暗い町と蜜ケーキ 1
雪の魔物によるものと思われる吹雪が明けると、ウィーム中央にはいつもの雪曇りの日が戻ってきた。
はらはらと雪が降り、降り方が強くなる時もあるが、このくらいであれば傘を持たずに出かけてしまうウィームっ子も多い。
色相は青みの灰色がかかり、街の明かりがその青さに重なる夜明けや夕暮れだけ、街の周辺が不思議な薔薇色に見える。
幾つかの条件はあるが薔薇明かりと呼ばれるこの現象は、魔術的なものではなく、ウィーム中央で好まれる街灯や建物の明かりと雪の色との混色だという。
そして、そんな雪の日にネアは、またしても普段にはない任務を引き受けていた。
「馬鹿も馬鹿。大馬鹿もいいところだよ」
がらがらと音を立てて走る馬車の中で、うんざりとしたような口調でそう告げたのは、なんとドレス姿ではないダリルだ。
長い髪は後ろで一本に束ね、ふわりと広がるデザインの外套なので特別男性的な装いとまではいかないもののパンツスタイルである。
ダリルにこんな服装をさせているのも今回の任務は、ダリルダレンの書庫に収められていた暗い町という一冊の絵本の回収であった。
「前にも一度、盗難騒ぎがあったのですよね?」
「暗闇を運ぶ絵本だからね。国や土地の特性によっては、大きな恵みを齎す魔術領域を作る魔術書のようなものだろう。だが、あの絵本は根っからのウィーム育ちだ。気に入っている土地から持ち出されそうになると、今回みたいに荒ぶるのさ」
「…………ふむ。その結果、街道沿いの町を一つ暗闇に叩き込んだのですねぇ」
とは言え今回の事件には、恐らく高位の魔術師か人外者が関わっているのは間違いないという。
何しろ、ダリルダレンの書庫から、厳重に管理されていた絵本を盗み出している。
ダリルが会合で書庫を開けた半日の間の犯行とは言え、それを可能にするだけの能力は有していると見て間違いない。
(でもその人達は、盗難品を持って少し離れた町に移動したところで、身動きが取れなくなってしまったらしい………)
ウィーム中央から運び出されて怒った絵本は、その街を暗闇の中に閉じ込めてしまった。
ダリル曰く、ここにいるので早く迎えに来いということなのだとか。
であれば回収に行けばいいだけなのだが、犯人達はその町に足止めされている筈なので、住人に被害が及ばないように細心の注意を払っての回収作業が必要になる。
暗い町の絵本は、町を暗くしたばかりか犯人達だけはその町の中に閉じ込めてしまったのだ。
なお、その効果は禁忌に触れた結果の呪いに近しいので、相手の階位に関係なく因果の顛末として付与されるという。
「という訳で、今回はお兄ちゃんも活躍するからね」
「ふふ。今回は、色々な調整が必要になる任務なので、魔術の得意なノアがいてくれて良かったです!」
「うん。ただの捕縛だけなら良かったんだけど、持ち出された絵本を回収しなきゃだからだよね」
「キュ!」
本日の任務は、ダリル参加する珍しいものだ。
そしてそこには、ネアの義兄なノアの姿もあった。
何しろ持ち出された絵本が荒ぶっているので、管理者だったダリルは、絵本の回収後にこの騒動を鎮めなければいけない。
また、それ以前の問題として、ネア達だけでは取り戻す際に触れさせて貰えるかどうかすら分からない状態なので、ダリルの参加は必要不可欠だったのだ。
(それに、犯人達に気付かれずに近付く為にはノアの力が必要で、どちらかと言えば大掛かりな魔術操作に向いているディノは、ムグリスディノになって貰ってここにいて………)
そしてネアは、犯人達を油断させる為に駆り出された誘導役である。
捕縛班となるノアやダリルを、犯人達に引き合わせる役回りだ。
「今回の犯行に及んだ連中は、ミグラマッドという南方の小さな国の商人達だ。この国とは一部の香辛料やナツメヤシの輸入なんかで交易はあるんだが、未婚の王族を神格化する面倒な信仰があってね。王族に一人でも馬鹿が生まれると、今回みたいな騒動に発展するって訳さね」
「あの国の王子や王女は、割といい危機回避能力を持っていたんだけどなぁ。堅実で少しだけしたたかな子供が多かったのに、とうとう外れが出たかな…………」
「そうなんだよ。今迄の王族はこんな馬鹿な真似を許さなかったんだけどね。あの国の馬鹿が出張ってくるとなれば、王族の指示があったとしか考えられない。救いようのない外れが出たのは確定ってことだ」
(こ、これは…………)
乗っている馬車の中ではそんなやり取りが飛び交い、ネアは目を丸くした。
どんなににっこりと微笑んではいても、気に入らない相手となると舌鋒鋭くなる同行者二人が揃ってしまい、とても辛辣な評価が下されている。
何となくだが、この組み合わせを敵に回しては絶対にいけなかった気がした。
がらがらがこんと、石畳に問題があったのか馬車が揺れる。
御者を務めてくれているのはダリルの弟子の一人で、ネア達を下ろした後も町の中に留まり、帰りも送ってくれるらしい。
「あ、見えてきたよ。ほら、暗くなっているだろう?」
「まぁ。…………こんな風にあの町だけを暗くしてしまうのですね」
「後は、本を盗み出した連中が、自分達だけがあの町から出られない事に気付いて、自暴自棄になる前に回収に入れる事を祈るしかないね」
馬車の前方部分に向いた覗き窓から見れば、雪曇りのけぶるような白灰色の光量が、ぐっとその町の周囲でだけ夜闇に転じている。
雪がたくさん降り積もったばかりなので、真っ暗というよりは青白い夜の色だが、確かな異変であった。
「さてと、おさらいをしよう」
そう言ったノアは、ネアの隣に座っている。
いつもの白いシャツに黒いコートを羽織っているが、今日は白に氷色の多色性の髪ではなく、くすんだ灰色の髪だ。
面立ちは変えていないので、はっとする程に美しいのにどこか印象が薄いのは、きっと、印象操作の魔術を敷いているのだろう。
なお、ネアも擬態をかけ、髪色をノアと同じくすんだ灰色にして貰っている。
「はい。今は、絵本を持った方々だけが、この町から出られないのですよね」
「うん。今回の絵本については持ち出しが判明した時点で、ウィーム各所に連絡が入っているから、すぐに報告が上がったみたいだね」
これから向かう町の入り口を守る騎士に、暗くなった上になぜか町から出られないが、何か魔術災害が起こっているだろうかと尋ねてきたのは、背の高い男性に付き添われた金髪の女性だったそうだ。
だが、騎士が、誰かが夜の町という絵本をダリルダレンの書庫から持ち出した弊害が近隣の集落も含め魔術異変として現れているようだと説明すると、であれば大人しく土地の回復を待つと言ってそそくさと立ち去ってしまった。
これで町内に他の商人や旅人がいなければ気まずい場面だが、ネア達がこれから向かうリルベンの町は、遠方からのお客がウィーム中央に入る前に滞在するのにとてもいい立地であった。
本日も三十七組の領外のお客が滞在しており、犯人も自分達は無関係だという体でいられたのだ。
「でもまぁ、足止めを喰らうのは犯人だけだからねぇ」
そう笑ったダリルは、獲物を前に舌なめずりをする獣のようだ。
割れそうに青い瞳は鋭く鮮やかで、ネアは、犯人捕縛後にどんな凄惨な取り調べが待っているのだろうと半眼になってしまう。
「町の騎士さんには、ご事情を説明されいるのですよね」
「そうだよ。あの町はさ、街道沿いの経由地という立地上、今回みたいな連中が逃げ込み易いんだ。目立つほど大きな都市ではないけれど、それなりに賑わっているのもいいんだろうね。…………その結果、リルベンは、これまでにも同じような事件への対応を何度も経験している。ウィーム中央程腕は立たないにしても、住民や騎士達も落ち着いたものだよ」
「それはもう、知らずにとんでもないところに逃げ込んでしまったという流れなのでは…………」
「だろうねぇ。この町は、気象性の災いや人外者絡みの事故なんかが起こった際にはいい避難所にもなるし、町長は、こちらからの指示がなくても難しい判断が出来る有能な男でね」
馬車の窓から町の入り口となる石造りの門を見ながら、そんな町長がダリルのお茶友達だと聞けば、もはや犯人達の運命は決まったようなものであった。
冬松の妖精の血を引く御仁なので、真夏は少し虚弱になるがそれ以外には何の心配もないというではないか。
ダリルにそう言わせるだけの人材が、街道沿いの要所となる町を治めているのも、ウィーム領の強みなのだろう。
「そうでなけりゃ、要所の町なんぞ任せておかないけれどね。………入ったね」
「はい。いきなり、ぐっと暗くなりましたね」
「あ。この暗さって、ちゃんと夜の系譜の魔術効果なんだね。闇の系譜の可能性もあるのかなって思っていたけど、これなら何かがあっても安心かな」
「ふぁ。あちこちに小さめの飾り木が立てられていて、綺麗な町ですねぇ……」
「キュ!」
胸元に入っているムグリスディノにも見えるように横の窓を覗くと、ちびこい伴侶は三つ編みをしゃきんとさせて景色を見ている。
ウィーム中央程に高い建物はないが、それでも、二階建てから三階建ての石造りの建物が多いだろうか。
僅かに薔薇色がかった灰色の建材は、先程までネア達がいた薔薇明かりの日の雪鉱石を切り出したものなのだという。
本来であれば、朝食の少し後くらいという時刻的なので、まだ薔薇明かりの日のこの町を楽しめたのだが、今はすっかり夜のように暗くなってしまっている。
それを残念に思いながら窓の外を見ていると、ダリルが街の説明をしてくれた。
「商人達には身なりに拘る者も多いだろう?ここは、ウィーム中央に入る前に旅の疲れを落とし、身なりを整え直す経由地なんだ。浴室付きの部屋が借りられる質のいい宿が多いし、衣料品店や薬院も多いね」
「ふむふむ。きちんと外からお金が入って回っっている町なのですね」
そのような土地は、交易路が断たれると大きな損害を被るものだが、統一戦争終了後はそこまでの大規模な交通封鎖は行われていない。
気象性の悪夢の訪れなどでは、多くの旅人が遮蔽に駆け込むので寧ろ賑わってしまうくらいだという。
(だから、街灯や歩道の花壇など、公共の設備がとても綺麗に整えられているのかな)
そんな事を考えながらこの後の対応の打ち合わせなどをしていると、馬車はやがて一軒の宿屋の前に停まった。
これからネア達は、この町に宿泊する領内在住の商人という設定で行動する。
シュタルトからウィーム中央に、新年に向けての高価な磁器類や菓子類を仕入れに来たという設定までを考えてくれたのはダリルで、このような場合は細部まで役柄を作り込むことが大事であるらしい。
ぎしりと音を立てて、辻馬車の扉が開かれる。
扉の奥に併設空間を設けて見た目の簡素さとは比較にならない乗り心地を約束してくれるお忍び馬車だが、さすがに外側にまでそのような仕掛けは出来ない。
申し訳なさそうに御者の青年が足元に持ち運び用の木の台を置き、まずはダリルが、会話を続け乍ら馬車から降りた。
「直接の交渉はそうそう起こらないけれど、決められた設定があればこちらも自然に会話を運べる。秘密がある者達は、相手の秘密に敏感だからね。このくらいは固めておかないと。…………やぁ。世話になるよ」
「これはこれは、嬉しいお客様ですな!どうぞ、中に入ってお茶でもどうぞ。旅の準備はこちらでなさっていって下さい」
馬車を降りると、豪華ではないが温かな雰囲気の屋敷があり、その玄関ポーチの前には一人の男性が立っていた。
やや竜種寄りのしっかりした体型だが、背が高いのでどちらかと言えばすらりとした印象になる。
短い髪は灰茶混じりの得も言われぬ贅沢な茶色で、こちらを見て微笑んだ瞳は綺麗な緑だった。
しかしそんな男性は、にこにこしながらネア達を宿屋の中に迎え入れてしまうと、人のいい微笑みを、ぱちんと切り替えるようにひやりとするような怜悧さに変えた。
(……………わ!)
表情一つであまりにも印象が変わり、ネアは驚いてしまったが、ダリルが平然としているのでこの土地の協力者なのだろうか。
黒いシャツに深い緑色のカーディガンを羽織った上品な宿屋のご主人という装いだが、やけに鋭く理知的な眼差しは明らかに一般人のものではない。
「見張りは付けてあるんだろう?どのような構成だい?」
「風変わりな男の魔術師と竜が一人ずつ、あとは王族に近しい身分を持っていると思われる女魔術師ですね」
「ふうん。あの国の魔術師って、信仰の系譜だから面倒なんだよなぁ。竜の種類って分かる?」
「……………お初にお目にかかります。リルベンの町長をしております、オレムと申します」
「うん。僕はまぁ名乗らないけど、その様子だとダリルが色々喋っちゃったかなぁ……」
「信頼出来る仲間には、明かしておいた方がいい手の内だからね」
「まぁ。町長さんだったのですね」
到底一般人には思えなかったので町の協力者だろうとは思っていたものの、あまりにも宿の主人の演技が完璧であったので、まさか町長だとは思わなかった。
ネアが素直に驚くと、ダリルが小さく笑って、そこそこ優秀な演技だったってことだねとオレムを労っている。
「リーエンベルクの歌乞い殿。あなたにも、初めてお目にかかりますね。あなたが来てから、エーダリア様の身の周りがどれだけ豊かになられたことか。心より、御礼申し上げます」
「私も、エーダリア様がいたからこそ沢山のものを得られたのだと思います。それに今は、ここにいる義兄と共に家族になりましたから」
「……………ええ」
微笑んで頷いたオレムは、何とも味わい深い笑顔と、ふくよかな緑の瞳を持つ素敵な男性だった。
若さよりは落ち着いた壮年の男性らしい魅力があり、先程とは打って変わって我が子の幸せを喜ぶような温かな目でこちらを見ている。
エーダリアに関わる話題でだけ表情が柔らかくなるこの感じは、間違いなく某会のものではないか。
ネアは、粗相がないようにしなければと新たに自分を戒めておいた。
「残念ながら、竜の種類はまだ分かっておりません。男の魔術師は、叡智か書の魔術ではないかということでした。……まずは、こちらにどうぞ。町の地図があります」
「わーお。こりゃいい地図だね。……土地の魔術構成や建物の高さなんかまで記載があるのは、確かに、有事や災害慣れしているって感じだな」
オレムが案内してくれたテーブルに置かれていたのは、細かな書き込みのある大きな地図だ。
書き込みは多いが見難くなっていないことが、情報の追記をしている者の管理能力の高さを示している。
ネアにはこれが出来ないので、羨ましさのあまりかっと目を見開いた。
「このような土地ですから、地図は常に整えているんですよ。………問題となる者達は、このホテルに宿泊しています」
「へぇ。なかなかいい潜伏先を選んだじゃないか。老舗ホテルともなれば、出入り口は複数ある。町の情報も入り易いし、部屋で食事も摂れるだろう。やっていることの割には妙なところが手堅いね」
「このホテルを拠点にしていることで、こちらにとっても近付き易いという利点があります。リルベンの大通り沿いは、人通りが多いですからね」
「この季節のこの時間帯だと、祝祭の買い物客と、これからウィーム中央に入る商人達が買い物に出ているか。動くなら今の内かねぇ。……………ネアちゃん、休む時間もなくて悪いけど、始めさせて貰うよ」
「はい」
「キュ!」
ネアの胸元からムグリスディノが顔を出したので、オレムは驚いたようだ。
しかし、こちらも何か事前に話を聞いていたのか小さく頷き、ポケットから取り出したハンカチで額の汗を拭っている。
そう言えば、本日のムグリスディノはダリルの提案で擬態をしていなかった。
なぜだかは分からないが、真珠色のムグリスのままなのだ。
「大通りまでは、歩いて行きましょう。距離としてはそこまでありませんから。………確か、歌乞い殿は狩りをされるのだとか。リーエンベルクからザハくらいまでの距離ですが、大丈夫そうですか?」
「ええ。その倍でも歩けるので、ご安心下さい」
「それは頼もしい。時々、そんな簡単なことすらなぜか嫌がるご婦人がいますからね」
(……さては、体力自慢の武人的なご志向の妖精さん)
にっこり微笑んだオレムに、ネアはその確信を深めた。
妖精にしては随分筋肉質だと思ったが、僅かに軍人めいた気配が伺える。
因みにその見分け方は簡単で、ウィリアムにどれくらい似ているかで測ればいい。
「ダリルさんは、大丈夫ですか?いつものドレスではありませんが、とは言え……」
「あのねぇ、ネアちゃん。書架妖精の運動量はえげつないよ。重たい物も毎日運んでいるよ」
「…………言われてみれば」
あの広大なダリルダレンの書庫を管理しているのだから、見回りをするだけでも相当な運動量だったかと気付いたネアは、恥じ入った。
苦笑してふさりと栗色の髪を揺らしたダリルは、横から見ると見慣れない輪郭になる。
正面から見ている時はまだ眼鏡と瞳の印象でダリルだなと思うのだが、こうして見ていると双子のお兄様かなという感じで、未だに少しだけ慣れない。
地図を置いたテーブルに用意された茶器で、慌ただしく温かな薬草茶を飲むと、ネア達はすぐにまた出発した。
今度はオレムも同行し、問題の絵本窃盗犯の滞在しているホテル近くまで向かう事になる。
「ネア。僕と手を繋いでおこうよ」
「むむ。ノアと手を繋いでおけば、安心ですね」
「うん。シルもいるんだけど、今日はしっかりお兄ちゃんだからね」
「兄妹の商人役というのも、何だか新鮮ですね」
「キュ…………」
「あら。ディノは私の伴侶として、そこでこっそり守護していてくれる役ですので、伴侶役をお願い出来ますか?」
「キュ?!キュキュ!」
ムグリスディノがしょんぼりしたのは、役を貰えていないのが少し寂しかったようだ。
だが、伴侶役ともなれば三つ編みをしゃきんとさせてしまうので、ネアは大事な魔物の頭を指先で撫でておく。
オレムが待機していた屋敷は木造で、木の床の上には青い絨毯が敷かれている。
廊下に出ると僅かに空気がひんやりしたが、裏口から庭に出てそのまま歩道に抜けると、これから雪が降る時特有の不思議な温かさを感じた。
(ああ。…………この町の並木道は、落葉樹だったのだわ。秋は綺麗だっただろうな)
今はもう、葉はすっかり落ちてしまい、木の枝も雪で覆われている。
一度緩んでから凍ったものか、枝を覆う雪には独特の硬質さがあって、まるで木の形の結晶石のようだ。
通りに面した家々は、両開きの扉を持つ同じ建築様式で、扉には花を模した優美な装飾がある。
どちらかといえば写実的な表現を好むウィーム中央とは違い、シンプルな曲線を組み合わせた意匠を見ている限り、独自の装飾様式があるのだろう。
細長い長方形の素焼き瓦を組み合わせた屋根にも、雪が積もっていた。
(ホテルの近くに着いたら、誰かが絵本を盗んだ犯人を外に連れ出してくれる。私はそこで、女性の商人さんに同じ旅の商人のふりをして声をかければいいのだわ)
まずはネアが一人で。
そして、兄であるノアがそこに合流する。
会話の内容は何でもいいが、不自然にならないようにする為には、敢えてこの異変こそを話題にした方がいいだろう。
事前にダリルに相談して内容を決めてあるので、大きな不安もない。
(ダリルさんは、町に入る前に知り合いになった旅の妖精さんで、この町に古い知り合いがいる設定。少しだけ一緒にいるところを見せてから、私達とは別行動になる)
即ち、もうその脚本の頁は捲られているのだ。
ふすんと息を吐くと、ノアがこちらを見て微笑んだ。
色を変えていない青紫色の瞳は、こんな色相の中でも鮮やかだ。
「信仰の系譜の魔術っていっても、余程とんでもないものが出てこない限りは、僕の妹の守護は万全だからね」
「はい。竜さんもいると聞きましたが、私が叩きのめしておく必要はありますか?」
「うーん。今回は、ある程度話が出来る状態で残しておきたいんだよね。あちらの国自体との関係は悪くないから、まともな方の王族達に交渉する余地を残しておくって感じかな」
「ふむ。では、喋れるようにはしておきますね」
「キュ………」
「え、もの凄く怖い言い方なんだけど?!」
商人は、情報を盗まれないように音の魔術を用いる事が多いそうだ。
そのお陰で、ネア達も会話の自由が出来、気負わずに大通り近くまで移動出来た。
綺麗に雪かきされていてる歩道を見ると、やはり、このリルベンは、手入れの行き届いた町という印象だ。
家々は上品で洗練されていて、玄関ポーチには、ネアの背の丈程の可愛らしい飾り木を置いている。
擦れ違う人々の中には町長がいるぞと気付いているような者達もいたが、慌てて挨拶をするような事はなかった。
(情報統制が出来ているという感じでもないから、この方は、普段から町によく出ているのだろう)
ますます好ましい人物だぞと心の中の素敵ウィーム住人禄に加えておき、そろそろ賑やかな商店街に入るかなというところまで来た時のことだった。
通信が入ったのか、オレムがダリルに何かを報告している。
短いやり取りの後、ダリルが振り返った。
「ネアちゃん。標的の女がホテルを出たらしいんだ。恐らくは、情報を集める為にギルドの連絡所に行くつもりだろう。………早々に出会う事になりそうだけど、………この状況で外に情報収集に出られるってことは、それなりに腕に覚えありだね。用心するんだよ」
「…………はい。では、そろそろ皆さんとは別行動ですね。心してかかります」
いよいよの別行動となり、まずは、ダリルとオレムが違う方向に向かう。
ネア達は、また後でというような挨拶をして手を振り、そこから次の曲がり角まではノアと一緒にお喋りをしながら歩いた。
「レイノ。お兄ちゃんは、向こうの仕立屋でシャツを見繕ってくるから、先にギルドで商用地図を貰っておいてくれるかい?どこに荷物を預けられるのかは、絶対に確認しておこう」
「ええ。では、ネイは、迷子にならないように気を付けて下さいね」
「ありゃ」
眉を下げて情けない顔をしたノアにも手を振り、ネアはそのまま大通り沿いの歩道を賑やかな方へ向かう。
一人で歩いているようだが胸元にはムグリスディノがいるので、こんな風に伴侶を隠して歩くのは珍しくはない。
思っていたよりも怖くなかったぞと内心安堵しつつ、演技ではなく実際にも目を奪われてしまう小奇麗な商店街を見回した。
(……………仕立屋さん、手袋屋さん、…………ここは市販薬品とのど飴のお店。こちらは靴磨きの専門店で、…………わ、思っているよりも繁盛しているのだわ)
やはり、ウィーム中央に入る前の商人達が身なりを整える経由地なだけある。
身だしなみを整えるのに必要なものを売る作業商店が、随分と多いようだ。
大きな商会に属さない商人達は、ここでウィーム中央に入るのに必要な、簡素だが質のいい服を買って着替えることが多いという。
移動の費用を節約する者達は、出来るだけ荷物を減らして商いに出る。
手持ちの衣服を汚してしまっていれば、この町で新しいものに取り換えてウィーム中央に入り、仕立てのいい新品の服でウィーム中央での仕入れや商談を終えるという仕組みだ。
この町の衣料店は安価だが質のいい品物が多く、ウィーム中央の仕立て屋をご贔屓にしているというような者達以外は、リルベンでの仕立てを楽しみにしている者も多いらしい。
(問題のお嬢さんは、金色の髪に青色のドレス。女性の商人さんに多い斜め掛けの鞄に、特徴のある髪飾り)
別れる前にオレムから教えて貰った外見特徴を頭の中でもう一度繰り返し、ネアは、始めて来た町を観察している商人を装って周囲を見回した。
この辺りにいる筈なので、どこで遭遇してもぎゃっとならないように心臓を落ち着かせておこう。
「ねぇ、お前。この町のギルドの場所を知っている?」
「ぎゃ!」
だが、そう思っていたところでいきなり背後から声をかけられ、ネアは小さく飛び上がってしまった。
そろりと振り返ると立っていたのは、先程脳内で反芻したばかりの特徴を有する女性である。
何よりも、詰襟を重ね合わせるような独特のドレスの仕立ては、某国にしかない特徴だ。
「……………い、いえ。ですが、これから兄に言われてギルドに向かうところなのです」
「同じ商人だと思って声をかけたのに、役立たずねぇ」
初対面の相手に対してあんまりな仕打ちな言葉を吐き、金髪の女性は溜め息を吐いた。
どちらかといえばオレンジ色の色味のある金髪は深い色合いで、ウィーム住人に比べると肌の色も少し暗い。
「リルベンに来るのは、初めてなんです。兄の仕事に同行させて貰えたのも初めてで」
「ああ、もういいわ。…………少し毛色が違うから声をかけたのだけど、これがなんてことは在り得ないわね。……………何その可動域。お前、早死にするわね」
「異国の方、何という失礼な人なのだ」
目を付けられたということは、ネアの演技はオレムのように完璧ではなかったのだろう。
自信があっただけにそれも屈辱であったが、重ねて初対面の相手に対してはあんまりなことを言われる。
ぎりりと眉を寄せたネアが敢えて言葉を呑み込まなかったのは、合言葉を口にして、ノアが来る迄の時間を稼ぐ必要があったからだ。
(でも、今の言い方だと、…………この人は情報収集の為に外出したのではなく、町に追手がいるかどうかを確かめに来たのかもしれない)
その程度のことであれば何ら不思議はないのだが、ネアはなぜか、それがとても良くないことに思えた。
けれども、そう感じた理由を自分でも説明出来ぬままなので、今はノアの合流を待つしかない。
(異国の方という合言葉を言ったので、ノアがすぐに来てくれる…………)
それなのになぜ、何かが間違っているような気がするのだろう。
「ありゃ。この子は誰だい?」
そして案の定、ノアは、待たせることなくすぐに戻ってきてくれた。
手に持っていた紙袋を腕輪型の金庫にしまう動作を見せるあたり、役柄の徹底に余念もない。
現れたノアを見て、目の前の金髪の女性がへぇと短く声を漏らした
見張った瞳に女性的な獰猛さを僅かに覗かせたのは、こうして微笑んでいるだけのノアがたいそう魅力的な男性だからだろう。
だが、続いて現れた男性に、事態は急展開した。
「何だ、友達を作ったのか?」
「馬鹿言わないで。ギルドの場所を聞いただけよ」
女性が現れたのと同じ方向から男性の声が聞こえ、ネアは振り返った。
ふさふさというよりは、髪の毛束が羽毛を重ねたようなまとまり方をしている男性がこちらに歩いてくるのが見えた。
オレムの髪色と色相は違うが同じような多色性の茶色で、こちらには少し黒も混じっているだろうか。
ぎょろりとした黄色い縁取りのある黒い瞳といい、まるで梟のようだと思いかけ、ネアはぎくりとした。
「アウル。あなたこそどうしたのよ。部屋で待っているんじゃなかったの?」
「面倒事が起きそうなんで、お前を追いかけてきたんだが………」
言葉を交わさずとも多くを理解する瞬間があるのだろう。
アウルと呼ばれた男性は、ノアを見て何かを察したようだ。
ネアの方はなおざりに一度見たばかりだが、聞こえてきた名前に驚愕したネアは竦み上がる。
(……………梟。今、この女性は、あの男性のことをその名前で呼んだのだわ)
この世界の梟は、かさかさした包装紙のような生き物が一般的である。
いつか教えて貰った情報によればネアの知るような鳥類型もいるにはいるらしいが、そちらの姿のものは梟ではなく、なぜか鳥狼と呼ばれているらしい。
つまり、この名前と姿から受ける印象が一致するのは、偶然だとしても奇妙なことなのだ。
(でも、どうして…………?)
不安のあまりにこくりと喉を鳴らすと、ムグリスディノが何かに気付いたのか胸元で身じろぎした。
視線を下に向けないようにしつつ、ネアは、すぐさま髪の毛の先を指先に巻き付ける。
これは、危険を知らせる為の合図だ。
「……………ふうん。そこの彼は剥離手かぁ」
もはや正体を隠すことはやめたようで、低い声でそう呟いたノアの言葉に、ネアは、ここに他の誰を呼ぶべきかを心の中で思案した。
守護を当てに出来ない、とんでもない相手が現れたのだ。




