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誕生日と三人の王子 3



ざあっと音を立て、雨が降り始めた。

どうやら書庫の外は雨のようだが、窓がないのでここからは外の様子が分からない。

ただ静かな雨音に包まれ、夜の光のような青い闇の中で広大な書庫を歩いていた。



ぴしゃん。



足下では、夜の光を固めたような石畳の床を踏む度に、水の質感などはないのに淡い金色の波紋が広がる。




不思議な場所だった。

肌に触れる空気はひんやりしていて、晩秋くらいの室温だろうか。

ネアはエーダリアと手を繋いでその中を歩き、なぜか反対側にはリアッカ王子がいる。


ふとした時にその横顔を見上げると、目が合えば微笑んでくれる眼差しの柔らかさは不思議なほど。

時折、頭の上にぼすんと手のひらを載せられるので眉を寄せていたネアは、けれども当初ほどこの王子を警戒はしなくなっていた。


(どこか、……魔物さんのようなのだ)


気配や資質がというものではないのだが、振る舞いや表情が魔物に近いということは、考え方や気質が似ているのだろう。

ネアとしても心のどこかでであれば対応し易いと考えているのかもしれず、それが警戒を緩められた理由かもしれなかった。



かしゃんと音がしてそちらを見ると、ヴェンツェルがいつの間に手にしていたのか剣を収めるところであった。

エーダリアがお礼を言っているので、何かを退治したのだろうかとネアはそちらを覗き込んだ。

すると、さらさらと床の上で崩れる灰のようなものが見えた。


どうやら、また何かがいたらしい。

ネアが先程捕縛した程のものではないらしいが、この書庫の中には黒い影のような質感の生き物が数多く潜んでおり、知らずに近付いてしまうと物陰から襲い掛かってくる。


最も多いのが小さな竜で、リアッカ曰く、この竜の多さからすると竜に纏わる土地から切り出された災いの可能性が高いそうだ。

だが、引き続き竜と書庫という条件を満たす災いが判明しないまま、ネア達はその中を歩いていた。



「………ここに現れるものは、滅ぼすと灰になってしまう事が多いのですね」

「ああ。随分と古い災いなので、亡骸が残らないようだ。体が残るのは寿命が残っているものなのだろう」

「今のところ、あまり怖いものはいませんね。少しほっとしました!」

「………そうなのだろうか」

「はは。お嬢さんが何でも狩っちまうから、おじさんは出番がないなぁ。………おっと」


リアッカが片手で払い落とした何かを見て、ネアはぴょんと飛び跳ねた。

もわもわした毛玉妖精のような、お馴染みの生き物が見えたような気がしたのだ。


「リ、リズモです?!」

「ああ、こら!これは疫病の系譜の妖精だ。触るなよ」

「むぐぅ………」

「なんだ。リズモが好きなら、今度狩りに連れて行ってやろうか?」

「なぬ………」

「ネア!狩りなら、ディノに連れて行って貰えばいいだろう。お前の使い魔にも怒られてしまうぞ」

「そうでした…………。では、狩場だけ教えて貰います?」

「はは、さすがにそれは教えてやれないな。秘密の狩場なんだ。……ヴェンツェル王子、その影は踏まないようにした方がいい」

「ああ。奇妙な形だと思って見ていた。………古い術式のようだな」



(古い術式………)


また何か現れたのだろうかとヴェンツェルが避けている床石の模様を見て、ネアはぎくりとした。

そこにあったのは、箱馬車の形をした奇妙な影だったのだ。


床石に滲むように地面に映っていて、足元を見ずに歩いていたら踏んでしまったかもしれない。

そしてそんな影は、ネア達が気付いたからか、じゅわっと焼き溶けるようにして消えてしまった。



「………ネア?」

「エーダリア様、その、………繋いだ手をリアッカ王子と替えた方がいいかもしれません。私にとってはあまり良くない形なので、もし何かあった場合に道連れにするならこちらです」

「おお、………清々しく俺を何とも思っていないな」

「何を言っているのだ!懸念があるのなら、手を離さないようにしているのだぞ」

「ふぐ………」

「………うーん、箱馬車か。この呪いの形がそもそも辻毒みたいなものなので、その類の印が現れても不思議はないんだが、…………ロクマリア、辻毒、箱馬車………」



考え込む様子を見せたリアッカに、ネアは、既に脳内に一人の魔物の名前を思い浮かべていた。


ひたりと背中を冷たい汗が濡らし、意識して呼吸を整えたネアに、こちらを案じるようにエーダリアが繋いだ手をぎゅっと握り直してくれる。



「………エーダリア様」

「私はこれでもガレンの長なのだからな。お前は、余計な事は考えずに、離れないように」

「………では、いざと言うときにこちらの方を囮にする為の作戦を考えておきます」

「まぁ。年長者だからな。ましてや成人未満の可動域のお嬢さんを巻き込んだ以上、さすがに最後まで面倒は見るが、その場合は素直に頼れ。囮前提にするのはやめろよ」

「………エーダリア、このような場合はこの場から離れた方がいいのか?」

「いえ。一概にそうとは言えません。………この領域全体が災いの内側ですから」

「ふむ。………辻毒の類であれば、私の守護を何層か磨耗すれば防げるかもしれないが、ネアと、何か結びのあるものなのか?」



特に打ち合わせなどはしなかったが、足は止めずそのまま歩き続けるようだ。

考えるようにそう問いかけたヴェンツェルに、ネアは肯定も否定もしなかった。



「私の推理が当たっていて、もしここがとある魔物めの領域だとすれば、その情報をお伝えすることも結びになりそうなのです」

「成る程。承知した」

「………繋ぎ自体は絶たれている筈なのだ。だが、あの灰になった生き物達の様子を見ていると、この中に流れる時間軸が特定出来ないのが厄介だな。確かに具体的な言葉を口にしない方がいいのだろう」



はっとして顔を上げると、エーダリアがゆっくりと頷いてくれる。


これまでにネアの身に起きたことの多くは共有しているので、その中から懸念の対象を導き出してくれたのだろう。

気付いてくれたという頼もしさに胸を撫で下ろしつつ、ネアは外から助けが来るまであとどれだけだろうかと考える。



人間という特定の条件を有する者達だけを引き摺り込む術式なので、ディノ達が、転移や召喚などでこの中に入るのは難しいようだ。


ヴェンツェルだけでなくエーダリアにも身代わりの守護のようなものがあったのだが、こちらは王族という魔術区分を持たない為に、ヴェンツェルの使えるものよりも魔術としての階位が低く、そのせいで機能せずにいた。



(身代わりの魔術は、それが元々必要とされる立場だという認識に於いて魔術の階位が上がる)



最も高い階位で扱えるのは、やはり王族だ。

エーダリアのように領主や高位貴族なども使用可能であったが、王族という名称を有するかどうかで、どこまでその対応が有用であるかの括りが変わる。


特に今回は、謁見の災いにエーダリアも呼び落された訳なので、こちらの災いはエーダリアも標的だと認識している筈なのだが、それでも誰かと入れ替わる事は出来なかった。



(だからリアッカさんは、恐らくこの謁見の災いは、予め準王族も標的として組み込んでいて、尚且つ人外者避けがしてあったのだろうと話していたけれど…………)



言われてみれば確かに、降嫁などで王族を離れる者達も多い。

だが、血統から重要な役割に就く事も少なくないので、謁見の場でより多くの被害を出せるようにしたいのであれば、そちらも合わせて引き摺り込んだ方が効率的なのだろう。



(ああ、サフィールさんがここにいればな…………)


あの魔物の事をよく知る青玉の宝石妖精であれば、この災いについても知っていただろうか。


カードから魔物達に情報を求めようかと思ったのだが、あのカードを動かすのもまた魔術なのだ。

具体的な言葉を記してしまい、それがこの空間の中での認識に繋がったらと思うと躊躇われた。

勿論、断片的な情報はすぐに送らせて貰ったが、呪いの解術に入っているのか、返信はない。



「………魔物。そういえば、この呪いの制作者も魔物だったか。となると、………錆びた剣。砂忘れの実、………後は漂流物か迷い子があれば、一時的に退けられるかもしれないな」

「………そうなのか?」


飄々と対策方法を提示したリアッカに、エーダリアが目を瞬いた。

思わずネアもそちらを見てしまい、いきなり大注目を受けたカルウィの第七王子は、けれども、酷く憂鬱そうな溜め息を付いている。


「漂流物除けの籠目のようなもんだ。ある程度の効果はあるが、力尽くで突破しようとされた場合は保証出来ないぞ。それに、漂流物か迷い子となると、ここで揃えるのは難しい」

「……………ネアは、迷い子だ」

「……………お嬢さんが?」



少しの躊躇いの後、エーダリアがネアの履歴を明かした。

国内では公示されている内容なので、この程度であればと判断したのだろう。


「ああ。だが、つい先日、待機期間を経て領民名簿への正式登録が終わってしまっている。それでも条件を満たすのであれば、という前置きがついてしまうが」

「………そうなると、魔術がどう判断するかにもなるか。お嬢さん、何か自分の持ち物の中に剣に相当するようなものはあるか?」

「…………む。ナイフもありますし、………剣のようなものもあるにはあります」

「錆びさせても?」

「それは難しいかもしれません。魔術道具のような、少し特殊なものなので」


ネアが持っているのは、ウィリアムから貰った終焉のナイフと、エーダリアに預けた風の系譜の魔術を扱える剣である。

他にも小さなナイフ相当のものは幾つかあるが、どれも魔術道具に近いので錆びさせるという効果を付随出来るかと言えば難しいような気がした。


「…………そうか、魔術道具の質が強いと、確かに腐食や錆び付けは難しいだろうな。仕方がない、儀式用の俺の剣を貸してやるが、この譲渡に関する全ての魔術の繋ぎは無効化するぞ」

「有難うございます?………何か、まずい繋ぎが出るのですか?」

「カルウィでは、剣を贈るのは忠誠を示す儀式になる」


ヴェンツェルの言葉に、ネアは目を瞠った。

勿論、この場を切り抜ける為のものなのだろうが、よく、あちらの国の王族がそのような行為を切り出せたものだなと思ったのだ。


「…………それは、ご負担をおかけします。何か、この場への対応策に必要なものなのですね?」

「まずは、お嬢さんの守護になる。その場合、魔術の上で縁を結ばれて災いが訪れると、こちらも巻き添えになりかねないという意味でもな。次に、お嬢さんとその魔物との間に魔術的な縁があったと仮定して、それでも生き延びているお嬢さんこそが俺達の守護の要になる。より強固な障り除けにしておけば、俺達にも災いが近付かないという算段だ」



ふむふむと頷き、ネアはリアッカ王子から剣を受け取る事にした。


どこかに魔術金庫を仕込んでいたらしく、身体検査の上、武器類を取り上げていた筈のエーダリアは渋面になったが、今回ばかりは備えを得ていてくれて幸いだと言うしかない。


一本の飾り気のない短剣が取り出され、これは儀式用の剣なのだと説明された。



「カルウィの魔術では、比較的多く使われる媒介だな。毒と贄も一般的だが」

「物騒なものしかありません…………」

「贄は、魔術の上では効率的な素材だぞ。自分の身を崩さずこちらの領域を損なわず、不要なものと引き換えにして必要なものを守る事が出来る。ヴェルクレアでは好まれないと承知の上だが」

「取捨選択の上では、私も否定はしません。ただ、その素材が一般的だと言われる国はやはり、怖いなと思います」



ネアがそう答えると、腐食魔術で剣を錆びさせていたリアッカが、ふっと顔を上げる。

淡い金色の瞳がこちらを見つめ、ネアは、何かまずいことを言っただろうかと首を傾げた。



「リアッカ王子」

「……………はいはい。牽制しなさんな。言っただろうが、犯罪になる年齢差だ。それに俺は、未婚の内から子育てなんぞする趣味はないぞ」

「ぐるるる!」

「ネア!や、やめないか!!お前が殴ると、リアッカ王子が死んでしまうかもしれないのだぞ?!」

「……………いや、先程から思っていたんだが、その認識になるっていうのも、どういう事なんだ?」



ぼうっと燃え上がるのは魔術の火で、リアッカ王子はテーブルもない場所で立ったまま手早く魔術を組み上げてゆく。


魔術の領域をそこまで知らないネアの目から見ても鮮やかな手つきで、繋いだままのエーダリアの手に僅かに力が入った。

きっとついつい目を輝かせてしまっているのだろうと思い隣を見ると、エーダリアの表情は想像とは違い、ひどく硬いものであった。



「……公表されているあなたの魔術階位は、随分と控えめなものだったようだ」

「この程度の扱いで、そこまで分かりはしないだろう。それに、これでも王族だからこそ与えられた役職とは言え、魔術省の長官だからな。多少器用なのは認めるが、魔術の庭とも言われるウィーム王家の末裔に言われる程じゃない」



苦笑したリアッカの言葉にエーダリアは何も言わなかったが、リアッカとて、自分の魔術の技量くらい承知の上であるに違いない。


一介の人間としてはあんまりなお手本ばかり見てきたネアですら、普通の魔術師ではないぞと一目で分かってしまうくらいなのだから、エーダリアの目にはどう映っているのだろう。



「ほらよ。………一応、布袋にまとめて入れてある。お嬢さんはこれを持ってるようにな。この呪いを出たところで俺が回収してもいいし、そっちで破棄しても構わない」

「…………有難うございます。甘酸っぱい香りがしますね」

「砂忘れの実だ。こちらでは、すり潰して酒と合わせ、栄養剤にもする」


(このお守り袋と私を含めて構築された魔術は、何に対しての効果を持つのだろう)


ふと、そんな事が気になった。

辻毒そのものなのか、それとも、ネアが警戒している白夜の魔物そのものなのか。


言葉の結びを恐れたのはネアの方だが、果たして、リアッカ王子の認識はそもそもこちらと一致しているのだろうか。


人間の魔術師にあの魔物への対策を講じるだけのものが作れるのだろうかという懸念もなくはないが、どちらにせよネアにはさっぱり分からないものなので、専門家の助言に従うしかあるまい。


エーダリアが一緒にいてくれるので、もしまずいものを渡されそうになった場合は、気付いてくれる可能性もある。



(では、…………この呪いの材料となったものは、なぜ災いになったのだろう)



また少し歩く。

この風景のどこかがそのままただの材料にされた可能性もあるが、以前にアルテアと迷い込んだ聖堂のように、過去に大きな事件などが起きた場所を魔術特異点とする事もある筈だ。


ただの入れ物なのか、土地そのものも厄介なのかによって、この呪いの中の危険度は大きく変化する。



「さもありなん」



誰かが、そんな事を言った。

確かにそうだと頷きかけ、ネアはひゅっと息を呑んだ。



「下がれ!!」


リアッカの鋭い声が飛び、繋いだ手をエーダリアが力強く引っ張る。

防壁のように立ち上がった青白い術式の壁に、足元には幾重にも魔術陣が浮かび上がった。



「はは。これは生きのいい獲物だ。だが、その床は反転術式となっている。魔術を奪われるぞ」



朗々と響くのは、皴枯れ、けれども力強く不思議な魅力のある男性の声だ。

ネアは、怖さのあまりに狭まる視野を目を擦って何とか回復させると、顔を上げる。




(……………違う)


その時の安堵を、どう説明すればいいだろう。

事態としては最悪かもしれなかったが、少なくとも、そこに立っていたのはクライメルと呼ばれる白夜の魔物ではなかった。


神官のような深い青色の長衣を纏った背の高い白髪の老人ではあるものの、明らかに竜だと思われる角を有している。



「…………不揃いな巻き角、白髪に青い瞳。……………シャックマークの災いの竜か」

「ふむ。……………私を知る者がいるようだ。………その特徴、魔術の香り、カルウィ王家の辻毒の箱の底で、まさかウィーム王族に会えるとはな」

「お、お待ちいただきたい!我々は、あなたの領域を侵しはしたが、すぐに立ち去れる準備がある。書庫の書物を手に取ってもいません」



エーダリアは、現れた老竜に覚えがあるようだ。

一歩前に進み出てそう声を上げ、刃物のような眼差しの竜を少しだけ苦笑させた。


「悪いが、書庫への執着ではなく、これは純然たる食事だ。系譜の王の不興を買ってしまってから、この呪いの底で時折落ちてくるカルウィの王族を喰らうのがせいぜいでな。私は、いつも腹が減っている」

「………っ、……………何か食料になるものを代わりに提供するというのはどうだろう。あなたは悪食の竜だが、美食家としても名前を残していた筈だ」

「残念ながら、その材料が何なのかまでは知らなかったようだ。……………私が食らうのは、いつだって人間ばかりだよ」



(……………竜!)


次の瞬間、エーダリアはネアの手を離した。

その信頼が嬉しくて、ネアは絶対にこの家族を守ってみせると指先を握り込む。

だが、ばりりと床を走った魔術の光を見ていると、どうやらこの竜は、簡単に近付けるようなものではないようだ。


竜の媚薬を取り込み済であるが、その使用効果は瞳を見て、体に触れることでしか発揮されない。

媚薬という名称を与えられた祝福なのでそれも当然であったが、まずは、襲い掛かる竜を無力化することが必要であった。


長剣を抜いたヴェンツェルと、リアッカがネア達の前に出る。

その二人が前に出てくれたことを少し意外に思いつつ、ネアは、とは言えこれは総力戦なのだと気を引き締めた。



(直接襲い掛かってきてくれたなら、この手で捕まえてしまえるのに………!)


だが、目の前の竜の手には魔術書があり、魔術を扱う竜であるようだ。

そもそも魔術の煌めきすら目で追えない事のあるネアにとって、この上なく不利な戦場である。


(………この場合は、きりん箱かベルがいいのかもしれない。激辛香辛料油は、弾かれるとこちらに被害が出てしまいそうだもの。魔術を扱えるエーダリア様が、一緒で良かった)



しかしその直後、ばしゃんと水音が響いた。

慌てて振り返ったネアが見たのは、床に膝を突いたエーダリアとヴェンツェルだ。



「………っ?!」

「……………対ウィームの切り札であったが、そちらの王子もウィームの質を帯びているか。その小娘は違うもののようだが、名前が違うだけやもしれぬ」

「成る程。……………ウィームに記録のある竜ってことは、こういう展開もあり得るって訳だな」

「ふむ。名前に使われがちな音で縛るとなると、カルウィの王族にはやはり効かなぬな。………それはそうだ。知るという事は、知られるという事に他ならない。私の名前を知る者達を、私が警戒せずにいると思ったのなら、それは怠慢というものだ」



それはあまりにも一瞬の事で、ネアは、エーダリアの背中に隠れてポケットからベルを取り出す隙もなかった。


折角、ヴェンツェルのケープに隠して貰った際にポケットに移しておいたのだが、あの竜の動きでは、目の前の獲物がポケットから何かを取り出すのを見過ごしはしないだろう。


膝を突いた二人は、目に見える傷を負ってはいなさそうだが、何かの苦痛に耐えるように背中を震わせている。

思わず大事な家族の名前を呼びかけ、ネアは、ぐっと奥歯を噛み締めた。

先程まではネア達しかいないことと、エーダリアが魔術の壁を立てていたので名前を呼び合えていたが、この場では目の前の竜に名前を奪われかねない。


ましてやこの竜は、名前に近しいもので二人を崩したと自ら説明しているのだから。



「書を守る竜は、老獪で慎重な事が多い。…………お嬢さん、迂闊に動くなよ」

「はい…………」

「お前も魔術は扱うようだが、さて、どれ程のものか。長年、我が王のご意向にて、美味くもないカルウィ王族を喰わされ続けて辟易していたところだ。この身を災いの炉として使われるおつもりだろうが、久し振りに目の前にウィーム王族がいる。あまりお前に時間をかけてはやれぬぞ」

「はは、こりゃ困った。食材として選別されたのは久し振りだ。だが、前回の時は美味そうだと言われた身としては、なぜか悔しいものだな」



直後、大きな鐘を耳元で鳴らしたような凄まじい轟音が響いた。


「…………っ、」


思わず息を詰めてしまったネアは、ぐらりと揺れたリアッカ王子の背中にぎくりとする。

だが、目の前の竜もまた僅かに体を揺らしている。


それを見た瞬間、今だと思った。


たった一つだけ、ネアに扱える準備のいらない武器がある。

何か他の被害を出すかもしれないが、エーダリアが倒れてしまうような事はなかったので、人間には無害だと信じるしかない。



(歌を、)


ネアはそれを生業にしていないので、こんな時にどんな歌を歌うべきかは分からなかった。

なので何の準備もないままに、思いつくままの旋律を音に変える。

そして、ネアが歌い始めた直後に、ぎゃあっと叫んだのは確かに目の前にいる白髪の竜だった。



「お嬢さん!!」

「………え?」



しかし、次の瞬間、ネアは何か硬くがさがさしたものに力いっぱい殴り倒されていた。

打ち付けられた体が床で弾むような衝撃に目がちかちかし、続く衝撃を覚悟したが何かにぐっと抱き込まれる。



「……………っ、つぅ。…………無茶な真似をしたな」

「……………ふぁ。………リアッカ王子です」

「ああ、良かった。まだ喋れるな。相当頑強な守護だ。…………今頃、お嬢さんの契約の魔物が怒り狂っているかもしれないが。………あいつは、…………少し崩したが、さっきよりご機嫌斜めなのは間違いない。……………やれやれだ。今日は残業にも程がある」



どこかに投げ飛ばされたのか、ばらばらと落ちてくるのは、書架に収められていた本だろう。

ネアはあまりの衝撃にまだぼうっとしていて、それでも、自分を抱き止めて守ってくれたのがリアッカ王子である事は分かった。


お礼を言おうとしてずきんと痛んだ胸を押さえ、ぽたりと落ちた真っ赤な血にぞっとする。


「……………血、……………っ、私じゃない。……………血が!!」

「ああ、心配するな。頭はな、少し切っても結構派手に血が出るんだ。それよりも、少しでもあっちの王子達の近くに戻るぞ。今のあいつ等じゃ攻撃を防ぐ余裕はない。お嬢さんから引き離されると、この災いの毒の影響が出かねない」

「……………毒」


その言葉にひやりとして顔を上げたネアは、遠くの壁に先程の竜が張り付くようにしてこちらを睨んでいる事に気付いた。

手負いの獣のような動きだが、想定したように滅びてしまうことはない。


「お嬢さんが危惧して、俺が守りを用意したものの影響だ。…………内側にいたのは別の個体だが、それも含めてかの魔物の術式だろう。高位の竜に毒入りの餌を与え続け、とんでもない辻毒を作ろうとしてやがったな」

「っ、す、すぐにあちらに戻ります!」

「ああ。だがそれには、あいつをどうにかしなきゃだな。………俺が運ぶから、少しだけ堪えろよ」



自分の足でと言いかけ、ネアはその言葉を呑み込んだ。

それに気付いたのか、こちらを見たリアッカ王子が小さく笑う。


「いい子だ。…………戦場での過剰な自信は、仲間を殺す迂闊さに繋がる。あの竜の尾で薙ぎ払われても泣き喚かない気概もいい。寧ろ、おじさんの方が泣きそうだ」


ネアは、ベルを探してスカートのポケットを探ろうとしたが、くしゃくしゃになって投げ飛ばされていたからか、お尻の下に敷いてしまっているようだ。

ネア達が激突したと思われる書架から落ちてきている本に埋まっていて、ずきずきと痛む腕で、スカートを引っ張り上げる動きをするだけの余裕はなさそうだ。


「……………ポケットに武器があります。ここから引っ張り上げていただければ、それを使えるのですが」

「あいつが苦し紛れに暴れると、あちらが巻き添えになるぞ」

「いえ、動きを止めるものですので、効果があれば時間を稼げます」

「音に関連するものはやめておけ。お嬢さんの歌の後だ。あいつも対策はしている」

「………っ、」

「……………さては、音関連だな」


がっかりしたようなリアッカの声を聞きながら、ネアは、ベルを先に使わなかったことを後悔した。


まさかというのも何とも言えない気分だが、ネアの歌を聞いて、まだこんなに動くとは思わなかったのだ。

もしかすると、悪食の竜であるという事が影響しているのかもしれない。



「少しの間、あいつは俺がどうにかする。…………お嬢さんは他に手立てはあるか?」

「……………はい。私があの竜めに投げる小さな箱を、見ないでいただけますか?」

「ああ。そうしよう。…………えげつない武器を持っていそうだな」



呼吸を合わせ、その瞬間を待つ。


奥の壁に取り付き唸り声を上げている人型の竜は、どこか悍ましい悪夢のような邪悪さであった。

それでも、リアッカの言うように確かに傷付いていたし、激昂してはいるが動揺もしているような気がする。


どれだけ怖くても、その隙を狙って、何とかエーダリア達の側に戻るしかない。



「行くぞ」


耳元でその囁きが落ちた瞬間、ぞわっと血が震えるような感覚がした。

ぎょっとして体を強張らせてしまいかけ、その直後、ネアは力いっぱい投げ飛ばされた。


「にぎゃ?!」


てっきり抱き上げて運ばれるのだとばかり思っていた人間は、乱暴に突き飛ばされ悲鳴を上げる。

そして、硬い床をごろごろと転がされたネアをばすんと受け止めたのは、ぜいぜいと息をしているエーダリアだった。


はっと顔を上げ、怒りや不安や様々な感情を堪えるようなエーダリアの瞳を見上げる。

立つことはままならないのか、それでも体を動かして投げ飛ばされたネアを受け止めてくれたのだ。



「…………っ、大丈夫か?」

「…………あの竜を、どうにかします!」

「ああ。…………すまない、っ、……支援魔術を動かす余裕がない」

「はい」


体を起こせていないので先程までいた場所がどうなっているのかは分からないが、背後から物凄い轟音が立て続けに聞こえてくるので、リアッカがあの竜と交戦しているようだ。


ネアはあちこちが痛む体を動かして首飾りの金庫に手を入れ、きりん箱を取り出す。

だが、よろりと体を起こしたところで、厄介な事に気付いた。



(……………リアッカ王子が近すぎるわ)



いつの間にか、カルウィの第七王子の手には、見事な大剣があった。


魔術の光が弾け、幾つもの術式陣が描かれ、その中で剣を振るい、襲い掛かる竜と一人で戦っている。

だが、目に追いきれないくらいに素早く入れ替わる二人の位置を見極め、あの竜だけを呑み込むようにきりん箱を投げつけるだけの力が、今のネアにあるだろうか。



「…………二人が近過ぎるのだな」

「ええ。的確にあの竜にだけこの箱を投げつけるのは、…………」

「私がやろう。…………お前は、どうにかして、一度だけ私へのあの竜の攻撃を防げ」

「兄上?!」


戦いの苛烈さに呆然としてたネアの手から、きりん箱を奪ったのはそれまで床に膝を突いていたヴェンツェルであった。


驚いて顔を上げると、蒼白ではあったがしっかりと体を起こして立ち上がっている。

ネアよりも慌てたのがエーダリアで、けれどもヴェンツェルはエーダリアが手を伸ばすよりも早く、そちらに向けて走り出していってしまう。


「くっ!!!」


エーダリアの苦痛を堪えるような声が聞こえ、ネアはもう一方のポケットに手を入れ、咄嗟に、ウィリアムのナイフを握り締める。



(……………あ、)



ざざんと、強い風に揺れる大木のさざめきのような音が揺れたのは、その直後の事であった。


けぶるような金色の細かな花びらが舞い散り、その煌めきに書庫が明るくなる。

甘く清しい香りに、きらきらと周囲が煌めく様子は、まるで花の雨のよう。



ぎゃおん。



そして、そんな鈍い絶命の声を最後に、白髪の竜が床に崩れ落ちた。




「……………ほわ。倒してしまいました」

「単独で、……………あの階位の竜を」

「……………っ、うわ!しまった!!!何か収容魔術、収容魔術を貸してくれ!!」


思わず呆然と顔を見合わせてしまったネア達だったが、ここで、まさかの一人で悪食の竜を討伐してしまったリアッカが突然、狼狽えたように声を上げた。


はっとしたように体を起こしたエーダリアが、鳶色の瞳を大きく見開く。



「兄上、その箱を竜の亡骸に投げつけて下さい!!」

「分かった」

「ぎゃ!リアッカ王子、目を閉じて下さい!!」

「ええ?!」


リアッカやエーダリアの声に滲む緊迫感は相当のものであったが、ネアには何も見えなかったので、実際のところ何が起きかけていたのかは分からない。


だが、投げつけられ、床に倒れた竜の遺骸をぐおんと呑み込んだきりん箱が閉じ、白い箱がてんてんと床を転がると、書庫の中は深い沈黙に包まれた。



「……………終わりです?」

「……………あ、ああ。……………間に合ったか。危うく、あの竜が蓄えた災いの崩壊に呑み込まれるところだった」

「ぎゃ………」



深い溜め息を吐いたエーダリアに、ネアも、へにゃりと眉を下げた。

打撲的な意味では満身創痍であるが、ネアの大事な家族は無事のようだ。


視線を戻せば、きりん箱を投げに行ってくれたヴェンツェルも、そんなヴェンツェルに助け起こされているリアッカも、怪我は負っていても命にかかわるようなものではなさそうに見える。




「エーダリア様、傷薬を飲みます?」

「い、いや。自分で持っているものを飲むので問題ない。まずは、お前が飲むのだぞ」

「むぐ。……………ディノが持たせてくれた、苺味を飲みますね」

「……………普通の味の飲用の薬もあるのではないか」

「ぷは!……………リアッカ王子の怪我を見てきますが、このような場合は離れないのが鉄則ですので、エーダリア様も一緒に来てください」

「そういうものなのだろうか」

「まぁ。こういう展開だと、全てが終わったという安心の瞬間にこそ、次なるものが現れたりもするので、絶対に仲間と離れてはいけないのですよ」

「……………お前のその経験則は、何なのだろうな」



物語本からなのだとは言わず、ネアはにっこり微笑んだ。


とんでもないものが現れ大きな危機があったが、皆が無事なのだと実感して、胸が痛い程の安堵に息を吐く。

だが、傷薬を取り出しながら時計を確認し、思わず肩を落としてしまった。



もう充分に待ったような気がするのに、こちらに救援が来るまで、まだ時間半分というところであった。






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