方が先なのですよね?」
「あ、ああ。それは間違いない。…………ただ、デルフィッツ子爵が組んだ魔物達は、これ幸いと自身の恨みも共に晴らそうとしてしまったのかもしれないな…………」
捕縛された欄干の魔物によれば、本来、ぼっと火が燃え上がる魔術を呼び込むその印は、慰霊祭の会場から出て来たウィームの歌乞いに付ける筈だったのだそうだ。
しかし会場に向かう前に、恨みのある雲の魔物が自分の新しい住処にやって来たので、我慢出来ずそちらにえいっとやってしまったということなのだとか。
(我慢出来なかったんだ……………)
この流れだと、サルルカムがヨシュアが計画を邪魔しないようにと呪いをかけて綿犬にしてしまったのも、計画の為と言いつつもかなりの私怨もあったのかもしれない。
このような陰謀が許されるものではないのが大前提なのだが、やはり思い通りにいかない人外者というものの気儘さに、ネアは、少しだけ何とも言えない気持ちになった。
(む……………)
隣の魔物が、ネアが喜ぶと思ったのか少し離れた位置にあった葡萄ゼリーをこちらに移動させてくれたようだ。
今日に限っては苺ゼリーをいただこうとしていたネアは、心を無にして慈愛の微笑みを切り出し、期待に満ちた目でこちらを見ているディノを、優しいですねと褒めてやる。
こちらからさりげなく苺ゼリーを伴侶に授けたのは、交換こ目当てである狡猾な伴侶をどうか許して欲しい。
「………でも、サルルカムさんは、結局いつかはヨシュアさんに報復されますよね?」
そう尋ねたネアに、エーダリアは表情を曇らせた。
ウィーム領主として、更にはガレンエンガディンとしてその心を曇らせるのは、今回使われた魔術の恐ろしさ故かもしれない。
「問題になった魔術を、使うつもりだったのかもしれないな………」
「………もしかして、アルテアさんが手がけた被害者を犯人にする魔術をでしょうか?」
横から伸ばされた手が、ネアの頬をそっと撫でる。
おやっと目を瞠ったネアに、ディノは水紺色の瞳を思わしげに翳らせた。
「そこにも、今回の一件で表に出た、展開された魔術の基盤を他者に押し付ける術式を使うつもりだったのだろう。それを付与された者がまだいなかったのであれば、…………彼等は、儀式の後で接触する予定だった者に背負わせるつもりだったのではないかな?」
「…………ヨシュアさんは、大好きなイーザさんを巻き込んだ人を許さないでしょう。もし、思惑通りになっていたのなら、大変な事になったかもしれませんね………。エーダリア様?」
「…………狙われていたのは、お前だったのかもしれないのだぞ」
そう言われ、ネアは、ディノのみならずノアやヒルドの表情も酷く固い理由がそこにあったのだと今更ながらに気付いた。
彼等は恐らく、ネアがヨシュアの奥さんなぬいぐるみの誕生会に行くくらいには、親しくしている事を知らない。
だからこそ選ばれた生贄なのだろうし、彼等の予定であれば、ネアは燃えてしまって反論する事も出来なかった筈だったのだろう。
「その、………あまり言いたくはないのですが、私の伴侶なディノもそれなりに高位の魔物である事は、ご近所にはばれていると思うのです。欄干の魔物めは、ヨシュアさんが火の慰霊祭を助けてくれた事は知っていても、ディノの事までは知らなかったのでしょうか?」
「確かに、そのあたりには杜撰さが見受けられますね。ただし、天候のものとなれば遠くからも見えますから、ヨシュア様が昨年の慰霊祭で雨を降らせた様子は、認識しやすかったのかもしれません」
「…………まぁ、そこについては、別の機会に僕の妹を困らせようとしていたアルテアが、ある程度意図的な情報を与えていた可能性もあるけれど、火の慰霊祭を標的としない限りは、ヨシュアを呪うのは乱暴なんだよなぁ…………」
「アルテアは、彼等が火の慰霊祭を標的とした事を知らなかったようだね。ウィームで過ごす事の多い彼に隠れて、ここまでの手配を済ませるのは、それなりに骨が折れるだろうに」
「…………そこなんだよなぁ。比較的近いところで何かを仕込もうとしていて、欄干が印付けをしている事は共有済みだとしても、………やっぱり、デルフィッツが慰霊祭への参加を決めたあたりで気付きそうだよね」
そう呟き眉を顰めたノアに、ディノも頷いた。
しかしその問題については、事後処理を済ませた後に必ず顔を出すであろうアルテアに直接尋ねるのが手っ取り早いと、一度議論が打ち切られた。
「それにしても、欄干のやつ妙に口が軽くない?」
「………それについてはだな、」
欄干の魔物がなぜにそこまで素直に白状したかといえば、捕縛されて引き渡された後、そのにょろにょろ的生き物は、グラストに甘えて逃げおおせられないかを試してみたらしい。
その結果、見聞の魔物の恐ろしい怒りを買ったのだ。
「まぁ。だから欄干の魔物さんは、つるっと白状してしまったのですね?」
「ああ。話すだけ話した後は、きつくボール状に丸まったままずっと震えているらしい」
「憐れみを誘えば許されるって訳でもないけどね。サルルカム程じゃないけど、そいつは解放するなら僕が貰うよ」
「こちらで捕縛した者なのだ。その、……問題がないようであれば、勿論引き渡すのは構わないが………」
「嫌だなぁ、エーダリア。僕だって、必要な役割を担うものは、そうそう乱暴に損なわないよ?」
「今は怯えているとはいえ、今回のような事件に関わった魔物ですからね。ディノ様やネイに預けるのがいいでしょう」
「い、いや、勿論ノアベルトなら、上手く調整するだろう。ただ、相手はボール状になっているのだ。つい油断してしまって怪我などをしなければと……」
「ありゃ、そっち?!」
敵がボール状になってしまったが故の心配だと知り、ノアは呆然としたようだ。
今は一生懸命にエーダリアの肩を掴んで揺さぶり、妹を傷付けようとした相手は例えボールでも許さないと釈明している。
(…………普段の狐さんが、エーダリア様の前でどれだけボール中毒さを見せているのか、少し心配になってきた…………)
リーエンベルクの中で、もっとも銀狐のボール遊びに付き合ってしまうのはやはり、執務室にボール籠があるエーダリアなのかもしれない。
つまり、エーダリアは銀狐の果てないボールへの欲望の深淵を知る、唯一の人物である可能性も否定出来なかった。
ネアは慌てて、首飾りの金庫からグレアムに追加でお願いして増やして貰った、パンの魔物符を大切な義兄に渡しておく。
ちびふわ符は可愛くて幸せだが、敵に使うと可愛過ぎて心が奪われてしまう可能性がある。
なので、ディノと話してパンの魔物符を正式発注しておいたのだった。
「…………え、僕の信用度………」
「いえ。勿論ノアは、どんな時だって私を守ってくれますが、自分事となると、その限りではないのかもしれません。なので念の為に持っていて下さいね」
そう説明したネアに、揺さぶられていたエーダリアも必死に頷いている。
エーダリアとて勿論、誰かを守らねばならない時にまで、ノアがボールに気を取られるとは思っていないだろう。
けれどもこの魔物達には、自分の怪我や損傷には無頓着な部分があって、そのような場面を案じたのだ。
(あっ、………………)
どこか遠くで、ゆらりと赤い炎が見えた気がした。
けれどもそれは、慰霊祭の最後を飾る松明の一つかもしれず、すぐに見えなくなってしまった。
その赤さに意識を向け、ネアは今聞く事ではないかもしれないが、気になっていたことをエーダリアに尋ねてみた。
「そう言えば、慰霊祭でエーダリア様の後に詠唱をされたのは、どなただったのですか?」
その質問に顔をこちらに向けたエーダリアは、ふっと柔らかな目になり、当初はヴェルリア貴族の一人が行う筈だったので、ネアも名前を知らされていなかったご婦人について教えてくれる。
「あれは、当代の火竜の王の系譜の一人で、エルトの母竜なのだ。ヴェルリア側ではウィームに対し無理を通したことになっているが、ウィームとしては、話が通じ抑止力になる火竜が多い分には助かるばかりだな」
「という事は、あえてお呼びしたのですか?」
「ああ。直前になって急遽デルフィッツ子爵が参加することになったと聞き、彼が、慰霊祭を妨害するような振る舞いをした場合に備え、ダリルが内々に交渉したらしい。彼女にとっても、公然とウィームを訪れ、我が子に会える機会だからな。良い話だと二つ返事で引き受けてくれたようだ。儀式上、人間に擬態して貰わねばならなかったが、擬態してもその声に宿る魔術は素晴らしいものだった……」
「僕は火竜は嫌いだけれどね」
「ノアベルト、………その、私は竜を飼おうなどとは思っていないのだが………」
「ネイ、大人気ない真似はおよしなさい。リーエンベルクで火竜を預かる事は、どう考えてもあり得ない話でしょうに」
ヒルドの言葉は窘めるような響きだったが、その実、ノアを安心させる効果があったらしい。
そうだよねとほっとしたように頷いた塩の魔物に対し、エーダリアも、例外的に穏やかな気質のドリー以外の火竜達は気質的に苦手なのだと話している。
火竜は強くて美しいが、その気質はとても奔放で苛烈だ。
確かにこのウィームの人間にとっては、長く付き合うのには不向きな生き物かもしれない。
「あの方は、エルトさんのお母さまだったのですね。とても素敵な詠唱で、けれどもどこか獰猛そうな気配があるので不思議な魅力の方だなと思っていたんです」
「浮気…………」
「相手の方は、エルトさんのお母様です…………」
ネアは悲しげにこちらを見る魔物を宥める為に再び椅子にしてやり、この甘えようは、火竜云々ではなく、やはり天幕の出口で燃やされかけたことが影響しているのかもしれないと考えた。
時折ふっと、ディノの瞳が刃物のような美しい煌めきを怜悧さを帯びる。
もしかすると、今夜ネア達が寝静まった後に、この魔物は隠れてどこかで何かをするのかもしれない。
けれど、それがどれだけ酷い事であろうと、今夜に限っては、ネアがこの魔物を叱る事はないだろう。
ネアには、身勝手な人間らしい優先順位があるのだ。
「今回の一件があって、我が子を快く迎えてくれたウィームに不義理をと、あの方も不快感を示されていました。ドリー様が止めなければ、彼女がデルフィッツ子爵を焼却処分してしまっていたでしょうね」
「ほわ、………焼却処分………」
ネアは過激な表現に慄いたが、相手は火竜の母親なのだから、そのくらいの表現は妥当なものかもしれない。
ただ、火竜を含めた火の系譜を鎮める火の慰霊祭に、危うく火竜が荒ぶるところだったと考えると、鎮まってくれて良かったと思わざるを得なかった。
せっかくのウィームに好意的な火竜に対し、その火の陰にまだ拭いきれない血が心を濡らす人々が憎しみを重ねてしまったら悲劇だ。
「ところで、君達はあの子爵を処分出来るのかい?」
不意に、そんなことを呟いたのはノアだった。
勿論、デルフィッツ子爵はくしゃぼろにされてしまう予定だと考えていたネアは、思いがけないノアの質問に首を傾げる。
そこで一つ思い出したのは、ノアですら、この子爵を厄介だと言うその理由。
「守護がぶ厚かったりするのですか?」
「…………それもあるけれど、やっぱり最大の要因は、第一王子派ですらあの子爵を完全には切り捨てられないくらいの人脈を、ヴェルリア古参の有力者としての彼は有しているってことかな。恐らく、あの王だってデルフィッツの事は手放さないだろう」
「…………ああ。ヴェルリア派の子爵の支持が、父上や兄上にとって意味のあるものなのは確かだ。だが、今回の一件が表沙汰になれば、禍根を残さずより良いその息子の代になるのだが………」
ノアの言葉は氷塊が混ざるような冷たさで、エーダリアが苦しげに同意した。
「けれども、今回の事件はにょろにょろする共犯者を捕まえていますから、証言台に立たせればもうお終いなのではありませんか?」
そのやり取りを不思議に思っているのは、ネアだけであるらしい。
魔物達はひやりとするような空気を纏い、ヒルドですら不快感を滲ませているではないか。
皆、難しい表情だ。
「いや、今回はまだ人外者側での証明しかないのが手痛いところなのだ。デルフィッツ子爵は、前述の通り王都ではなかなかの有力者でな。古参のヴェルリア貴族をまとめ上げる手腕はかなりのものだと聞いている。恐らく、今回の一件に関与したのも、足取りを掴ませない自信があるからなのだろう」
「人間の側で提出出来るような証言や証拠がないと、その方は裁けないのですね?」
「…………これまで、我が国では、人外者が人間の司法の場に立つことはなかった。代理妖精は主人を守る為の役割を代行する者であるし、歌乞いの魔物や契約の竜は、契約者の意思を汲んで真実を歪める可能性がある。…………このリーエンベルクのような、契約関係になくとも真の知恵や言葉を借りられる、今の私達のような環境はやはり前例がない」
苦々しくそう教えてくれたエーダリアに、ネアは、ここに来たばかりの頃、どれだけ人外者達との間の線引きを明確にするように忠告されたのかを思い出した。
(…………人外者の言葉は、人間を惑わせる甘い毒のようなもので、その叡智の一つごとにたいへんな対価を支払う羽目になるのだと…………)
そのような価値観であったのだから当然のように、人外者からの証言で罪を証明するという制度自体がこの国には存在しないのだと気付き、ネアは眉を下げた。
「何しろ、人ならざる者達が人間と同等に意見の交換を行うことは稀だからな。例えば、我々がそのような証人を立てたとて、それを正しく使う事は出来ないだろう」
「それは、……高位の方の意見であれば、それが嘘でも従わざるを得ないと考えられてしまうからですか?」
「ああ。そして、実際にそうする者達が多い。…………そこに端を発して、高位の守護を持つ者達への恐怖や嫌悪を育ててしまえば、また過去の二の舞になる…………」
それが、かつてのウィームを暗に指していると気付き、ネアはぴしりと張り詰めた空気を慌てて揉みほぐした。
「ふむ。みんなで楽しんだカードゲームのようなものですね。良いカードがあっても、戦略上は表に並べるのは林檎や壺くらいにしておくのが、お家の安全を図る方策なのかもしれません」
ネアの言葉に、エーダリアは悲しげに淡く微笑む。
他人の価値観や心など変えようもない。
無力さなど感じて欲しくないが、発言を許される立場であるだけに、その無念さは如何程ばかりか。
でもエーダリアは、その結論を不服としかねない高位の魔物達の前でも、有りの侭の状況を伝えられるのだ。
そればかりは、何だか嬉しく感じた。
「お前が、人外者の意見を取り入れないことを、不平等だと反発しなくて良かった」
「あら、そんな無茶な事はいいませんよ?そもそもの在り方が違いますし、私の大事な魔物達が虐められている訳ではないのですから」
「………お前の前任者は、その点でも議会や王家と意見が割れてな。理想論として振りかざす稚拙さはあれど、危うく、国の歌乞いは契約の魔物の力を利用して政治の場を掌握しようとしているという風潮になりかねなかった………」
「その場合は、ガレンの歌乞いさん達も立場が苦しくなってしまったのでしょうね………」
「ああ。どれだけの恩恵であれ、やはりそれは恵まれたものなのだ。そして何よりも、自分の認識と他者の認識がここまで相違しかねない存在も、やはり他にはない……………」
であれば、どう裁くのか。
勿論、魔物達であればデルフィッツ子爵を裁く事は容易いのだが、現状、ウィームと縁のある魔物が手を下すという事もそれなりに厄介な状況になりかねない。
加えて、デルフィッツ子爵の退陣の仕方によっては、子爵家はヴェンツェル王子の有力な支持者としての力を失う危険がある。
ウィームとしては、それも困るのだ。
(ウィームの事とは関係なく制裁を受け、尚且つ子爵家そのものには影響はないと知らしめるように、デルフィッツ子爵当人だけの問題だと誰の目にも明らかな状況で失脚させなければならない………)
ふうっと息を吐いたのは、ディノだ。
「…………とは言え、その人間を何もせずに残しておく事は出来ないよ。練り直して捨ててきてもいいけれど、私が、この国の王にとっても有用なものを奪うという事が問題なのかな?」
「…………国王については、現実的な考え方をされる方だからな。兄上から、デルフィッツ子爵を残す事で想定される不利益についての話をすれば説得出来るかもしれないのだが、…………私は、出来れば王妃の注意を引きたくないのだ。あの方は、兄上の地盤を固める事にはご執心だからな…………」
「……………成る程。であるなら、今回使われる筈だった術式のようなものがあれば、有用かもしれないのだね」
それはつまり、こちらとは紐付かないような誰かを犠牲にして、デルフィッツ子爵を亡き者にするという方法だ。
確かにここでこそ生きそうなものではあるが、エーダリアの立場で簡単に頷けるものではない。
その回答には、見知らぬ誰かの命があまりにも生々しく繋がっている。
だが、狡猾にも、デルフィッツ子爵が共謀した相手が魔物だけであるという周到さであれば、もうそのような手段しか残されていないだろうか。
そんな重苦しさが、部屋に漂いかけた時の事だった。
「……………思ったより、下らない幕引きになったな」
「アルテアさん?!」
戸口から普通に歩いて入って来たのは、慰霊祭の時とは違う漆黒のスリーピース姿のアルテアだ。
静かにそちらを見たディノには、どんな表情で答えたものか。
どう詰るべきか悩むようにノアが低く唸るのが聞こえ、ネアは先程から下がるばかりの眉をよりへにゃりと下げた。
「……………君がこぼした葡萄酒は、片付いたのかい?」
そう問いかけたディノに、珍しく、僅かではあるもののアルテアは一礼したような気がした。
「…………ああ。別の目的の為に配布した術式は、記憶を引き剥がした上で全て回収済みだ。デルフィッツの雇った精霊の私兵達は、足がつかないように欠片も残さず処分してある。…………問題のデルフィッツだが、」
アルテアはまず、ネアにも一個団体が潜伏していると忠告をくれていたデルフィッツ子爵の兵士達を綺麗に片付けてしまったらしい。
そこでネアからのカードを読み、欄干の魔物の捕縛と、バンル達が印を剥がしてくれていることを知った。
ではこちらはデルフィッツ子爵を押さえるかと乗り出した先に、そんなアルテアよりも一足先にデルフィッツ子爵を捕縛し、二度と帰れない場所に連れて行ってしまった者達がいたのだ。
「海の精霊達だ」
「……………海の、精霊さん?」
「ああ。あの男は、領地の面した内湾の管理を任されていたが、海の系譜の乙女達に対する振る舞いが以前より問題視されていたらしい。今回の、ヴェルリアでの宴席でも…」
「おや、その人間は既にヴェルリアに帰っていたのかい?」
「ああ。今回の印付けの魔術は、夜からが本番だったようだからな。その時間は王都で夜会を開き、衆目を集め、ウィームは只ならぬ様子だったと話している事で、万が一疑いをかけられた時の保証とするつもりだったんだろう。………それが裏目に出たな」
海の精霊と言えば、ネアにとっては憧れの初代白もふこと、アザラシの赤ちゃんな海の精霊王だ。
しかし、今回手を下したのは、より原始的で獰猛な夜海の精霊達であるらしい。
彼女達は、系譜の美しく儚い乙女達を傷付けた人間が、謝罪もなく宴席で騒いでいた事に腹を立て、許し難い不敬であると海の底に連れ去ってしまったのだった。
よりにもよって、デルフィッツ子爵が選んだ今夜の会場は、海の上に突き出た崖の上に建てられた館の一つで、海の上に浮かんでいるような風景が楽しめる、素晴らしいバルコニーで有名なところだったのだ。
「さすがに都合が良過ぎる。いずれそのつもりであったとしても、それが今夜だと指示を出した者がいる筈だ」
「…………あの夜海の王子かもしれないね。彼はウィームに暮らしているのだから」
「まぁ、リドワーンさんが?……………む、なぜに皆こちらをじっと見るのでしょう?」
「加えて、ラジエルもその館を訪れたらしいぞ」
「ありゃ、何で彼が?」
「庇護を与えている雨降らしを、あの男が激昂させたその報いを受けるべきだと話していたようだな。協議の結果、三百年間は海の底で五等分されて、それぞれの部位ごとに奴隷とし働かされ、その後に首から上だけはラジエルが引き取る事になったそうだ」
「………………ほわふ」
あまりにも壮絶な報復に、ネアはふるふるした。
以前より、海難事故などで手に入れた獲物は死者であれ逃さないという、一部の海の系譜の人外者の残忍さは耳にしていたが、誰かの進言があれど、デルフィッツ子爵はそのような者達を怒らせてしまったのだろうか。
(…………でも、リドワーンさんも、海を離れてこちらでの暮らしを望むくらいにウィームを気に入っているのだから、その土地を荒らされたのは腹立たしかったのだわ)
なぜか皆がこちらを見ると、記憶の奥底から、思い出してはいけないリドワーンのとある一面が浮び上るような気がしたが、きっと気のせいだろう。
通り雨の魔物については、今回の一件で、ミカエルと話すような機会があったのではないだろうかと推測された。
であれば、ミカエルにまで、今回の事件の首謀者がデルフィッツ子爵だと伝わっていたのも驚きである。
「印を付けられた者達の保護は、もう終わったのだろうか?」
「ああ。サルルカムが術式の回収をする際に使う術陣で確認したから、取り零しもない。これから上がる火があっても、それは火の慰霊祭独自のものだ」
「…………そうか。良かった。…………ヒルド、グラスト達には私から話をしよう。街の騎士達からも領民達を安心させてやらねばだからな」
「ええ。私はダリルと話しましょう。既に耳にしているでしょうが」
そう忙しなく二人が席を立ったところで、アルテアはいつもの席にすとんと座った。
のんびり寛ぐ風の様子に、ノアはひと睨みしていたが気にした様子もない。
「…………アルテア、君はこの子を守ってくれたからそれについては感謝しているよ。けれども、今回のことでの危うさは流石に目に余る」
「…………ああ。今回の件は俺の手落ちだ。白樺とは話を付けておく」
「やはり、そちらの主導があったのだね」
(おや…………?)
魔物達にはまだ、丁寧に明かされた事以上の秘密があるらしい。
けれども首を傾げたネアに、ディノが私からも叱っておくから大丈夫だよと話してくれたので、叱るという表現が適応出来る相手であればと頷いた。
どこか遠い場所で、また鎮魂の鐘の音が聞こえた。
けれどもそれは、特別なものではない、火の慰霊祭らしい響きなのだろう。
各所への連絡が落ち着くと、ヒルドは街に戻る必要もなくなり、リーエンベルクでみんなで一緒に火が扱えない夜の冷たい晩餐をいただく事になった。
けれども、真夜中の日付が変わったところで、街が落ち着いたかどうかを馬車を使ってぐるりと視察してくるのだそうだ。
でもその頃にはもう、火の慰霊祭は終わっている。
「僕はさ、やっぱり真ん中だよね?」
「むむ、私とディノの間で眠るのですか?」
「……………ネアが遠くなるのかな」
「ありゃ、じゃあネアを真ん中にしようか。うん、それなら絶対に安全だものね」
「おい、何の話だ」
「アルテアは関係ないよね?今日の僕は、君に怒っているんだよ?」
なお、捕縛されたサルルカムは、幾つかの記憶と魔術を引き剥がされ、第一王子派の代表者と統括の魔物、更には火竜の王族の立ち合いの下に、聴取が行われる。
爵位のある魔物を、人間と同列に裁くことは出来ない。
第一王子立ち合いの聴取が叶っただけでも異例のことなのだとか。
その後は秘密裏に雲の魔物に引き渡されると聞いたので、またどこかで大雨が降るかもしれない。
夜が明けると、王都では美しい海の乙女達に無体なことをしていたらしいデルフィッツ子爵が、海の底に攫われたという話で持ちきりになった。
だが、そんな一報を受けた国王は、注意したけどやめなかったし、そりゃいつかは報復されるよねと、特に慌てた様子もなかったという。
案外、多くの者達の目に留まり、報復へと繋がる火の慰霊祭にこそデルフィッツ子爵が事を起こすように仕向けた誰かは、今回の一件で彼を体良く追い払ってしまったのかもしれない。
海の系譜の障りはヴェルリアでは珍しい事でもなく、デルフィッツ子爵の話は、暫くはあちこちで尾ひれをつけられてあれこれと囁かれたが、やがて移り気な人々の噂からも消えていったという。
朝を迎えたウィームは、幸いにも大きな被害もなくいつもの美しいウィームで、ネアは安堵に胸を撫で下ろしたのであった。
アンケートで企画を募集させていただいたお話を今週中に更新する予定でしたが、明日の更新で火の慰霊祭の後のお話を一つ挟みますので、企画の物語はその後の更新にさせていただきますね。




