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檸檬の香りと白い箱




夜になると、ウィーム中央では少し雨足が強まったようだ。

それでも秋の夜はそんな彩りも美しく、リーエンベルクの庭園はどこか詩的な趣きである。


そして、今夜の会食堂は少しだけ賑やかであった。



「鶏肉とキノコのクリームパイだ」

「ほわ、パイ様…………」

「こっちは、夜霧の蒸留酒と林檎のサラミとクリームチーズのタルトだが、……………こいつは玉葱は問題ないんだろうな………」

「ありゃ。僕だって、こっちの姿の時は、さすがに大丈夫だよ」

「ノアベルトが………」

「あぐ!」



今宵の晩餐の席には、使い魔であるアルテアの料理も数多く並んでいる。

リーエンベルクの厨房からは、鶏肉の檸檬と香草蒸しとパンが出ていて、薄切りの檸檬と一緒に蒸しあげた鶏肉は、香草塩の味わいがぐっと生きていて、素晴らしい美味しさであった。

薔薇砂糖を使ったという、ちょっと珍しい焼き立てクロワッサンもそんな食卓に新しい彩りを添えてくれる。



「南瓜のスープ…………」

「ディノも、この南瓜のポタージュスープなら美味しくいただけるのですよね」

「うん。…………美味しい」


目元を染めてディノが嬉しそうに飲んでいるのは、南瓜祭りで南瓜聖人に貰った南瓜を、アレクシスがすぐさまスープにしてくれたものだ。

やや南瓜多めの説明になるが、ある意味、誇り高き南瓜の履歴とも言える。



「このおかずタルトだけではなく、デザートのタルトもあるのですよ。……………あぐ」

「葡萄のゼリーも作ってあるが、そっちは明日以降にしろよ。さすがに今夜だと食い過ぎだぞ」

「…………むぐぅ」

「あ。僕、この香草パン粉焼きって好きなんだよね。わーお、棘牛だぞう」

「な、なぬ………!!」

「可愛い。ネアが沢山動いてる…………」

「………ネア、近くにあるから俺が取り分けようか?」

「はい!」


にっこり微笑んだウィリアムに香草パン粉焼きを取り分けて貰い、いつの間にか家族で大皿を囲むことに慣れてしまったのだなと、ネアは頬を緩めた。


アルテアはオーブンから料理を運んでいて、自分のおかずパイを渡されたエーダリアがお礼を言っている。

ヒルドは、ノアが持ってきた白葡萄酒を開けていて、その近くのテーブルには、ウィリアムが持ち込んでくれたイチイの酒の瓶が冷やされていた。



(以前の私にとっては一品でご馳走になりそうな贅沢なメニューばかりだけれど、どちらかと言えば、今の暮らしの中では普段の食事に近いようなものばかり…………)



けれども、ウィリアムとアルテアを含めたみんなが揃った食卓は賑やかで贅沢で、こんな風に美味しい料理を食べながら白葡萄酒などもいただいてしまうと、何とも穏やかで幸せな夜の時間である。


グラストやゼノーシュが一緒でも楽しいが、このメンバーの方がどちらかと言えば親密な雰囲気だろうか。




「そう言えばさ、人参を追いかけて箱に放り込む祭りもあるらしいよ」

「……………は?」

「………ああ。そちらについては、俺も知っている。一度、…………終焉の予兆が出たからな」

「もしや、ゼスラ爺さんの狂乱の日だろうか。そのような文献を読んだ事があるのだ」

「名前までは分からないが、一人のご老人が逃げ出した人参に腹を立てて、村ごと焼き払おうとした日だったな。あまりにも酷い終焉の予兆に驚いて駆け付けたが、村付きの樫の木の妖精がそのご老人を必死に説得しているところだった」


こちらは仕事で向かった先でのことなので既に自分事にしていたからか、ウィリアムは、落ち着いた様子でそう説明してくれた。

アルテアの表情はとても暗いが、物知りの選択の魔物が知らないウィームの奇祭は、実はまだまだあるのかもしれない。



「ほわ、村ごと…………」

「人参は逃げ出してしまったのだね………」

「おい。そもそもの祭りそのものの様子がおかしいんだからな………?」

「あの村は、収穫後の季節に祝福豊かな慈雨と言われる雨が降るので、その雨を浴びたい人参たちが、収穫を拒んで逃げ回るそうですよ。毎年、逃げる人参を追いかけて箱詰めするのが、人参祭りだったかと」

「その人参は、本当に食用に適しているのでしょうか……………」


ネアはとても不安定な気持ちになったし、ディノとアルテアもそうだったらしい。

しかし、あまり細かい事は気にしないウィリアムと、そういうものだと受け入れてしまっているエーダリア達は少しも動じる様子がなかった。


不安になるあまり、ディノが三つ編みをそっと膝に置いてゆく。

これは、不安なので手を握っていて欲しいという場面の三つ編み版だが、ネアの伴侶は比較的よく発動する技だ。


「食べた事あるけど、あの村の人参は美味しいんだよ。雨の時期まで逃げ回った人参だと、甘みが落ちるんだけどね」

「確か、ジッタの店でも、季節になると人参ケーキが売っていた筈だぞ。予定通りに物事が進む祝福を得られるので、商売をしている者達に好まれる商品だ。焼き上がりの時間は並ぶらしい」

「人参のケーキ。……………じゅるり」


祖国では比較的よく見られたキャロットケーキを思い出し、ネアは、わくわくと心を弾ませた。

対照的に、人参と菓子類を結び付けられないディノは、不安そうにしている。


「人参を、ケーキにしてしまうのだね…………」

「私の知っている人参のケーキと同じなら、しっとりとしたパウンドケーキのような美味しいものなのですよ。ただし、好き好きもあるの味なので今度買う事が出来たら、少しだけから試してみましょうか」

「……………うん」

「私も、沢山食べるというよりは、少しだけ食べると美味しいという区分のケーキですので、ウィームの人参のケーキがどのようなものなのかとても楽しみです!」


エーダリア曰く、茶色いパウンドケーキのような形状で、上に糖蜜やクリームチーズがかかっているというのだから、恐らくは、ネアの良く知るキャロットケーキのようなものだろう。


得られる祝福の階位は中程度だが、それでも意外に重宝する種類のものである。




「そう言えば、お前に渡そうと思って忘れていた物があるのだ。商工会から新しい商品の試作品を幾つか貰ったのだが、…………ああ。あのテーブルに置いてあったな」


料理を食べてお酒を飲み、みんなでお喋りをしていると、エーダリアが、何かを思い出したように立ち上がった。


ネアは、アルテア作のタルトの置かれたテーブルの上に見慣れない白い箱があったので、そちらはお持たせようのケーキかなと思っていたのだが、どうやら、エーダリアが持ち込んだものだったらしい。


しかし、持って来てくれて手渡され、ネアはこてんと首を傾げる。

艶々した白い上質紙の箱は、何かが入ってはいるようだが思っていたよりも軽い。


「くれるのです?」

「お前にも一つ渡そうと思っていたのだ。花の形をしているが、湯に浮かべると疲労軽減の入浴剤になるらしい」

「まぁ。入浴剤なのですね。早速開けてみます!……………檸檬の香りなのですね」

「いや、無香だった筈なのだが、……隣にいい香りのする檸檬のケーキがあったからだろうか」



そう言われてデザートテーブルを見れば、確かに使い魔は、秋果実のタルトだけでなく、香り高い檸檬のケーキも用意してくれたようだ。

どこかほろ苦く清しい檸檬の香りは、ふと、遠い記憶を呼び起こす。



手元のテーブルの上のグラスをどかし、皆に見えるようにとテーブルに置いてから蓋を開けてみれば、その中にぎっしりと詰まっていたのは真っ白な薔薇であった。


ウィームで一般的なカップ咲きの薔薇ではなく、花びらの少ない剣高先の薔薇だ。

しっとりとした天鵞絨のような花びらの質感に、生花ではないからか、薔薇の香りの代わりに先程の檸檬の香りが重なる。



(これは…………)



「……………綺麗ですね」

「量の調節の為に、花びらを少し減らし、ヴェルリア風の薔薇になったそうだ。ウィーム風の薔薇に拘って、もう少し小さな薔薇でという声もあるようだが、贈答品として造られた物なのであまり箱を小さくしたくないようでな……」

「………久し振りに、この形の薔薇を見たような気がします」



病室で白いギフトボックスの花を手に取った時には、雨音は響いていなかった。

秋の雨の夜だったのはジーク・バレットに初めて出会った日で、その二つの思い出は重ならない筈なのに。

それでもなぜか、結び付けて考えてしまうらしい。



指先で触れた花びらの感触は、見えているよりも硬質なようだ。

石鹸を薄く削ったような触感だなと考え、なぜか少しだけほっとする。


そして、どうしてだか不思議な程に、あの日の薔薇の贈り物によく似たこのお裾分けが、思いがけないところから手の中に転がり込んできた事が嬉しくなった。



「ディノ、明日の入浴の際にでも、浴槽に入れてみましょうね」

「……………うん」

「エーダリア様、素敵なお裾分けを有難うございます!」

「ああ。イブメリアの発売にしたいようで、花の色でも紛糾しているらしくてな。試作品は白い薔薇のままなので、あまり多方面に配れるものでもなかったようだ。明日でも良かったのだが、今夜の席で渡すのがいいだろうと思って持って来ておいた」

「ふふ。南瓜聖人さんには巨大南瓜しか貰えませんでしたが、代わりにこんな素敵な入浴剤がやって来たので、すっかりご機嫌です!……………ウィリアムさん?」

「いや…………」


ここでなぜか、口元を押さえて小さく笑い声を上げたウィリアムに、ネアは目を瞬く。

ディノやノア達も不思議そうにしているので、何やら、ウィリアムだけの事情のようだ。


「皆、考えるのは同じような事なんだなと思ったんだ。………ネア、アルテアからも何か貰えると思うぞ」

「むむ!美味しいパイやタルトだけではなくて、他にも何かくれるのです?」

「……………ウィリアム」

「どうせなら、今日の内に渡しておいた方がいいですよ。用途も性質も違うもので、良かったと思いますけれど?」



そんなやり取りを聞き、エーダリアがしまったという顔になっている。

ノアがぶはっと噴き出すように笑い、おろおろするエーダリアの背中に、ヒルドが手を添えた。


ネアも、これはアルテアも何かを用意していてくれたという流れかなと、椅子の上で小さく弾み、両手を差し出した。



「食事の後にしろ」

「渡すのをやめて、持って帰ってしまったりしません?」

「今のお前の状態でそれをやったらどうなるかくらいは、想像がつくからな………」

「先に渡しておいてくれても、少しも構わないのですよ?」

「料理に香りが混ざる。食事の後だ」

「むぐぅ…………」


そう言われてしまうと渋々引き下がらざるを得ず、ネアは両手を下ろした。

ウィリアムと目が合うと悪戯っぽく微笑んだので、エーダリアからのお裾分けが重なった事で、アルテアが贈答品を引き下げてしまわないように、敢えてあのように声をかけてくれたらしい。


エーダリアもほっとしている様子なので、ネアも安心して白い箱の中の入浴剤に意識を戻した。



(……………綺麗だな)



雨の日の夜影が落ち、白い薔薇の花には薄っすらと青い色が入る。

繊細な花びらの形に、やはり、ほろ苦い檸檬の香りがまだ残っていた。


遠い日にどうしようもない気持ちで手にしていた薔薇の花も美しかったが、心の奥に爪を立てるような取り返しのつかない残酷さもあった。


それでもずっと心に残り続けていたあの日の薔薇に、こうして、ネアがやっと手に入れた家族からの何でもない贈り物が同じ面影を投げかける。


(エーダリア様がくれたもので良かったな。それも、特別な贈り物ではなくて、色々な事が続いたからと体を休められる入浴剤としてお裾分けしてくれたもので、……………本当に良かった)



ふと、静かにこちらを見ているディノの視線を感じ、ネアは顔を上げた。

気遣わし気な眼差しの伴侶には、白い薔薇のギフトボックスの話をしたことがあったのだ。


だからネアは、微笑んで頷いてみせ、この贈り物は嬉しいのだと伝えておく。

そうすると、ディノは僅かに安堵したようにふうっと息を吐いた。



「ところで、……………檸檬のケーキもあるのです?」

「お前の体調面もあるからな。タルトは季節の祝福を得られるが、南瓜祭りで付与される祝福如何によっては魔術酔いをしかねない。………そう思ったが、どちらでも大丈夫そうだな」

「………残念ながら、いただいたのは巨大南瓜だけでしたので、タルトとケーキの二つが楽しめるのですね!」

「……………どちらかにしておけ」

「まぁ。どちらもすでにカットされているので、片方を二個食べるよりは、一つずつがいいです」

「食べ過ぎだぞ」


アルテアは呆れたような目をしていたが、ネアがふんすと胸を張る前に少しだけ、入浴剤の花が入った白い箱を見ていただろうか。

こちらの魔物にはあの薔薇の話をしただろうかと眉を寄せたが、何も言われなかったので触れずにいる事にした。



「イチイのお酒を飲むのは久し振りですが、やはり美味しいですねぇ」

「ウィリアム。希少なものを、私まですまない……」

「みんなで飲む為に持ってきたものだから、気にしないでくれ。…………だが、ノアベルトは飲み過ぎだぞ」

「わーお。こっそりお代わりを貰おうとしたら、見られていたぞ………」

「ネイ、そのまま脱がないようにして下さい」

「ありゃ。僕、ちょっと酔っ払ったかな…………」

「ディノは、檸檬のケーキにしたのですね」

「うん。……………今夜は、こちらがいいかな」



ディノは酸味よりは甘みの方を好む魔物なので、タルトではないのだなと不思議に思ってそう尋ねると、どこかきりりと返事が返される。

もしかしたら思い出に寄り添おうとしてくれたのかなと考え、ネアはそんな魔物にもにっこりと微笑みかけておいた。


酸味だけの瑞々しい果実の香りではなく、皮部分のほろ苦い香りもある。

聞けば、檸檬のお酒を使っているので香り高いらしく、この香りには、眠りの影に差し込む記憶の澱を払うような祝福があるのだとか。



「ぎゅむ。……………美味しいれふ。ほろ苦い檸檬のクリームが、お酒の効いたスポンジによく合うのですよ」

「これは確かに美味しいですね。昼間にというよりは、こうして夜の食事の後の方が合うかもしれませんが」


ヒルドも気に入った様子の檸檬のケーキは、先日のエーダリアの誕生日会の、檸檬クリームと月光蜂蜜のケーキとは違い、お酒の風味を強く残した大人の味わいであった。

長方形のケーキを小さめにカットし、お酒や紅茶といただくようになる。



(少しずつ、少しずつ……………)



多分、あの日の息が止まりそうな思いや、ずっと取っておいた薔薇の箱を捨てた日の思い出がネアの中から消える事はないだろう。

どうしても消えない記憶ということではなく、ネア自身も、自分を象った証跡としてそれを手放しはしないのだと思う。



それでも、こんな風に新しい思い出が重なってゆけば、些細な面影に心を揺らす事も少なくなるのかもしれない。


何となくだが、そんな時期になったのかなと素直に思えたのだ。



「………お皿から、ケーキがなくなりました」

「お前が食べたからだろうな」

「もう一つケーキを食べるか、先程の何かを貰うかなのです?」

「………いいか。これ以上、今夜は何も食べるな。お前は、パイを何切れ食べたと思っているんだ………」

「三切れなのでは………」



食事を終えてから手をわきわきさせていると、アルテアが、どこからか深緑の上品な包装紙に包まれた物を手渡してくれた。


小麦粉や紅茶の量り売りの時に使うような、長方形の紙袋のようなものが入っているようで、ネアは、美しい包装紙とかけられている琥珀色のリボンの組み合わせを崩すことを少しだけ躊躇う。


だが、何やら素敵な匂いがしたので意を決し、丁寧に包装紙を剥した。



「……………まぁ!」

「おや、ポプリですか。珍しいですね」

「ふぁ!………甘酸っぱくて、けれども複雑でうっとりするようないい匂いがします。夜の森のような香りもしてなんていい匂いなのでしょう…………!」

「真夜中の座の品だ。暫くは、舞踏会で得た祝福から影響が出ないとも限らないからな」

「むむ。こんなに素敵なもので、その対策も出来てしまうのです?」

「うーん、対策というよりは緩和だろうな………。祝福自体は定着しているから、影響が出るとしたら心因性のものだ。他の夜の系譜の好ましいもので、その影響を緩和出来るということだろう」


ウィリアムにそう教えて貰えば、アルテアはもう何も言わなかったが、気遣ってくれたのだと分かってネアは大事なポプリの袋を抱き締めた。


本当は、夜の森の中で飲む木苺のグリューワインのような香りだと言いたかったのだが、あまり食べ物や飲み物に紐付き過ぎてもいけないと、淑女の誇りを込めて上品な表現でまとめておいて正解だったようだ。



「ピアノは、今度なのです?」

「…………今度にしろ。そもそも、お前が曲を起こしてからだろう」

「ふむ。そうでした…………。ディノ?」

「何か、音楽を切り出すのかい?」

「ええ。あの舞踏会で思い出した、いつかの日に聞いたピアノの曲があるのです。アルテアさんが再現してくれるようなので、まずは私が、今度どこかで弾いてみようと思っています。無事に再現して貰えるようになったら、一緒に聴きましょうね」

「うん」



その時のディノの表情が少し寂し気だったので、ネアは、大事な伴侶ときちんと話をしようと思った。


過去に紐付く様々な品々は、先に共有して丸くしてしまったことが多いとは言え、最初にかなりの忌避感を示していたのはディノの方なのだ。

今はアルテアの方が反応が顕著だが、何かを懸念し心を揺らすという意味では、ディノの方が敏感だろう。




こつこつと、暗い廊下を歩いている。

雨に濡れた窓から差し込む夜の光は暗く、歯磨き前なので、まだ口の中には先程の檸檬のケーキのほろ苦い香りが残っているようだ。


貰ってきた白い箱は首飾りの金庫にしまい、泊りになったウィリアムやアルテアは外客棟に向かった後。

ノアは就寝前のエーダリアにボールを投げて貰うそうで、この帰り道はディノと二人きりであった。



歩みに合わせて揺れる真珠色の三つ編みを手に、隣の魔物をそうっと見上げる。


長い睫毛の下で翳る水紺の瞳は光を孕み、こんな夜の色相の中だからかどこか魔物らしい酷薄さだ。

その硬質な美貌を見て、まだ言葉は固まっていないけれど、話をするのは今だと考えた。



「ディノ」



名前を呼べば、こちらを見る眼差しは優しい。

だが、いつもの弾むような幸福感や愛おしさは見せず、ほんの少しだけ対岸に佇む人ならざるものらしい冷ややかさがある。


突き放す為の距離ではなく、何かを思案する為に立ち止まっているような、そんな感じがした。



「何か、話したい事があるのかな。…………もしかすると、私が考えている事かもしれないね」

「ええ。多分そうなのだと思います。…………今日は、……………いいえ、ダレックの舞踏会の夜から、私は久し振りの思い出に沢山触れたので、そのせいでしょうか」

「……………そうかもしれない」



伸ばされた手が、向かい合うネアの頬に触れた。

窓を背に立つと表情は翳るが、その瞳が暗く沈む事はない。

ぞっとする程に美しく、けれどもネアの大事な伴侶のままの柔らかさもあった。



(良かった。…………やっぱり、ディノが気にかかるような事があったのだわ)


それはまだ思考の段階なので、ディノは何も言わなかったのだろう。


だが、種族的な感覚や経験が違うので、その流れをしっかり見張っておかないとすれ違う可能性がある。

だからこんな時は、おやっと思ったらすぐに声をかけるべきなのだ。



「ディノは、……………どのような事を、考えていたのですか?」


けれども、こんな風に尋ねてしまうのは、ネアが狡いからなのだろう。


先に気付いて汲み上げるにはまだ経験が足りず、伴侶に甘えて、ずるをして答えを貰おうという魂胆である。

勿論、そんな思惑に気付かない筈もないのだが、ディノはそうだねと呟き頷いた。



「……………君は、先程のエーダリアからの贈り物を、嫌がるかと思っていたんだ」

「ええ。…………きっと、一年か二年前にあの入浴剤を貰ったら、私は何とも言えない気持ちになったと思います」

「でも、……………もう気にならないのだね。………嬉しそうだったのは、それがエーダリアからなのかな」

「……………まぁ。ディノが気になっていたのは、そのような部分なのですか?」

「あのようなものが嬉しいのであれば、…………私に望んでくれても良かったような気がするんだ。薔薇や、檸檬の香りや、…………もしかしたらピアノの曲も。…………けれども、………君はそのような場合は私に先に言うだろうからそこまでのものではないのかな。それとも、……………これは、私には触れられたくない部分なのかい?」



ディノの気鬱さの理由を知り、ネアは目を瞠った。

気付いていれば事前に説明したのだが、確かになぜだろうと思ったのだ。


けれども、そろそろ違う思い出を重ねてもいいのなら、ディノに白い薔薇を贈って貰っても良かったのではないかと考えると、奇妙な拒絶感を覚えた。



(……………そうか。だからなのだわ。私は無意識にそうしなかっただけなのだけれど、ディノは、私がその可能性を避けていったことに、どこかで気付いたのかもしれない)


では、なぜディノでなかったのだろう。

そう考えかけ、ネアは、少しだけ考え込む。



「答えを、出し難い事だったかな?」

「……………いいえ。ただ、私もどうしてなのだろうと考えていました。今回は、私自身よりも先に、ディノが違和感に気付いてくれたのですね。……むぅ」

「いつもの君は、……………このような事は、私に先に伝えようとするからね」



そう言ったディノが淡く微笑んでいたので、ネアは、密かに胸を撫で下ろした。

きっと、ここにいるのが出会ったばかりの頃のネア達だったら、こんな風に話し合いをする事は出来なかったかもしれない。



「…………私にもよく分からない我が儘なのですが、かつて、………どうやら、過去に僅かにでも心が動いたような何かと、ディノが重なるのは嫌みたいです。どこかが似ているからではなくて、かつて手にし損ねたものの代わりのものではなくて、私はディノがいいのだと、そう思ってしまうのでしょう」


だからネアは、少しも練り上げられていない言葉をそのまま伝えた。

伝えたいことが届くかなという不安もあったが、それでも多分、このままの方がいい。


「……………ネア」

「だからきっと、私はディノにはあの曲を弾いて欲しくありません。檸檬の香りがする贈り物も嫌ですし、…………ディノには、同じ面影を持たない私だけの、ずっと見付けられずにいた本当の宝物でいて欲しいのです」

「……………でも、それだけで君は足りるかい?」



その問いかけは、ともすれば危ういものであった。


しかし、はっとして顔を上げた先で、ディノは心が解けるような美しい微笑みを浮かべている。

足元にはしゃりんと音を立てて鉱石の花が咲き、窓の外の明るさは夜の雨の空にオーロラでもかかったのだろうか。


(ああそうか、ディノは魔物なのだ)


誰かが残したひび割れを埋めて欲しいと言えば、それが人間であれば、新しい信頼に聞こえるかもしれない。


けれども、ネアの大事な伴侶は狭量な魔物なので、それと同じ物は嫌だと言っても正解であったようだ。



「…………足ります。だってディノは、私だけの特別なのですよ?」

「私にとって、君がそうであるように?」

「そうです。ディノにとっても私が特別でなければ、私は怒り狂って家出します………」

「可愛い…………」

「…………ぐむ」



そっと抱き寄せられ、あやすように背中を撫でて貰う。


この魔物はとても無垢な生き物のくせに、時折たいそう老獪で年長者感を出してくるので、今夜はたっぷり甘えてしまおう。


檸檬ケーキがとても美味しくて、あの白い薔薇の詰め込まれた小箱や、いつか聞いた美しいピアノの曲を思えば、心の奥の柔らかな部分を掻き毟られるようだった。


多分、あの日の思い出はこれから先もずっとどこかでは鮮明なままで、その美しさや孤独さに涙が溢れそうなこともあるかもしれないけれど、でも、今のネアの一番はいつだってディノなのだ。



「…………ごめん。君に怖い思いをさせたかな」

「いいえ。でも、話してくれて嬉しかったです。勘違いした私の大切な伴侶が悲しんでいたら、私もくしゃくしゃになってしまうでしょう」

「……うん。私も、………君がそのように悲しかったら、…………嫌だったのだと思う」

「薔薇の小箱や檸檬のケーキは、………ディノには渡して欲しくないので、今夜のお食事会で大満足でした。………ちょっぴりいつかを思い出して感傷的な気持ちになりましたが、………それでもとても。なので、アルテアさんが今度弾いてくれる曲も、ディノが弾いてくれてしまうと、それはやはりちょっと違うのです……………」


人間はとても狡猾なので、ネアは、敢えてそんな思いをもう一度伝えてみた。

あれもまた、必要なものだったのだと。

そして、大事な伴侶はそこに混ざっては嫌なのだと。


「………うん。私とは、別のものなのだね」

「ええ。けれども、それもまた感傷を埋めてくれる、思いがけない贈り物なのでしょう。とは言え、ディノは、私にとって本当に必要な全てを担当して下さい。こちらは、日常的にとても沢山必要なので、少しも欠けてはいけないのですよ?」

「…………うん」


しっかりと抱き締められて、ほうっと甘い息を吐く。

出会う前はこのようなものをと言われてもきっと少しも欲しくなかったし、手にした後も、理想や嗜好とは違うとも思う。


けれど、ネアにはこれだった。


ディノが見付けてくれなければ、ネアはきっとこちらでもまた仕損じたか壊れるかしただろうし、どこにもいけないままで、それでもみんなが羨ましくてじたばたしていたかもしれない。


おまけに、伴侶ともなればやはり、ディノしかいないのだった。



「これは内緒なのですが、ディノは私の自慢の伴侶なので、いつものディノだけでは飽き足らず、時々あの黒い素敵な服も見たいです。いつもと違うディノがいいというよりも、ディノの素敵な部分は一つも見逃せません」

「凄く懐いてくる……」

「ディノは、………私にして欲しいことや、こんなものが欲しいというものはありますか?」

「ネアかな………」

「なぬ。………もう少し、絞り込んでみませんか?」

「それなら、………今夜はもう少し君の近くにいようかな」

「………にゃむ」

「それと、……また、君の歌やピアノを聴かせてくれるかい?君は、……私の歌乞いだから」

「それなら、お城に置いてくれたピアノを弾きますね!私の大好きな、…………でも、ディノに会うまでは私にはちっとも似合わないと思っていた綺麗な曲があるんです。ディノと出会ってからは、沢山、心の中で流れている曲なので、それがきっと今の私の音楽なのでしょう」



その言葉の合間に、ふっと甘えるような口付けが落ちる。

それが擽ったくて胸が痛くなりそうなくらいに優しくて、ネアは、大切な魔物をしっかりと抱き締めた。



「………とても不思議なのだけれど、私は、君が時折歌ってくれる全ての歌がとても好きだけれど、………パンケーキの歌やフレンチトーストの歌を歌っている君が好きなんだ」

「まぁ。では、その歌にします?」

「…………でも、今夜は、他のものにしようかな」

「では、パンケーキやフレンチトーストの歌は、明日のお昼にしましょうか。とびきり美味しいのを作るので、どちらが食べたいか、明日の朝までに考えておいて下さいね」

「ネア………」




夜は明るく、静かな雨はオーロラの光にきらきらと光り、お天気雨のようだった。

ネアは、おでこをくっつけて伴侶の瞳を覗き込み微笑むと、ふわりと持ち上げて貰いその腕の中に収まる。



「……………ずっと、こんな風に誰かと話がしたかったです」

「今のように、………かい?」

「ええ。私は経験が浅くて、幸せなばかりのやり取りの知見がなかったので、………こんな風に過去の思いや、ちょっとした認識のずれを丁寧に合わせて、………誰かと、大切なのはあなただという話をしてみたかったです」

「………うん」

「また、どこかでおやっと思った時には、沢山お喋りしましょうね。誰かに甘い言葉を囁いたりする事は独りよがりでも出来てしまいますが、こんな風にお互いの隙間を埋めるような作業は、………大切な人がいないと出来ない贅沢なことですから」

「…………そうだね。ずっと側にいるのだから、いつだって出来るだろう」



その言葉があまりにも優しくて嬉しくなってしまい、ネアはくしゃんと微笑みを深めると、爪先をぱたぱたさせた。

しかし、なぜかそうするとディノが少しだけ体を傾けてしまう。



「…………まぁ。動くと運び難いですよね」

「……………虐待した」

「解せぬ…………」




でも、今夜はその言葉の意味が少しだけ分かるような気がして、ネアは小さく微笑みを深める。

優しくて愛おしいこの想いは、心を上手に駄目にしてゆくものらしい。










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