暗い町と蜜ケーキ 2
暗い町の絵本を回収に訪れたリルベンで、犯人と思われる女性からの接触があったばかりのところ。
夜空とも見紛う暗い空からは、はらはらと雪が舞い落ちる。
そんな中で、ノアが剥離手という言葉を口にしたのだから、ネアは大混乱であった。
(…………以前、グラストさんを狙った)
あの日の事件を経て、剥離手がどれだけ厄介な相手なのかは嫌という程に知っていた。
海辺の街などでは、漂流物などのこの世界層に上がってきてはいけないものの残滓を取り込みながらも、ごく稀に生き延びる者達がいる。
そのような者達の中に生まれるのが、剥離手と呼ばれる人間だ。
彼等は、この世界の魔術の祝福を受け取れない代わりに、この世界の魔術の影響を受けることもない。
そして、この世界で生き抜くのが過酷である分、どれだけ強固な守護でさえ容易く無効化してしまうという、最悪の刺客にもなり得るのだった。
「…………そうか。俺はまだ剥離手なんだなぁ」
「アウル。…………この男は人外者だわ。用心して」
ノアの言葉に目を丸くしてから少し笑い、アウルと呼ばれた男性はそんなことを言う。
獲物を見定めるような表情は、人間らしさが剥がれ落ち、まるで本物の梟のようだ。
海の周りの生き物達に多い、人間の姿をしていても人間の心を持っていないような生き物に見えた。
ネアが感じた何かにノアも気付いたのか、青紫色の瞳が油断なく細めている。
「剥離手の先があるとは知らなかったけれど、何か別のものなのかい?」
「さぁ。それは俺も知らんな。ただ、まだ人間だと思ってくれるなら、辛うじてまだこちらにいるんだろう。だがそれでも、ここ最近は腹が減ってなぁ………」
アウルがそう言った直後に、ばりばりと音が響き、ネアはぎょっとする。
思わず顔を上げてしまった先で、街路樹の雪が剥がれ落ちて歩道で砕けるのが見えた。
見えない何かが蠢いているような悍ましさにぎゅっと指先を握り締めていると、僅かに立ち位置を変えたノアが、死角に入れるようにしてくれたことに感謝した。
「…………やれやれ。慌てて来てみりゃ、こりゃ随分と浸食が進んだ剥離手だねぇ」
「あれ?僕はこっちには来るなって言った筈だけど?」
魔術の道を使ったのか、どこからともなく現れたダリルが、ふわりとノアの奥に立った。
妖精特有の、空気を孕むような軽やかな動きだ。
頼もしい味方が駆け付けてくれてほっとしてもいい筈なのに、ネアもなぜか、今はここには来ないで欲しかったと思ってしまう。
巻き込まれたら安全が保障できないかもしれないと考える程に、前回の剥離手との交戦の様子が凄まじかったのだ。
「いくらあんたでも、その女と竜もいるんだ。手が足りないだろう」
「……………ありゃ。そっちも来たんだ。おかしいな。………これってさ、もしかして逆に追い込み猟にかけられた構図じゃない?」
「奇遇だね。私もそう思っていたんだよ。…………どうやら、暗闇の町こそが囮だったのかもしれないね」
「僕の家族に手を出すなんて、どちらにせよ救いようのない愚かさだけどね」
ダリルの言葉に視線を巡らせると、ミグラマッドの二人の奥に、また新しい人影がある。
こちらを見ている男性は、確かに、どっしりとした体格から竜らしい猛々しさを感じさせた。
深い青色の髪には銀色の筋が入り、その色彩は、いつかの夏に嫌という程に見た海竜達のことを思い出させるので、そちらの系譜の竜かもしれない。
(……………でも、竜を倒すのは得意だし、あのお嬢さんだってきりん札で滅ぼせるかもしれない)
それなのに、こんなに不安なのはなぜだろう。
アウルという男性が剥離手だからにしても、何か、まだ大事な事を見落としている気がしてならない。
どうしようもなく、このまま交戦に転がり落ちそうな張り詰めた空気だった。
ノアとダリルの会話から推測すると、追い詰めるつもりでこの場におびき寄せられたのは、ネア達なのかもしれない。
「やっぱり、この女は獲物の仲間だったのね」
「お前は、可動域で無関係だと判断してまんまと獲物を逃がしかけていたようだが?」
「…………気のせいよ。この通り、あなたのお目当てのダリルダレンの書架妖精を引き摺り出せたじゃない」
「ドーシャ!」
小さく呻いたアウルが声を荒げたので、それは秘密だったのだろう。
ネア達も思わず目を丸くしてしまい、まさかの目的に呆然としてしまった。
「…………へぇ。私が目当てだったのかい?そちらの国では、まだ誰も破滅させてなかった筈だけれど」
「馬鹿な女魔術師の口を、せめて封じておけば良かったか。………もう警戒はされるだろうから告げておくが、報復ではない。なぜか、どうしても、俺がこのまま壊れずにいる為には、あんたを食わないといけないと思ったからだ」
「私をかい?」
当初の予測とはあまりにも違う理由に、さすがにダリルも怪訝そうな顔だ。
だが、ネアはその言葉ではっとした。
慌ててノアとダリルに伝えようとしたが、辛うじて、まだ言葉を選ぶ余裕くらいは残っていたのは、幸いだったのだろうか。
「…………収穫祭」
短い言葉だが、それで全てが伝わるだろう。
ネアが言わんとしたことをすぐさま理解してくれたようで、はっとしたノアが何かを言おうとしてこちらを見る。
その直後、突然世界が翳り、ばさりと大きな翼が開いた。
(…………っ?!)
ぱちんと留め金を外したように、分厚い翼が、幾重にも重なる花びらを剥くみたいに開いてゆく。
夜闇にも似た暗い町の中で、悍ましい羽ばたきの奥に何かが煌めいた。
ほんの一瞬。
それは、瞬きをしたかどうかさえ思い出せないくらいの、刹那の事だった。
「……………ディノ?」
ネアは、気付けば雪の上に座り込んでいて、目の前にディノが立っている。
ムグリスの姿から元に戻り、ネアの前に立ち塞がってくれたのだろう。
けれどもその足元には粉々になった硝子のようなものが散らばり落ちていて、細く鋭い棒のようなものの切っ先が、ネアのすぐ目の前にあった。
(……………ううん。そんな筈はないわ。だって、私の前には、ディノが立っているのだから)
それなのになぜ、その棒を持っているのはアウルと呼ばれた男で、ぎらりと光る切っ先がネアの方を向いているのだろう。
二人の間いは、ディノがいる筈なのに。
町の明かりに、ディノの散らばった何かがきらきらと光り、身震いするように揺れた大きな翼は、アウルの背中から生えているようにも、その背後に現れたようにも見える。
「シル!!」
ノアの声が耳に届いてから漸く、ネアは、ブロンズ色の細い金属の棒が、ディノの喉下を貫いてこちらに向けられている事を理解した。
ひゅっと喉が音を立て、息が止まりそうになる。
アウルの持っている先端が鋭くなった金属の棒が、真っ直ぐにディノを貫いていたのだ。
ネアの大切な、たった一人の魔物を。
「……………あ、………っく、……………ディノ」
名前を呼んでいいのかさえ、もうわからない。
じわりと熱い涙が込み上げてきて、胃液を吐いた後のように喉がひりついた。
(ディノが、…………)
思考が纏まらずに怖さに力が抜けてしまい、けれども一方で、どこかに冷静な自分もいる。
でもそうか。
そうなって然るべきなのだ。
どれだけ魔物達が高位でも、剥離手はこの世界の魔術を無効化する者なのだ。
そんな事を考え、前回のグラストの時とは違う、一つの事実に行き当たる。
(……………でも、それならどうしてあなたは、魔術を使えるの?……………どうして、魔術師だったの?)
それこそが、違和感の正体だった。
剥離手なのに魔術を扱えるのだとすれば、それは一体どこのものだろう。
そんなことが可能なまでに対岸に偏ったこの男性は、本当にまだこちらの世界層の生き物なのだろうか。
小さな小さな欠片を呑み込んで集めた人々の血が重なり、元々の何かを再現してしまうような恐ろしいことが、偶然であっても起きてしまっていたのなら。
それはもう、この世界で再び芽吹いた漂流物と言っても、いいのではないだろうか。
「……………おかしいな。原型を留めているどころか、免疫のない筈の魔法にもびくともしないか。それに、……………随分と白い。……………なぁ、ドーシャ、こりゃなんだ?こんな生き物は、見た事がない」
先に口を開いたのは、アウルだった。
ディノを何かで貫いたまま、緊張感のない声音で連れの女性に問いかけている。
だが、先程まで、ノアとダリルを見ても平然としていた金髪の女性は、今や雪の上に蹲って嘔吐していた。
綺麗に赤く塗った爪で喉を掻き毟り、恐怖の嵩に溺れて壊れたような目で、ディノを見て激しく震えている。
奥にいた竜の男性も片膝を突いて蹲っていて、こちらは、ドーシャとは違いディノから必死に目を背けていた。
(ディノが、怖いのだわ………)
ネアの目の前で揺れる真珠色の髪は光を孕むようで、恐らくは、精神圧を軽減していないのだろう。
二人は、突然現れた万象の魔物の気配に当てられてしまい、動けなくなったのだ。
だが、平然としているアウルだけは、その精神圧を感じている素振りもない。
幸いにも、詰襟のドレスだったのでドーシャが自分の喉を爪先で切り裂いてしまう事はなかったが、顔色はどんどん悪くなり、鮮やかな金髪は漂白されたように色をなくし、ずるりと抜け落ちてゆく。
ドーシャの指先が脆い砂の塊のように砕けたところで、アウルは忌々し気に舌打ちした。
「………成る程な。化け物じゃねぇか。白持ちの魔物は、顕現一つでこんなことになるのか」
「……………何十枚ものの排他結界を、片手で易々と貫いた君には、言われたくないけどね」
「………っ!!」
ここでやっと、ディノが喋ってくれた。
思っていたよりも落ち着いた声に、ネアは泣きたくなる。
その直後、ディノの体を貫いていた金属の棒がざらりと灰になって崩れた。
(……………血は、出ていない)
だが、いつものように、振り返って微笑んで大丈夫だよと言ってくれないのだから、あまり余裕はないのだろう。
血が流れていないのは、得体の知れないものに血を奪われないようにしているからだろうか。
「そうでもないぜ、このざまだ。様子を見る限り、その娘を殺せば、お前達の動揺を誘えるかと思ったのに、まさかのこちらの二人が脱落とはな。…………こいつらは、もう正気に戻らんだろう。人間の魔術師くらいならまだしも、高位の海竜までもかよ」
「であれば、諦めてはどうだい?」
「……………さぁて。最後までやってみなけりゃ、分からないよな?」
刹那、がしゃんと、胸が悪くなるような音がした。
息を吸うのもままならずに雪の上に座り込んでいるネアの前で、ディノとアウルが戦っている。
こんな接近戦をするとは思えなかったディノが手にしているのはあの美しい錫杖で、アウルの手にあるのは、先程灰になったものと同じだと思われる、ぽきんと折れそうなくらいに細く長い不思議な棒であった。
(……………ディノ)
胸が痛くなるような思いで、その名前を胸の中で呟く。
ノアやダリルの様子を確認する余裕はなく、戦っているディノの背中を見つめるばかりだったネアは、震える指先の下で、じわりと雪が溶けるような気がした。
ざわりと青白い光が足元を走り、花茂みを揺らしたように同じ光を纏う花びらが舞い散る。
ざんっと重たい音を立てて、飛来した矢が大きくうねる翼を地面に縫い付けた。
だが、それでもアウルの動きは殆ど乱れない。
収穫祭の漂流物ですらもっと力を削げていた筈なのにと思えば、目の前の男は剥離手であるのだ。
(……………ディノが)
とは言え、震えてしまう指先を握り込み、ネアが何とか己を叱咤して冷静になろうとしたのは、ディノがアウルと戦い始めてからすぐ後の事だった筈だ。
その、ほんの僅かな時間でさえ、こんなにも絶望的で恐ろしいなんて。
(誰か。誰かを呼ばなきゃ)
咄嗟に、魔術的な繋がりのあるウィリアムの名前を呼んだが、頼もしい白い軍服姿の魔物は現れなかった。
ウィリアムの姿を求めてやっと見回した周囲には、賑やかな通りだと町長が言ったように、ネア達の他にも通行人がいる。
巻き込まれるのは防げたようだが、買い物の荷物を落として這うように逃げ出してゆくご婦人や、近くに居た少女達を抱えて逃げてくれた男性の姿も見えた。
だが、ウィリアムの姿はない。
ダリルは弓での援護に徹してくれていて、ノアは、アウル本人でははなくその足場や周辺のものを崩したり動かしたりしながらディノの援護をしてくれているようだ。
表情の厳しさからそちらも余裕がないのが見て取れたが、そんな中でも、ネアの周りにはいつの間に覆われたのか、強固な隔離結界の箱のようなものが薄っすらと見えた。
恐らくこれは、ノアの魔術だろう。
ちりんと、どこかでベルが鳴った。
この緊迫感には似つかわしくなく、ここではないどこかで静謐な風が揺れる。
見上げる程に高い丸屋根の天井と聖画に囲まれ、ステンドグラスの光の中に佇む誰かが、不浄な鳥めと呟いたような気がした。
その時、どうして真っ直ぐに手を伸ばしてしまったのかは分からない。
ただ、声を上げて泣きたいくらいの怖さと同じくらいに、大事なものを損なわれるかもしれないという焼けつくような憎悪があった。
伸ばした指先の向こうで、アウルがはっとしたようにこちらを見る。
それまでは動きを目で追うのも難しかったのに、その瞬間だけ、先程のドーシャのように恐怖に歪んだ黄色い縁取りの瞳が見えたのだ。
「誰か………!」
それなのにそんな風に誰かを呼んでしまったのは、何かに触れた無意識の部分とは違う、ネア自身の必死さだった。
ウィリアムに声が届かないのなら、やはりオフェトリウスだろうか。
アルテアにも来て欲しかったが、収穫祭の時のことを覚えているので怖くて名前が呼べない。
加えて、この場に必要なのは、実戦に長けた者であるべきだ。
「……………は?」
その後に続いたアウルの声は、とても不思議そうだったと思う。
目を丸くして呆然と立ち竦んだアウルに、ディノが鋭く振るった錫杖がその手から細い金属の棒を叩き落とす。
すぐさまノアが魔術を敷き、アウルの武器を自分の手元に引き寄せ、砕いて壊した。
「ネア!!」
その直後に飛び込んできたのは、待ちに待ったウィリアムだ。
ぱっと顔を上げたネアを見て、なぜか白金色の目を瞠る。
だが、ネアがくしゃりと顔を歪めるとすぐさまこちらに来て、アウルとの間に入ってくれた。
「……………シルハーン!」
その先には、ディノに寄り添うグレアムの姿がある。
手にはあの大剣を持っているが、ネアはまだ呼んでいなかった筈なのでウィリアムと一緒にいたのだろうか。
ディノは僅かに体が揺れたように見えたが、大きく息を吐いただけだったのか問題はないようだ。
「…………こちら側は俺が引き取る」
「いや、このまま僕が一度立て直すよ。今の調整を手放すと、もう一度掴み直せる気がしないからね」
(アルテアさん………?!)
今度はアルテアの声が聞こえたのでそちらを見れば、ノアの隣にその姿があった。
視線を向けたネアに気付いたのか、こちらを見て短く頷いてくれる。
(みんなが、……………来てくれた)
まだ何も終わっていないのに、目の奥が熱くなって奥歯を噛み締める。
今はまだ、安堵に泣いているような場合ではない。
アウルはまだ無傷で立っていて、彼にはこの世界層の魔術が無効化されるのだ。
それどころか、彼は、剥離手が使えない筈の魔術を使うのだから。
(………そう言えば、あの人は魔術ではなく魔法と言った)
少しだけ冷静になったのかそんなことを思い出し、ネアはひやりとする。
これだけの人数がいれば遅れは取らないだろうが、それでも、どうやってあの実戦の腕も立つに違いないアウルを無力化すればいいのだろう。
(そして、あの人はなぜ呆然としたまま立ち尽くしているのだろう………?)
「障りを解きな!この暗闇は、あいつ等に有利なんだ!」
ダリルがどこかに向かってそんなこと言った直後、ふわりと暗闇が晴れた。
白灰色にけぶる雪曇りの日の明るさに、一瞬、眩しくて目を閉じそうになってしまう。
そして、アウルに異変が起きたのはそれからだった。
ごぷりと、湿ったものが沸き上がるような音が響いた。
はっとしたようにグレアムが目を瞠り、ディノを支えるようにして後退する。
ウィリアムも、なぜか剣を下ろしてこちらに走ってくると、周囲にある排他結界には影響されないのか、雪の上に座り込んでいるネアを抱き上げてくれた。
「………ディノが」
「ああ。来るのが遅くなってすまない。………あの男の隔離結界が張り巡らされていたんだ。だが今は、少しでも離れた方がいい。恐らく、…………もう大丈夫だろう」
「………もう?」
どうしてそんなことを言うのかが呑み込めない内に、ディノを連れたグレアムが隣に並んだので、ネアはそれどころではなくなってしまった。
慌てて大事な魔物の顔を覗き込むと、消耗している様子があるが、こちらを見て微笑んだディノがいる。
その水紺色の瞳があまりにも綺麗で、ネアは涙が零れそうだった。
「……………有難う、ネア」
「ディノ?」
「あのまま交戦が続けば、私の腕では不利だっただろう。君が、剥離手に効果のある助力を得てくれたお陰で、このまま終わらせられそうだよ」
「ふぁい。ウィリアムさんを、呼びました…………」
「うん。でも、ウィリアム達は、私が先に呼んであったんだ。君が呼んだのは、……………もっと別のものだよ。ほら、見てご覧」
「……………っ」
立ち尽くしていたオウルが、突然口元を押さえた。
ごふっと咳き込み、真っ赤な血を吐いている。
だが、込み上げてくる血が止まらないようで、体を折り曲げて喘鳴とも悲鳴とも取れる掠れた呻き声を上げた。
「血が、……………む。……………この香りは…………」
ネアはてっきり血を吐いているのだと思ってしまったが、ぷんと雪混じりの風に乗って届いたのは、何だか良く知る匂いではないか。
皮目をぱりぱりに焼いた香草焼き鶏にでもかけたいような、どう使っても美味しい赤い野菜の香りだ。
「……………トマトソースだな」
力なく呟いたグレアムは、片手で口元を覆っている。
ウィリアムが、小さな声で、あの死に方だけはしたくないなと返事をしていた。
「………トマトソースなのです?…………もしかして、一度だけ助けてくれるという、あの時のトマトさんの祝福でしょうか?」
「……………うん」
「ディノ!真っ青ですよ。やはり、先程の怪我が……!」
「……………そうじゃない」
「ディノ…………?」
「ご主人様…………」
あまりにも顔色が悪いのでやはり酷い怪我だったに違いないと、すぐに傷薬を飲ませようとしたのだが、ディノはふるふると首を横に振って、なぜか、ネアとウィリアムの後ろに隠れてしまう。
これはまさかと考え、ネアは、未だにトマトソースを吐き出し続けているオウルを見た。
「さては、あの様子が怖いのですね?」
「ご主人様………」
「ありゃ、死ぬまで止まらないね。何せよ、植物の系譜だしねぇ」
「ダリルさん!………その手にあるのは、もしかして持ち去られた絵本ですか?」
「私は書架妖精で、こいつは私の書庫の蔵書だからね。近くにあれば、こうして取り出せるんだよ。………この絵本は、あの剥離手の能力を最大限に生かす為に、盗み出されたのかもしれないねぇ」
「……………そう言えば、私の暮らしていたところにいた梟は、夜行性の鳥でした」
「わーお。ってことは、今回は完全にあちらの手の上だったのかぁ。悔しいなぁ………」
「ノア!」
そこに加わったのは、なぜかこちらも消耗しきっている様子のノアだ。
何があったのだろうと息を呑むと、一緒にやって来たアルテアが、塩の魔物をここまで消耗させた理由を教えてくれた。
「あの男が、この辺り一帯を自分の領域に書き換えようとするのを、魔術配置だけで防いでいたからだ。こいつでなければ、無理だっただろうな」
「まぁ。ノアが、もっと悪いことになるのを防いでいてくれたのですね………!」
「うん。今回は、かなり頑張ったかな。…………何しろ、直接は触れられないから周辺要素だけで対抗しないといけなくてさ、…………え、……………何あれ、僕泣きそうなんだけど……………」
「むむ………」
視線をアウルに戻せば、彼はまだトマトソースを吐き出し続けていた。
だが、片手はもう力なく地面に落ちていて、雪の上に大きな鳥のように蹲っている。
先程までその背後に見えていた何対もの大きな翼はもう見えず、辛うじて雪の上で体を起こしてはいるが、丸まった背中などのあちこちから、するすると緑色の植物が育ちつつあった。
その植物は見る間に成長してアウルを覆い尽くすと、すとんと、覆われていた中身が崩れ落ちるように質量をなくす。
見事なトマトの茂みだけが残り、真っ赤な実を艶々にしていた。
「……………終わったようだね。…………ダリルの要素が持ち去られていたら、もっと厄介な事になるところだった」
「……………えぐ。……………ディノが」
「ごめんね、ネア。あの男が君の方を窺っているのが分かったから、あのようにして攻撃を防ぐしかなかったんだ。対岸のものが私を大きく損なう事はないと思っていたし、剥離手の攻撃は魔術では防げないから、相手の隙を突いての一度だけしか、ああして君を守る事が出来なかった」
「…………ええ。そうして守ってくれたディノのお陰で、私は怪我一つしていないのですよ。………どこか、痛いところはありますか?傷薬は七億倍にしておきました」
「……………ご主人様」
折角取り出しておいたのでと、ネアは既に瓶の中で何倍なのか分からなくなっている傷薬を、七億倍にしておいた。
なぜその数字なのかに特に意味はないが、咄嗟に思いついたのがその数字だったのだ。
ディノは涙目で震えて抵抗したが、これに関しては慈悲などないご主人様の手で傷薬を飲まされてしまい、くしゃくしゃになっている。
そして、そんなディノがあまりにも悲しげにしていたからか、事件が解決してから合流したオレムが、リルベンの町で人気の、蜜の実の蜜ケーキをふるまってくれる事になった。
「とは言え、さすがに圧巻ですね。気を抜けば失神しそうです」
「ここで慣れておくんだね。ネアちゃんが来てから、こんなことは珍しくなくなったからねぇ……」
「むぐ!………噛み締めると、じゅわっと蜜の味が沁み出る美味しさです!」
「……………美味しい」
「シルハーン、…………その、飲み物も如何ですか?」
「有難う、グレアム」
「今日は色々な事があったからさ、この蜜ケーキは僕の大好物になると思う……………」
三口くらいの大きさの蜜ケーキを、震えながら食べ続けているディノに、グレアムがお茶のお代わりを注いでくれていた。
こちらも傷薬を飲まされてしまったノアは、めそめそ泣きながら蜜ケーキを頬張っている。
リルベンの町では、松の木の周囲に生える冬蜜の木の実を割って中に詰まった甘い蜜を集め、この季節の特産品にしているのだそうだ。
蜜ケーキは、細身のバゲットのようなパンを薄く切り、フレンチトーストの要領で調理してその蜜をたっぷり染み込ませたものだ。
とろりとした黄金色とは裏腹に甘さが意外に控えめなので、いくらでも食べられてしまう恐ろしいケーキである。
「ケーキと呼ばれているのは、母親たちがケーキ代わりに子供達に食べさせていたからだと言われています」
「まぁ。そのような歴史があるケーキなのですね」
「もう少し食べられるようであれば、追加で焼いてきましょう」
「…………食べる」
「僕も……………」
「うーん。ネアが飲ませた傷薬は、どんな味だったんだろうな…………」
「むぐ。…………仕方がないのですよ。大事な家族に何かがあったら困りますから!」
「そうだな。味覚も対価の内のようだから、不本意だがこれはシルハーンに飲ませてくれて助かったと言うより他にない」
「……………おい。お前はそんなに食う必要はないだろうが」
「わ、わたしも、しょうもうしているのですよ!」
慌ててネアがそう主張すると、こちらを見たディノが慌てて三つ編みを持たせてきた。
そうじゃないのだと首を振り、大事な伴侶に何かがあったらと思うと怖くて堪らなかったのだと言えば、ディノはまたしてもへなへなになってしまう。
「まぁ。傷薬の後味も残っているみたいなのに、こちらでも儚くなると大変ですからね。もう少しだけ、頑張りましょうか………」
「ネアが虐待した…………」
「今回はちょっと違う意味も含むので、胸が痛いです……」
ミグラマッドの商人達は、ノアやダリルの読み通り、仕える王族に命じられて、暗い町の絵本を盗みに来たようだ。
ここから先は、死者の供述になる。
そうして訪れたダリルダレンの書庫で、アウルはダリルを自分の体調を安定させる為の糧として見出したらしい。
「この子の生まれ育った世界では、梟は叡智をも司る鳥のようだ。そして、狩りに長けていて、魔術などにも縁が深いらしい。ダリルを狙ったのは、同質のものを司っていたからだろう。こちら側のものを取り込む事で、埋められる欠落があったのかもしれないね」
「そりゃ、こっちに漂流物として上がってくるだけでも厄介なやつだね。……………僕があんなに苦労したのも、それだったかぁ………」
「今回は、漂流物ではなく、剥離手としてこちらの世界層で再構築されたものだったせいで、より厄介な相手になっていたようですね。あの男が魔術師としての才能を開花させたのは、今年の春の終わりからだそうです」
ドーシャは、あの後に亡くなっていたようだ。
高位の魔物の顕現の負荷で、肉体が保てなかったらしい。
死んだ後は死者になるので、ウィリアムが来てくれた事で証人として確保出来ている。
それで、ここまでが明らかになったのだ。
「漂流物の訪れの年だったことが要因になって、あの男の体の中に蓄えられたものを、漂流物に近いものに変質させたのかもしれないな。…………まさかとは思うが、お前が俺をすぐに呼ばなかったのは、前回の件があったからじゃないだろうな?」
「ウィリアムさんを先に呼んだのは、剣で戦える方の方がいいだろうと思ったからなのですよ………」
「ほお?」
「……………ちょっとだけ、躊躇したかもしれません」
「これからは、もっと俺を呼んでくれて構わないんだぞ」
「わーお。相変わらずウィリアムは、取り分を逃がさないなぁ……」
ディノと話をしていたグレアムは、帰り際に、シルハーンは君を守り切れないかもしれないと考え、とても怖かったらしいと教えてくれた。
ネアは、そんな魔物をすぐさま抱き締めに行き、またしてもディノをくしゃくししゃにしてしまう。
リルベンの町の歩道には、トマトの茂みが残された。
魔物達が調べてくれたが、障りや異質な魔術領域などは残っておらず、生い茂るトマトがアウルの全てを喰らい尽くして浄化してしまったのではないかという事だった。
生き物が土に帰るという循環はどこの世界層でもさして変わらない為、あのトマトの茂みには、アウルの亡骸をこの世界に見合った形で綺麗に取り払う力もあったのかもしれない。
ネアは帰りにあの現場にもう一度寄らせて貰い、週末には鶏肉を焼いてトマトソースで食べようと思うと、トマトの守り手にお礼を伝えておいた。
そう言った途端に周囲がきらきらと光ったので何事かと思ったが、ネアの感謝の仕方がお気に召したらしく、またトマト界隈の祝福を貰ったらしい。
内容は前回と同じであると聞けば、またあのようなものが現れても安心なのかもしれない。
魔物達が手こずったアウルを、どうしてトマトが滅ぼせたのか。
それは、トマトソースの出現場所がアウルの体内とされ、押し止められなかったからのようだ。
事前にトマトを含んだ食品を食べ、胃の中に残っていたのではないかというのがアルテアの仮説で、それを聞いた魔物達は、なぜかウィリアムを除く全員が口元を片手で押さえていた。
「あの梟が、一瞬だけ何かに目を奪われて扱う魔術を緩めていた。……そこを狙って、トマトソースを……………出現させたのかもしれないね」
「あの時は、私がどうしていいのか分からずに手を持ち上げたので、それが気になったのかもしれませんね。……………ディノ、週末にトマトソースのお料理は食べられそうですか?」
「……………ひどい」
「美味しくいただいて、ディノもトマトの王様に守って貰いましょうね」
「どうして君は、名前を間違えていても呪われないのかな……………」
「む?」
小さなものが、大きなものを滅ぼすのはごく稀にあることだ。
とある精霊王を徹底的に痛めつけたのがジャガイモであったように、植物の系譜の力は恐ろしいだけではなく、頼もしい事もあるのだろう。
ネアはにっこり微笑み、大事な魔物に寄り添う。
ネアのたった一つを守ってくれた素敵な野菜なので、これからもずと美味しく食べていこう。
しかしそう宣言すれば、エーダリアが、内容は間違っていないのになぜか残忍に聞こえると言うので、ネアは眉をぎりぎりと寄せながら、お土産の蜜ケーキを保蔵用の入れ物から取り出したのだった。
勿論、ダリルダレンの書庫から本を盗むように命じたミグラマッドの王族は、しっかりと罰せられたという。




