縁食い妖精と家族の椅子
「…………そうか、縁食いの妖精を捕らえたのか…………」
その報告を受けて、なぜかエーダリアは落ち込んでいるように見えた。
ネアは、愛くるしい兎妖精を枕にしようとした強欲さが怖くなってしまったのだろうかと少しだけしょんぼりしてしまい、会食堂からの帰り道にグラストに呼び止められるまで、とぼとぼと歩いていた。
「ネア殿、少しだけ宜しいですか?」
「グラストさん…………?」
こちらを見たリーエンベルクの筆頭騎士は、眉を下げたままのネアを見て、優しい微笑みを浮かべる。
(あ、………………)
これは親になった人だけが持つ眼差しだと、ネアは遠い日の両親の瞳を思い出した。
愛情だけではなく、かと言って慈愛の色ではなく、子や子のように庇護するべき者を持った事があるからこそ我が子を脳裏に思い浮かべつつ重ねて微笑みかけてくれる柔和さは、やはり経験に伴う資質の一つなのだろう。
その子供が自らの血を引くか否かではなく、子を持った親であれば誰しもが持つこの眼差しは、物語のあわいで出会ったウェルバだけではなく、最近派生したばかりの司書妖精の青い小鳥を見るダリルの眼差しや、ヴェンツェル王子を見るドリーの瞳にも同じ色がある。
ネアの大好きな優しい微笑みであった。
「先程のエーダリア様の反応を見て、どうか誤解されませんよう。ネア様がこちらにいらっしゃる直前に、縁食いの妖精に可動域を食われてしまい、命を落とした街の騎士がいたんです。恐らくその時のことを思い出されたのでしょう」
「……………まぁ、……もしかして、それでエーダリア様はあのご様子だったのですか?」
「ええ。その騎士は、エーダリア様と交流がありましたから。それが育てば、友人となったかもしれない青年でしたが、幼い妹達を守る為に縁食いの妖精と戦い、瀕死の状態でリーエンベルクに運び込まれました」
ここでネアは、とても悲しい話を聞いてはいるものの、あのふかふか枕と戦った騎士が思いがけない苦戦を強いられた事に密かに驚いていた。
(でも、街の騎士さんで、青年という事だったから、まだ騎士としての力量は未熟だったのかも………?)
すると、青年という表現ではあってもまだ幼さの残る面立ちの少年めいた人物が想像されてしまい、ネアは胸が苦しくなる。
「…………その方は、助からなかったのですね?」
「ええ。エーダリア様は、何とか彼の命を繋ごうと尽力されましたが、可動域を失うという事は、…………一般的には、魔術への抵抗力を失うという事です。身に付けていた魔術道具や、彼を慈しんだ竜が授けた守護など、その全てが彼を急速に蝕み、運び込まれた隔離結界の中で装備を外すのも間に合わず………」
ネアはその説明に目を瞠り、可動域があった人がそれを失う恐ろしさについて、初めて考えた。
それは、大きなジレンマだったのだと言う。
一般的に、人間の魔術可動域と抵抗値は連動しているとされている。
よって、魔術的な弊害で可動域を失った場合は、同時に抵抗値も欠いてしまっている事が多く、その青年は自らの身に纏うありとあらゆる魔術がその身を焼いていた。
ウィームの土地そのものに敷かれた濃密な魔術も災いしており、全てから彼を隔離するには高度な魔術隔離結界が必要だったのだ。
すぐさまリーエンベルクに一報が入り、エーダリアは、その青年を運び込む為の魔術閉鎖通路を開いた。
かつては王宮であったリーエンベルクには、敢えて魔術の道を断つ事を必要とされた時の為の特別な通路が存在していたのだ。
(でも、間に合わなかった…………)
リーエンベルクの周辺は特に魔術が濃い。
とは言え、禁足地の森で被害にあったのだから、最も近くで魔術隔離の措置が取れるリーエンベルクに運び入れる事にしたのは、苦渋の選択だったのだろう。
その青年を救出せんと駆け付けた彼の同僚達が、リーエンベルクに助けを求めたのだ。
けれども、リーエンベルクではなく、魔術が少しでも希薄な土地を選び移動した後に、その場所にエーダリアが駆けつけるという選択肢もあった。
助けられなかったからこそ、あの時に選ばなかった方の選択肢であればどうだったのかと人間は考えてしまう。
リーエンベルクでの受け入れをという救援を受け、それを受理したエーダリアにも課せられるどこまでも答えのない問いかけなのだろう。
「その方の、妹さん方はご無事だったのですか?」
そう尋ねたネアに、グラストは淡く微笑んだ。
どこか悲しげではあるが、短い吐息には微かな安堵が滲んでいる。
(良かった、無事だったみたい…………)
今夜はもう仕事を終えて少しだけ寛いだ服装をしているグラストは、歌乞いになるまでの貴族としての彼を思わせる。
それもまた、ネアのあまり触れないこの国の暗部なのかもしれないが、貴族の家に歌乞いが現れると、その人物は聖人としての名誉を得る代わりに一族の家名に紐付く最上位爵位の継承権を失う。
歌乞いは長く生きられないとされる。
故に、家名が失われる事を避ける為に必要な措置なのだが、子供を奪われる家に聖人を輩出したという名誉を与えることで、誇らしい事なのだからと家族から切り離してその死を黙認させる為の冷徹な規格でもあった。
ネア達が放棄出来たからと言って、それをこの世界の常識にするのは困難だ。
第一に、ディノやゼノーシュのように契約した人間の寿命を奪わずに済む手立てを講じられる魔物は少なく、かといって、ネアがディノにお願いして他の歌乞い達を救ってやってくれと我が儘を言えるようなことではない。
何よりもネアは、大事な伴侶に見ず知らずの誰かの分の負担など、かけたくはなかった。
大きな力を持つからこそ、その短命さで成り立つこの世界の危うい均衡を自己満足で変えたとして、その責任を負いきれるかどうかなんて分からないではないか。
だから今でも、この世界の歌乞い達はとても短命だ。
(今も、グラストさんのお兄様以外の家族の方々は、グラストさんが長生き出来るようになった事を知らないのだわ…………)
伯爵家に生まれ第二王子の近衛騎士を目指した彼の隣には、小さな手でその足にぎゅっと掴まっている一人の魔物がいる。
食べ物を手に幸せそうに微笑む姿を知らなければ、怖いくらいに整った美貌の少年に見えるのだろうか。
グラストは、そんな自分の魔物の為に、一度はその命を歌乞いとして捧げると決めたのだからと、知らない事での混乱が生じないようにと共有せざるを得なかった兄以外の家族には、寿命の話はしていないらしい。
どれだけ仲の良い家族でも、領地を持つ貴族の暮らしには過大な責務がかかる。
一度は死なせる事を理解して見送った家族が戻ってくる事で、一族内に少なからずの混乱も出るだろう。
また、ゼノーシュは、そうしてグラストが家族との縁を結び直す事で不安になるかもしれない。
そんな理由で明かされないと決まった目の前の騎士の秘密を、ネアは今更ながらに感慨深く思う。
(でも、今のグラストさんはとても幸せそうだ…………)
だからそれは、彼が自分の今の幸福と引き換えにして手放したものなのだとも思う。
望まずに引き受けた犠牲であるのなら、ゼノーシュはここまで幸せそうにはしていない。
世間ではどう思われているにせよ、そしてどんな顛末がありふれているにせよ、契約の魔物達は自分の契約者が大好きなのだ。
ふと、こんな風に人ならざる者達からの深い愛情を思うのは、ネアにとってはふかふかした枕型の毛皮生物でしかなかったあの兎が、大きな悲劇の引き金となった事を知ってしまったからなのだろうかと考えた。
「最初に襲われた長女は可動域を少し欠いたそうですが、魔術侵食を受ける程ではありませんでした。今もこのウィームで暮らしていて、下の妹は街の騎士団に所属していますよ」
「…………私はその方のことを存じ上げておりませんが、もしかすると、自分を守ってくれた家族の背中を追いかけたのでしょうか?」
ネアのその言葉に、グラストは微笑んで頷いた。
そして、そんな次女の努力こそが、悲しみに沈んでいた家族に再び前を向かせたのだそうだ。
「…………ですが、それが過去の事になっても、後悔というものが不意に胸を打つことはあります。先程のエーダリア様のように。………ですから、あれはネア殿が縁食いの妖精を捕らえたことを責めておられる訳ではありませんと、どうしてもお伝えしたかったのでお引き止めしてしまいました」
「グラストさん、教えて下さって有難うございました」
こちらの様子に気付いて追いかけてくれたグラストに、ネアはお礼を言った。
このような時に、グラストが、頼るべき大人の一人であるのだと強く思う。
リーエンベルクのそこかしこに高位の魔物達が出没するようになっても、しっかりと周囲を見ていて手を貸してくれる、グラストのような人物がいる事はとても大きい。
「ネア、もう悲しくない?」
「ゼノも、私がしょんぼりした事に気付いていてくれたのですね?グラストさんのお話はとても悲しい事件なのですが、私はそのお話を聞いて、エーダリア様に引かれていないと知ってほっとしてしまいました。すっかり悲しくなくなったので、やっぱりゼノのグラストさんは凄いですね!」
「そうなんだね、良かった!グラストは凄いんだよ」
「ふふ、何しろゼノが大好きになってしまうくらいですものね?」
「うん…………」
ここでゼノーシュがこくりと頷くと、グラストはとても嬉しそうに笑って、大きな手で白混じりの水色の巻き毛を撫でている。
すると、人間なんかよりずっと長く生きている筈の公爵の魔物は、檸檬色の瞳をきらきらにして幸せいっぱいにはにかむのだ。
「ゼノ、クッキー食べます?」
「食べる………。僕ね、ネアがそうやってずっと、僕にくれるクッキーを持っていてくれるの凄く嬉しいんだ」
クッキーモンスター専用の個別包装のクッキーを受け取りながら、ゼノーシュはほんわりと微笑んだ。
その愛くるしさにふらりとしながら、ネアは今日は何て素晴らしい日だろうと胸を押さえた。
あの兎妖精を捕まえたせいで、お風呂でアルテアにわしわし洗われてしまうという苦難を乗り越えたからこそ、こうしてご褒美を貰えたのだろう。
仲良く手を繋いで帰って行くグラストとゼノーシュの後ろ姿を見送り、ネアは少しだけ考えた。
晩餐の後の時間なので、もう部屋で休んでいるかもしれないが、エーダリアと少し話をしておいた方がいいのかもしれない。
「…………ディノ、お部屋に戻る前に、エーダリア様と少しだけお話をしてきてもいいですか?」
「キュ!」
「ふふ、私の伴侶はもこもこむくむくで、とても優しくて大好きです」
「キュ?!」
ネアは、就寝前ののんびり出来る時間が失われてしまうのにすぐさま了承してくれた魔物を指先で撫でてやったのだが、またしてもこの伴侶には刺激が強過ぎたらしい。
ちびこい三つ編みをへなへなにしたムグリスディノは、ネアの胸元に押し込まれた定位置でこてんとなってしまった。
「……………何と儚いのだ」
それなのにネアは、ふるふるしている真珠色の毛皮を我慢出来ずに肌触りの良さ目当てでまた少しだけ撫でてしまい、ムグリスな伴侶はいっそうに弱ってしまった。
(………予め連絡を入れておくと仰々しくなってしまうから、訪ねてみて忙しそうだったら、また明日にしよう………)
この伴侶は就寝準備までには生き返ってくれるかなと考えながら、エーダリアの部屋を目指し、廊下を歩く。
リーエンベルクに来たばかりの頃は、美しいが、がらんとした寂しい所だと思ったのだが、今ではもうそんな事を考えなくなった。
窓の外には、月光を浴びて祝福の光を纏う花々に、夜の光に煌めく不思議で恐ろしく美しい禁足地の森。
廊下に灯された明かりには、魔術が揺れていて、時折壁紙の中にぱたぱたと飛んでゆく小鳥がいる。
ここに暮らす人間が少なくとも、リーエンベルクには確かな生活と家族の温度がある。
その温もりは、大広間での舞踏会が行われなくなり、かつては沢山の王族達が暮らした部屋のあちこちが空き部屋になったままでも、それでも確かにここに感じられるもの。
(ここは、いつの間にか家になった…………)
ネアだけではなく、ディノにとっても、そしてノアや、やっとヒルドを隣に取り戻したエーダリアや、そんな弟子に寄り添えるようになったヒルドにとっても。
そんな事を考えながら歩いていると、自室の無い筈の棟の廊下を歩いている赤紫色の瞳の魔物を発見し、ネアは、慌てて飾り棚の影に隠れた。
素早く身を隠した筈なのだが、ぴたりと足を止めたアルテアは、迷う事なく真っ直ぐにこちらに歩いてくると、隠れていたネアの頭の上にばすんと手を乗せてしまう。
「ぐるる!」
「…………おい、何でここにいるんだ。この時間からは事故るなよ」
「なぜにまたお泊まりなのだ。もう洗うところはありませんよ!」
「明日はウィリアムが来るだろうが」
「…………まぁ、ウィリアムさんに会いたかったのですね。それなら、どうぞリーエンベルクで待ち合わせして下さい。友情はとても良いものですよね!」
「そんな訳あるか。お前が、あいつに、あのおかしな結び文を送った直後だからだ」
「なぜに、そんなに深刻そうなのだ。解せぬ…………」
この可憐な乙女を捕まえてなぜそう疑うのかは謎だが、アルテアは、ネアが部屋に帰らずにまた何か騒ぎを起こそうとしていると思ってしまったようだ。
晩餐の席にはいなかったので帰ったとばかり思っていたが、白いシャツに黒のジレ姿ですっかり寛いでしまっているので、リーエンベルクで伸び伸びと過ごしていたらしい。
ここを歩いていたのは書庫帰りであるらしく、家事妖精達がここに住むのかなと噂しているのも納得の我が家ぶりだ。
そんな魔物がとても訝しむので、ネアは、事情を説明してエーダリアの部屋に行くのだと話した。
そもそも、アルテアとて魔物の第三席なのだから、リーエンベルクの廊下をお散歩しているくらいで重大事件が引き起こされる筈もないのだと、気付いてくれても良さそうなものだ。
「ったく。早く済ませろよ」
「…………ついてくる気です……」
ネアは、なぜか一緒に行くぜ的な様子を見せたアルテアに対し、ぎりぎりと眉を寄せたが、残念ながら味方をしてくれる筈のディノは、ムグリス姿ですっかり弱ってしまっている。
付き添わせないと引かない気配を察し、渋々了承する事になってしまった。
「仕方がありませんね。林檎のパイで手を打ちましょう」
「何でだよ」
隣を歩きながら、怒り狂って暴れても逃して貰えずにしっかりと魔術洗浄をかけられた事を思い出し、ネアは少しだけ考え込む。
(……………少しの間追いかけて、飛びかかって持ち上げたら捕まえられたけれど、アルテアさんがそこまで神経質になるくらい、あの兎さんは厄介な生き物だったのかもしれないわ…………)
「アルテアさん、………先程、以前に縁食いの妖精さんがリーエンベルク近くの森に現れてしまった時に、街の騎士さんが犠牲になったと聞きました。あの妖精さんは、強いのですか?」
「可動域で言えば、六百ある」
「……………ろ、……ろく?」
「その百倍だ」
「……………ろくひゃく……ひゃく………」
「加えて侵食の系譜の妖精だからな。相性が悪ければ、手も足も出ない一方的な襲撃だったんだろう。防ぐ手段が限られる属性の魔術は、攻撃に長けた祟りものよりもタチが悪い」
「…………私は、そんな生き物をお部屋に連れ込もうとしていたのですね………」
「おい、妙な言い方をするな………」
もしアルテアが気付いて止めてくれなければ、ネアは、エーダリア達にその時のことをより鮮明に思い出させるような酷い混乱を引き起こしたのかもしれない。
その事に気付き、かくんと項垂れてしまったネアの頭の上に呆れたような溜め息が落ちる。
「…………ったく。少しも目を離しておけないな、お前は」
「…………今度からは、枕素材に出会ったら滅ぼしてからの持ち込みにします」
「そうか、お前にとってはどこまでも枕なんだな…………」
「絶妙に角の丸い四角さが感じられる平べっためなふかふかに生まれたものが、枕以外の何だと言うのでしょう………。あやつも、エーダリア様のお友達になったかもしれない青年を襲ったりなどせず、大人しく枕に徹していれば良かったのです………」
ネアが暗い声でそう呟けば、アルテアはまず、その形状の生き物がいてもそれは必ずしも枕素材ではないと説明する事にしたようだ。
そんな講義を受けている間にエーダリアの部屋の前に着き、ネアは、さっと振り返ってアルテアの前で手を広げて通せんぼポーズを見せた。
「何だそれは」
「少し繊細なお話をしますので、アルテアさんはここで待てです。良い子でお留守番出来ますか?」
「やめろ。その口調は、シルハーン用だろうが」
「む?これは、目を離すと絨毯を襲う狐さん用の…」
「なおやめろ」
荒んだ目をした使い魔に頬っぺたを摘まれるという悲劇の後、ネアは何とかエーダリアの部屋をノックする事が出来た。
因みにアルテアは、部屋の前の壁に腕組みでもたれかかり、ひとまずは外で待っていてくれるらしい。
「…………ネア、どうしたのだ?」
かちゃりと音がして、エーダリアはすぐに扉を開けてくれた。
食事の後なので、入浴してしまったりする前にとすぐに訪ねたのだが、幸いまだ着替えたりして寛いではいなかったようだ。
銀糸の髪は整ったままだが、瞳の表情は自室で過ごしていたらしく柔らかくなっている。
(ささっと済ませよう……………)
忙しい一日や、心が重い時など、一人でのんびりと過ごしたい時に受ける不意の訪問程、煩わしいものはあるまい。
けれどネアは、それを承知の上で時間を空けずにすぐに話しておきたかったのだ。
我が儘を通すのだから、それを許してくれる家族のような人の優しさに甘え過ぎず、配慮を忘れてはならない。
「エーダリア様にお話があって、来てしまいました。手早く済ませますが、取り込んでいるようであればまた明日にします」
「いや、もう寝るばかりだからな。ただ、ヒルドとノアベルトがいるが、構わないだろうか」
「いえ、この場で済んでしまうくらいの事なのです。ただ、エーダリア様は領主様なので、やはり廊下ではなくその扉を閉めたところでお話してもいいでしょうか?」
「今更ここでその気を遣う必要もないのだが………、ディノはそこにいるな…………」
「ディノにお話があるのですか?暫くは目が覚めそうになく…」
「そうではない。だが、お前はもうディノの伴侶になったのだから、このような時間に、異性の部屋を訪問することには少し気を遣ってやれ」
「……………エーダリア様のお部屋なのに?」
「……………私もそう思うが、伴侶としての気遣いを忘れてやるな」
あらためて異性としての配慮をと言われ腑に落ちなかった事で、ネアは、目の前の人間らしい範疇ではあるものの美貌のウィーム領主が、すっかり兄もしくは弟的家族枠で認識されている事に気が付いた。
エーダリアもそうだったのだろう。
ネアに注意を促しながらも、どこか遠い目をしている。
こんなところに元王子としての教育を見るのかなと思う優雅な所作で部屋に招き入れて貰い、二人はエーダリアの私室のエントランススペースで何となく向かい合う。
こちらを見たエーダリアの眼差しには、先程垣間見えた暗さは残っていなかった。
けれどネアは、こんな家族のような大切な人と言葉を交わさなかった事で残る翳りなど許せないと、強欲に突き進んでしまうのだ。
「グラストさんから、私が捕獲した縁食いの妖精さんのせいで、かつて街の騎士さんが亡くなったお話を伺いました」
「……………そうか。グラストが話したのだな。すまない、気を遣わせたな」
僅かに鳶色の瞳を揺らし、エーダリアは淡く微笑んだ。
「いえ、私こそあの妖精めをよく知らずに、狩ってきてしまいお騒がせしてしまいました」
ネアはここでぺこりと頭を下げ、今度はきりりとしてみせた。
「なお、容易く狩れる事が判明しましたので、もしまたあの妖精めが現れたら、その時にヒルドさんやノア達がいなくても、私が成敗しますからね。エーダリア様のこれまでには手が届きませんが、これからを奪うものは容赦しません。同じところに住んでいるのですから、困ったらいつでも声をかけて下さい」
「…………ネア」
言葉を失って、ただこちらを見た人に、ネアは微笑んで頷いた。
「私は、足りないという事が自分の手から取り上げてゆくものを、為す術もなく沢山見てきました。だからこそ、沢山の選択肢がある事の贅沢さを今は心から謳歌しています」
「…………ああ。そうだな、今の私は、あの頃とは比べ物にならないくらいに恵まれている。…………でもお前は、抵抗値は高くとも、やはり可動域は低いのだ。縁食いに触れたと聞いてさすがにひやりとした…………」
次に目を瞠ったのはネアの方だった。
てっきり、あんな風にネアが縁食いの妖精を捕まえてしまったので、エーダリアはかつて救えなかった青年の事をやるせなく思い出してしまったのだとばかり思っていた。
だからネアは、表面的には他の言葉を選びながらも、その無神経さを謝りたかったのだ。
「…………もしかして、エーダリア様が俯いていらっしゃったのは、私を心配してくれていたのですか?」
「…………ああ。別の理由だと思っていたのか?」
「…………ここで敢えて触れるのも複雑なのですが、……てっきり、私があの兎さんを捕獲した事で無神経に過去の傷を踏み荒らしてしまったのだと思っていました………」
ふっと、空気が揺れた。
見上げた先で、エーダリアが苦笑している。
エーダリアがこんな風に微笑むと、出会った時に考えられただろうか。
「それで、わざわざ話をしに来てくれたのか。心配をかけたな」
「むむぅ。心配してしまいました。ですが、それもまた家族らしい心の動きなので、贅沢な心配なのかもしれませんね」
「………ああ。そうだな」
微笑んだエーダリアの瞳には、ここが自分の居場所だと知っている人の安らかさと喜びがある。
それを見られてとても嬉しかったので、ネアは微笑みを深めた。
こういう言葉は、ネアが得意とするものではない。
かつては、あまりにも馴れ馴れしく高慢に思えて言えなかったのだが、今は僅かばかりの自信を胸に堂々と言えるようになった。
ネアがリーエンベルクに来てから積み上げた時間が、この言葉を、これまでの長く険しい道を歩いて来た人達にとってのやっと休める椅子のようなものに位置付けたのだと気付いたからだろうか。
「なお、私の可動域は奪わせないようにと、ディノとアルテアさんで可動域絶対固定守護をかけてくれたので、私の可動域が下がる事はなくなりました。これで、エーダリア様も安心してくれますか?」
「そうか!それを聞いて安心した。…………今、ヒルドやノアベルト達と話していたのだが、縁食いが森の奥から出て来てしまっている理由がある可能性が捨てきれない。…………ネア、お前があの妖精に損なわれなくなったと聞いたからの話だが、明日の夜明けに行う簡単な禁足地の森の調査に同行してくれるだろうか」
「まぁ、調査団に加えてくれるのですね。狩りの女王を連れてゆけば、悪いやつなど近寄らせませんよ!」
「もし何らかの要因があった場合、お前が同行した方が、そこに辿り着く可能性が高くなるような気がするのだ」
「…………使い魔さんにもお声がけしますか?事故率は上がりますが、解決は早まりそうな気がします…………」
「……………いや、さすがにそこまではやめておこう」
エーダリアですらアルテアの事故率は警戒してしまったのか、顔を曇らせて首を横に振られ、ネアは頷いた。
(でも、何だか楽しみだわ……………)
エーダリアが落ち込んでいなかったと知れたし、仕事とは言え、このメンバーで出掛けるのは久し振りだ。
おまけにその顔ぶれであれば、ネアの狩りを邪魔する者もいないので、沢山の成果を上げてエーダリア達を安心させてあげよう。
何だかわくわくしながら部屋を出たネアは、壁に寄りかかって待っていたアルテアから、ひどく不機嫌な声で、明日は集合時間の前に部屋に迎えに行くと言われてしまい、狩り規制派の参加に悲しくうな垂れたのであった。




