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城郭都市と夜紡ぎの剣 4




穏やかな朝が来ると、ネアは、このスノーの伝統料理な朝食の乗せられたテーブルを眺めた。



「まぁ、バターがじゅわっと染みた葡萄パンのトーストです!お野菜とひよこ豆のスープに、ちびソーセージとオムレツ。葡萄ジュースまで!」


さくさくに焼いた葡萄パンは、塗られて溶けたバターの塩味とレーズンの甘さが堪らないし、ふかふかの黄色が食欲をそそるオムレツには野菜がたっぷり入っていた。

ケチャップのようだが、ぴりりと辛いトマトソースでいただくようだ。


とろりとした濃密なワインビネガー的なものも添えられており、添えられた野菜には、塩入れの香草塩とこれをかけて食べてもいいようだ。


旅先では美味しいものとの出会いを大切にする人間は、すかさずとろりとしたワインビネガー風のものを銀のスプーンで野菜に回しかけ、ぱらりと塩を振って食べてみた。



「むぐ!…………これは良き出会いに恵まれました。売っているものを見付け、お土産にしなければなりませんね…………」

「僕さ、ふと思ったんだけど、ダンスなんてしなくてもネアのお土産を沢山買ったら、旅人としての役割を果たした事にならないかな?」

「私としては吝かではありませんが……………む?」



鷹揚に微笑んで頷いたネアは、反対側からずずいっと革の手帳と夜水晶のペンを差し出され、眉を寄せてリシャードを見上げた。


真剣な面持ちでこちらを見た死の精霊は、窓から差し込む朝陽にきらきらと輝く宝石のような紫の瞳に、どこか焦がれるような艶かしい表情を浮かべている。



「リシャードさん…………?」

「ここに、何でもいいから動物の絵を描いてみてくれ。あれ程まで歪な歌声の持ち主なら、絵の才能も壊滅しているに違いない」

「…………では、首の長い愛くるしい生き物を描いて差し上げますね」

「ネア、それはやめて!ダンスはしなくても帰れるかもだけど、参加者が欠けると帰れなくなるから!!」

「むぐぅ」

「…………その絵も、一度は見てみたいのだがな」



どうやらきりんを知っていたらしいリシャードだが、ノアに無言で首を振られるとそれ以上食い下がる事はなかった。




「さてと、今日一日を過ごして明日の夕暮れに祭りが終われば帰れるからね」

「あら、まだ半分以上残っていますね」

「ネア、その問題に言及されると、僕とナインは心が挫けて敗退するかもしれないから、慎重に頼むよ」

「……………とても外出したくない気配を強く感じますが、お昼は、熟成肉のお店なのですよね?」

「……………うん」

「目が…………。そして、夜はスノーのお城で舞踏会です」



ネアがそう言えば、男達はぎくりとしたようにこちらを見た。


その表情にネアはおやっと首を傾げる。

朝起きてこの応接間に来たところ、開いたままのカードがテーブルの上にぽいと乗せられていたので、ふむふむと読ませていただいたのだが、隠していたにしては随分とお粗末ではないか。



「…………あ、そっか。君はこの国の言葉も読めるもんね。えーと、ナインが誘われたみたいだよ」

「お前もだ。…………それと、貴女も招待されているので、そのつもりでいるように」

「あの文脈ですと、お二人を招待したいので渋々私も誘って下さったようですね。どこでお姫様に見初められてしまったのでしょう。なお、私はその他大勢のお客に隠れてお料理をいただくのは得意ですので、ご安心下さいね」

「え、僕を見捨てないよね?」

「しかし、お二人が独身なのは事実ですので、もしいいご縁なら…」



ネアがそう言えば、二人は愕然とした面持ちでこちらを見た。

しかし、何かに気付いてしまったものか、ノアがはっとしたように息を飲む。



「………僕の妹は、僕にいい出会いを薦める体で、一人だけ逃げようとしているよね?」

「ち、違いますよ?すぐに刺されてしまうノアから距離を置こうとしている訳ではなく、話を切り上げてお土産を買いに行きたい訳でもありません!」

「………………その葡萄酢が気に入ったのなら、私が買い物に付き合おう。その代わり、舞踏会でのダンスの相手を頼む」

「なぬ…………む、むぐぐ、………」

「ちょっと、ネアは僕の妹だから!抜け駆け禁止!」

「刺されるかもしれないノアも要注意ですが、何となくご対応に不慣れさが滲むリシャードさんも、我が身可愛さに是非にご辞退させていただきたく………」



ネアは、市井の女性達とはまた違う技を持つ高貴なご婦人方の爪研ぎ板にされるつもりはなかったので、ここは華麗に回避するつもりでいたのだが、顔を見合わせたノアもリシャードはなぜか暗い目で頷き合っている。



「この街での私達の関係は、予め決めておいた設定があった筈だ」

「うんうん。君は伴侶持ちだけど、僕達に求婚されているって役だったよね?」

「…………それは、お二人が私の側にいる不自然さがなく、尚且つ、か弱い私がお二人を独り占めしていると恨まれないようにもする為の暫定措置だったのでは…………」



ネアは、その取り決めをした時の優しさを思い出して欲しいと、目をしぱしぱ瞬いてみせてか弱さを必死に主張したのだが、昨晩の決死の訴えが裏目に出てしまった。


うっかりな二人が誘われてしまったスノー城の舞踏会で、ノアとリシャードのそれぞれと一曲は踊らないと熟成肉のお店のお昼は中止すると言われてしまい、ネアは涙目で頷くしかなかったのだった。




スノーは城郭都市である。

城壁に囲まれたスノーの中心には、この土地の領主の城館が聳えている。


すらりとした尖塔のある石造りの城は、葡萄畑に囲まれ木々の色付いたこの街において、絵のような風景を際立たせる美しさでも名高い。


よく見れば華美な装飾などはなく、かつては国境域の最後の守りの地であったこの土地らしい実用的な城なのだが、今では観光客達が目を輝かせて見上げる街の象徴だ。



がらがらと音を立てて走る馬車に乗せられそんなスノーの城館に向かうネア達は、迎えの馬車を利用させていただき、せめてもの穏やかな時間を確保していた。



なぜ、アクス直営のあのホテルにまでこの土地の王族からの招待状が届けられたのかは謎だが、にこやかに微笑んでこちらの不手際で配達魔術が通ってしまったようですと謝罪した支配人の表情からすると、あえてこの土地の為政者に恩を売ったのだろう。



(そう言えば、あの招待状を送るように命じた人の夢を見たような気がする…………)



馬車に乗ってからそんな事を思い出したネアは、人間の旅人らしい範囲ではあるものの、美麗さが目にも楽しい正装姿の仲間達にその旨を伝えた。


なお、命の熟成肉はランチ営業なしという残虐仕様だったので、今夜もしくは明日の最後の晩餐に持ち越されている。



「招待状を出す事を決めた方なのですから、この土地の偉い方なのは間違いないと思うのです」

「………恐らく、スノー領主とその妹達のことだろう」

「うーん、…………スノーはさ、その成り立ち上、自治領に近いんだよね。ここが国境域だった時の名残で、王都から遠いこの土地の領主をスノーの王として有事を凌ぐ盾にしているんだ。…………その妹達を王女としているって話したよね?」

「この土地の王族と呼ばれる方々は、とても綺麗な方が多いのですよね?」

「そう。その美貌は、取り替え子の妖精の血を引いているからなんだ。侵食に長けた魔術を使うから、君の守護の表層に響くものがあったのかもね」



馬車の中は、御者にも気付かれないように、密やかに隔離魔術で音や魔術を遮断していた。


こちらの季節は晩秋なので、ノアの装いは漆黒の天鵞絨と魔物としての装いよりは覗かせる面積を減らした雪のように白いシャツで、リシャードは、やはり聖職者を思わせるデザインである、銀糸の刺繍の華やかな漆黒の詰襟の長衣である。


二人とも黒を基調とした装いだが、受ける印象はまるで違う。

ネアは青みが滲むような濃紺の天鵞絨のドレスだが、裕福な商人の娘としても通用するくらいの飾り気のないものにした。

ただし、ノアが用意してくれたこのドレスは仕立てが美しく、その縫製が見せる曲線には溜め息が溢れそうなくらいだ。


色と気配を擬態させたヒルドの耳飾りをつけ、妖精魔術への対策もしている。



「かけていただいた守護で、そんな風にして危険情報が得られたりもするのですね………」

「普通の守護だけだとそんな効果はないんだけれど、君が以前に受けた呪いとそれを退けた守護とが足跡のように残したもの、とでも言うべきかな………」

「…………まぁ」



どこか謎めいた瞳で微笑んだノアに、ネアは、かけられた呪いを振り返ろうとして諦めた。


かつて、ネアが、良くない事の前触れとして見ていた劇場と黒い車の夢があった。

昨年から見ていないその夢が、思い返すことで戻ってきてしまったらと考えて怖くなったのだ。



「この地の領主筋の固有魔術は、信仰の系譜のものだ。葡萄の妖精から連なったと推察されるが、様々な血が混ざってしまっていて定かではない。彼等に近付く事があれば、私に報告するように」

「領主への挨拶の時以外は、僕が隣にいるけれど、まぁ、そちらはナインの専門分野だからね……」



そう苦笑したノア曰く、葡萄に連なる人外者達には、葡萄酒が儀式などにも使われることから、信仰や饗宴などの資質もある。

言われてみれば、夜葡萄のシーに出会った時にそんな事を聞いたなと、ネアは頷く。


同じようにリシャードが信仰の庭を住処としているのも、彼の持つ死の凄惨さには信仰を望む資質があるからなのだそうだ。



馬車の中は前後に向かい合わせの四席になっていて、ネアの隣にノアが座り、進行方向に背を向ける居心地の悪い対面席にリシャードが座ってくれていた。


窓はあるものの、ネア達は領主から招かれた客人となるのでカーテンを下ろして目隠しが出来、有り難くそうさせていただいている。


がらがらと車輪が回る音が聞こえるのに振動が少ないのは、馬車を牽くのが妖精馬だからだ。

川の系譜の妖精馬であるらしく、馬車に乗り込む時に見たふくよかな青色の馬達からは清廉な水の香りがした。



やがて、馬車の車輪が城館に繋がる跳ね橋の段差を乗り越える揺れがあり、ネアは深呼吸する。



「会場に着くまでは、僕の手を離さないようにね。………もしかすると、最初のダンスで僕は誰かの相手をさせられるかもしれない。僕が離れる時にはリシャードだ。彼も、いざとなれば上手くやるから心配しなくていいよ」

「ノア、私から離れている時に困った事になったら、助けに行きますのでちゃんと声を上げて下さいね?」



馬車の扉が開く前にと、心配になってそう言えば、驚いたように青紫色の瞳を瞠ったノアは、淡い苦笑に眉を下げた後でふわりと艶やかに微笑む。



「…………ノア?」



伸ばされた手に抱き締められ、ディノがくれるものとは違う優しさと親しみの込められた口付けが鼻先に落とされた。



「それは困ったな。君を守るのは僕の特権だから、君にだって譲りたくないんだ。その代わり、無事にこの舞踏会が終わったらご褒美をくれるかい?」

「ご褒美、ですか?」

「うん。ウィームに戻ったら、また僕のお気に入りのケーキを一緒に食べに行ってくれると嬉しいな」

「ふふ、そのご褒美は、私にとっても楽しいものですね」



こつこつと硬いノックが響き、ノアが返事をすると艶やかな深緑色の騎士服の男性が、恭しく馬車の扉を開けてくれた。


歴戦の武人らしく目元に傷があるが、貴族的な容貌が華やかな男性は、こちらを見た途端ひゅっと息を吸ったものの、思い直したようにお辞儀をして城館の入り口に案内するべく、片手を階段に敷かれた真紅の絨毯に向けた。



(ノアとリシャードさんを見て、呆然としてる。一般招待枠であることは聞いていただろうから、この二人を見て驚いてしまったのだわ…………)



さすがの二人も、領主からの招待の舞踏会で顔を隠したりはしないようだ。

街中では目立たぬようにと隠していたものの、このような場所で顔を隠せば却って悪目立ちしてしまう。




「………わ、」



そうして迎え入れられたスノー城館の大広間は、剥き出しの石造りの内観が荘厳な佇まいで、大聖堂の中で行われる舞踏会めいた美しさだった。


いざという時には、ここも最前線になる。

ネア達を案内したのも騎士であるように、ここは華美さを示す王都の城ではなく実用的な造りの城なのだ。



けれども、高い位置にある美しいステンドグラスから落ちる色とりどりの影や、星々のように明るく煌めくシャンデリアに、ネアはうっとりと見入ってしまった。


ここで暮らす人々の息遣いを感じる城だからこそ、お伽話の風景とはまた違う。

ネアは、生まれ育った世界とは違うところにいるのだという印象を強く受けた。



(……………それと、やっぱり、とても注目されているわ…………)




ネア達の入場を告げる朗々とした声に、広間にいた人々がこちらに注目した。



肌に感じる視線はすぐにネアの上を通り過ぎてしまい、ノアやリシャードに集まっているのだろう。


はっと息を飲む年若い少女達や、頬を染めて興奮気味に囁き合う女達。

貴族なのだろうか、華やかな装いの男性達の中には、絶望したような目をしている青年もいる。


一段高くなった場所にいる豪奢な檸檬色のドレスを着た少女を何度も見ているので、お目当の少女の関心が新参者に向いてしまうのが不安でならないのだろう。



「いいかい、各自三曲程で帰るから、そのつもりでね」

「はい。私はお二人と一曲ずつ、もしどうしても必要ならこの場のどなたかと一曲踊ればいいのですよね」

「うん。でもそれは、非難を浴びるような断り方しか出来ない場合のみだ。出来れば、僕達以外の男とは踊らないように」



睦言のようにネアの耳元でそう囁き、ノアは怜悧な微笑みを浮かべた。

どこか酷薄で得体の知れない美貌と眼差しは、かつてネイという名前の魔術師に見た雰囲気に似ている。

リシャードの表情も冴え冴えとした鋭さで、こうして離れた位置から視線を集めているからこそ、近寄り難く見えるだろう。



(一介の旅人に、領主からの招待を断る事は出来ない…………)



なので今夜は仕方なく招待には応じたものの、挨拶の折りにさる高貴な身分の旅人なのだとひっそりと明かし、互いに問題にならないように数曲だけ踊って立ち去るという筋書きだった。


そのあたりは、ノアが上手く調整してくれるそうなので、塩の魔物の話術の巧みさをよく知るネアは、安心して任せていられる。



(ただし、荒ぶるご婦人方にはくしゃりとやられがちなので、そこは心配なのだけれど………)




「よく足を運んでくれた。私は、ハーフィード・フェルクライブ・スノーフィス、この地で領主をしている。まずは、断りもなく招待状を送りつけるなどという不躾な行為を謝らせて欲しい」



一際高い場所に、その人物はいた。


しかし、従者をつき従えつつも、躊躇うことなく真っ青なケープを翻してこちらまで降りてきた男性は、淡い金髪の巻き髪の蕩けるような美貌ながら、見る者が心を緩めてしまう親しげな微笑みの持ち主のようだ。




(豪華な装飾もあるけれど、基本の形は騎士さん達と同じ服なのかしら………)



であればこの領主ことスノーの王は、騎士達と共に戦場に出る事も厭わない御仁なのだろうか。



「スノーフィス伯、本日はお招きいただき有難うございます。正直に申しますと、ご招待いただきました事には少々驚きましたが、この地を通る上でご挨拶が出来ました事は、我々にとっても幸運でございました。仕度に時間がかかりまして、遅れての訪問となりましたことをご容赦下さい」



そんなハーフィードに対し、ノアの挨拶にはどこか人外者らしい老獪さが滲んだ。

その言葉に合わせ、ネアも腰を折ってお辞儀をし、あえて深すぎない礼でリシャードは隠された階位を示す。


こうして、人ならざる者達が隠れているかもしれない場所に入ったからには、こちらも獲物ではない事を示さねばならない。

試練があるので擬態は解けないが、相手によっては、言葉裏に隠されたものからその正体を推し量ってくれる。




「お兄様が名乗られているのに、なぜあなたは名乗らないの?」



涼やかで可憐な声が聞こえたのは、その時だった。

先程の青年が見つめていた檸檬色のドレスの少女がゆっくりと歩いてくると、その兄より背の高いノアをじっと見つめる。


けれど、ひやりとする美貌で薄く微笑んだノアの眼差しに怯んだものか、ふんだんにレースを使った扇を持つ手が微かに震えた。



「………名乗らぬ方がいいからでしょう。守護や祝福を望むのであれば、祭りの夜は良くないものが紛れ込んでいるかもしれないと、用心された方がいい」

「…………っ、わたくしを、怖がらせようとしていらっしゃるの?殿方は様々な手で私の気を惹こうとするけれど、あなたはおかしな言葉を選ぶのね」



果敢にも言葉を重ねた妹の隣で、ハーフィードは思案深げな様子を見せた。

不遜な旅人の言葉の示すものについて、領主として考えているのだろう。



「…………であるならば尚更に、祭りの夜だからこそ我々は得難いものをと、探し請うのかもしれません。もし宜しければ、妹と一曲踊ってやってくれませんか?」



(あ、…………)



領主が自らそう頼んでいる以上、人間の擬態を剥がさないノアが断るのは不敬となる。

衆目を集めることを避けたいのであれば、受けるしかない。



「…………その可能性も理解した上で、搦め捕ろうとしてきたか。こちらに飛び火する前に、一曲踊っておいた方が良さそうだな」

「……………ノアは……」

「あれなら問題ない。この程度のことで足を止めていたら、こちら側の舞踏会では生きて帰れないからな」



そのこちら側とは、人外者達の舞踏会のことなのだろう。


スノーの王と王女と話しているノアをそこに残し、リシャードはこのやり取りに飽いたと言わんばかりに、ネアの手を取って広間のダンスの輪に向かう。


ノアが一度こちらを見て苦笑してみせたことで、ネア達が離れる為の僅かなきっかけが生まれた。

ネア達を送り出す為に、共に城館を訪れたもののそちらとこちらは別であるという線引きを、器用に表情と仕草だけで引いてみせたのである。




「…………表情に出さない事だ」

「…………ええ。ここで私が、ノアの方を気にかけ過ぎると、足止めさせる口実を与えてしまいますものね」



見知らぬ人達の中に大切な家族を置いて来なければならない事にきりきりと胸が痛んだが、ノアとて老獪な魔物である。


ここはぐっと堪えて、エスコートしてくれているリシャードの方を見ると、冬の夜を紡いだような見事な銀髪を掻き上げた髪型の彼は、国境域の城をお忍びで訪れた皇帝のような存在感だった。



大広間に集まった女性達の色とりどりのドレスが揺れて、リシャードの周囲にぴしりと緊張の糸が張り詰める。

少しでも隙を見せれば、その中の誰かがすかさず声をかけてくるのかもしれない。



「踊ってくれるか?」




大広間の中央に進み出て、そこで立ち止まる。


優雅な仕草で僅かに腰を屈めてネアの表情を窺う仕草をしたリシャードの紫の瞳に浮かぶのは、親しみ深い愛情の演技ではなく、高位の人外者らしい凄艶さだった。



(…………こんな表情を、前によく悪さをしていたアルテアさんの瞳に見たな)



ああこの人は、望まない茶番を強いられて不機嫌なのだなと思いつつ、ネアは、微笑んで頷いた。



「仕方がありませんね。踊って差し上げます」



そう答えたネアに僅かに瞳を揺らしたのは、せめてもと、手を取った人間で遊ぼうとした精霊にとって、この人間の獰猛さは予想外だったからだろうか。


初めて踊るのだから当たり前なのだが、初めての手の位置に顔を顰めそうになりつつ、ネアはリシャードの腕の中で顔を上げる。

貴族のドレス程ではない装いなので、腰に回された手の温度や二人の間のスカートのボリュームが何とも心許ない。



「…………不愉快そうだな」

「好奇心や欲望の視線に晒されて、ぱっとしない人間と踊るのはたいそう不愉快でしょう。ですが、かつて、自慢の歌声にたいへん不愉快な評価を下した方と踊らなければならない人間も、なみなみならぬ忍耐力を求められているとは思いませんか?」



ふっと笑ったような気がしたのだが、視線の先のリシャードは冷ややかな表情のままだ。

けれども、どこか面白がるような、それでもまだ、森で見付けた獣を観察するような酷薄な気配も感じる。



「貴女の歌声は、とても評価しているがね」

「その、上澄みだけの礼儀を辛うじて保つのは、私の知っている魔物な誰かへの配慮でしょうか?最初にお会いした時にはそこまでではなかったように思うのですが………」

「いや、そのような事ではない。系譜の王、仕事の上での雇用主、或いは今代の世界を司る者。そのどれもが、望まぬ形で私を縛るものではない。私がこうして敬意を払うのは、貴女が評価に値する資質の持ち主だからだ」

「生き物としての私にではなく、私の歌声に?」

「それ以外の理由などあるまい。………いや、まだ絵は見ていないか………」

「ふむ。だからあなたの言葉や眼差しは、何やら居心地が悪く感じるのですね」



そう呟いたネアに、体を寄せた精霊が冷たく微笑む。


人間に擬態していても、こんな風に空気の温度が下がるように感じられるのだから、本来の姿であれば精神圧は如何程のものだろう。


やはり知己であるらしいノアがいないと、そして彼が被っていた当たり障りのなさを脱ぎ捨ててしまうと、ここまで歩幅を合わせ難い生き物なのかと、ネアは内心気が遠くなる思いであった。



彼にとっての人間は、対等な生き物ではないのだ。

ましてやネアは、その歌声だけを評価された嗜好品のようなもので、彼がそれを重要視するからこそ誤解しがちだが、それ以外の要素での価値はこれっぽっちも見出されていない。



とは言えそれは、ネアとて同じこと。




「だがそれは、私のものだ」

「ええ、そう思うのはあなたの権利です。そもそも違う種族なのですし、同じ価値観で尊重し合う事が必要だとも思いません」


ネアがきっぱりとそう言えば、リシャードは無言でこちらを見た。


冷淡さも不機嫌さも均してしまった美貌は、これはどのような生き物なのだろうと覗き込む無垢ささえ感じられる。



「…………そのような理解の仕方もあるか」

「はい。このように考えます。ですが、それで気にならないのだと言えるのは、やはり私自身が損なわれない範疇迄です。もし、暇潰しでも、気分転換でも、何かを損なう算段をされているのなら、容赦なく報復をするので覚えておいて下さいね」

「報復か、あの歌で?私にとっては、好ましいばかりだが」


音楽に合わせてくるりと回され、ネアはにっこり微笑んだ。


視界の端に、あの檸檬色のドレスの王女と踊らされているノアが映り、大丈夫だろうかと意識が少しだけそちらを向いてしまう。

この曲が終わった時に、パートナーを無事に替えられるといいのだが。



「その場合は、とても陰湿な手段を厭わない私としましては、ディノ経由でギードさんとお話をし、今後のリシャードさんとの交換日記をやめていただきます」

「……………それは困るな」

「では、もう少しだけ我慢して下さいね。私から見ても煩わしい状況ですが、ダンスは元々必須条件のようでしたし、であれば、これを済ませてしまえば出口に近付けますから」



ステップを踏んでいた足が止まり、ドレスのスカートがふわんと揺れる。

ワルツが終わり、踊り終えた人々のお喋りがわっと戻ってくると、ネアはリシャードの斜め後ろで目を光らせたご婦人に、視線だけで頷きかけておいた。


はっとしたように表情を強張らせたリシャードの手をぺっと離してしまい、少し離れた位置で同じようにダンスを終えたノアの方に視線を向ける。




(あれ、…………いない?)



けれどもそこには、途方に暮れたように立ち尽くした王女の姿があるばかりで、ネアの大切な家族の姿は見当たらなかった。


慌てて視線を巡らせようとしたところで、背後からふわりと誰かの手に収められる。



「で、どうして僕の大切な女の子を怒らせているんだい?」

「なぜだったかな。だが、和解したようだ。お前は、もう一人の王女と踊ってきたらどうだ?」

「はは、もう一人でうんざりだよ。ネア、責任を果たしてくたくたの僕と踊ってくれるかい?」

「ふふ、勿論です。…………む、リシャードさんは、この手を離して下さい。後ろのご婦人に交代しますから」



ネアはダンスが終わった途端、周囲からの遠慮のない視線に晒されてしまい、腰に回した手でネアをぐいっと抱き寄せたリシャードにぐるると唸ると、その手を外してくれたノアに無事、パートナー交代した。



「虐められたのなら、彼と話し合うべきかな?」

「いえ、単なる異種族の認識の擦り合わせ迄なので、心配しなくて大丈夫ですよ。悪さをされたら、ギードさんに言いつけるとお伝えしました」

「わーお、的確に相手の弱点を抉るなぁ………」




次の曲が始まる直前に、一人になったリシャードに声をかけたのは、どこからか現れた艶やかな真紅のドレスの女性だ。


ネアが交代しようとした可憐な雰囲気のご婦人ではなく、先程の檸檬色のドレスの王女と比べても遜色がないくらいに立派な装飾品の煌めきに、何となくどのような身分の女性なのかが察せられた。




「うん、いい気味だね」



踊り始まると、やはり断れば角が立つ相手だったものか、真紅のドレスの女性と踊り始めたリシャードに、ノアがそう笑う。



「ノアは虐められてしまいませんでしたか?」

「うんざりしたくらいかな。僕、ああいう女の子って苦手なんだよね。寧ろ、手酷く傷付けてみたくなるくらいには嫌いかな」

「いつもならこらっと叱るところですが、あの方は私も苦手だと思います。………そう言えば、ノアが恋人さんとして選ぶ方は、どのようなところを見て選ぶのですか?」

「…………うわ、ネアが虐待する」

「なぬ。ここでは聞かなくていい筈の言葉がどこからか聞こえてきました…………」




人ならざる者や、いる筈のない者が舞踏会を訪れると、最低でもその場で三曲は踊る必要があるのだそうだ。

なので今回のネア達も三曲迄はとしたのだが、この三曲の縛りで人外者達を捕らえようとする人間も多いのだと言う。



(恐らく、あの騎士のような王様はそんな人なのだろう…………)




やはり女性としてお城での舞踏会は憧れもあるが、そんな風に手を伸ばす人達がいる場所であれば、後一曲で出てゆけると思うとネアはほっとした。

幸い、この大広間の中には、同じようにスノーに落とされた王達やガーウィン領主の護衛達はいないようだ。



(食事をする間も無く退出するのなら、夕御飯はこの城館に近い、珍しい蒸留酒の飲める魚料理のお店がいいな…………)



ネアがそんな事を思えば、ノアが全てを見透かしたように、仕方がないなぁと楽しそうに微笑んだ。










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