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夜の階段と恩寵の繋ぎ方




薄荷のような香りだと言う者がいる。


いいや、雨が上がった後の森の香りだと言う者もいる。

それは人が二人擦れ違うのがやっとの狭い夜霧の結晶の階段を使う者によって違うのか、或いはどのような目的でその階段を使うかによって違うものか。



(以前に来た時には、薄荷の香りがしたものだが……………)



けれども今夜は、蕾がほころんだばかりの薔薇のような香りがして、そこに僅かに雨上がりの水の匂いが感じられた。


階段を踏めば、ざりざりとした靴音が響く。

夜霧の結晶石は本来つるりとした宝石質なものだが、ここの階段は表面を荒く削り、そこに暗闇でも光るように砕いた冬の流星の粉を敷き詰めてある。



どこまでも、どこまでも。

薄暗い階段をゆっくりと下ってゆく。



道中には分岐した幾つもの道があり、朽ちかけた縄梯子で作り付けられた違法併設空間もあるが、既に忘れ去られたものか、長い間誰も立ち入ってなさそうな区画も多かった。


この夕闇と夜の間の空間を斜めに下ってゆく音楽の階段は、遠い昔の夕べに誰かが演奏したバイオリンの旋律が、時間の隙間を木の根のように罅割って生まれたものだ。

近年では諸説あるのは知っているが、その犯人が終焉の魔物であることを知っている者も少なくない。


寧ろ、終焉の仕業でなければ、これだけ深淵に下るあわいなど切り開けなかっただろう。



(……………前は、時々おかしな箍の外れ方をしていたな…………。あれがなくなったのだとすれば、不確定な損失を都度想定に入れなくて済む…………)



いつだったか、ごうごうと吹きすさぶ嵐の夜に、終焉の魔物が滅び壊れた国の砦の上でバイオリンを弾いていた夜があった。


最初にその旋律を耳にして発狂したのは、男爵位の魔物だったと聞いている。

一晩の内に、夜風を司るシーが狂死し、瓦礫の精霊達が幾柱も崩壊した。


そのバイオリンを弾いていた日にどれだけの感情で楽器を手にしたものか、あわいを生み出すだけの何かが揺れたのは確かだが、内容としては何となく察しが付く。


ラエタといいその他の同じような何かといい、この世界に派生するなり自害した終焉の魔物には、やはり終焉だからこそ降りかかるものなのか、喪失と裏切りが付き纏う。




また少し下ると、階段の表面に薄い氷が張り、息が詰まるような白い靄が漂う場所が見えてきた。


階段を途中で逸れる道が幾重にも伸びている先には、鬱蒼とした木々が生い茂っていたり、数歩踏み込んだだけで足が沈むような、沼地に繋がる道もある。



時間の隙間に走った割れ目に作られたこの階段の周囲は、こんな夜を好む者達にとっては居心地の良い良質なあわいが広がっていて、常設の道がある事で常に賑わっている。



「…………やれやれだな。またか」



ひゅっと空気が揺れ、どこからともなく飛来した氷礫を、くるりと回した杖で払い落とした。


顔を上げて左側を見れば、氷の魔物の保管庫から冷気が漏れ出し、周囲への凍結の範囲を広げている。


本人が気付けば氷払いに来てはいるようだが、よほど妙な物を保管しているものか、通るたびにこうして氷礫を打ち込んでくるのだからいい加減誰かが処分させた方がいい。




ざざんと、静かな波音が聞こえた。

そちらを見ても海辺は見えなかったが、夜の海に繋がる場所なのだろう。


深く深く伸びてゆく階段を下りてゆく内に、周囲を取り囲んだ夜の色相が徐々に変化し始めた。

先程までの薄っすらと青に霞んだ夕闇の色から、より深く空気がその暗さと夜の鮮やかさを増してゆく。


春の夜の悍ましい馨しさを経て、夏の夜の虚ろな喧噪から、秋の華やかな絶望まで。

ここがどれだけ賑わっていても、それは夜の静けさとはまた別のものだ。


夜は夜の翼を伸ばすが故に常に静謐で孤独で、だからこそ例えようもない程に、美しいものや醜いものが集まっている。



ここは、特異なものが集まるとは言え、スリフェアやサムフェルとは違う、常設のこの世界の片隅として存在する表側と繋がったままのあわいの夜。



その中をゆっくりと歩き、羽織った漆黒の外套の裾に纏わり付いてきた上質な夜を少しばかり採取した頃、漸く目指していた階層に下りた。

耳を澄ませば聞こえる程の微かな風の音に、物悲しく狂おしいバイオリンの音色が混ざり込む。



(……………この音は、あの夜のウィリアムの奏でた旋律そのままだな…………)



剥ぎ取られ残された記憶の霧は、あの夜の演奏のように聴く者を狂乱させはしないが、それでも、詩人や画家、音楽家達は狂うと言われているので、この区画はその記憶の残響を獣避けにしている。


ごく稀に興味本位だが幸運にだけは恵まれるというような者がおり、そのような手合いを確実に排除する為の防壁の一種なのだ。




「…………十六か。思っていたより訪問者がいたようだが、この霧よりも奥には進めなかったか」



霧を抜けながらそう呟き、折り重なった骸や骨だけが残る踊り場を踏み越える。

階段から小道に逸れてまた暫く歩くと、真っ赤なゼラニウムの花が咲き乱れた煉瓦造りの通りに出た。


気紛れにその景色を変えるあわいだが、銀色流星を光源にした街燈がぼんやり夜を切り取り、小さな店が何軒か並んでいる風景は以前に来た時のままだ。


煙草屋の奥にある一軒の小さな古書店の角を曲がると、細い路地裏とは思えないような瀟洒な佇まいの店が幾つか現れた。


夜に抽出する雨だれの珈琲の専門店と、小さな結晶細工の店を通り過ぎ、最奥にあるのはこの夜の中にある最古の郵便社だ。



封蝋と封印の紋章が郵便社であることを謳う看板がかけられており、入口前にある大きなオリーブの木には、一羽の年老いた鸚鵡が止まっていた。


漆黒のローブを纏う老人と大きな翼を広げた雪食い鳥のステンドグラスの扉を開けて、チリンと夜闇を錬成した鈴を鳴らすと、黒にも見える程なのだがぞっとするくらいに青く感じる、純正の闇夜から採掘された鉱石の見事なカウンターがある。




「………またあんたか。最近まで五十年程足が遠のいていたようだが、最近は月に一度は来るんじゃないか?」



そのカウンターにだらしなく頬杖を突きこちらを見たのは、この夜の中だけで暮らしているはみ出し者が多い土地に、もう三百年は暮らしている一人の魔物だ。


アルテアが所持する事業の一つの、なかなかに大きな部門を統括する人物なのだが、相変わらず眠たげで無作法である。

この気質故にアクス商会では持て余したが、管理方法の異なるこちらでは、成果を出せば目を瞑れる事も多いので引き取った。



「五十年に一度の魔術ばかりを集める奴が、よりにもよって現れたからだろ」

「はは、違いない。で、今夜の持ち込みはどんな郵便物だ?」

「今回は花惑いの魚だ。ここまで怨嗟で汚れていなければ俺が飼うところだが、………見ろよ。よりにもよって漆黒ときた」

「……………ん?……漆黒?顕現不可能だって学説が出ていた漆黒の花惑い?…………」

「それと、百合の系譜の呪詛だな。これは鉱石百合の花びらが封入されている。花弁については洗浄後に薬師達に回せ。………で、これが黄昏の系譜の精霊が出した手紙だ。怨嗟が強過ぎたのか、封筒を揺らすだけで水音がする。受け取り不可で送り戻せ」



持って来た三通の手紙をカウンターに乗せると、シャーロックは眠たげな目を珍しく見開いていた。


腰までの巻き毛の壮年の男で、冬の夜に飲む蒸留酒のような色の琥珀色の髪と、月光を映した泉のような水色の瞳をしており、所謂貴族的な美貌ではないが、表の世に出ていた時には、いつもうんざりとしたように女達に囲まれていたのをぼんやりと覚えているが、伴侶どころか女の影を見た事すらない。


それもその筈で、この男は、言い寄る女達に手紙の形を成していないので愛せないと公の場で言えるくらいの変人なのだった。




「…………飛び跳ねて喜べばいいのか、俺の睡眠時間をどうしてくれるんだと泣き喚けばいいのか、どっちだろうな」

「さぁな。自分で考えろ。………もし逃げ出すものがあれば報告しろ」

「いや、逃げ出されたら俺が死ぬんだぞ。逃した事もないし、逃がすつもりもない」



配送の魔物である自負もあるのだろう。

付け加えた一言に何とも言えない顔でこちらを見たシャーロックだが、肩を竦めるだけで返答は返さなかった。


それでもというそういう事を呼び寄せかねないのが、あの人間なのだ。

だからこそ、こうして本人に辿り着く前に回収した辻毒や呪いの封入された手紙を、何回かここに持ち込む事になっている。



「………にしても、あんたのその甲斐甲斐しさを考えると、この手紙の宛先になっているお嬢さんは、俺の上司の特別なお気に入りなんだな?」

「ああ、特別に気に入っている。駒としてではなく、終生の守護を与えてやるくらいにはな。そういう事だ。あいつがお前を認識するような距離には近付くなよ」

「…………また無茶な。もしそのお嬢さんがお客で店を訪ねてきたらどうするんだ」

「…………やりかねないな、あいつは」

「……………だったら尚更条件付けを変えてくれ」



カウンターの上に乗せられた台帳に記入を終えると、それぞれの手紙の宛名の文字がぱっと燃え上がり崩れ落ちた。



ここは、夜にだけ開くあわいの郵便社だ。



配送の魔物に正式に依頼されて預けられた手紙は、一通残さずその管理と支配をシャーロックに移すので、台帳記入の後に受け付けと引き渡しが終われば、配達の魔物はその宛名すらを書き換える事が出来る。


そう。

決して階位の高くないこの魔物は、己の領域と規則の中でのみという制限はあれど、特等の魔物にも成し遂げられない魔術の理を超える事が出来る一人なのだ。




「そこまでしてるなら、さっさとあんたの伴侶にしたらいいんじゃないか?」



そう尋ねたシャーロックに、僅かに眉を寄せた。


この建物の中はシャーロックの領域であり、手紙や荷物を持ち込む者は、厄介な対価を支払わなければならなかった。


ここで可能とする規格外の魔術の恩恵を受けたいのならば、シャーロックに与える情報は全て正しいものである必要がある。


それは、シャーロックを管理する側の立場であるアルテアとて例外ではなかった。



「…………指輪持ちだ。それに、指輪を持たせて満足出来るような執着でもない」

「…………こりゃまた、難儀だなぁ」



笑い混じりに呆れたように呟かれても、今更苛立つこともない。

これは、元よりこういう男なのだ。


配達の魔物は世界に七人いるが、役割りを司り派生した不自由な魔物であることを常とした結果、変わり者が多い。


預かりと仕分けを司るシャーロックは、生真面目な作業が求められる資質に反するいい加減な男で、常に眠たげな目をしている。


しかし、その魔術には細やかな規則がうんざりする程に緻密に敷き詰められており、例えばここで、そんな人間にはさして執着していないとでも言えば、申告に不備ありとして、手渡した手紙はこちらに差し戻されてしまう。



兎に角、厄介な場所なのだ。



だからこそアルテアは、これまでは担当の持ち込み係を作り自ら訪れるような事は滅多になかった。



(来る必要もなかったしな……………)



幸い、手紙に纏わる事以外の質問では、配送の魔物の魔術は作用しないが、こうしてその手紙に纏わる事実を紐解くのは彼の錬成の手順にある。

預けた手紙との関係を理解するからこそ、その手紙の扱いをしっかりと定めることが出来るのだと言うが、真偽の程は確かではない。



「…………この三通だ。しっかりと仕事をしておけよ」

「正直なところ、そのお嬢さんとの馴れ初めから根掘り葉掘り聞きたいが、それはやめておこう」

「…………そうだな。 仕事に必要な領域より先には踏み込むな。特にその種の執着において、魔物は狭量で身勝手らしい」

「…………なぁ。あんたが女絡みで俺を脅すとか、どれだけだよ」

「俺を不愉快にさせるなと、言っているんだ。こいつについては、何をしでかすか分からない以上、俺も手を緩めるつもりはない」



片手を振ってそう言えば、シャーロックは肩を竦めてみせた。


対価として渡さなければならない告白で執着を明かすからこそ、あの事故を引き寄せ易い人間の不安要因を増やすことにもなってしまう。


であれば、こちらとしてもきっちり忠告はしておかなければならない。

配送物に纏わる魔術の理で、その諸注意はシャーロックを縛る枷にもなるのだ。



「まったく、厄介な仕事を持ち込んでくれるなぁ。………でもまぁ、あんたは俺の雇用主だ。この夜の隙間は居心地が良くて、時々、滅多に見かけないような素晴らしい手紙が持ち込まれる。それだけ揃えば、あんたの下で働く充分な理由にはなるな。…………そのお嬢さんについては余計な追求はせず、万が一にでもここに迷い込むような事があれば、俺は置物にでも徹してすぐさまあんたに知らせるよ」



そう微笑んだシャーロックに背を向け、帽子をかぶり直すと郵便社を出た。


処理出来るのは本人に配達されていない手紙に限るが、早々にこちらの部門を作っておいたお陰で、今になってかなり重宝している。

それまでは、シャーロックにしか扱えないような手紙を見付ける機会はここまで頻繁ではなかったのだが、なぜかあの人間はそういうものを集めるのだ。



これだけの手をかけるのだからと、シャーロックのようにその執着の重さを問う者は多いだろう。



ネアの為、とは言うまい。



これは自分の執着で、だからこそその全ては自分の為の手入れなのだ。

奪われたくないものだからこそ守護を強め、得られるものがあるだけの分量を、そこに与える。


その様子に過不足があると誰かが言ったとしても、それが必要かどうかを測れるのはアルテア本人しかいない。




(霧が出てきたな…………)




視界を遮るその霧にも、どこからかバイオリンの音色が聞こえ、そんな霧の路地を歩き抜けながら帰り道は転移を踏んだ。


手紙を持ち込むまでは、どのような行程であれ簡略化しない。

それが、アルテアがあの郵便社の利用において、雇用人達に義務付けている規則である。


“正規の方法にて条件を満たした配送物のみ受け取る”というのが、あの魔物の領域の鉄則であるのだから、敢えてその要素を損なう事もないだろう。

なので行きはあの夜の階段を使ったが、さすがに帰りにもまた、あの、誰と出会うかも分からないような道を使うつもりはない。




転移の合間に羽織っていた漆黒の外套を消し、風に煽られた揺れた帽子を片手で直した。


すぐに乾いた風と草原の香りが鼻腔に届き、瞳に届く光量ががらりと変化する。




「お待ちしておりました。ちょうど、ご注文のものも届きましたよ」

「名映えの酒が入ったか」

「ええ。今年のものもいい出来ですよ。これは、スリジエの系譜の酒ですから今年はどうだろうと思ってましたが、他の春の要素が安定しているんでしょう」



次に訪れたのは、希少な酒類の買い付けや、販売を管理させている男の元だ。


こちらは急遽決めた訪問であるが、祝福や呪いも多く含み、儀式や錬成に使われる事の多い酒類の部門は、定期的な視察が必要とされる現場である。


この分野の管理は、厳正なる階位の管理となるので、先程のシャーロックのように、才能はあるが階位は低いというような担当者ではどう足掻いても務まらない。


元より、精霊の王族と三人のシー、伯爵位の魔物というそれなりの階位の人材を充ててはいるが、とは言えアルテア自身より階位の高い者はいないので、このような時にまとめて指示を出してしまう。



「あちらに、新しく仕入れた儀礼用のものを何種類か並べておりますので、ご確認をいただいても宜しいですか?」

「ああ。この前の、スタルビエーレの樽は保管庫に入れたか?」

「ええ。階位は高いが味が伴わなかった酒が、あの一手間であんなにも味が変わるとは思いませんでした。お陰様で、珍しい手法の熟成をかけてあるという付加価値もつけられますしね」

「一本だけ、ヴェルリアに卸しておけ」

「承知しました。配送先のご指定はありますか?」

「いや、それはこちらで遠隔操作するから問題ない」



実質四階建てに相当するものを吹き抜けにした天井の高いアーチ型の空間は、規則正しく並んだ窓の全てに真っ白な布をかけてある。

ここは、木漏れ陽の事象石で建てられた巨大な修道院で、レイラよりも前の時代の信仰の魔術が残されている土地だ。


世界中にそれこそ星の数程の酒蔵があるが、祝福などを潤沢に蓄えた商品をこれだけ集めるとなると、保管する施設としては、やはり信仰の魔術の効果が最も高い。

今代の信仰の魔術には偏りがあるので、アルテアは、敢えて旧世代のものを探してきた。



カツカツと硬い床石を踏む靴音が重なり、他にも何人かの職員が集まってくる。


出迎えた男がこの施設の責任者だが、偶々仕入れなどの為に他の部門の責任者達も訪れていたらしい。

手間が省けたので、彼等から投げかけられた質問の幾つかに答え、作業の切り替えで指示を仰ぐ為に集まった者には新たな指示を出しておいた。



(…………西方の儀礼用のシュプリの質が落ちてきているのなら、近い内にストムの近郊で大規模な凝りの被害が出る可能性が高いな…………)



取り出した革の手帳から、違う部門にも仕入れや醸造の進捗を伝え、災厄の対策や、季節性の気象変動の諸注意など、新たな指示を書き入れて次々と情報を回してゆく。


勿論、ナインのように各部門ごとに統括をする者は決めているが、全ての人員に同じ事が出来る訳ではないのだから、より上位の判断として、そこに手を重ねてゆくことこそが現場を訪れる意味でもあった。



「……………これは掘り出し物だな、アクスに気付かれる前に買い付けを三倍、………いや、四倍にしろ。………これは、買い付けを停止、在庫は隔離して二次利用が可能かどうかの判断がつくまでは、持ち出し厳禁とする。澱の部分にのみ祝福効果の翳りがあるのなら、生産過程に呪いを受けた者がいる筈だ。調査を進めておけ」



しんと静まり返った部屋の中で、大きな夜樫のテーブルに並んだ酒瓶の一つ一つを手に取り、天井から吊るした、こちらもまた木漏れ陽の結晶石をふんだんに使ったシャンデリアの明かりに透かした。


試飲のグラスも出ているが、今回は付与効果のある儀礼用の品物の確認なので、大抵の場合は見るだけで判断がつく。

手早く全てを終えてしまうと、今朝届いたばかりであるという名映えの葡萄酒を受け取り、また淡い転移を踏んだ。




ふわりと揺れたのは、春を迎えて花が咲き乱れる美しい庭園の中にどこかに残る、ウィーム特有の清涼な雪の香り。


わざと中庭に転移したのは、守護の厚い冬が明けたばかりのウィームという事もあり、目的地から離れたところに出て少し歩き、敷地内に異常がないかどうかを確かめる為だった。




「………で、何なんだこれは?」



そして早速、中庭をおかしな生き物を抱いて通り抜けようとしていたネアを見付け、すぐさま捕獲する事になった。



こちらに気付くとぎくりとしたように体を揺らしているので、本人としても多少なりとも罪悪感はあるらしい。

ネアに抱き上げられだらりと体を伸ばした兎姿の妖精は、本来は人間を襲う生き物であるのになぜ大人しくそうしているのか、妙に悟りきった目をしている。



「…………これは、ふかふか兎さんです」

「どこから持って来たんだ。さっさと捨てて来い」

「禁足地の森で捕まえたのですよ。あまりにもふかふかなので、枕にするべくお部屋で飼おうと…」

「ほお、こいつは侵食の系譜の妖精の一種で、魔術を食われるが、それでもいいんだな?ただでさえ低い可動域がなくなるぞ」

「…………や、やはり、森の生き物と共にありたいが為に、境界を無理に越えようとするのは間違っていましたね。私はとても善良な人間ですので、人間という生き物の身勝手さを恥じ、この兎さんを枕になどせず野生に返してあげましょう」

「……………そもそも、枕一択なのかよ」



抱いていた兎はすぐさま捨てさせ、禁足地の森の奥深くに戻しておく。


本来なら、ネアが二度と遭遇しないような土地に追いやっておきたいところだが、そもそも、ネアが捕まえたと言い張る森の入り口に住む生き物ではない。

本来の生息域に戻した以上は、森の生態系を崩さないように不必要な手入れは避けておきたい。


積み上げた石垣のどの石を抜けばそこが崩れるのかは、誰にも分からない事なのだから。




「枕さん…………」

「清々しいくらいに、欲望に忠実な呼び名だな………」



悲しげに小さく息を吐いたネアを観察し、胸元に不自然な膨らみを見付けた。

周囲にシルハーンの姿がないようだが、他の誰かを伴う素振りもないので、恐らくはムグリスにして持ち歩いているのだろう。


万象の魔物の扱い方としては最悪もいいところだが、このような時であればこちらとしては動き易い。



胸の内で幾つかのカードを引き抜き、並べて思案し、何枚か捨てる。

直近で必要なものを考え、その為に有用であるのは何なのか。



「…………む。そのきらきらしたお花は、食べられるものですか?」

「お前の情緒は、減る一方だな」

「おのれ、その暴言をいつか後悔させてくれる…………」

「シャワの神殿にある、………喜びなどを司る祝福の花だ。この時期は満開になる」

「まぁ、………この真っ赤な花びらがとろりとした艶のある飴細工のようで、たくさん咲いていたらさぞかし綺麗でしょうね……………じゅるり」

「食うな」

「………むぐぅ」



ネアの目につくように手に持っていたシャワの花は、正確には情愛や喜びの祝福を持つ花だ。


透明な水晶の神殿を中心にどこまでも広がる真紅の花畑は、この季節にだけ見られる壮観さでもある。

その光景を思い描けるに違いないからこそ、この人間は、目の前の花から未知の土地への憧れを持つだろう。



「気になるなら、連れて行ってやろうか?」

「…………いいのですか?………そのような持ち方をしているからには、お仕事でかかわる場所なのではないかなと思うのですが………」



こんな時、当たり前のようにその事実を指摘し、この人間は己の欲求と執着に一線を引く。


自らの為に欲するものへの熱量から、他者とのかかわりへの無関心さや、そこで生まれる面倒さを、ひやりとするくらいの冷徹さで差し引き、その回答をこちらに示すのだ。



花占いのように、これはいる、これはいらないと容赦なく花びらを毟り、時には何の価値もなかったとその花を足元に落とす。



そうして成される、何者も立ち入れないネアだけの裁量には、引き捨てられる選択が見えるからこそ、この人間なりの冷酷さを常に窺い知る事が出来た。


必要なものだからと言って必要としない強欲さが鮮やかに示される度にふと、何の計算も保証もない真っさらな言葉で請い願われてみたいという欲が疼くのは、魔物としての本能のようなものなのだろうか。



シャーロックに告げた言葉を思い出し、秘密裏に持ち帰ろうとしていた兎を手放して空っぽになった手の中を見ているネアに、唇の端を持ち上げた。



(…………ああ、そうだ。指輪などだけで足りるものか……………)



シルハーンのように、伴侶として手に入れ満足出来る程に、この人間は単純ではない。

寧ろ、抱いたら終わるような女ではないからこそ、契約破棄を禁じる程の所有を許したのだ。


伴侶でもなく、家族とやらでもなく、お互いを縛る鎖には弛みがあり、その余裕の分だけ、時には対岸に立つこともある。

その距離感こそが、最適なのだろう。



「仕事で扱う花蜜を収穫に行かせてはいるが、専有出来るような土地ではないからな。…………お前は、俺が所有している収穫地でなければ、行きたいんだろ」

「ええ。もしそこがアルテアさんのお仕事の花畑であるのなら、考えなしにそのような所に行きたいと願う事で、面倒………絡まるご縁や手間がある筈です。使い魔さんではない時のアルテアさんの領域までを、踏み荒さないようにしていたいですから」

「…………付加的な要素を取り込むのが煩わしいだけだろうが」

「まぁ、ご主人様なりの配慮ですよ?」




そう微笑んだネアに手を伸ばしひょいと抱え上げると、よりにもよってこの人間は猛然と暴れ始めた。

慌てたように胸元から顔を出した白いムグリスが、困惑したようにこちらを見ている。



「むが!勝手な持ち上げは許しておりません!!今すぐに私を解放しなさい!!」

「森からあの妖精を素手で持って来たんだろうが。これから、魔術洗浄をするぞ」

「……………なぬ」

「侵食の系譜だと話さなかったか?」

「……………キュ」

「ディノ、事情があって先程までは兎さんを捕まえていた私ですが、私が撫ですぎたせいでこてんとなってしまったので、ディノのせいではありませんからね?」

「…………キュ………」



シルハーンに気が逸れたので大人しくなったようだ。

しかし、抱き直して小脇に抱え、転移を踏もうとすれば、ネアはまた暴れ出した。



「行くぞ」

「だとしても、なぜ小脇に小麦袋な持ち方に変えたのだ!ご主人様を持ち上げるからには、恭しく居心地の良い持ち方が必須なのですよ!」

「これで充分だろ」

「ぎゃ!よくもお尻を叩きましたね!許すまじ…………」

「九しかない可動域を失いたくないなら、大人しくしていろ。辛うじて踏み潰せると判明したばかりの蟻にすら勝てなくなるぞ」

「…………偉大なるご主人様を嘲笑った使い魔さんには、恐ろしい罰を与えるしかないようです………」

「キュ?!」

「ほお、出来るのか?付け加えておくと、魔術誓約がある以上、契約の不履行は出来ないからな」



そう付け加えてやれば、低く唸り声を上げていたネアがなぜか、ふっと穏やかな微笑みを浮かべた。



「アルテアさんの今日のベルトは、私が白けものさんに贈ったベルトを仕立て直したものです。白けものさん用の首輪を取り上げて使ってしまうくらいに懐いているという秘密を公表されたくなければ、この可憐な乙女を丁寧に扱うことを要求します」

「やめろ」

「それとも、今もちびふわ靴下を愛用していることを…」

「そうだな。お前はもう黙れ」

「むぐ?!果物ギモーブがお口に飛び込んで来ました!」



あっさりと機嫌を直したネアを抱き直してやりつつ、リーエンベルクの部屋の一つではなく、自分の屋敷に連れ帰る事にした。



その隙に、ノアベルトかヒルドあたりに一報をいれておき、リーエンベルクとの境界近く迄あの妖精が迷い込んできている事を伝えておこう。


人の動きに聡いネアがその一手に気付かない内に、禁足地の森で、森の奥にだけ生息している筈の妖精がこちらに出て来てしまうような問題が起きているのであれば、早急に対処させておくに越したことはない。




(秘密か…………)




ふと、そんな言葉を反芻し、小さく笑う。



秘密と言うならば、それは一つで済む筈もなく、ネアの周囲には幾つもの秘密が散りばめられていた。



例えば、ネアが愛用している腕輪の金庫に使われた宝石の細工は、アルテアが施したものだということを知っている者はあまりいない。


シルハーンから質の良い金庫を取り扱う職人を知らないかと尋ねられ、抱えている職人の一人を紹介したのだが、その際に、シルハーンが持ち込んだ宝石の細工は、全てアルテアが引き受けた。



金庫とは言え、それは装飾品である。



どれだけ繋ぎの魔術を断ち切っても、他の魔物が作った物を身に付けているのを見るのはやはり不愉快だ。


魔術的な付与がある訳ではないので、シルハーンにもその証跡を追わせない一粒石の細工は、今もネアの手首に揺れている。


勿論、以前にジュリアン王子が持ち去ったものについては、本物は回収した後に破棄しておいたし、何の細工もないように見える真珠の金庫のものも、真珠の表面に光の角度で浮かび上がるように光と影の魔術を工夫した精緻な模様を施してあった。




それが一つ。




「……………おい」



じっとこちらの指先を目で追っているので、ギモーブを口に入れてやるふりをして指先をネアの唇に近付けたところ、容赦なく指先を齧られて眉を持ち上げた。



「むぐる………」

「やれやれだな。お前には、その食い気より優先させるものはないのか…………」

「食べ物の罪は食べ物でしか償えないことを、ご存じないのでしょうか。すぐに悪さをしてしまう使い魔さんがギモーブを貰えなかった私の心を癒すには、もはや、美味しいほかほか焼きたてキッシュしかなく……」

「何でだよ」

「キュ……」




作り与える事そのものが喜びなのではなく、お前が願うからだと、胸の内で小さく呟く。



そうして選び、欲するからこそ、出し渋る事もあり、潤沢に与える事もある。




(だから、それこそが俺の欲するものだと言い放つお前の言葉は、決して間違ってはいない)



この唯一のものに望まれるからこそ、使い魔になったのだ。

それでもいいからと、あの夜にそう理解して、それを許した。




誰にも言うつもりのない秘密が一つある。



それは、シャーロックが思い留まり、だからこそアルテアが、あの配送の魔物を殺さずに済んだ問い掛けであった。




(馴れ初め……………か、)




すっかり心を許し、こうして腕の中に収まるようになったネアの髪を指先で耳にかけてやり、こめかみに小さな口付けを落とす。

また唸り始めたが、先程の妖精の侵食を祓う祝福だと嘯けば、眉を寄せてはいるものの納得したようだ。



気に入っているのは執着で、その執着を深めてゆくのは、この人間が自分を失望させないからだ。

これだけを望む程の欠落が自分のどこかにあったらしいという事に愕然としつつ、誰にも明かすつもりのない秘密を胸の底でそっと呟く。




(………俺がお前を望むのは、お前が唯一の俺の恩寵なのだと、そう知っているからだ)




使い魔になどなる前に、ネアの歌声で鎖をかけられた事がある。

その魔術の繋ぎはすぐに断ち切ってしまったが、ネアは歌声の代わりにその選択で、この身に新しい鎖をかけたのだろう。




けれどもその鎖に触れて理解したこの執着の名前を、誰かに明かすことは永劫にないだろう。



この秘密は、自分だけのものなのだ。










今回はアンケートで一位になったアルテアの“秘密”について書かせていただきました。

アンケートにご投票いただいた皆様、有難うございました!

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― 新着の感想 ―
まさかの金庫の細工まで執着の一環でしてしまう選択の魔物さん。紛うことなき執着。やはりアルテアさんが至高。
やっぱり一作目からずっとアルテアが一番好きだなぁ
感想一覧
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