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雪狂いのオレンジとハンドクリーム




その日リーエンベルクに齎された報告は、エーダリアを朝食の席で立ち上がらせるほどのものであった。

ウィームで、八十二年ぶりに雪狂いのオレンジがの花が咲いたのだ。



「となると、じきに実がなるのだろうな…………」

「……………美味しそうな名称ですが、どのようなものなのでしょう」

「ネア…………」

「…………ディノが絶句してしまったので、食べ物ではないことは理解しました」



通信端末を置き、エーダリアがふうっと息を吐いている。


窓から差し込む朝陽は、今日が冬季では珍しい晴れ間であることを教えてくれていた。

少しだけ溶かされてからざらりと固まった雪面が好きなので、ネアはこんな日を心待ちにしていたのだ。



「端的に言えば、そのオレンジの実が腐ると凶兆になる。陽光の系譜の植物が、敢えて雪深い土地でこの季節に花を付けるので、在り得ない事が起こるという、混乱や転覆を示す果実となると言われている」

「素晴らしく嫌な感じですので、へし折りましょう!」

「へし……ああ。それでいいとも言えるな。…………ディノ、ネアにその雪狂いのオレンジの、花の刈り取りを任せたいのだが、いいだろうか」



その問いかけに、ディノは僅かに息を吐き、それからゆっくりと頷いた。

窺い見えた躊躇にひやりとし、ネアは率直な疑問を言葉にする。



「根からごっそりやらなくてもいいのですか?」


そう提案するとエーダリアはとても困った顔をしたが、なぜだか、昔から木そのものを損なってはいけないと言われているのだそうだ。


ただし、大雪が降った日に吹雪の雪原に現れた見たこともないオレンジの木が花を付けたら、その花は全て刈り取らなければいけない。

実を結び、その実が腐り落ちるようなことがあれば、土地に大きな災いを招くという。



「実が出来ればその扱い自体も難しくなるのだ。出来れば、花の状態で刈り取りたい」

「断定的な情報が少なく、とてもふんわりしているところだらけですが、大丈夫でしょうか………」

「それに関しては、私も記述や情報が万全ではなく気になっている部分が多いのも確かだ。…………ただし、この対処法で鎮めてきた実績はあるので、方法が間違っているということもないのだろう。それに、この雪狂いのオレンジの対処にあたるのは、我々人間だけではない。雪の魔物と、氷竜からは騎士が出る」

「なぬ。……………となると、伝えられている対策には、ニエークさんの知識も反映されている筈ですね」

「……………そうだろうね。……これは、陽の災いと呼ばれるものだ」



憂鬱そうな声でそう呟いたのは、真珠色の睫毛を伏せたディノだった。


これはとても気が乗らないという時の表情なので、ネアは手を差し出しておき、案の定渡された三つ編みを受け取る。



「それは、どのようなものなのですか?」

「陽光の系譜の者が、夜や冬の系譜の者に焦がれて死んだ後に、陽光の系譜の植物を芽吹かせ、花や実をつける現象だよ。開花や結実を無駄にすると大きな災いとなり、そうなる前に刈り取れば災いを防ぐことが出来る。命を落とした者の怨嗟ではなく、因果の魔術の上で生まれる事象的な災いだね。条件を整えると発生する現象という意味では、蝕などに近い扱いだ」


蝕と聞けば、ネアは血の気が引いた。

しかし、気付いたディノがそこまで怖くはないよと微笑みかけてくれる。


「……………あの時のような、周辺への影響はあるのでしょうか?」

「いや。該当の植物の周囲が吹雪くくらいで、適切に処置すれば何も起こらないよ。これはね、見過ごして育ててしまうと良くないんだ。一説には、我が身を滅ぼすものを育まないようにするべしという戒めから発現したとも言われている」



(…………では、思っていたよりも、簡単に処理出来そうなのに、どうしてディノはしょんぼりなのかしら…………?)



それに、どこかエーダリアの歯切れも悪い。

これは他にも何か事情があるに違いないと思い、じっとエーダリアを見つめると、ぎくりとしたように肩を揺らしている。


「話を聞いていると、やるべきことは決まっていて、それが終われば問題もなくなるようです。それなのに、どうしてディノもエーダリア様も不安そうなのでしょうか?他に、あまり好ましくないことも重ねて起こりかねないのですか?」

「……………一報の入った騎士棟に行ってくれたノアベルトとも話をしたのだが、ディノは、その木には近付けないのだ」

「まぁ。こちらも、ディノが触れない方がいい系のものなのですね…………」

「ああ。……………そして、現場には必ず雪の魔物に同行して貰う事になる。あの魔物は、………その、お前がいると様子がおかしくなるのだろう?果たして、今回の刈り取りを無事に終えられるだろうか………」

「……………もしかして、ディノもそれが心配なのですか?」

「ニエークなんて…………」



そんなことだったのかという思いもあったが、確かに、ネアの知る雪の魔物はいつも様子がおかしい。


高位の魔物に同行して貰う必要があるのだから、雪の魔物の役割もきっと重要なものなのだろう。

それを果たせないとなると大問題なので、どうにかしてしっかり働かせなければならない。



「その、…………オルガさんは一緒に行けないのですか?」

「難しいな。花枝を刈りに行ける者は決まっているのだ。……雪の魔物と氷竜、そして人間の……………魔術的な子供のみだ」

「……おのれ」


最初にこの世界で雪狂いのオレンジの花が咲いた時、その花を刈り取ったのは幼い少女だったという。


当時いた託宣の巫女が災いを退ける方法を示し、少女は、その時代のウィーム王が助力を願った雪の魔物と、氷竜の騎士に付き添われて出かけてゆき、無事にオレンジの花を落とした。


人間の子供と、雪の魔物と氷の竜の騎士。

それが、花落としと呼ばれる鎮めの儀式に子供と参加出来る者達の条件なのだ。



だが、その後の託宣や予言でも同じ方法が示されてその度に子供を送り出すようになると、小さな子供を過酷な任務に向かわせるというのはどうだろうという事になった。


その結果、可動域上でのみ大人とされない者が、この役割を担うようになったのが五百年程前からなのだとか。


どうやら、思っていたより古くからある現象のようだ。



「だから、これまでは、必ず犠牲者を出す災いだった」

「………犠牲者が出てしまったのですか?」

「幼い子供や可動域の低い者が、高位の魔物の気配に触れるということは、即ち魔術汚染を受けるということだからな。だが、件のオレンジの木の周囲は、雪の魔物でしか通れない吹雪の道が出来るらしい。害のないように擬態していてはままならないのだ。……………最初の子供も、役割を果たした後に命を落としたそうだ。その後も……………皆、命を懸けて任務に当たってくれたと記録されている」

「……………まぁ」



その説明で、ネアも納得した。


これは本来、ネアのような可動域は上品だが抵抗値はかなりのものというような特例的な人間がいなければ、命と引き換えに行う任務なのだ。


だからこそ、雪の魔物の様子をおかしくしてしまうという懸念を残した上でも、ネアにしか任せられない仕事なのだろう。


やっと、死なずに任務を引き受けられる者が現れたのだから。



「氷竜さんは、………もしご負担がないようであれば、ベージさんにお願い出来ないでしょうか?」

「お前にもその方がいいだろうと思い、ベージに打診してある。そろそろ返事が来る頃だが………」



ここで姿の見えなかったノアが部屋に入ってきて、ベージが快諾してくれたという吉報を齎した。

ネアはふうっと息を吐き、あの氷竜の騎士団長が一緒であれば、共にニエークを宥めてくれる筈だぞと胸を撫で下ろす。



「早速だが、時間がない。………半刻以内には実が出来てしまう」

「思っていたのとは随分違う出発の雰囲気です………。明日にかけて、地図などを見ながら綿密に準備をしてというような感じですらないのですね……」

「すまない。……近くの村までは、私も同行しよう」

「…………いや。履歴を辿れば陽光と因果のものだ。君の階位で、どこかに残っているかもしれない執着を引き寄せると厄介だろう。魔術的な付与や変化を齎してしまうことが多い私や、派生したものを生かしてしまうかもしれないノアベルトでもない方がいい。ウィリアムは鳥籠だね。………であればグラフィーツかな」

「よーし。じゃあ、お兄ちゃんがグラフィーツを捕まえてくるよ!」

「むぅ。狩りみたいになりました………」




かくして、対策班が招集された。



代表者は、ラムネルのコートに雪靴を履き、首元までもこもこに毛皮のマフラーを巻いたネアと、暗灰色の毛織のコートに白いカシミヤのような風合いのマフラーを巻いて、観劇に行くのかなという装いのグラフィーツ。

そして、普段とあまり変わらない装いのニエークに、騎士の装いで現れてネアを歓喜させたベージだ。



「……………本日は、……………むぐ……………雪狂いのオレンジめの花を……………ぎゃ?!……………刈り取りに行きます!…………ぐむぅ。……………目障りな枝など、早々にへし折りますよ!!」

「…………やれやれ。俺に寄りかかっていろ。吹き飛ばされるなよ」

「先程まで珍しい晴れ間かなというウィーム中央にいましたが、この辺りだけ酷い吹雪です………」



クッキー祭り用のゴーグルを装着して吹雪の向こうに目を凝らせば、ゆったりと蛇行するような軌跡を描いて、風のヴェールが出来ている。

これが、雪狂いのオレンジの花が咲いた周辺だけ起こる異常気象なのだそうだ。



緩やかな曲線を描いているように見える風だが、相手は吹雪である。

風向きや風圧が不規則に重なり合うと、雪が激しくなり、視界をいっそうに悪くしていた。



「これは、僕の最も不愉快な現象の一つだ。時間の猶予のない作業ではあるが、早々に終わらせてしまいましょ…」

「ニエーク?」

「………しまおう」

「そうだな。俺としても、早く片付けてしまいたい。………今回は、一緒に行く者が死なないでくれて幸いだ」



淡く微笑んだベージは、前回の任務の際にも雪狂いのオレンジの花落としに参加したのだそうだ。

だからこそ快諾してくれたのだなと思ったが、それはつまり、同行した人間が死ぬのを見届けたということでもあるのだろう。



「ええ。私は抵抗値がかなり高い方ですので、その点は安心していて下さ…………むが!!」



またしてもごうっと吹雪に叩きのめされ、ネアは渋面になった。

今回はグラフィーツがしっかり押さえていてくれたが、そうでなければどこかに吹き飛ばされていただろう。


(この吹雪の影響が、魔術で排除出来ないなんて………!!)



もしや、これ迄の参加者は魔術汚染よりも遭難だったのではないかと疑ってしまうくらい、吹雪の中を進むだけのことが、とても過酷であった。


これでもニエークが随分と調整してくれており、その操作はグラフィーツが感心していた程なのだ。

しかし周囲で吹き荒ぶ風雪は、か弱い乙女を吹き飛ばし、喋ろうとしたところを吹雪でへなへなにするくらいの力は残っている。



「これは、雪による自浄作用のようなものだからな。影響を断ってしまうと、雪狂いのオレンジを閉じ込めている雪の檻を壊す事になる」

「まさかの、隔離結界扱いだったとは知りませんでした」

「……………そうか。人間の側には、俺達との会話の記録が残っていないんですね」



悲しげな呟きに、ネアははっとした。


情報の欠落が目に付いたのは、人外者達との会話を持ち帰る者がいなかったからなのだ。

特別に親しい者でもなければ、ニエークや、ベージを始めとした雪竜達は役目を終えれば帰ってしまうばかり。

わざわざ、人間の領域に留まり、ここで起きた事を説明してはくれない。



だから、花落としをした者が戻らない人間の領域には、その情報が残らなかった。


(気付いてしまうと、悲しい理由だったのだわ)



「今度からは、……………むが?!……………お、お喋りは後回しにして、まずは、忌々しい花枝めをへし折りに行きます…………」

「おい。腹を立てるのは構わないが、根から枯らすなよ」



はたはたと、風の音がする。


背面からの風から庇うように、グラフィーツは後ろに立ってくれていた。

前には竜種であるベージが立ってくれていて、ニエークは飄々と横を歩いている。


時折、ずぼっと足が沈んでしまい、ネアはその度に後ろを歩くグラフィーツに引っ張り上げられた。

とてもではないが一人では歩けず、グラフィーツが立ち入れなくなる場所からは、ベージが持ち上げて運んでくれるそうだ。


ただしその場合、雪から庇ってくれる誰かの陰に入れない部分が出来るので、持ち上げもなかなか危険である。


「僕だって、人間一人運ぶのは容易いのだがな」


少しばかりつんつんしているニエークは、鈍い金色にも見える黄褐色と灰色の瞳に、最高級の銀水晶を思わせる淡い青色の髪の魔物だ。


本日の装いは、綺麗な水色のコートに白い毛皮を巻いていて、吹雪のお出掛けとは思えない服装である。

だが、髪の一筋すら揺らさずに吹雪の中を歩いている横顔は、冴え冴えとした冷ややかな美貌が不可侵のものに思えて、雪そのものを司る魔物らしい気品が窺えた。


「ああ。だがここは、俺の方がいいだろう。ニエークには吹雪の調整を任せたい」


そう返したページは美しい深青の騎士服で、こちらの騎士服は、氷竜の任務外で騎士として動く際にと作られているものなのだとか。



「ベージ。君はそもそも、……」

「ニエークさん。私のお顔に、吹雪が直撃しないように出来ますか?」

「承知しました!」


このままでは鼻が取れてしまいそうなのでおずおずと申し出たネアは、なぜか目を輝かせて頷いたニエークを見ることになった。


唇の端をきゅっと持ち上げてご機嫌な様子だが、その理由はあまり考えない方が良さそうだ。


「……………いいか、あの通りの変態だ。要求や不安は、命令口調で申し付けていけ」

「先生からとんでもない指示を受けましたが、出来れば普通でいて欲しいのですよ…………」


コートと同色の毛皮の帽子を被ったグラフィーツが、なぜかその場で立ち止まる。

振り返って頷いたベージがこちらに手を伸ばしたので、ネアは首を傾げた。


「グラフィーツさんは、近くにある村で待っていてくれると聞きました。ここは、…………雪原ではないのでしょうか?」

「村は地下だ。ジャガイモの精霊達が暮らしている」

「…………という事は、建物などの遮蔽物がある場所で、一息吐くことも出来ないのです?」

「そうなるな」



呆然とするネアの前で、砂糖の魔物は、こともあろうかその場に上品なクリーム色の布張りの長椅子を出現させるではないか。

優雅に腰かけると、これもどこからか取り出したテント素材のようなものを広げて魔術で固定し、いとも簡単に吹雪を遮る休憩所を立ち上げてしまう。


そして、真っ白なお皿を取り出し、虚空から掴み上げた瓶から砂糖をざらざらとお皿に出した。


砂糖はいらないが屋根があることへの羨ましさでいっぱいになったネアが、雪まみれになりながら唸り声を上げると、持ち上げてくれていたベージが僅かに体を揺らす。



(…………いけない。ベージさんは、力を貸してくれる為に来てくれて、今だってこんな風に気遣ってくれているのに………)



「つい、先生羨ましさに唸ってしまいましたが、お仕事には誠実に取り組みますので、懲りずに手を貸していただけると嬉しいです」

「……………喜んで。……………っ、俺とニエークがいるので、安心して下さい」

「はい!」

「ず、狡いぞ!僕にも同じように頼むべきだろう」

「では、未だに吹雪が顔に吹き付けていますが、先程のお願いはどうなったのでしょう?」

「すぐに対処しましょう!」


嬉しそうに魔術を動かし始めたニエークを見て、ネアとベージは顔を見合わせた。


いつの間にかネアの顔面を損なっていた吹雪は風向きを変え、未だに体を吹き飛ばそうとする風圧ではあるものの、顔面だけは避けてくれるようになった。


もっと早く頼めば良かったと後悔したネアは、本日ばかりはこの運用で雪の魔物に接しようと心に決める。

か弱い人間は、我が身を守る為には狡猾な手段も用いるのだ。



ごうっと、吹雪が風を唸らせた。


視界は綺麗にホワイトアウトしてしまい、閉塞感さえ覚える程の白で塗り潰されている。


顔に当たる風が軽減された代わりに、今度はずしりとした冷気が気になりだしたネアは、耳が痛くなってきてしまい慌てて耳当てを取り出した。


「…………現場に到着するまでは、こちらを付けていても大丈夫でしょうか」

「勿論です。フードのあるコートを着られるといいんですが、この風なので、中に雪が入り込んでしまいますからね」

「ええ。事前にベージさんがその危険を教えてくれたことで、ラムネルの毛皮の帽子に切り替えられました。魔術の場の中に入るので、結界的なものを展開しておくことも出来ないのですよね」



ネアが被っているのは、もふもふのラムネル帽子だ。

フードものが着られないとなるとさてどうしようかと思っていたところ、ディノがこの帽子を揃えてくれていたことを思い出し有り難く被らせて貰っている。


帽子で覆われた部分はコートと同じように冷気を通さず、凍えるような寒さをまるで感じない。

それは、ラムネルの毛皮の残りで作られたマフラーも同じことで、髪の毛を内側に入れてしっかり巻きつけてある首元はほこほこだった。



(………うう、…………でも、耳当てはラムネルの毛皮程じゃない!)


まさかのここで、足りない保温感にラムネルの毛皮の偉大さを思い知らされつつ、ネアは、吹雪の中でもその影響を受ける事なく前に進むベージの肩にしっかり掴まっていた。


特に妨害がある訳ではないし、ニエークの歩き方はちょっとお散歩に来ましたという程度なので、見ていると緊張感がなくなってしまう。



「…………お二人を見ていると、難なく歩いているように見えてしまうのですが、私が一人で来ていたらとっくに吹き飛ばされてしまっていました」

「それはけしからんな」

「……………けしからん」

「ああ。僕の主人を、僕の司るものが損なうのは不愉快だ」

「……………しゅじん」

「ニエーク!そろそろ、雪狂いのオレンジの木が見えてくる頃だろう?」

「…………ああ。ネア様、オレンジの花枝など、へし折ってしまえと命じていただいても?」

「ニエーク…………」



ベージは、か弱い乙女の乗り物になっていなければ頭を抱えたそうにしてるが、申し出ている事は悪くないなとご主人様であるらしいネアは考えていた。


ただし、この場に人間の子供がいる事にも意味があるのだとしたら、ネアの手で花を落とす必要があるのではないだろうか。


ここは、ニエークには正常な判断が出来ないと仮定し、ベージにも訊いてみよう。



「ニエークさんはそう仰ってくれていますが、私が花を落とさなくていいのでしょうか?」

「……………これ迄は、俺達はあくまで案内人でしたからね。こちらにとっても災いとなるものですが、あくまでの人間の側の儀式の一環として手を出さずにきました。……………それは、踏襲した方がいいのかもしれません」

「では、そうしましょうか。……………ニエークさん、花枝めは私がへし折るので、その作業をしっかりと補佐して下さい」

「かしこまりました!」

「………… ニエーク」



ざくざくと雪を踏むような無粋な音を、雪の魔物や氷の竜は立てなかった。

音もなく吹雪の中を歩いていると、やがて、ふっと雪混じりの風が緩み、はらはらと舞い落ちる程度に変化する。



(これが遮蔽空間であるのなら、………その内側に入ったのだわ)


きぃんと、耳が痛くなるような静けさだった。

どこ迄も白く、雪原が広がっている。



「……………まぁ」



はらはらと雪の降る雪原の真ん中に、青々とした葉を生い茂らせ、オレンジの木が生えていた。


美しい白い花を咲かせており、現実感のない瑞々しさはいっそ神々しい程の美しさだ。

けれども、目の前の木が咲かせている花の白さにはぞくりとするような不穏さもあって、ネアはベージの肩にぎゅっと掴まる。



(…………何か、とても危うい均衡を保ち、ぴんと張り詰めた糸のようにも思える)




そして、もう一つ大きな驚きがあった。

なんと、目の前の雪狂いのオレンジは、立派なオレンジの木だったのだ。



「………これは、割と真剣な剪定が必要になる案件ではないでしょうか?」

「ああ。これだけの花を落とす間、この木や、土地の魔術の影響を受け続けなくてはいけない。だからこそ、これ迄に雪狂いのオレンジを鎮めてきた人間達は、みんな死んでしまったんだ」

「そうだったのですね。作業の間、魔術の影響を受けないようにすることは出来なかったのでしょうか?」

「僕ならば出来るが、それは約定の外側だ。それに、相手が雪と陽光の系譜の領域のものなので、氷竜には出来ないだろう」



ここで、自分には与り知らぬ事だと言ってしまうニエークの主張は、少しも間違っていない。

白を持つような高位の魔物が、この場に同行してくれるだけでも稀有なことなのだ。 


(そして、死んでしまう人間を哀れだと思えるベージさんには、魔術汚染を防ぐ手立てがなかったのだわ)



だが、そんな過去を思いしんみりしている場合ではない。


下手をすれば剪定に半日くらいかかりそうな程に立派なオレンジの木を前に、ネアは、とてもわなわなした。


人間はとても弱い生き物なので、やる気十分で仕事に挑んでも、それが思っていたよりも過酷そうだと気付いた途端に、やる気が霧散してしまう事がある。

今のネアがまさにそうだった。


とは言え、実が出来てしまってからでは遅いので、作業は迅速に行わねばならない。



「これです!」


容赦なく枝を切り落とせる道具を求め、ネアが取り出したのはウィリアムのくれたナイフであった。

大きさの上では作業がし難そうだが、剪定よりは寧ろ伐採かなという相手なので、切る際にかかる負担こそを減らしていこうと思う。


何しろこのナイフは、海竜の牢獄の鉄格子すら簡単に切断出来るのだ。



「ふむ。まずは足場だな」

「ふぁ!雪の階段が出来ました!……………その、足がずぼっと入ったりしません?」

「そのようなことはないとお約束しましょう。僕が直接台になるのも吝かではありませんが……」

「ニエーク、あっちの枝だが!」



ベージが何かを慌てて遮ってくれたので、下ろして貰ったネアは、雪の階段に登ってみる。

ここはベージでは重いというのでニエークが一緒に途中まで上がり、ネアから手を離さないようにしていてくれた。


なぜかベージの呼吸が荒いのでとても怖いのだが、ネアは花枝を落とすことを優先するべしと気付かないふりをした。



ざざん。



するすると枝に入るナイフのお陰で、鋸を引くような労力はかからない。

切り離された太い枝が、音を立てて落ちた。


歴代の担当者はどんな道具を持って来ていたのだろうと不思議でならなかったネアは、雪狂いのオレンジの木がここまで大きくなるのは何回かに一度だと聞いて遠い目になった。



(でも、今はこの枝を切り落とすことだけを考えよう……)



まずは切り落とし易い下の枝から。

途中から、階段では動き難いと判明したので、ニエークが木の周囲に足場を組んでくれる。

ぐるりと回り林檎の皮を剥くようにして枝を切り落としてゆくと、甘いオレンジの花の香りがした。




「これは、……………反撃などはされないのでしょうか」

「そのようなことはないと聞いて………いる。まぁ、僕がここにいてさせはしないがな」

「ふふ。色々心配もありましたが、ニエークさんがいてくれて良かったです」

「…………っ、………き、聞いたかベージ?!」

「ああ。聞いていた。良かったな、ニエーク」



穏やかに微笑んで雪の魔物を労うベージを見ながら、そう言えばここは、いつの間に敬語が外れたのだろうかと考えてしまう。



(とは言え、どう考えてもベージさんが面倒を見る形になっているから、これでいいのかな………)



四巡目にもなると、ネアは、やはりこの木は除草剤で根から枯らすべきだったのではという思い始めていた。


何しろ、花が咲いていなさそうだから見逃そうとする枝があっても、よく見れば葉の間に小さな花芽がついていたりする。


結局の全ての枝を落とすのであれば、幹からばっさりでも良かったのではないだろうか。



「ぐるるる…………」

「僕のご主人様だ…………」

「ニエーク、言い方が間違っているし、その表現は駄目だからな」

「上の方の枝を切る際には、僕が踏み台になりましょう」

「ニエーク!」



何やら背後が賑やかだぞと思いながら、ネアは半刻程かかって雪狂いのオレンジの木を丸禿にした。


幸い実は発見されなかったし、作業を終えて離れてみると何だか可哀想な有様だが、そもそもこの木のせいで想定外の労働を強いられているである。


これが感情の伴う誰かの残滓であれば可哀想にもなるが、事務的に発生するばかりとなれば心すら動かない。



「おわ、……終わりました!…………腕が…………」

「ベージ。僕はご主人様の腕を支える係もやったのだぞ。何と、剪定の支柱役だ」

「良かったな。だが、その呼び名は規約のものに戻しておこうか」

「……………むむ?」

「無事に終わって良かったです。落とした枝は凍らせて雪に埋めてしまうので、ご安心を」

「はい!……………か、帰ったら、疲労回復のお薬を飲みまふ…………」

「それがいいでしょう。…………ニエーク?」

「ご主人様に容赦なく切り捨てられた枝だ。持って帰っては駄目だろうか」

「多分だが、駄目だと思うが…………」

「仕方がない。足場にした雪を持って帰ろう」

「おのれ。やめていただきたい……………」



ネアは、吹雪は収まったものの、もはや腕がぱんぱんで歩く体力など残っておらず、帰りもベージに運んで貰った。

別れたままの場所で優雅に砂糖を食べて待っていてくれたグラフィーツに受け渡され、ニエークはベージが連れて帰ってくれることになる。



「ベージさん、ニエークさん、有難うございました!」



なぜか、じたばたしているニエークを抱え上げて帰っていくベージに手を振り、ネアは、あまり力の入らない腕をぱたりと落とした。

怪訝そうにこちらを見たグラフィーツに、立派に大きな木の枝を全て落としたのだと打ち明ける。



首も背中も痛いのだと言えば、こちらを見た青藍の瞳が、ふわりと柔らかくなる。



「手を出してみろ」

「……………む。これ以上はもう上げられないのですよ。先程、ベージさんとニエークさんにお礼を伝える為に持ち上げたのが、私の最後の力でした」


すっかり疲労困憊した乙女が弱々しく手を差し出すと、グラフィーツが下から掬い上げるように手を取ってくれる。


その途端、首から背中までばきばきになっていた剪定伐採の影響が、すとんと剥がれ落ちたではないか。



「……………浮気」

「まぁ。ディノ、迎えに来てくれたのですね!」



そこに現れたのは、真珠色の三つ編みを揺らした魔物である。

転移独特の風が揺れ、服裾がふわりと膨らむ。



「うん。無事に作業が終わったようだね。こちらも、影響を懸念せずともよくなった」

「先生が、酷い筋肉痛を治してくれました!ニエークさんも何かしてくれようとしたのですが、ベージさんが、もしもがあるといけないので守護などを持っていない相手からの魔術付与はやめておいた方がいいと言ってくれたのです」

「ニエークなんて…………」


伴侶な魔物が少し荒ぶったので、やはりニエークからの疲労回復は受けなくて良かったようだ。


ネアは、迎えに来てくれたディノと、待っていてくれたグラフィーツに、雪狂いのオレンジの木がどれだけ邪悪だったのかを説明し、誠実な仕事ぶりを誇っておいた。



なお、ネアが刈り落としたオレンジの枝は、二年程すると凍ったまま掘り出され、陽光の系譜の妖精達がハンドクリームの香料にしてしまうのだとか。

滑らかな使い心地のクリームは手仕事をする者達に大人気で、リノアールでも取り扱いがあるのだという。



ネアは、報告に帰ったリーエンベルクでその話を聞くと、ディノと一緒にリノアールに出かけていき、これまでは気付かずに見過ごしていた銀色のチューブを発見した。


文字だけのラベルシールには、確かに雪狂いのオレンジの木と書かれていて、よく見るとそのシリーズからは、似たような商品が多く作られてるようだ。



「……この入浴剤は、無花果の祟りものと書いてありますよ」

「いらないかな……………」

「こちらは、暴れ林檎……」

「ご主人様………」



雪狂いのオレンジの木を使ったオレンジの花のハンドクリームはとてもいい香りだったが、ネアは、伴侶が弱ってしまうので購入は諦めることにした。

代わりに他のハンドクリームをと売り場で選んでいると、偶然買い物に来ていた使い魔に出会ってしまう。



「……このような訳ですので、ディノに、同じようなオレンジの花のハンドクリームを買って貰う事になったのです」

「その香りの系統なら、大聖堂裏の通りにある果実と木の香りという店の専門商品の方が数があるぞ」

「なぬ…………」

「行くのは勝手だが、事故るなよ」



それだけ言い残しアルテアはさっと行ってしまったので、ネアは、珍しいなと首を傾げる。


だが、見送る使い魔の後ろ姿がどことなくダムオンでの装いに似ているとなれば、何の為に今日を呼び出し不可の日に指定していたのかが分かるというものだ。



「……………さては、今日はわくわく模様替え休日ですね…」

「あの時の家具なのかな…………」

「そうだという気がします。………ところでディノ、帰りに屋台のホットワインを奢るので、一階の飾り木をもう一度堪能した後、アルテアさんの教えてくれたお店に寄ってみてもいいですか?」

「うん。ここでも欲しいものがあれば買ってあげるよ。……………あの商品以外なら」

「ふふ。ハンドクリームは複数個揃えるとしても三個までと決めているので、今日のお買い上げは一個にしましょう。その代わり、教えて貰ったお店でいい匂いのものがあれば、買ってしまいますからね!」

「うん。………もう、体はどこも痛くないかい?」

「はい!先生がすっかり治してくれました!」

「グラフィーツなんて……」



しかし、リノアールエントランスホールに出たところで、入ってくるお客の様子に異変を感じて外を覗いてみると、いつの間にか外は吹雪になっていた。



街歩きが基本仕様となるこの後の予定を思い、ネアはわなわなと打ち震える。


だが、今日の今日でまた吹雪の中に入るのは少しばかり躊躇われた。



「さっきまで、晴れていました………」

「この雪は、ニエークかな…………」

「お、おのれ!」




その日、雪の魔物にはとてもいいことがあったらしい。


吹雪は夜半過ぎまで続き、ネアは、どこかでベージが頭を抱えているような気がした。








繁忙期につき、明日12/15はお休みとなります。

Twitterにて、開催しているボール選挙の結果などのSSを書かせていただきますので、宜しければご覧下さい!

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