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220. 春を告げる入り口です(本編)




はらはらと雪が降る、穏やかな日のことだった。

ネアは、がたんと音を立てた扉の音に気付き、おやっと振り返った。



確かに誰かが扉を開けたような音がしたのだが、気のせいだったのだろうか。

隣にいてお喋りしていたヒルドとゼノーシュと、顔を見合わせる。


だが、カーテンに包まっていたノアがよろよろと出てくると、えいっと扉に手をかけて開いた。

ネアの位置からは廊下が見えないのだが、やはり誰か来たらしい。



「……………おい、何だあのドレスは」

「わーお。やっぱり、アルテアだ………」

「シシィはどこだ?」

「今日は、来なかったんだよね。着付けについてはドレスの持ち込みの際に説明があったからさ、………酷いと思わない?あのドレス………」



そんなやり取りが聞こえてくるのだが、ネアは、用意して貰った鏡の前で、なぜに部屋に入ってこないのだとばすんと弾んでいた。


とても素敵なドレスなので是非に褒めて貰いたいのに、伴侶と義兄はカーテンに包まって出てこなかったし、本日の同伴者は廊下に逃げてしまったようだ。

とても謎めいている。



「ぐるる………」

「とてもお美しいですよ。どちらかと言えば可憐なドレスですが、色合いで繊細な美しさを引き立てておりますね」

「ふにゅ、ヒルドさん………」

「うん。僕もリャムラみたいだと思う。アルテアって、まだこうなっちゃうんだね………」

「ゼノも褒めてくれました!…………それなのに、なぜ本日の同伴者が廊下から出てこないのだ」



霧菫の生地を使ったドレスは、透けるような生地を重ねる事で、色合いが複雑に変化する素晴らしい物であった。


確かに肌に血色を滲ませたようなベージュ色に見える部分もあるが、そこに重なる霧のような白色、淡い菫色に、淡い青みの菫色と変化する。


薄い生地に皺を寄せて花びらのような繊細な質感をつけたパーツを重ねたスカートは、軽やかさが例えようもなく美しい。

ふわりと重なり満開になる前の薔薇の花のように見えるのだが、これが背面となるとがらりと雰囲気が変わる。


アーヘムに施された繊細な刺繍が花びら状の生地の縁に施されることで、花びら状の生地が、今度は優美な鳥の羽のような華やかさを宿すのだ。

背面全体ではなく、背中から真っ直ぐに落ちる部分の一列だけを刺繍入りにすることによって、まるで鳥の尾羽のような印象を与えていた。



(背面のスカートを膨らませて少し長めにしてあるので、淡い淡い色でどこまでも上品なのだけれど、雪孔雀のような華やかさが僅かにあって、その加減がまた絶妙なのだ………)



やはりこのドレスは何て美しいのだろうと胸を張り、ネアは、あまり気乗りがしなさそうに部屋に入ってきたアルテアに誇らしげにドレスを見せてみた。


古典的な形のデザインは、肩を落とし胸元はある程度開いているが、肘上までの優しい膨らみのパフスリーブが何とも上品で優美であった。

装飾品はいつもの首飾りの結晶石の色を変え、乳白色から淡い菫色にしてある。


耳飾りの一つは同じ色に擬態させたヒルドのもので、もう片側は、アルテアに首飾りの色と耳飾りの色を伝えた上で頼んであった。



「髪の毛は、アルテアさんが素敵にしてくれる約束なのですよ?」

「………おい、弾むな」

「なぜ後ろに下がるのだ。髪の毛に、その手に持っている薔薇の花を素敵に飾って貰う約束なのです」

「弾むな。…………大人しくその椅子に座れ、いいか、動くなよ」

「むぐぅ………」



だが、ふうっと息を吐いた選択の魔物は、手に持っていた籠をヒルドが用意した机の上に置くと、手袋を外した。



(…………あ、)



ここでネアは、外套かなと思っていた純白の装いが、本日の春告げの舞踏会の盛装姿である事に気付き、鏡越しに凝視する。



「…………まぁ。………今年の春告げの舞踏会は、少し趣きを変えた装いなのですね?」

「毎年同じでも飽きるだろう。………特に、ここ数年は、お前の専属だからな」

「そろそろ恋人さんと……」

「余計な詮索はするなと言っておいた筈だが?」

「むぅ。私の同性のお友達沢山計画は、いつになったら最初の一人を得られるのだ………」

「さぁな。諦めておいた方がいいんじゃないのか?」

「ぐるる………!」



今年の選択の魔物の装いは、おやっと思う程の端麗な盛装姿で、詰襟で足首までの禁欲的な仕立てのケープを羽織り、ケープの合わせと襟元、そして裾部分に、同色の白ではっとする程に精緻な刺繍を入れてある。


光の角度でその糸が僅かな白薔薇色とも見える色を帯び、きらきらと光るのは縫い込まれた結晶石だろう。


神官や聖職者を思わせる盛装姿だが、ひたりと視線を向ければその印象は一変する。

禁欲的な印象はどこへやら、どきりとするような艶やかさと色めいた美麗さは、主にこの装いを纏うアルテア自身が映すものなのだ。



(例えば、悪しき者が纏う聖衣程に、悍ましく美しいものはないという。善良で凡庸な者や、生粋の聖なる者が身に纏うよりも、その佇まいは美しく魅力的に見える)



それはずっと昔に読んだ物語の一説で、その時は、美しい異教の怪物が聖職者のふりをして教会に潜んでいたのであった。



思わずそんな一節を思い出してしまう程に、今年のアルテアの盛装姿は月並みなものではなく、物語の背景が浮かぶような美しさではないか。


もし、服だけを見せられてこれが誰に一番似合うかと問われたなら、ネアは躊躇わずにディノだと答えただろう。

だが、こうして着てみれば、アルテアにぴたりと嵌る装いなのであった。




「…………何だ?」

「前髪を上げているので、はっとする程に清廉で、けれども恐ろしくて美しいものだという感じになる装いなのですね。ケープは捲ってもいいのですか?」

「………おい、何でその言い方にした」

「内側は秘密なのです?」

「いや、会場では片側のケープは肩にかけるぞ。踊り難いだろうが」

「むむむ!アルテアさんが、ダンス大好きっ子であることを、うっかり失念していました」



指先が髪に触れ、魔術道具でもあるコテでくるんと巻きを付けてくれる。

しゅわっとかけられたのは、ウィリアムも使っていた髪型を維持してくれる薔薇水で、果実のような清しさもあってとてもいい匂いなのだ。


巻きを付けて結い上げた髪は、ネアが望んでいたようなふわっと崩す形であった。

すっかりご機嫌になって微笑みを深めたネアに、鏡の中で満足げに微笑む口元が見える。

こちらのご機嫌も直ったようだなと思っていると、近くにいたゼノーシュがにっこり微笑んでくれた。


そのままぱたりと倒れそうな愛くるしさだが、本日のクッキーモンスターは、とある作戦の為にここにいるので、決行待ちをしているのだろう。



(ディノ達は……………)



どうしたのかなと思い鏡の中を見れば、ノアはわざわざそこに戻ったのか、仲良くカーテンの影からこちらを見ているではないか。

仲良しなのはいいのだが、折角綺麗にするので、是非出てきて褒めて欲しい。

伴侶兼義妹は、とても我儘な人間なのだ。



籠の中に用意した薔薇を髪に挿し、それを魔術で固定してゆく。

これは髪結いの魔術の一つで、どれだけ踊っても、髪を解くという行為に入らない限りは花が落ちないのだから、ネアは不思議でならなかった。


微かな薔薇の香りに、どこか厳かにさえ感じられるこの髪結いの儀式は、春の気配に触れる前の息継ぎのようなもの。

わくわくとする胸の中に、静かな静かな煌めきとなって降り積もってゆく。


目を閉じれば、もう春告げの舞踏会の会場が見えてきそうなくらいに、冬の出口にある季節の舞踏会の記憶は鮮やかであった。



「出来たぞ。……………耳飾りも、付けておいてやる。このドレスだと、会場が見えてからだと不用心だからな」

「まぁ、思い描いていた通りの、ふわっと崩したような素敵な髪型になりました!有難うございます」

「今年は、お前の側を離れるのはやめておいた方が無難だろうが、ダナエと踊る時も、くれぐれも事故るなよ?」

「解せぬ………」



立ち上がり、伴侶の方を振り返ると、きゃっとなった魔物が目元を染めて三つ編みを握り締めている。


ネアは、容赦なくそちらに近付いてしまい、背後では、今だと思ったのか、作戦を決行したゼノーシュによる、アノンのリストランテでメルルーサのパイが出るのはいつなのかという質問が繰り出されていた。


そんなやり取りを聞き、食いしん坊なクッキーモンスターが、大事な歌乞いの為に美味しかったパイ情報を仕入れられますようにと祈る。

なお、ゼノーシュが美味しかったと忘れられずにいるくらいのお魚のパイは、ネアだって食べずにはいられないので、いつか制覇してみせよう。


魚から溢れた美味しいスープを、一緒に入れたジャガイモやパイが吸い込み、さくさくほくほくとした美味しさなのだそうだ。




「ディノ。髪の毛を、アルテアさんに綺麗に結い上げて貰いました。この、淡い菫色と白の薔薇を飾って貰ったので、思っていた通りの素敵な髪型になったのですよ?」

「……………虐待する」

「あらあら、このドレスが届いた日には一度踊ってくれたのに、また弱ってしまうのです?」

「……………虐待した」

「むぅ。どうしてノアまで毎回弱ってしまうのです?最初の一人が投降すれば、私の伴侶も出てきてくれるかもしれないので、大人しく出て来るのだ」

「……………うん。そのドレスはさ、まさに虐待って感じだよね。僕も、間違いなく虐待だって心から言えるよ」

「なぜなのだ………。えいっ!」



ここでネアは、カーテンをえいっと捲ってしまい、魔物達はきゃっと飛び上がった。

身を隠すものを奪われたディノを引っ張り出し、へなへなになって前に出た伴侶の前で、くるりと回ってみせる。



「どうですか?」

「…………凄く可愛い。……………綺麗だよ、ネア。沢山虐待する」

「なぜ最後の一言を付け加えてしまうのでしょう。ノアも、このドレスがどれだけ繊細で可憐なのかを、見て下さい。背面の羽のような部分も素敵ですよね?」

「色がさ…………良く見なくても、肌が透けて見えるようなドレスじゃないっていうのは分かる色なんだけど、でも、そのベージュの色合いが何かを色々と想像させるんだよね。しかもさ、花びらと羽って、………何ていうか、中を暴きたくなる二大意匠だよね。それでいて形としては古典的とか、ずるくない………?」

「むぅ。こちらも、最後の一言がいらないのです………」



ネアは、もう一度褒めてくれるかなと、くりんと後ろの部分のスカートを揺らして見せ、自慢の羽部分をディノに見て貰った。


謎に息も絶え絶えの伴侶から、とても美しいという賛美を引き出したので、邪悪な人間は満足して本日の同伴者の下に戻る。



「……………おい、弾むなと言わなかったか?」

「小走りという技なので、弾みとの違いをどうか覚えておいて下さいね。そろそろ出ますか?」

「ああ。………会場では、くれぐれも手を離すなよ」

「とても警戒されていますが、両手でいただかなければいけないお料理がなければ、吝かではありません。春嵐めがいたら、面倒なのです」

「……………安心しろ。あいつは今年の春告げには出てこない。グレアムが、…………何か話をしたらしいからな」

「春嵐さんがどうなってしまったのか少し気になりますが、どうでもいい方でもあるので、来ないと分かればぽいです!」



差し出された手を取り、腕に手をかけて貰う。

かつんと響く靴音にアルテアの羽織ったケープの裾がひらりと揺れた。

細身の聖衣めいたすっきりとした意匠だが、軽やかな生地で動きが出るようだ。


よく見れば、白一色に見えていたケープには繊細な織り柄があり、しっとりとした質感は上質な天鵞絨のようでもある。

だが、絹織物めいた筋状に光の入る独特の艶があることで、手触りとは相反した質感に見えるらしい。


アルテアは、ネアの手をかけさせた方とは反対側のケープをばさりと持ち上げて肩にかけると、ネアは、鏡に映ったアルテアの姿におおっと目を瞠った。


ケープの内側も聖衣めいた雰囲気はあるが、殆ど白に近しい白灰色の服は、上着の裾が膝上まである型の軍服に見えなくもない。

こちらの上着には合わせがなく、その代わりに、艶やかな菫色の宝石飾りのある飾り帯が、はっと目を引くような差し色になっていた。


僅かに異国風だが、ウィームのものだと言われればそう信じるくらいの、ひと匙なのだろう。

また、ランシーンの婚礼衣装だと言われればそう信じただろうし、ガーウィンの高位聖職者の装いだと言われても、そう信じてしまうような装いだ。



「ふむ。どこか不穏な静謐さで、尚且つ、脱がしてみたくなる禁欲的な感じがしますね」

「……………お前な……………」

「おや、本日は儀式的な意味合いの強い舞踏会ですので、そのようなことをなさりませんよう」

「むむ、そうでした。そして、美味しい舞踏会のお料理をいただき、今年こそは春告げの女王の座を奪還してみせます!」

「言っておくが、今年の商品は春告げの精霊の屋敷に招かれて、延々と春の庭を案内されるだけだぞ」

「………何という残酷な仕打ちなのでしょう。それは、本当に賞品と言えるのですか?」



勿論、本来であれば、春の最高位の精霊の領域に招かれるのは、光栄な事である。


だが、春や夏の系譜の祝福を受け取り難いネアであるのだし、よく知らない気体にもなる精霊とその精霊の屋敷の庭で過ごすのは、一人上手には荷が重過ぎた。

女王の座を取り返すのは、また来年にしておいてやろうぞと、他の参加者の健闘を心の中で祈っておいた。


若干、あの舞踏会に出るような者達の中には、その贈り物を喜ばない者も多いような気がしたが、これは一人上手の人間の意見なので、人外者達は思っているよりも社交的なのかもしれない。



「そろそろ出るぞ」

「はい。………ディノ、皆さん、行ってきますね」

「アルテアなんて……………」

「僕さ、あれで箍が外れないとか、寧ろアルテアが心配になってきた……………」

「ネア、美味しい物があったら、帰ってきてから教えてね!」

「どうかお気を付けて。くれぐれも、同伴される方の服に手をかけてはなりませんよ」



それぞれの送り出しを受け、ネアは、微笑んで手を振る。

ゼノーシュの表情からすると、メルルーサのパイの日は無事に確認出来たようだ。

或いは、そのパイを焼くと分かったら連絡が貰えるような約束などをしたのかもしれない。



(いよいよだ………!)



春告げの舞踏会に向かう為に踏み渡る淡い薄闇は、いつだって闇の中に花影の色が滲むのだ。


そんな美しさにわくわくと胸を高鳴らせつつ、ネアは、すっかりお気に入りとなったドレスの裾が、温度のない魔術の風に揺れる様子を楽しむ。

シシィ曰く、このドレスは短め丈でも綺麗なのだそうだが、残念ながらネアは、面立ちや得意とする雰囲気的に裾の短いドレスは似合わない。



(綺麗なドレスを着て、美味しい物を食べて、絵のような会場の中でダンスを踊る。……………春告げの舞踏会が今年もやって来たのだわ……………)



そう考えて胸を高鳴らせていたネアは、転移の先に現れた満開の桜の木のトンネルに目を瞠った。

興奮して弾みかけたところで、アルテアにぐいっと腕を引かれ、この興奮をどうしてくれるのだと足踏みした。



「桜のトンネルです!」

「……………今年はスリジエだ。辛うじてだがな。それと、おかしな動きをするなよ」

「おかしいのですよ。捕縛した不審者への忠告のようになっています」

「そんなものより、余程危ういがな。…………ネア」

「はい。……………む」



名前を呼ばれて見上げると、ふっと落とされたのは淡い口付けだ。

ここで祝福を貰うのは珍しいなと首を傾げていると、アルテアはふうっと息を吐き、肩を竦めた。



「毎回毎回シシィの策に乗せられやがって。お前もそろそろ何かを支払うべきだろうが、この程度にしておいてやる」

「まぁ。という事は、今のは私からアルテアさんへの、祝福になるのですか?」

「ほお、それは妙な話だな。お前に、祝福を象るだけの可動域があるとは思えないが?」

「ぐるるる!」



繊細な問題を粗雑に扱った使い魔は強く威嚇しておき、ネアは、満開の花の下を抜けて春告げの舞踏会の会場の入り口に立った。



(わ………!)




そこに満ちる静かな音は、まるでピアノの音色のよう。



「まぁ。今年は、雨の日の春なのです?」

「霧雨だな。春の景色の中では珍しくはないが、会場の外周だけに降らせるともなれば、霧雨の精霊王の協力でも仰いだというところだろう」

「イーザさんのお父様ですよね。お会いしたことがあります」



今年の春告げの舞踏会も、行われるのは春の森であった。


花が咲き零れるような木々は、桜にライラック、ミモザなど。

様々な花木が新緑の森を彩り、雲間からの青空と陽光に煌めく霧雨の雫を浴び、瑞々しく咲き誇る。

木々の根元には、春の花々が咲き乱れ、淡い白ピンク色の薔薇が何とも可憐であった。


床石が敷き詰められたダンス会場の外側には、下草には細やかな青い花が咲き、魔術で守られていると知らなければ、踏んでしまうのが勿体無いほど。

会場の中央から外れたそちら側には、テーブルが置かれて、様々な器に盛り付けられた料理が並んでいた。




(……………綺麗)



雨を降らせる雲と、その雲間から差し込む光の筋とで、春告げの会場は息を呑む程に印象的な、光と影の間にあった。

思わず見惚れてしまったネアが、弾まない代わりに、アルテアの腕をわすわす揺らしてみせれば、こちらを見た美しい魔物が、どきりとする程艶やかに微笑む。


ああそうか、この魔物はこんな風に微笑むのだったと思わせる、魔物らしい対岸の微笑みに、ネアは久し振りにはっとしてしまった。


今日のアルテアが何か悪さをするという訳ではなく、今年の選択の魔物の装いが、魔物らしい酷薄さこそを引き出すような仕立てなのだろう。

光を孕む赤紫色の瞳は微笑んでいても仄暗く、はらりと額に落ちた前髪の一筋がなぜだか色めいてさえ見える。


近くにいた招待客の中には、頬を染めてそんな魔物を見ているご婦人達もいたが、であればと安易に声をかけられるような魔物でもないのだろう。

ぼうっと見つめてはいても、近付いてくる様子はない。



「あちらにいらっしゃる方は、なにやつなのでしょう」

「……………妙なものばかり見付けやがって。新芽の妖精のシーだろうな」

「人型に見えない事もありませんが、巨大な棒ドーナツのようにも見えますね…………」

「おい、やめろ……………」

「お相手の方が綺麗なご婦人なので、なぜなのだという気持ちでいっぱいになるお姿でした……………」



こつりと踏んだ床石には、白ピンク色の花びらが振り撒かれていた。

ネア達が訪れたのは丁度音楽の切れ間だったようで、指揮者がタクトを構え、楽団が優美なワルツを奏で始める。


高位の魔物の訪れに気付き、近くにいる者達が一斉にお辞儀をした。

その向こう側でダンスを踊る者達がいて、花びらのような淡い色のドレスがふわりと咲き揺れる様子は、夢の中にいるような幻想的さで、ネアは思わず唇の端を持ち上げてしまう。


頭上にせり出した枝から、はらりと花びらが落ちてきた。



「綺麗ですね………」

「まずはダンスだな。………おい、食べ物は後にしろ」

「むぅ。お料理のテーブルはいち早く捕捉しましたので、今は、ダナエさん達を探していたのですよ。…………あちらにいました!まぁ。お話をしているのはロサさんです?」

「ネビアと、白薔薇の妖精だな」



すっと歩み寄った給仕から、アルテアがシュプリを受け取ってくれ、ネアはしゅわしゅわと泡を立てる最初の一杯に口を付ける。

今年の給仕は、美しい初老の老人達で、ネアは春の資質で老人の姿なのだなと考える。

気付いたアルテアが、真昼の時間の座の精霊の系譜だと教えてくれ、漸く腑に落ちた。



「そちらの時間の座に連なる方々は、初めて拝見しました。理知的で穏やかな雰囲気で、言われてみるとお昼のような温かさがあるのですね」

「お前とは相性の悪い資質だろうよ。寛容だが、怠惰な連中でもあるが、さすがに系譜の妖精は働くようだな」

「妖精さんだったのです……………?」


妖精の羽があるようには見えなかったので目を凝らしていると、真昼の時間の座の妖精達は、あまり飛ばないので羽は退化してしまって服に隠れるくらいの大きさしかないと聞き、ネアは驚いてしまった。

どうやら妖精にも、使わない器官が退化するという現象が起こるようだ。



「相変わらず、その人間を連れているのね」

「……………ああそうか。今年は、月光百合の年だったな」

「ええ。春告げには久し振りに来たわ。秋告げとは違って、この華やかさも好きなのだけれど、春の気質はどうも好まないのよね」


今年の春告げは特別参加で、たまたま近くにいたという月の魔物がアルテアに声をかけたので、ネアは、その間は大人しくシュプリを味わう時間とさせて貰った。

同伴者は初めて見かけるうら若き青年で、ネアのことは軽蔑したような目で一瞥した後、うっとりとダイアナを見つめている。


こちらに関わりがなければ嗜好はそれぞれのものなので、ネアとしても異存はない。

この隙に、シュプリを飲みながら、息を呑む程に美しい月の魔物のドレスなどを観察させていただこう。


淡いクリーム色にきらきら光る結晶石を縫い込んだ刺繍を施し、月の光を紡いだような装飾品を身に付けたダイアナには、春の系譜の妖精達のような可憐さはない。

艶やかで美しいひと柱の魔物らしい美しさは、畏怖すら覚えるような怜悧さでもあったが、女性の友人が未だにいない不遇の乙女は、女性らしい優美さや繊細さをしっかり凝視しておいた。


にんまりしているので途中でダイアナの同伴者の青年が怪訝そうにこちらを見たが、自分と同じように月の魔物を賛美する眼差しであると気付けば、どこか得意げな表情をしている。

その視線を追い、こちらを見た意地悪な選択の魔物におでこをびしりと指で弾かれたものの、美しい女性成分をたっぷり補充したネアは概ね満足である。



「ですが、乙女のおでこは大事ですので、攻撃などしてはならないのですよ」

「あれも高位の魔物だ。迂闊な視線を向けるな」

「だからこそ、アルテアさんの元恋人さんであるのをいいことに、こっそり凝視しておいたのです。やはり、凛々しさも感じるような優美さや美しさが格別な方ですねぇ……………」

「賛美という感情そのものが、あいつの糧になる。俺よりも下位の魔物に対して、妙な執着を持つなよ」

「なぜ、観賞だけでもこんなに不自由なのだ。……………そう言えば、あの方が春告げにいらっしゃるのは、特別な事なのですね?」

「ああ。何年かに一度、春と月の系譜の百合の花が咲く。側陸地にしかない品種だが、広域で好まれる花だからな。その系譜の王として、ダイアナが春告げに参加する事になる」



その百合は、月の光を浴びる満月の夜に咲き、次の新月の夜に枯れるのだそうだ。

夜になるとその日の月を映してぼうっと輝くので、多くの生き物達が、ランプ代わりに重用していた。


人間だけではなく、人外者達も、美しく光る百合の群生地で夜会などを催す事も多く、月百合の乙女と呼ばれる月の系譜の妖精達は、コップ一杯の砂糖水や、小さな砂糖菓子を与えると快くそれを許してくれる。

植物の系譜ではあるものの、相応しい敬意を払い不義理を働かなければ寛容だという、月の系譜の資質の一端を強く持つのだそうだ。


「という事は、ジョーイさんも今年は来ている筈なのですね」

「あいつの場合は、統括位としての参加でもあるがな。………ほお、今年は、春風のシーがチューリップの同伴者を得たか。………失せ物探しの結晶を集めるなら、今年の物は質が上がるぞ」

「なぬ!帰ったらすぐに、チューリップ畑を襲いに行きますね!」



失せ物探しの結晶は、ネアの大事な常備品の一つだ。

質が良い物であればより使用の幅が広がるので、是非に押さえておきたい。

素敵な収穫の予感にむふんと微笑み、ネアは、いいチューリップの狩場を知っている優越感に浸った。

最近では、チューリップを傷めない収穫方法も会得したので、ディノに一緒に行って貰おう。



「……………おい」

「む?」


だが、ここで少しだけ使い魔が荒ぶった。

どこか不機嫌そうな声で引き寄せられ、おまけに、自分で引き寄せておいて向き合ったネアを見て眉を顰める。


「あれは、アリッサムだ。階位のない白だが、見目はいい。その代わりに、残忍で享楽的だぞ」

「……………もはや、それが誰なのかすら分かりません……………」

「そちらを見ていただろうが」

「あら。私は、脳内でどれだけ失せ物探しの結晶を収穫出来るか考えていただけなので、特定の誰かを獲物にしようとしていた訳ではないのですよ。因みに、そのアリッサムさんは、倒したり捕まえたりすると、何かいいことがあるのですか?毛皮の部位があるという報告でもいいのですが……………」

「……………ないだろうな。ったく、紛らわしい表情をしやがって」

「なぜに叱られたのだ」



アリッサムとやらを探そうと視線を巡らせたところで、グレアムの姿を見付けた。

今年の春告げの同伴者は、上品そうな美しい老婦人である。

朗らかにお喋りをしている様子からすると、ハザーナなどとの関係に近い相手なのだろうか。

如何にもグレアムらしいお相手ともいえた。


そうこうしている内にダンスの輪に近くなり、ネアは、アルテアに空になったグラスを預け、給仕に渡して貰う。


ダンスを行う会場の中央は外周よりも少し明るくなっていて、花びらが敷き詰められていた。

馨しい花々の香りと、会場の外側に降る霧雨の水の香り。

そして何より、春の系譜の者達の淡い色合いの装いは、うっとりとしてしまいそうなくらいに繊細で美しいのだ。



「ステップを間違えるなよ」

「はい。そして、アルテアさんが間違えた場合は、さっと手を離しますね」

「ほお、お前が手を離しても、俺が離さなければ道連れだがな」

「ぐるる………」



預けていた手をダンスの為に入れ替え、ぐいと腰を引き寄せられる。

最高位の魔物の動きに注視していたらしい指揮者が、選択の魔物が準備を整えたのを確認し、タクトを振った。


奏でられ始めたワルツに最初の一歩を踏み出せば、春を告げる舞踏会の祝福を得るダンスの始まりだ。

毎年出会うお米型生物が近くで踊っているのが気になるが、何とも贅沢な春の情景を堪能しようと、ネアは音楽に身を委ねることにした。












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