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217. 薔薇は音楽に宿ります(本編)




たたんと落ちた旋律に、ネアは目を瞠った。



その音は、柔らかく淡く揺らぎ、そのまま繊細でどこか切々たる物語のように縁取られ、ごうごうと吹き荒ぶ。


胸の奥を転がるように煌めかせ、目の前の鉢に植えられた薔薇の可愛らしい形の葉をふしゅんと揺らした。

それはまるで、素晴らしい音楽の雨に打たれて歓喜に身震いしたようであり、ぱちんと打つ手がないだけの喝采にも思える。




(この曲は………)



その曲をネアはよく知っていた。



何度耳を傾けて、歌詞を読み解きながら心を委ね、静かな雨の夜や、わぁっと声を上げて蹲りたい夜明けに旋律の向こう側にある物語の橋を見ていたことか。


こんなにも劇的ではなくてもいいから、自分の物語がいつか動き出さないかと考えて、馨しい空気の春の夜に公園を歩いたこともある。

小さく口ずさみ、その音に溺れて、四角い物語の本を開くように過ごした日曜日もあった。



(…………私が歌った曲だわ。………そうか、これは歌乞いの伴奏なのだ………)



だからアルテアは、ネアが一度だけ完璧な旋律を紡いでみせたその曲を選び、たった一度聴いただけなのに完璧に演奏してのける。

魔物なりの考えで、歌乞いであるネアが歌った曲こそをと思い、伴奏してくれたのだろう。



ネアはムースとジェラートの入った硝子の器を手にしたまま、おまけに、スプーンを持つ手を持ち上げたまま、ただその美しく万華鏡のような音楽の底に立っていた。



ゆっくりと震え、淡く膨らみつつも硬く閉じていた薔薇の蕾がほころんでゆく。


新しい葉が育てば、細やかな魔術の煌めきをはらはらと落とし、震えながら花開くように薔薇の枝葉そのものも広げてゆく。



(……………あ、)



蕾が開いた。


しっとりとした美しい花びらは魔物の瞳のように光を孕み、はらりはらりと一枚ずつ解かれるようにして、ぎっしりと貴婦人のドレスのように花びらを詰め込んだ花の扉を開いてゆく。



白薔薇だ。


ネアは、その美しさにふと、ずっと暮らしていた屋敷の庭に咲いていた母の愛する白紫色の薔薇を思い出したが、花がもう少し開くと、真っ白に思えた花びらの根元にはっとする程に鮮やかな赤紫色が入っている事に気付いた。


咲いた薔薇は、咲ききって散り落ちてしまうことはなく、ただ、新しい蕾が膨らんでゆくばかり。

スポットライトを浴びて、けれども淡い薄闇に沈む舞台の上で、ぼうっと燃え上がるような鮮やかな色で満開の花を増やしてゆく。



どこまでも、どこまでも。

深く深く沈み込む深淵の底へ。



はらはらと舞い落ちる花びらの雨を感じたような気がして視線を持ち上げたが、どこからか落ちて来る光の筋の中に揺らぐ魔術の凝りや光の濃度が、まるで白い薔薇の花びらが降っているように思わせるだけだろう。


まるで雪が降っているようにも思えたが、目を瞬くと夢のように消え失せていた。



ネアが視線を巡らせたからか、薔薇の花の向こうに、こちらを見た美しい魔物がいる。

はっとする程に艶やかな赤紫色の瞳の魔物が、こんな風にひたむきにピアノを弾き続けることがあるだなんて、アルテアと出会った頃のネアは考えもしなかっただろう。


ディノのような怜悧な美貌とは違う、魔物らしい残忍さを温度として宿すアルテアなのに、けれども、魔物らしい酷薄さを示すよりもただ、どこか祈りにも似た静謐さで鍵盤に指を落とすのだ。



(これが、……………このような音楽だけが、この薔薇の糧になるのだろう)



ふとそんな事を考え、ネアは小さく息を詰める。


そこに残された、かつての誰かの祈りや深い愛を辿るだけで、こんなにも美しい薔薇が咲くのであれば、その魔物はどれだけの思いで自分の歌乞いを愛していたのだろう。


その愛は、人間に理解のしやすいものではなかったのかもしれないが、薔薇の祝祭のこの日だからというだけではなく、歌乞いの薔薇が糧とするのはひたむきな献身と愛こそであった。



(これが未完の薔薇であるのなら、完成した薔薇は、その歌乞いを繋いだのだろうか。それとも、愛する人を喪ったからこそ完成した薔薇なのだろうか)



なぜだか思い出した一人の魔物は、ネアが唯一知る、歌乞いを亡くした契約の魔物でもある。


未だに喪った恩寵の為の額縁を必要とする彼であれば、この薔薇を未完の形ではなく完成させることが出来るのかもしれないと考えてしまったが、それをさせるのはとても惨いことのような気がした。



「……………ふぁ」

「どうした?手が止まっているぞ」



いつの間にか、音楽は聴こえなくなっていた。

何曲かと話していたアルテアは、本当に数曲弾いてくれたのだろうかと呆然としてしまう。


目を瞬き、どこからかもう一脚の椅子を取り出したアルテアが隣に腰を下ろし、ネアは、ほんの一瞬に思えた至福の時間が、既に終わってしまったことを知る。



光の中にはらはらと舞い落ちていた白薔薇や雪も、もう見えなくなっていた。



「……………もう、終わってしまったのですね。…………あまりにも美しくて、……………上手く言葉にしきれませんが、胸がいっぱいになるような時間でした。けれども、あの薔薇に捧げる音楽は、愛情であるのと同時に、祈りなのだなと考えていたのです………」

「……………かもしれんな。であれば俺もまた、お前の為に祈りを重ねたのかもしれない」

「む。…………アルテアさんは、私の健康と健やかなる人生を祈ってくれたのです?」

「……………ほお」



ネアがそう言えば、こちらを覗き込むようにして体を寄せた魔物はなぜか不満そうに目を細めたが、その冴え冴えとした美貌の優雅さと、したたるような色香や冷酷さはそのままであった。


そこには、心の色を載せていないというよりも、魔物らしい側面でこそ触れられるのが、あの薔薇だったのだろう。


だから、隣に座っている魔物がどれだけ人ならざるものの目をしていても、怖いとは思わない。



疑問系だったことで、薔薇を贈ってくれた心遣いを傷付けてしまったかなと、ネアは引き続きの言葉を考える。


この薔薇を贈って貰えることの素敵さは理解しているつもりなのに、薔薇の背景にあるもののひたむきさや、音楽の素晴らしさが尾を引いて上手く言葉に出来ないのだ。



「薔薇の祝祭だから、なのでしょう?アルテアさんは私の使い魔さんで、一度だけ、世界に誇るべき素晴らしい私の歌声で、えいっとやってしまったこともありますものね。そんなアルテアさんだからこそ、この薔薇を咲かせてくれることが出来たのでしょうか。………きっと、このような薔薇を手にする事は、とても稀で、そして誇らしいことなのだと思います」



続けたネアの言葉に、アルテアは僅かに瞳を瞠った。


ネアなりに、この薔薇を贈ってくれたことへの理解を示し、そんなものを手渡してくれたことへの感謝を伝えたつもりだったのだが、無防備にさえ見える表情に首を傾げると、ふっと艶やかな艶やかな微笑みを深める。



(きっと、ディノとは違うのだ)



そう思い、こちらであればこそなのかもしれないと思う。




ネアの歌乞いの魔物は、たった一人のディノだけで、永劫にそれを変えるつもりはない。



その約束はネアにとっても大事なもので、欲の為だけに自分の大事なものを変える程、ネアは器用な人間ではなかった。


けれども、家族であり伴侶であるディノとは違い、まっさらな契約だけで結び持つ魔物は、アルテアだけである。


家族であるノアや、騎士としての契約を得たウィリアムとも違う、形ばかりとはいえ主人とその主人に契約を介して力を貸す者の関係は、本来の歌乞いの契約にこそとても近いものだろう。


だからこそ、もしかしたらネアにこの薔薇を贈れるのは、ディノではなく、その他の誰でもなく、アルテアだけだったのかもしれなかった。



「……………お前は」

「ふふ。薔薇の祝祭の贈り物だからこそ、数ある感情の中のその思いだけを傾けてくれたのですね。こんなにも素敵な薔薇が咲くところを見せてくれて、有難うございました。それに、私の大好きな曲でしたので、胸がぎゅわっとなってしまう素敵なピアノの演奏でした!」



ネアとて、アルテアの中にある感情が、共にいて欲しいという祈りばかりではないことは重々に承知している。

どのような形であれ、自らの意思であれ、最初は抵抗してみせた野生の魔物の胸の内には、鎖をかけた者への怒りや、魔物らしい酷薄さもあるだろう。


だから、今回は薔薇の祝祭に相応しい、愛情の部分だけを集めて手渡してくれたに違いない。



「節操なしめ……………」

「なぬ。なぜに時々、そうやって貶されるのでしょう」

「……………それで、手の中のものはいいのか?」

「は!ムースとジェラートです!!」



食べる事も忘れて音楽に聞き入っていたネアが慌ててスプーンを持ち直そうとすると、横から伸びた手がひょいとそれを奪うではないか。


慌てたネアが唸り声を上げて一生懸命に威嚇すれば、奪ったスプーンでジェラートをひと匙すくったアルテアに、お口の中にぎゅっと押し込んで貰えた。



「むぐ!……………ふぁ!甘酸っぱい美味しさで、薔薇の香りがふわりとなります。……………なんて美味しいのでしょう」

「ったく。手のかかる奴だな……………」

「むぐ。……………なぜか給餌方式になりましたが、食べ損ねていたのは、こうして自分のお口に入れることも出来ないからではなく、あの演奏に夢中になっていただけなのですよ?」


立派な大人であるのでそう主張もしてみたのだが、なぜだかアルテアは取り合おうとしない。



「………あの薔薇は、さすがに鉢植えごとやるには魔術付与が大きいからな。気に入った一輪を後で選ぶといい」

「はい!あの見事な薔薇の鉢から、ちょきんとやってしまうのは申し訳なくもありますが、それでも絶対に持ち帰りたい薔薇ですので、大事に選びますね。……………ふふ。白い薔薇の真ん中に赤紫色が入ると、私の家のお庭にあった槿の花を思い出します。それなのになぜか、あの薔薇には、アルテアさんという感じしかないのですよ」



ネアの言葉にアルテアは答えなかったが、けれども、上機嫌にカーブした唇を見れば、満更でもない感想だったのだろう。


残りの鉢はどうするのだろうと考えていると、そちらはアルテアが自分の屋敷に置くと言うので、遊びに行けば見たい放題だと知った狡猾な人間は、しめしめとほくそ笑んでおいた。



途中でスプーンを奪還し、硝子の器の中の美味しいものを全部食べてしまう。


今度はこちらに夢中になったネアは、じゅわっと瑞々しい美味しさのムースは、ボウルいっぱいに食べられたし、なんならジェラートはネアの厨房の保冷庫に常駐させておいて欲しいと思いながら、これもまた美味しい紅茶を一口飲む。



(ああ、花の香りが強過ぎなくて美味しいな………。仄かな甘味があって、ムースやジェラートを食べた後に飲んでも渋みが気にならない………)



ほうっと息を吐き、舞台の上で光を浴びている薔薇を眺めていると、おもむろに指先で頬に触れられ、そちらを向いた。


ふわりと落ちた口付けには、食べたり飲んだりしていた薔薇の香りが残る。

こちらを見た赤紫色の瞳は、ひやりとするほどに艶やかだ。



「……………むぐ。…………む?!」

「……………言っただろう。お前の足腰の弱さを思えば、一度で足りると思うか?」

「私一人が事故っているように言うのはやめるのだ。それに、ご高齢なのはアルテアさんの方なのですよ?」

「お前な………」




まだ、耳の奥には、ピアノの旋律が霧雨のようにほろほろと残っている。


そんな中で劇場に置かれた椅子に座っていると、音の余韻の中でもまた一幕が設けられたよう。

紅茶はお代わりして二杯いただき、テーブルの上をすっかり片付けてしまってから薔薇を選びに行くことになった。



「……………ふぁ!ここから、いちりんだけえらぶのです………」

「おい、弾み過ぎだぞ………」

「近くで見ると、ずっとずっと立派な薔薇でなんて綺麗なのでしょう!」



そこでネアは、花芯が見える程に開いた薔薇と、如何にも薔薇らしい輪郭の、満開になる少し手前のものとで散々迷い、後者の薔薇を選んで、花切り鋏で切り出して貰う。


鋏をしゅわりと魔術の光にして消してしまったアルテアの手の中で、選んだ薔薇の茎には、鮮やかで深い色の赤紫色のリボンがしゅるしゅると結ばれ、贈り物の形に整えられた歌乞いの薔薇が手渡される。



指先に触れるのはリボンの滑らかさと、見事な薔薇の花の、しっかりとした重みであった。



「……………有難うございます。大事にしますね。これは、私の薔薇という感じなので、ずっと大事にします。……………むぅ。今は貰った薔薇をじっくり眺めて余韻に浸る時間なので、手を差し出すのはやめるのだ」



ネアは、さて次はこちらだろうと言わんばかりの様子の使い魔に眉を寄せ、大事な薔薇を渋々金庫の中にしまう。

代わりに取り出したのは、ネアが選んだ一輪の薔薇だ。



ディノとノア用の薔薇や、柔らかな色合いとしたウィリアムの薔薇とは違い、こちらは、同じ薔薇の色違いの中でも、ほんの僅かに赤みを強めた菫色がひと際鮮やかに染まったものだ。


ネアの見立てでは、今年の薔薇は、複数の色を改良して増やしたというよりも、紫陽花のように個体ごとに色合いの振り幅がある品種なのではないかと思っている。

絶妙な色合いを多く有する、贈り物に最適な薔薇と言えよう。



差し出した薔薇を受け取り、アルテアが微笑みを深めた。


それを見て安心したのは、新婚さん風にいつもとは違う甘やかな色合いの薔薇を選んだ時に、あからさまにがっかりしたような顔をされた事があるからだ。



「……………悪くないな。お前らしい薔薇だ」

「生花としての楽しみを得るのであれば、また違う薔薇なのかもしれませんが、まるで宝飾品のような繊細さと不思議な存在感がある薔薇なので、今年はこれにしてみました」

「この薔薇の生産者は、後で調べておいた方が良さそうだな。いい仕事をする」

「むぅ。お仕事になったのはなぜなのだ………」



ぎりりと眉を寄せていると、微笑みの気配が深まり、もう一つ、今度は頬に口付けが落とされる。


ネアとしては、事故を警戒され過ぎではないだろうかと遠い目になってしまうのだが、薔薇の祝祭の今日だからこそ、この、きっといつまでも完全に手綱の内にはならない魔物が、祝福や守護の口付けを惜しみなく与えてくれる日なのかもしれない。



舞台を降りるときに一度だけ振り返ったが、アルテアが魔物らしい魔術の潤沢さで回収してしまった薔薇の鉢やピアノのなくなった舞台の上は、どこかひっそりとしていた。


今も変わらずに落ちている照明の光の筋の中にはもう、白薔薇も雪影も見えないので、もしかするとあの揺らぎは、歌乞いの薔薇から立ち昇る魔術が見せていたものなのかもしれない。




歩いてきた道を戻り劇場を抜けると、淡い転移の薄闇を踏み越えてリーエンベルクに戻る。


会食堂に入れば、ウィリアムがアルテアの為の毎年恒例のお砂糖たっぷりの紅茶を作ってくれており、ネアは、お留守番の魔物にぎゅうぎゅう抱き締められた。



「アルテアは、七個では足りないんでしたっけ?」

「おい。ふざけるな!」

「ネア、その薔薇を貰ったのだね」

「はい!ピアノの演奏で咲かせる薔薇なのですよ!」

「わーお。執着が重いなぁ……………。僕の妹なんだけど……………」

「アルテアなんて……………」



お留守番のディノは、ピアノの演奏で咲かせた薔薇だと知ると少し荒ぶったが、ネアがそちらであったことを興奮気味に説明すると、ご主人様が動いていて可愛いと恥じらい始めた。


相変わらず、少し離れただけで抵抗力がなくなってしまう儚い魔物である。



「そして、薔薇のムースもジェラートも、とても美味しかったのです」

「手作りの食べ物までか。……………俺の花束に何かを言うくらいなら、自分の比重を減らすべきなんじゃないですか?」

「言っておくが、祝祭の領分は越えていないぞ。市販の薔薇の階位の花束であれば、俺達が贈るものとしての基準階位に満たないからと、これ幸いと花束を用意したお前に言われたくはないが?」

「はは、今回は、俺の憧れに付き合って貰っただけで、他意はありませんよ。寧ろ、いつものような薔薇を用意してやれなかったくらいですから」



ウィリアムとアルテアは、少しだけわしゃわしゃしていたが、仕事が残っている事を思い出した選択の魔物が、どこか力なく部屋に戻ってゆくと、ウィリアムも部屋に戻ることにしたようだ。


ノアはエーダリア達の下に戻り、これからひと休憩した後、ネアとディノは、祝祭の街に繰り出す準備となる。



「一度、部屋に戻るかい?」

「むぅ。いつもの薔薇より繊細な扱いの必要となるウィリアムさんの薔薇は、薔薇の保管庫なお部屋に一時的に避難させていますが、こちらの薔薇も、そこにしまっておくべきでしょうか。全ての薔薇を花瓶に生けてお部屋のどこに飾るかの配置調整は、戻ってからゆっくりとやりたいですものね……………」

「アルテアの薔薇は、魔術の成果物に近い。普通の花に見えても、すぐに状態が変わるようなものではないだろう。心配なら、出かける前に、保護魔術をかけておくかい?」

「むむ!では、ささっと花瓶に生けてお部屋に置いてから出掛けますね。保護魔術だけ、今お願いしてしまってもいいですか?」

「うん、そうしよう」



今迄は、腕輪の金庫の中に仕舞い込んで部屋に戻るまで持ち歩いていた薔薇の花束だが、長年階位の高い獲物を多く保有していたせいで、ネアの金庫は現在、生花の保管には心配な魔術階位の上昇が見受けられる。

となれば、薔薇の保管室に置いておいたり、ディノの手を借りて早々に飾ってしまった方が安全なのだ。


それでも、生花ではない薔薇であれば持ち歩けるのだが、今年の贈り物は、全体的に植物としての薔薇に近い。




どれか一つを取っても、大事に眺めて慈しみたい特別な薔薇ばかり。

じっくりと眺めて堪能したいのは山々だが、これからは、伴侶と過ごす薔薇の祝祭の時間となる。



花火の時間もあるのでまずはお出かけを優先し、ネアは、用意しておいた花瓶に生けた薔薇の数々にふにゅりと頬を緩めて小さく足踏みした。



「…………素敵ですねぇ。特別な薔薇が沢山です」

「……………ご主人様」

「ですが、この雪陶器の花瓶に生けるディノの薔薇がこれからの時間に控えていますので、もっと素敵なものがやって来てしまうのでしょうね。………そんな予感にわくわくそわそわしているのは、私達だけの秘密なのですよ?」

「秘密なのだね」

「ええ。伴侶との二人きりの秘密です」

「ご主人様!」



ぎゅっと三つ編みを握り締めたまま見上げると、嬉しそうに微笑んでいるディノがいる。

ネアは、そんな魔物を見上げて微笑み、ふっと翳った視界に短く息を詰めた。




「…………むぬ」

「息は、止めてしまうのかい?」

「しゅ、祝福を貰う為に、最適な状態を整えているのですよ?」

「可愛い…………」




窓の外に見える禁足地の森は、飾り木の装飾のようにきらきらと輝いて見えた。


きっと、これから向かうウィームの街には、また薔薇の花びらが敷き詰められていて、そこかしこに美しい薔薇のモチーフがあるのだろう。


ローゼンガルデンの薔薇のビーズに、いつもの屋台の焼き菓子や、ザハのラウンジでいただくシュプリと窓から見る花火。


そんな美しさを思って胸を震わせていると、ディノが、フラワーホールや上着のポケットに飾れるようにして渡したちび花束の薔薇を、大事そうにコートのポケットに移している。


ネアも今日はこちらにするのだと、お出かけ用に真珠の首飾りに換え、様々な色合いの混ざった優美な白灰色のコートを羽織った。


ふくよかな薔薇色の天鵞絨のリボン飾りが美しい同色の手袋は、このコートに合わせて薔薇の祝祭で使いたいあまりに、見つけるなり衝動買いしてしまったものだ。


貯蓄の敵ともいえる思いつきの買い物であるが、今のネアにはもう、節度を持っての範囲であれば許される贅沢の範囲と言えよう。




「お部屋の中に自慢の薔薇を飾りましたので、そろそろ出かけましょうか」

「うん。………ネア?」

「通り魔が生まれる日でもあるので、一目で伴侶だと分かるように、手を繋いで欲しいのです」



長い睫毛を揺らしディノは伸ばされた手を見てよろりと傾くと、小さな声でずるいと呟いている。

しかし、ネアがいざ行かんとその手を掴んでしまえばきゃっとなっていたが、倒れてしまったりはせず、よろよろと隣を歩いてくれた。




(ああ、あちこちに、祝福や弾むような魔術の煌めきが、咲きこぼれるように………)



外に出ると、空気の色や雪景色を色づかせた祝祭の、祝祭魔術の吐息に触れることが出来た。



正門に飾られた見事な薔薇のブーケと、それを見ようと集まったちびこい生き物たちを眺める。

リーエンベルク前広場から並木道に出ると、今年も、美しいウィーム領主館の前で薔薇の受け渡しをしている恋人達の姿がちらほらあるようだ。


ネアは、まだ花火にはしゃいでしまうのだが、この土地で育った者達は、花火を眺め賑やかな街中で過ごすよりも、ここでしっとりと二人で語らいたいと考えたりもするのだろう。


ただ、禁足地の森が近い分、ぶーんと飛んできた妖精がむしゃむしゃと薔薇を食べてしまう痛ましい事件も起こるので、どうか注意されたしと思わずにはいられない。




花びらの敷き詰められた街中ほどではないが、この歩道にも控えめに振り撒かれた花びらが、雪のウィームにえもいわれぬ色を添える。



ひと刷毛、ひと刷毛、淡く繊細な絵の具を落とすように。



あちこちに咲いている薔薇の花がいつもよりも艶やかなのは勿論、どこからか手に入れて来たらしい薔薇の花や蕾を抱えて歩いている栗鼠妖精や、誰かの伝言を預かった使い魔なのか、真紅の薔薇を咥えて飛んでゆく小鳥の姿もあった。



空気はひんやりと頬に触れ、繋いだ手は温かい。

途中、薔薇の花束を手にしてうろうろしているご婦人を見かけたが、幸いにも通り魔ではなく、告白を控えて挙動不審になっていただけらしい。


待ち人が顔を出した途端に花束を差し出して告白していたが、お相手は、けばけばした長毛毛玉のような生き物でいいのだろうか。


少しだけ心配になって成り行きを見ていると、間違いなくそのお相手でいいようだし、恋は成就したらしい。


幸せそうなのでまぁいいかと、どうして人間の女性が、ワンと鳴くばかりの毛紡ぎの妖精に告白したのだろうと酷く困惑しているディノを連れて、その場を通り過ぎた。



はらはらと舞い散るのは、風に街から運ばれて来た、淡いピンク色の薔薇の花びらだ。


歩道奥の花壇や森の向こうには、輪になって踊る妖精達がいたり、そわそわとおめかししている竜がいたりもする。

馨しい薔薇の香りと弾むような多幸感は、祝祭の魔術が潤沢な証なのだとか。



「…………薔薇の祝祭です」

「ご主人様…………」



すっかり盛り上がったご主人様は、ディノの手をぐいぐい引っ張ってしまい、とても虐待されたと呟いた魔物が震えている。



ネアは、恥じらう魔物を引き連れて、薔薇の賑わいを湛えたウィームの街に向かった。









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