雪降る街の怪物 5
外に出ると、幸いにも雪は止んでいた。
雪景色のサン・クレイドルブルグの街並みは、朝とはいえ真夜中のような暗さだ。
街灯には火が入り、街はとっぷりと闇色の中に沈んでいる。
ネアは、擬態を戻したディノに手を繋いで貰い、さくさくと雪を踏みながら、昨晩も見たけれど、どこか初めましてな街を見回した。
馴染みのないブーツはさっそく戦闘靴に履き替え、凍った川の上にかかる橋を渡ると、吹き抜けた風の冷たさに首を竦める。
「もう少し、体感気温を調整しようか」
「……………ふぁい。ずっと夜なだけあって、この街はとても寒いのですね。ロガンスキーさん風になっていた時は、少しも気になりませんでしたので、あの方は慣れていらっしゃったのでしょう」
「ウィームの冬もそれなりに寒いが、同じ雪の多い国でも、ここは体の底から冷えるような寒さだからな」
白い息を吐き、ウィリアムがそう教えてくれる。
こんな風に街の中に出ると、ウィリアムの毛皮で裏打ちされたコートを羽織った軍服は、なんとも映えた。
夜の暗さの中で、淡い白金色の瞳が黒髪と黒い軍服にはっとするような鮮やかさを添える。
何とも言えずこの街に馴染むのだなと思って見ていると、少しだけ、素敵な見知らぬ人のようなそわそわ感があるのはなぜだろう。
ネアは小さく頷き、軍服は、それだけ偉大なものなのだと考えた。
「駅は人が多かった印象がある。手を離さないようにしておいで」
「はい。ぎゅっとしておきますね」
「……………ずるい」
「ふふ。ディノから言ってくれたのに、少しだけ弱ってしまうのですか?」
目元を染めて僅かに恥じらった魔物に、ネアは、微笑みを深めた。
ロガンスキー風のネアに他人行儀な対応をされていたせいで、先程までのこの魔物は、なんとも甘えただったのだ。
無事に朝食を終え、駅に向かうこの道中もしっかり手を繋いでおこう。
朝食の事を思い出したので、ついでに記憶の中の僅かな後味を追いかけ、ネアは口元をむぐむぐする。
ウィリアムの作ってくれた朝食は、どこか異国風であった。
しっかりとした食感のライ麦を使った黒パンに、牛肉や玉葱と香草をバターで炒めたものを、たっぷりのサワークリームで煮込んだグヤーシュとシチューの間くらいのもの。
ビーツに似た野菜のスープもあり、これは、黎明や昼の系譜の畑で取れる野菜で、夜の中だけに生きるこの土地の人々には欠かせない食材なのだそうだ。
どの家庭にもある特殊な銅鍋で煮込み、昼の長い国で作られた塩を振ると、鮮やかな赤いスープになる。
他にも色々な料理があるようだが、ウィリアムは、ディノが安心して食べられそうなものを選んでくれたようで、ネアは、この土地の郷土料理として教えて貰った肉や野菜を小麦粉の皮で包んで茹でる謎料理が少し気になった。
溶かしバターを添えたり、スープに入れて食べる場合は美味しいのだが、お店などで香草と塩だけを添えて食べるものに出会った場合は、中のお肉が野性的な風味を残している事が多いので、気を付けねばならないらしい。
(お腹いっぱいだけれど、悪夢の中でなければ、そんなお料理も食べてみたかったな………)
たっぷり食べてお腹の中をほこほこにし、ネアは、むふぅと息を吐く。
相変わらず白い息の中にあるという魔術の煌めきは見えないが、もしかすると、この街では最初から見えないのかもしれない。
アルテアの物だという工房は、問題となった事件が起きている間は、仮面の魔物が近付かなかった場所なのだそうだ。
意外だなと思って理由を聞いてみると、こちらの工房は完全な個人宅なので、アクス商会や白樺の魔物が絡んでいる争奪戦に加わるにあたり、潰したくない拠点には敢えて近付かないようにしたらしい。
その間は、相棒となったご婦人の所有する屋敷や部屋などを使っていたようだが、それらの拠点は街の中央部からは離れた位置にあった。
「寧ろ、君がロガンスキーとして暮らしていた部屋の方が、アルテア達の拠点の一つに近いようだね」
「野生のアルテアさんに遭遇すると厄介ですので、その前にこちらに避難出来て良かったです」
「白樺達は、議会堂近くにある邸宅を拠点としていたんだ。事前にアルテアに聞いていたからな。脱落させるのにはそう手間をかけずに済んだ」
「ほわ……………。ばっさりやってしまったのでしょうか?」
こちらを見たウィリアムがにっこり微笑んだので、ネアは答えを聞く前にその内容を察することが出来た。
「不安要因は少しでも減らしておいた方がいい。アクスの方も探したんだが、昨晩の内ではさすがに難しかった」
「アルテアも、そちらの者達の拠点は幾つかは押さえておいたものの、全ての特定には至らなかったと話していたね」
「ええ。昨晩訪ねた拠点の幾つかは、最近使われた様子はありませんでした。事態が長引いてから、拠点を移した先だったのかもしれませんね。……………この段階であれば、アルテアはまだ参戦していないでしょう。出来るだけ早くに回収を済ませてしまえるといいのですが………」
(そうか。そう言えば…………)
ネアはここで、仮面の魔物は後からの参戦だったのだと思い出した。
聞くところによると、アルテアは、エフフローシャ子爵令嬢と最初に組んでいた魔物が白樺の魔物に排除された際に、こっそりと入れ替わって争奪戦に参加したらしい。
ウィリアムが真っ先に白樺の魔物を排除したのはその為で、アルテアの参入を防ぐ意味合いもあったようだ。
相棒となる子爵令嬢とは元々面識があったらしいので、そちらの枠が空かなければ、暫くは介入を防げるだろうというのが魔物達の見込みだ。
「とは言え、ある程度の段階で席が空かなければ、自分で席を作ってそこに座るでしょう」
「そうなるだろうね。この最初の探索で、あの人間の証跡から、門を見付けてしまえるといいのだけれど…………」
「……………そう言えば、私がロガンスキーさん部分を剥離されている時に、相棒だった女性の方と話している夢を見ました。その方は、探し物に対し、斜陽の時代に掘り出された悍ましい魔術の障りという表現をされていたのです」
そう言えば、ディノは短く頷いた。
魔術の道を歩き、魔術で音の壁を展開しているが、駅の正面広場に差し掛かると、なかなかに大勢の人達がいて、誰かに話を聞かれてしまわないだろうかとひやりとする。
景色が夜なので何やら不思議な感じだが、この街は今、多くの人達が働きに出る朝なのだった。
「アルテアの方でも、そのようなものだと認識はしているようだ。ただ、発掘されたばかりの古い魔術だったので、正確な情報を持ち得ていた者が、そもそも限られた人数だったそうだ。詳細を掴む前に、成果物を奪われたらしい」
「であれば、………それがどのようなものなのか、ご存知の方もいるのですね?」
「その者達は、皆、死んでしまったそうだ」
「なぬ……………」
夜に包まれた極北の土地で発掘されたのは、古い魔術の成果物だったと言われている。
サン・クレイドルブルグ大学の教授と数名の助手による極秘裏な調査が行われ、発掘された成果物は、その発掘に携わった誰かが運んでいた。
けれども、軍部へ届けられる前に、その発掘や運搬に関わった全員が無残な死を遂げてしまったのである。
「……………少し、探すのが嫌になってきました。ディノやウィリアムさんには、悪い影響はないのでしょうか?」
「魔術階位上、問題ないだろう。君も、私とウィリアムが一緒だから大丈夫だよ」
「恐らく、勝者となったロガンスキーが入手出来たからには、扱い方さえ間違えなければその階位でも扱えるものなんだろう。アルテアの報告によると、運び手にされた大学教員と助手達は、どれだけ高くてもせいぜいが可動域四百程度らしいが、ロガンスキーは七百程度はあったのではと言われているしな」
「……………よんひゃく」
ここで、そもそも数値の桁が二つほど違うネアが暗い目になり、ウィリアムが困ったように微笑んだ。
「関わった者達が死んだのは、封印を解いたり、移動させたりしたからかもしれないね。………多くの場合、遺跡などに残る魔術の成果物は、宝か封印かのどちらかだ。後者のものを解放した場合は、相応の障りがある」
「よく考えてみれば、封印しておいた物を掘り出されたら、堪ったものではありませんね。………駅舎です!」
「うん。この階段から入るよ」
駅舎はとても大きな建物で、この時代にこんなに大きな建造物を造れてしまうのだなと、ネアはぽかんとしながら見上げる。
駅前広場から階段を上がると、その全容が見えてきた。
「随分と、……………大きな建物ですね。丸屋根の天井の感じが、大聖堂のような雰囲気です」
「ここはね、ロクマリアの領の一つになる。あの国の列車を走らせる為の経路選びには魔術的な意味があることが多いから、この駅舎にも、そのような役割があるのだろう。最も古くからその手法を用いたウィームの中央駅と似ているから、その方法を踏襲したのかもしれないね」
「ここは、ロクマリアだったのですね……………」
「サン・クレイドルブルグは、元々は小さな自治領だった都市だ。大きな発展を遂げている流通の経由地だったようだけれど、黎明に呪われて力を落としたことで、ロクマリアに併合される道を選んだようだね」
「……………そのあたりは、クライメルの好みそうなやり方ですね」
「恐らく、彼の手によるものだろう。………確か彼には、黎明の系譜の部下がいた筈だ」
そこで、魔物達が憂鬱そうな顔をするのは、何も、サン・クレイドルブルグの運命に心を痛めたからではない。
そうしてこの土地をロクマリアに併合させた白夜の魔物の気配が、万が一にでもどこかにないか探る為なのだろう。
(……………硝子屋根だわ。もしこの街に朝が来たのなら、この場所はどれだけの美しさだろう)
サン・クレイドルブルグ中央駅は、大聖堂のような丸屋根が、全て硝子張りになっている。
積雪がある土地だと考えると、これだけの建物を造り上げるまでには、相当な労力と技術力が必要だったに違いない。
足元の石床は美しい灰色で、艶々とした石材が、あの天井から朝陽が差し込んだ時にはどのように光ったのだろうと想像してしまう。
駅構内には売店なども多く、切符売り場や小さなカフェなどの様々な施設が、円形の屋根の下の外円に収まるようになっているので、予め設計に組み込まれていた事がよく分かる。
石段を上って入る駅舎の正面奥が改札になっていて、制服を着た駅員が木製の改札台に入っていた。
(……………おや)
「………改札の駅職員の方は、もしや軍人さんなのです?」
「ああ。ここでは、列車の管理は軍部なんだ。治安を脅かすような事案は、駅を封じておけば大概管理出来るからな」
「確かに、列車に何かをされると大きな事故や事件になりかねませんし、外部からの最も使いやすい経路でもありますものね」
「加えて、駅そのものが、魔術的な人工の要所でもあるからなのだろう。……………ネア、あの時計台の針が揃ったところで、周囲を見て、気になるものがあれば教えてくれるかい?」
「はい。時計の針が揃った瞬間にですね!」
「うん。失せもの探しの魔術領域なのだけど、私が少し階位を上げておこう。それで、君の持つ収穫の祝福と、僅かな悪夢との癒着の残滓とで、探し物がしやすくなる筈だよ」
成果物の現れに何かの規則性があるのかなと考えていたネアは、それが、伴侶な魔物の無尽蔵さの一環であると知り目を丸くした。
とは言え、急ぐべき理由は幾らでもあるので、利用出来る物は有り難く活用し、何とかして成果物を見付けてしまおう。
「必ず見付けてみせます!」
「……………ここにはない場合もある。ゼノーシュの目も借りて、当時の地図や今も残る駅舎などを確認して場所を絞り込んでいるのだけれど、ここは悪夢の中なので、過去のままだとは限らないんだ。………今のところ、大きな変化はなさそうだけれど、どこから変化するのか分からないので気を付けておこう」
「まぁ。………この駅舎は、今も残っているのですね?」
「サン・クレイドルブルグという地名も、まだ残っているよ。今は再び自治領となっているけれど、流通の経路が変わった事で、この当時の栄華の名残が僅かに残るくらいに寂れてしまったと聞いている。あまり裕福な土地ではないけれど、魔術工房などが多いのだそうだ。ほこりとジョーイの統括地の端にあたる」
「まぁ、ほこりが!」
思いがけず、名付け子の統括地だったようだ。
この寒さはジョーイにはあんまりだという気がしたが、ほこりには当代の白夜の魔物が付いているので、そのような意味では治めやすい土地なのかもしれなかった。
(時計の針。…………まだ少し、時間があるかな………)
駅の中を行き交う大勢の人々は、観光客ではない。
ウィーム中央駅とは違い、このサン・クレイドルブルグの駅は、少し離れた土地へ仕事に出掛ける者達や、物資の運搬をする者達などが主な使用者となる。
そんな人々は、時間を気にしながら早足に駅構内を歩いてゆき、カフェに立ち寄る男達も、新聞のような情報紙を購入して目を通す間の僅かな時間を、一杯の温かな飲み物で楽しむ程度のようだ。
長居をする様子はなく、客の入れ替えも早いような気がする。
どこからか、汽笛のような音が聞こえてきた。
こちらの世界の列車は、ネアの生まれ育った世界にある列車とよく似ているが、動力源が違う。
だが、この界隈の列車の動力源は煙を出すもののようで、一度乗ったことのある蒸気機関車のような煙の匂いが微かに鼻孔に届く。
ウィームの列車や、ザルツで乗った路面列車とは随分と違う匂いだ。
丸屋根の真下の部分の床にはモザイクがあり、ロクマリアの紋章だと思われるものと、このサン・クレイドルブルグの紋章が並んで表現されていた。
そこまで歩いてくると、吊るされたシャンデリアの灯りがよく届くので、少しだけ足元が明るくなる。
(駅舎の中は、壁沿いに街灯のような灯りを立てているせいで、真ん中と壁側以外の部分が随分と暗いのだけれど、利用者はそれを気にする様子もない………)
寒さに慣れていたロガンスキーのように、この街に暮らす人々は、薄暗い駅舎にも慣れているのだろう。
そんな事を考えながらふうと息を吐き、手を繋いだディノを見上げて頷くと、ネアは、時計の針が重なる瞬間を待った。
ボーン、ボーン、ボーン。
かちりと針が揃うと、時報の音が聞こえてくる。
駅舎の中にある時計台は、立派な孔雀石や瑠璃の装飾の柱時計のようなもので、右下の床石に真鍮のプレートが埋め込まれているようなので、寄贈品か記念品なのだろう。
工房で聞いた教会の鐘の音のような時計の時報を聞きながら、ネアは、駅舎の中をぐるりと見回した。
ディノが底上げしてくれた魔術がどのように敷かれているのかは分からないが、ざわりと肌が震えるような感覚があったのは、手を繋いでいたからだろうか。
(金色の文字の看板のカフェに、どこか古びた佇まいの新聞屋。あのカウンターは郵便舎だろうか。……………軽食を売るお店と、果物と飲み物を売るお店が一つずつに、軍の管轄の窓口だと思われる事務所が一つ、駅員の事務所があって、その隣に切符を売る窓口がある)
この駅に件の成果物があるとしたら、それは、発掘場所から、このサン・クレイドルブルグ中央駅まで運ばれてきたのだろうか。
最後の運び手がどこで命を落としたのかが気になったネアは、ふと、警備員か何かだと思っていた漆黒のフードを被った人の姿が、生き物ではなく彫像だと気付く。
それはどこか聖人のような佇まいで、物憂げにこちらを見ていた。
一瞬そちらに目を奪われてしまったネアがぱちりと瞬きすると、その真横にあった一つの屋内街灯の光がじわりと青く滲んだような気がしてまた瞬きをした。
その奥に何があるのだろうと目を凝らせば、簡素な看板のせいで見落としそうになっていたものの、手荷物預かり所ではないか。
そしてそこはなぜか、言葉にし難いような、ぞっとするような暗さがあった。
「……………ディノ、見付けたような気がします。手荷物預かり所なのですが、このまま真っ直ぐ向かった方がいいですか?」
「………いや、私達は、ゆっくりと壁沿いに歩こうか。……………ウィリアム、先に向かってくれるかい?」
「ええ。俺の資質の方が、気付かれ難いですからね」
小さく頷いたウィリアムが、ばさりとコートを翻し、歩いてゆく。
これだけ軍人が多いと、君はどこの誰だねとならないのかとひやひやしていたが、魔物の擬態にそんな不手際はないのかもしれない。
ネアはそのまま、ディノに手を引かれて壁際の売店の方に向かうと、そこで、何か欲しい物がないか店を覗いてみたけれど、特にないので切符を買いに行こうというような動きを取った。
(でも、……………先程までは、周囲を気にせずに歩けていたのではなかっただろうか)
では、なぜ今は、誰かの視線を意識しているような動きを取るのだろう。
そう思えば、手荷物預かり所に向かってくれたウィリアムの事を目で追ってしまいたくなるが、余計な動きで大事な仲間を危険に晒す訳にもいかない。
(ウィリアムさんが別行動を取ったのは、終焉が雑踏に紛れるという資質があるからだろうか)
その資質を最大限に生かせば、アルテアやノアでも接近に気付かない事があると以前に聞いていたので、ここは、頼もしい終焉の魔物に任せてしまおう。
隠されているのがどんな障りにせよ、ウィリアムであれば、その種の対応にも長けているだろう。
「ディノ、……切符売り場に行きますか?」
「うん。でもその前に、この壁沿いにある灯りを見てゆこうか。同じ物に見えるけれど、一つずつ意匠が違うようだね」
「むむ!……………たった今気付きました。確かに、装飾や柱の形など、よく見るとまるで違うのですね。……………これは、リモール商会からの寄贈となっています」
「駅舎を建てる際に、様々な者達が出資をしたのだろう。その署名のようなものではないかな」
「では、あの時計も、そのようなものなのかもしれませんね」
「うん」
ディノはもう、成果物の事も手荷物預かり所の事も口にしなかったし、ネアは、必要とされる時にはディノが指示をしてくれるに違いないと考え、二個目の屋内街灯のプレートをじっと覗き込んでいた。
こちらはアクス商会からの寄贈品のようだ。
現在の状況を考えむっと眉を寄せてしまったが、優美で美しい造りである。
「……………これはこれは、このようなところでお会いするとは思いませんでした」
その声は、そんな時にかけられた。
(……………っ、)
ぎくりとして慌てて顔を上げると、そこに立っていたのは貴族的な装いをした毛皮のコートの男だ。
淡い銀髪を一本に結び、鮮やかな緑色の瞳をしている。
美しい男だが、僅かに翳りがある面立ちは万人受けするものではないだろう。
ネアの見立てで、たいへん神経質そうで陰湿そうな美貌である。
コートは深みのある赤茶色の毛色が複雑に入り混じったもので、その下の装いは漆黒のようだ。
毛皮の帽子を被っている男性が多い中、普段とは違い、帽子は被らないらしい。
そして、そんな男が声をかけたのは、ディノだったようだ。
「おや、君もこの街にいるのだね」
「ええ。友人が興味深い取引に携わると聞いたので、久し振りに訪ねてみました。……………あなたが一人でこの街を訪れたとは思えませんが、誰かとご一緒ですか?」
「私の隣にいる者が見えないのでなければ、彼女と一緒にいるよ。この子は私の指輪を持っているので、損なわないようにするといい」
「……………ほお。あなたが?」
緑色の目を瞠り、その男性は大仰に驚いてみせた。
だが、演技じみたその振る舞いの奥に、本物の驚愕が過ぎったのを、ネアは見逃さなかった。
(……………もう、きりんさんでいいかな)
初めてみる男性だが、ネアにはやはり、特定の魔物の擬態が分かるようだ。
もし、目の前の人間に擬態した魔物が何かした場合は、ひとまずはきりん符でいいだろう。
そうして、ぞんざいな邪悪さを隠して静かに立っているネアが、人間と魔物の本来の境界を越えて、高位の魔物である仮面の魔物に挨拶をする事はない。
普段のネアであればまた違う反応かもしれないが、今は、この場を何とか無難にやり過ごす事こそが最重要課題なのだ。
今暫く、ひっそりと佇んでいよう。
「……………冬の配色か。悪くはないが、如何せん可動域が低過ぎる。よく、指輪を預けられましたね」
「君が興味を示せば示す程、私が、不愉快になるかもしれないとは考えないのだね?」
「はは、そこまで踏み込みはしませんよ。ただ、…………私は商売でこちらを訪れているので、もしも、あなたのような人物が競りに加わると都合が悪い。…………であれば、この同伴者はどのような人間なのだろうと思うのも、致し方ないのかもしれません」
「君にとっての有意義さが失われないようにしたいのであれば、私の領域を脅かさない事だ。……………指輪持ちを得た魔物が狭量であることくらい、君も良く知っているだろう」
隣にいるネアですらひやりとするような声音に、明らかに選択の魔物に違いない、銀髪の男は何も言わなかった。
ただ艶やかに微笑み、胸に手を当てて深々とお辞儀をする。
こつこつと靴音を立てて立ち去るその男性を見ながら、ネアが考えていたのは、こんな時の野生の魔物がどう反応するかだった。
(多分、声をかけてきた段階で、ディノに言われるような事は考えられた筈なのだ……………)
面倒なものを回避する事は出来る魔物である。
であれば、その上でわざわざなされたこの挨拶は、どのような意図あってのものなのか。
「……………そう言えば、シルハーン」
ネアが、ポケットの中のきりん符を握り締め直したのと、立ち去った筈の男が、聞きなれた声音でそう続けたのはほぼ同時であった。
じゃりんと、装飾のある錫杖を振るうような重たい音が響いた。
「っ、……………まさか、本気で潰しにかかるとはな。どれだけ気に入っているんだか」
「それを理解した上でも、まだ続けるつもりかい?」
一瞬の勝負は、ディノの方に軍配が上がったようだ。
ネアがきりん符を取り出すよりも早く、魔術的な応酬があったらしい。
ほうっと胸を撫で下ろしたネアの視線の先で、アルテアは、だらりとなった片腕を押さえて顔を歪めている。
あの瞬間に擬態を解いたのか、そこに立っているのは、先程の銀髪の男性ではなく、同じコートを着たアルテアに他ならなかった。
だが、苦痛を堪えるようにふっと笑った魔物は、ふと視線をこちらに向け、なぜか瞠目している。
その視線を辿り、ディノがこちらを見た。
「……………ネア、ハンマーは使わなくていいよ」
「むぅ。きりんさんだとディノも危ないかもしれないので、ハンマーで粉々にする方を選んだのですが、ばりんとしておかなくていいですか?」
「うん。一時的に、魔術を大きく削いである。……………それは何だろう?」
「ダリルさん特製の、すぐさまべたべたきのこが生えてくる術符です。少し弱っているのなら、これできのこまみれにしておけば……」
「………ご主人様」
使い魔とはいえ、悪夢の中産であるので容赦がないネアに対し、ディノはそんな伴侶の残虐さが恐ろしくなったのか、少しだけ怯えたように身を寄せる。
ネアとて、見知った相手がきのこの苗床になるのは本意ではないのだが、この悪夢からの出口を譲れない以上は、手段を選んでいる余裕はない。
「……………は?」
相手は、きのこの術符と聞いて混乱しているようなので、今かなと思ったネアはきのこ術符をぎゅっと握り締めた。
「ネア、もう大丈夫なようだから、それは使わなくていいよ」
「……………む」
「ウィリアムが、切符を買ってくれたようだ」
「……………おい、ウィリアム連れなら、さっさと言えよ」
「私達は、この街を出るところだったのだけれど、もう少し留まって欲しいかい?ウィリアムにも挨拶をしておきたいのなら、この子の術符を試してみるのは、もう少し後からの方が良さそうだね」
「やれやれだな。ウィリアムがいるなら、こちらの競りに加わっているということはないだろう。……………サン・クレイドルブルグを出るのであれば、早めの列車を使うべきだろうな。午後は運休予定だ」
「おや、君がそうするのではなく?」
「さてな……………。いいか、必ず、ウィリアムも連れて帰れよ。この手の魔術闘争を嫌うあいつが近くにいると、商売の邪魔だ」
「そうだね。列車が動くのであれば、私達もこちらに残る理由はないだろう」
肩を竦め、アルテアは、先程まで押えていた片腕を慎重に動かすと、無事に治癒し終えたものか、一つ頷いて背を向ける。
ネアは、先程感じたような不穏さを残さない後姿に、成る程、本当に終焉の魔物がいると抑止力になるのだなと感心してしまった。
ややあって、茶色い毛皮のコートがふっと雑踏に紛れ、不自然なくらいにさっぱり見えなくなると、ネア達は顔を見合わせた。
ネアは、空いている方の手でそっと三つ編みを掴み、ディノは少しだけ目をきらきらさせる。
「切符が買えたのなら、もうお家に帰れます?」
「うん。……魔術証跡も消えたようだから、アルテアは、完全にこの周辺から立ち去ったようだ。ウィリアムのところへ行こうか」
「はい。………その前に、少しだけいいですか?」
「……………ネア?」
「えいっ!!」
ネアはここで、隣の屋内街灯の前に立っていた一人の男性に、べたべたきのこ符を投げつけておいた。
はっとしたように目を瞠った男性が、ぎゃーっと声を上げてきのこまみれになる様子は、加害者であるネアにもなかなか衝撃的な映像だったので、さっと顔を背けて見ないようにする。
「……………ご主人様」
「むぅ。今の、……………もうキノコに覆われてしまった男性は、以前にヴェルリアのアクス商会のお店で、お見掛けしたことのある方だったのですよ。罪のない通りすがりのアクス商会職員の方かもしれませんが、悪夢なのでひとまずは無力化しておきました」
「……………無力化してしまうのだね」
「はい。このような場合は、多めに見積もって殲滅しておくのが、安全の秘訣なのです。人間は、とてもか弱く臆病な生き物ですので、精一杯威嚇するのですよ!」
「……………威嚇なのかな」
そちらは魔術の道などには入っていなかったのか、突然、駅舎の中にきのこまみれになって倒れたお客が出たので、周囲は騒然としたようだ。
慌てて駆け寄ってきた壮年の軍人男性が、植物の系譜の感染症かもしれないので近付かないようにと、周囲の人々を宥めている。
ネア達は、ざわつく駅舎の中を悠々と歩き、切符売り場に微笑んで立っているウィリアムと合流した。
「ひやりとしましたが、アルテアは、無事に立ち去ったようですね」
「本人が記憶しているよりも、三日程早くこの街に到着したようだ。やはり、悪夢らしい改変もあるのだろう。……………これかい?」
「ええ。中身を確認しましたが、やはり空ですね。……………ですが、門としては使えそうです」
「という事は、悪夢の核となった人間は、それがどのようなものなのかを知らないまま、破棄したのだろう」
「むむ。………そのカードの中は、空っぽなのですか?」
ウィリアムの手にあったのは、一枚のイブメリアのカードだった。
祝祭を祝うリースを飾った扉の絵があり、上質紙を使った美しいものだ。
そのカードが入っていたのであろう赤い封筒には、相変わらずネアには読めない文字で、誰かの走り書きがある。
まるで、贈り物のカードを預けただけにも見えるそんなものが、本当に、あの王女に、悍ましいとまで言わせる障りの入れ物だったのだろうか。
(発掘されたと聞いていたから、もっと重厚な魔術書だとか、見るからに怪しそうな古びた扉を想像していたのだけれど、そのようなものであれば、そもそも手荷物預かり所に預けられる筈もなかったのかもしれない……………)
「ああ。俺も少し意外だった。この場でいいだろう。ネア、このカードを開いてみてくれるか?」
「はい!」
「君から離れないようにしておこう。…………ウィリアムもこちらに来ていた方がいいかな」
「ええ。俺も離れないようにしておきましょう。俺達は別の道からも帰れますが、ネアの側を離れたくありませんからね」
「うん。………ネア、少しだけ待ってくれるかい?」
「むむ……………」
ここでディノが取り出したのは、小さなリースの絵のあるシールのようなものだった。
ウィリアムが持っているカードの裏側にぺたりと貼ると、一つ役目を終えたかのように、小さく息を吐いている。
ネアの視線に気付き、淡く微笑む姿はどこか物憂げにも見えた。
「……………私達が立ち去った後の、目印としてね」
「目印……………?」
「さぁ、開いて御覧。悪夢の風向きが変わる前に、ここから出てしまおう」
「はい。では、開いてみますね!」
ディノが羽織りものになってくれ、ウィリアムはディノの腕に手をかけた。
きのこ事件に騒然としている駅舎の中では不自然な身の寄せ方ではあるが、もうここから出て行くので、今更誰かの目を気にする必要もないだろう。
手渡されたカードは、やはりただのイブメリアのカードに思える。
少しざらつきのある上質な紙の手触りに、カードの絵は、リースの葉やリボンの細部までが描写されていて、繊細で美しい。
(……………あ、)
けれども、何も書かれていないまっさらなカードを開くと、ふわりと懐かしい雪と森の香りがした。
ウィームの香りだと思えば、その途端に周囲の風景がざらりと解ける。
「これで、帰れそうで……………にゃ……………ぎゃ!!!!」
最後の最後で、きっとこのまま、ふわりと転移を踏むように家に帰れるに違いないと考えていた人間の予想は、ここで大きく裏切られた。
まさかの、真っ逆さまに落下する方式の出口に、ネアは、悲鳴の尾を引くようにして落ちてゆく。
勿論、しっかりとディノが抱き締めてくれているのだが、その腕の中にいても落下は落下なのだ。
人間の体はこれだけの距離の落下に準備なく適応出来るようにはなっておらず、ネアは、なぜあんなに朝食を沢山食べてしまったのだろうと後悔でいっぱいになる。
何しろこちらは、よりにもよって、昨晩強いお酒で酔い潰されたばかりの、か弱い乙女なのだ。
「戻ったか!」
「……………ったく、ひやひやさせやがって」
「ネア様、ご無事で何よりです」
「よーし。受け止めきれたかな。……………ネア、大丈夫かい?」
ぼすんとどこかに落とされて、安堵の声を上げる懐かしい家族の声が聞こえてくる中、ネアは、くらくらする頭を振ると、胃の辺りを押さえて、とても酔いましたと申告しなければならなかった。
ただし、すぐさま用意された薬湯が、沼味だったのは本末転倒だと思う次第である。
成果物がイブメリアのカードだったからこそ、ロガンスキーが手に入れることが出来たのかもしれないと考えたのは、薬湯を飲んで、使い魔に寝かしつけられてからだ。
それは、古い魔術からなる贈り物として、愛する人のために求めた者の手にこそ、現れたのかもしれない。




