薔薇雨と雪の香り
さあさあと雨音が響く。
ヴェルリアなどではもう上着のいらない日も出てくるというが、ウィームはまだ冬の中にあり、本来なら雪の季節にあたる。
それでも窓の向こうからは雨音が聞こえていて、ネアは、雨の降る庭園を映した一枚の窓を覗き込んだ。
淡い絵画のような色彩の向こうにしっとりと濡れる庭園があり、瑞々しく、雨に揺らぐ薔薇の美しさは例えようもない。
胸の奥に凝った僅かな不安や苦しみが洗い流されるような、そんな風景であった。
「吸い込まれるような風景ですね。くたくたで帰って来た日に飲む、きりりと冷えた水のようです」
「雨の浄化を行っているのだろう。この景色は薔薇雨だね」
ディノがそう教えてくれたのは、祝祭に向けて届いた特別な薔薇を取り寄せた区画であった。
リーエンベルクには、粉物の呪いをかけられてしまったカッサーノという騎士がいる。
その騎士の為に手配した薔薇を置いているのが、この区画なのだそうだ。
しっとりとした花びらに、たっぷりの雨の雫を含んだ瑞々しい薔薇には、雨の祝福がある。
そんな薔薇を贈る事で粉っぽさを緩和する祝福を授けようという計画は、長年、カッサーノの呪いを近くで見ていた他の騎士達が、仕事で携わった魔術の組み合わせを参考に発案したらしい。
薔薇の祝祭には、愛情による贈り物が大きな祝福を宿すので、この薔薇を複数名で贈れば、カッサーノの持つ呪いに勝る祝福が渡せるかもしれないと聞けば、是非、今後の魔術治療の症例を集める為にもと、エーダリアが生産地の花農家に頼んでくれたという。
(でも、症例集めという建前で、エーダリア様は、騎士さん達が輸送費などを気にしないようにしてあげたのではないかな…………)
何しろこちらの薔薇は、無料で届けられる見本ではなく、エーダリアが購入したものなのだ。
しかし、雨に育てられた薔薇達は、配送時の負担があったのか少しだけへなりとしていたので、慌てたエーダリアが窓を扉にする魔術を組み、この風景を使って薔薇の回復の為に雨の浄化をかけている。
「この窓の向こうの雨が、薔薇雨というのですか?」
「うん。薔薇が満開になった日に降る通り雨のことだ。薔薇は、植物の中でも魔術的な階位が高いから、一斉に満開になると、こうして天候に触れることがある。薔薇の降らせる雨であれば、この薔薇の回復にも役立つだろう」
ディノが教えてくれた新しい響きに、ネアは、雨音と窓の向こうの庭園の景色を重ね合わせる。
名前を聞いて額縁が出来上がると、その様子はいっそうに美しく思えた。
「何とも言えない清涼感と、お気に入りの詩を読むような美しさがありますね」
「お気に入りの詩があるのかい?」
「……………む、……………ひ、表現の一つです!私とて、物語本以外のものも読むのですよ」
気取った事を言ったところで深追いされてしまい、浅はかな人間は、おろおろと弁明した。
この世界に来てからのネアの書棚に、詩集がないことをディノであれば知っているだろう。
詩は好きなのだが、こちらに来てからは文章の中に風景を探さなくても庭に出るだけで良くなったので、すっかり手に入れようという欲求が湧かなくなってしまっていたのだった。
ハーミットなど、この世界にも時折カードなどにその一節を記される有名な詩人がいるようなのだが、いつか読んでみようと思っているばかりで手が出せないでいる。
「詩篇に触れるのもいいのだけれど、時々、詩の中には迷路が隠されていることがある。君の側には私がいる事が多いから大丈夫だとは思うけれど、一人でいる時に強く惹かれる詩に出会ったら、心を傾け過ぎない方がいい」
「まぁ。そういうものなのですね」
「魔術の詠唱に似ているだろう?千年程前に、詩の中に思索に耽る為の迷路を作る事が流行ったんだ。その中に、迷路に紛れさせるようにして罠や牢獄を隠した者達がいて、今でも幾つかの詩の中に残されていると言われている」
「……………なんという酷いことをするのでしょう」
得てして、詩は大勢でわいわい読みたいものではない。
美味しい紅茶やとっておきのお酒をグラスに入れて、静かにひっそりと読む方が何となく作法に適っているという感じがする。
そんな時間に突然、罠や牢獄の中に放り込まれてしまったなら、恐ろしくて悲しいばかりかたいそうむしゃくしゃするだろう。
ネア的には、迷路でも充分に嫌だった。
ひたひた、ぱたん。
雨音が軒先から落ちる音に、ふわっと吹き抜けるような水と薔薇の香り。
ネアは、そんな素敵なものを胸いっぱい吸い込むと、さて、別の区画の薔薇も見てみようと、広間いっぱいの薔薇の花の中をゆっくり歩いた。
白いバケツと、湖の結晶の釉薬を塗って修繕した掠れたような風合いの青い色のバケツ。
そんなバケツが広間に並ぶ様も素敵であるし、大量の薔薇の見本に浮かれるように咲いてしまったカーテンの織り柄も可愛らしい。
ちょうど、今はネア達しかいない筈なのだが、広間には、ざわりとした姿のないもの達の気配もあった。
薔薇の花に顔を寄せて体を屈めると、ふわっと空気が揺れる。
この薔薇を贔屓にするもの達の声なきさざめきに、ネアは、この日だけの賑わいを聞きながら微笑みを深めた。
時折、視界の端に翻るのは、薔薇の花びらではなく誰かのドレスの裾だろう。
それが亡霊のものなのか、リーエンベルクの何かが人の姿を取ったものなのかはわからないが、今日ばかりはそういうものなのだと受け入れてしまえる。
部屋いっぱいに美しい薔薇が集められているのだから、少しも不思議ではないのだ。
(不思議な感覚だな。賑やかなようで、とても静かで。耳を澄ますと何も聞こえないのに、こちらがお喋りをしていたり、注意を向けない時にだけ大勢の人達の騒めきが聞こえるような気がする)
いつもなら、広間にはヒルドやノアなどもいるので、この奇妙な静けさは感じられなかった。
或いは、雨の浄化を行う窓の向こうから静かな雨音が聞こえてくるので、いっそうに静謐が研ぎ澄まされるのかもしれない。
こつこつ。
ネア達しかいない広間に響く靴音を聞きながら、覗き込んでいた窓を離れて少し歩くと、空気の色がひやりと切り替わった。
今日のウィームは薄く曇った雪の日で、先程から、細やかな雪が風に混ざっている。
そのせいか、薔薇雨から離れてこちら側に歩いてくると感じるのは清廉な雪の香りばかりで、先程見た雨の庭がまるで夢だったかのよう。
ネアは、ちらりと扉の方を見てみたが、忙しなく出て行ったヒルド達が戻ってくる気配はなかった。
「……………行方知れずになった配達員の方は、無事に見つかるでしょうか」
ヒルド達が忙しなく出ていったのには、理由がある。
広間の薔薇の一部を届けてくれた配達員が、事務所に戻らずに行方をくらませてしまったのだ。
最後に無事が確認されたのがリーエンベルクなので、こちらから証跡を追うことになったらしい。
恐らくは自分の意思で姿を隠してしまっているので、本来であればそっとしておいてもいい事案だ。
何しろ、薔薇の祝祭の前後の時期には、恋を巡っての悲しい事件がよく起こる。
望んだものを手に入れられず祝祭の華やぎから取り残される者達を、積み残しと呼称するのは、愛情というものの冷淡な一面を示しているのだろう。
幅広く楽しまれる祝祭であっても、やはり薔薇の祝祭は恋人や伴侶と過ごす日という印象は強い。
家族愛や友愛とは違うその在り方は、明確に得る者と失うものを選別してしまうので、どれだけ望んで手を伸ばしても愛情を得られなかった者達の苦しみは、想像に難くない。
今回姿を消した青年の身が案じられているのは、彼が、その苦しみに折れてしまいそうな繊細な人物だからだという。
捜索依頼を出した職場でも、懸命な捜索を続けているそうなので、無事に見付かる事を祈るばかりだ。
「どうだろう。…………選ばれないということや、得られないということは、きっと、手に負えないような苦しみでもあるのだろう。苦しみを抱えた生き物は、その苦痛から逃れる為に息を潜めてしまうからね」
「よりにもよってなぜ、沢山の美しい薔薇を配達している最中に、思いを告げようとした方の婚約の瞬間などを見てしまったのでしょう。きっと、この沢山の薔薇を見て、その方にどんな薔薇を贈ろうかと考えていた筈なのですよ」
「……………うん」
青年は、記念になるようにと、リーエンベルク前広場で二人きりで行われた婚約式を見てしまった。
そこで幸せそうに笑っていたのは、青年が想いを寄せてきた、幼馴染の女性であったという。
お人好しで不器用な青年は、ずっと抱えてきた恋心に気付いたばかりだったのだと、探しに来た上司の女性は頭を抱えてしまっていたそうだ。
迷い子だったというその青年が、小さな子供の頃から暮らしてきたウィームで、初めて気付き、欲した愛であったのだと。
「やっと大切なものを見付け、うきうきしていた心がばりんとなって取り残されるという思いを想像すると、胸がきゅっとなりますが、私にはこの素敵な伴侶がいるので、ここで勝手にその心を案じても所詮は他人事なのです」
「でも、悲しいのだね?」
「ええ。少しだけ、誰にも見付けて貰えずにどこにも行けなかった頃の自分を思い出してしまうのでしょうね。どうか、無事に見付かればいいのですが。……………雇用主のご家族がどれだけその方を可愛がっておられても、皆さんがどれだけ大好きでいてくれても、たった一人と望む相手はやはり違うのです。私も、ディノを見付けられなかったらと思うとひやりとするので、今は手を繋いでいて下さいね」
「……………大胆過ぎる」
ふるふるしながらそう訴えてくる魔物を見上げ、ネアは、じっと水紺色の瞳を覗き込んだ。
ぴっとなった魔物は目元を染めたまま、少しだけそわそわと瞳を揺らした。
ネアが手を繋ぎたい理由を汲んで頑張って立っていてくれるが、僅かに涙目になった艶麗な魔物がそうしていると、何だかとんでもない無体を働いているような場面に見えてしまうので、どうかもっと丈夫になって欲しい。
「むぅ。まだ恥じらってしまうのです?」
「……………凄く、懐いているのだろう?」
「この場合は、凄く仲良しだとか、凄く好きなのだろうと言うべきなのです。何しろ私達は伴侶なので、手を繋いでいるとなればもう、その二つの理由しかないのですから」
「……………凄く虐待する」
「解せぬ」
今日は、薔薇の祝祭で使う薔薇を選ぶ日だ。
リーエンベルクには広間を埋め尽くす程の薔薇の見本が運び込まれ、この日から薔薇の祝祭が終わる迄の間は、そこかしこに薔薇の花が溢れるようになる。
白い琺瑯のバケツには、それぞれの区画ごとに色を揃えた薔薇が花畑のようで、馨しい薔薇の香りに歩いているだけでも笑顔になってしまいそうだ。
こちらの色合いが好きという嗜好はあれど、どこを歩いても見る薔薇に目を奪われるのは、この、薔薇という花の完成された美しさ故だろう。
フリルのように詰まったたっぷりの花びらと、繊細に色を変える花びらを見ているだけで、ネアは、こてんと倒れてそのまますやすやぐっすり眠ってしまえそうな気がした。
(……………きれい)
様々な色の薔薇の中を歩き、ゆったりほろりと積み重なる、柔らかな喜びの温度を感じている。
リーエンベルクに長年薔薇を届けてくれていたという気のいい青年が、今はどこにいるのだろうとちくちくする心に、その温度は染み入るようだ。
出来れば、ちくりと痛まない心でここに立ちたかったが、この薔薇の美しさが、そんな思いも解いてゆく。
淡いラベンダー色に、青みのある鮮やかな菫色の薔薇。
ふくよかな赤い薔薇から、物語の中に出て来るような薔薇色に水色。
こちらでは扱いの難しい白薔薇は勿論、例えば、このリーエンベルクに由縁のある薔薇もある。
夜の系譜のうっとりとしてしまうような黒い薔薇は、表面がけぶるように白がかっており、どこか夜霧を思わせた。
華やかな薔薇らしい花の香りに、ネアの好きなヨーグルトのような甘酸っぱい香り。
青さの残る清しい香りと、まるで果実のような甘い香り。
(美しくて、柔らかで特別で、こんなにいい匂いで……………)
淡い檸檬色やアプリコット色の薔薇の間を歩き、ころんとした丸い薔薇に唇の端を持ち上げた。
「このあたりの、私が普段は選ばないような薔薇を、いつか使ってみたいと思うのですが、どうしてもあちらのいつものお気に入りの色の方に吸い寄せられてしまうのですよ……………」
「うん。君が好んで使う色合いは、もう少し奥にある薔薇だったね」
「こちらの、淡いアプリコット色の薔薇などは、きっと上手に使えば大人の小粋な雰囲気に出来る筈なのです。なかなかやるではないかという評価の為だけにも選んでみたくなりますが、活かしきれる自信がないので、やはり好きな薔薇に向かってしまうのでした……………」
「薔薇は、それぞれの色によって気質が違うから、君との相性もあるのだろう」
(……………だからだろうか)
先程の雨音の聞こえる区画に置かれた薔薇も美しかったが、あの繊細な美しさは、今のネアの選ぶ、祝祭の薔薇ではないような気がした。
雨の日にピアノの演奏を聴かせて育てたという薔薇は、瑞々しく儚げな佇まいで、はっと胸を打つような美しさがある。
ディノに出会う前の、詩集を読むこともあったネアハーレイなら、きっとあの区画の薔薇を選んだに違いない。
けれども、ここで大事な伴侶の手をぎゅむっと掴んで薔薇を選ぶネアは、弾むような魔術の祝福の弾ける、繊細だがロマンチックで優しげな薔薇が好きなのだった。
「ふは!これで、一回りしましたね。後は、ヒルドさんかノアが来たら、私は薔薇選びに入るので、ディノは外で待っていて下さいね」
「ご主人様……………」
「ディノに贈る為のとっておきの薔薇を選びたいので、今はどんな贈り物になるのか秘密なのです」
交代の時間だと知り、伴侶な魔物はぺそりと項垂れてしまったが、祝祭の薔薇は楽しみにしていてくれるので、素直に頷き悲しげに睫毛を震わせた。
いつもであれば先に薔薇を選んでしまってからの広間のお散歩なのだが、今日は、たまたま皆との時間が合わずにこちらを先にしている。
みんなでわいわい選ぶのも楽しいが、ディノと二人だけで見渡す限りの薔薇で埋め尽くされた広間を堪能出来た時間にも、また違う喜びがある。
胸の中に、ひんやりと澄明な雨の雫が落ちてゆくように。
「雨の浄化が終わったら、あの窓から見える景色は元に戻してしまうのでしょうか?」
「そうするのではないかな。薔薇の祝祭の間はそのままにしておいても構わないけれど、長くそのままにしておくと、浄化のために招いたものでも水気が強くなってしまうだろう」
「そのお話は、ヒルドさんもしていました。リーエンベルクは、雪の質の建物なので、あまり水気を強くしてしまうと室温がぐっと下がってしまうのだとか…………」
「相性が悪いものではないけれど、魔術効果を強めて気温や室温を下げてしまうんだ。組み合わせの効果が高いからこそ、控えておくべきものもあるからね」
「そうなのですね」
(……………おや、)
ふぁっと、薔薇たちがさざめいた。
或いはそのさざめきは、薔薇を見に来たものたちの身じろぎだったのかもしれない。
「ありゃ、ヒルドはまだあっちか」
黒いコートの裾を翻して広間に入ってきたのは、ノアだ。
今日の髪の毛を結ぶリボンは綺麗な菫色の細いリボンで、ネアが、ディノの好むリボン幅ではないが綺麗なのでと、ノアに買ってきたものだ。
その日から三日連続で使ってくれているので、気に入ってくれたのだろう。
「ノア、配達人さんは見付かったのですか?」
「まだみたいだね。エーダリアがさ、昔から薔薇を届けてくれていたから、無事に見付かって欲しいって言うんだよ。そうなると、僕もそう思っちゃうから不思議だよね」
「…………むぅ。もはや、エーダリア様の為にも懸賞金をかけたいくらいですが、心を落ち着かせて出てきてくれるのが一番なので、どうかご自身で戻ってきてくれるといいのですが…………」
「うん。そうだよね。……………さて、僕の妹は、薔薇選びをするんだろう?」
「はい。……………ディノ、この間はノアに一緒に居て貰うので、少し広間の外で待っていてくれますか?」
「ノアベルトなんて……………」
「まぁ。ノアは、私が一人にならないように付き添いをしてくれるので、荒ぶってはいけませんよ。大事な伴侶に贈る薔薇の為なので、少しだけ待っていて下さいね」
「……………うん」
ぽそぽそになって広間を出ていくディノを見送り、ネアは、ノアと顔を見合わせてくすりと笑う。
ちょっと可哀想だが、早く慣れて欲しいところだ。
「シルはさ、もう、こういうの問題なくなったと思ったんだけどなぁ…………」
「このお部屋で薔薇の見本を見ていると、私が、沢山動いたり微笑んだりするからなのだそうです。困った大事な魔物なのですよ」
「ありゃ。そういう事か。でも、僕の自慢の妹は、薔薇が良く似合うから仕方ないよね。……………って、ええ、どうしたの?!告白?」
ここで、いきなり手を掴まれてしまったノアが目を丸くする。
ネアは、ぎゅっと握った手を持ったまま、びょいんと弾んだ。
「ば、薔薇が似合うと言われたのは初めてなので、興奮してしまいました!むふぅ。とうとう私も、薔薇の似合う大人の淑女になったのですね……………」
「わーお。大喜びだぞ……………」
「きっと、私に似合うのは、こちらの紫系統や、くすんだような薔薇色のあたりですよね!或いは、あちらの白い薔薇かもしれません!」
ネアが大興奮でそう言えば、小さくくしゃりと笑ったノアが、悪戯っぽく青紫色の瞳を細め、耳元に唇を寄せる。
「……………うん。今の君に似合うのは、こちら側の薔薇だよ。でも、僕達の場合はさ、昔はきっと違う薔薇だったんだろうね」
「あちらで、薔薇雨の音を聞いているような?」
「ありゃ、ネアもそう思っていたのかぁ。………そうそう。ああいう薔薇に、今も惹かれるし、結構好きなんだけど、今はもう選択肢が増えたからね。ほら、僕にはこのリボンもあるし」
「ふふ。以前に出会ったときには、白いリボンでしたものね」
「……………あまり、色のあるものを近くに置きたくなかったんだよね。どうしてかな」
薔薇の中に立ってそう呟いた塩の魔物に、ネアは、そんな義兄の手をもう一度えいっと掴むと、お目当ての薔薇がある区画に引っ張っていった。
手を握ってしまうと、目を瞠ってほろりと微笑んだノアも、もしかしたら、初めてのたった一つを見付けたのに、それを失ってしまった青年のことを考えたのかもしれない。
「でも、もう家族なので、私に素敵な薔薇をくれなければいけないのですよ?」
「……………うん。そうだね。エーダリアやヒルドにもね」
「また、狐さん配達便があるのです?」
「まぁね。ヴェルリアの王宮での風習だけどさ、エーダリアが凄く喜んでくれたんだ。ヒルドも、指先で薔薇の置物を撫でていた時に、羽が薄っすら光ったしね。……………あんな風に、僕の贈り物を喜んでくれる相手がいるのって、……………ええと、……………」
「ノアは、エーダリア様とヒルドさんが大好きで、とっても幸せということでしょうか」
「…………うん。それもそうなんだけど、それだけでもないんだ」
「……………では、安心と言うのかもしれませんね」
ネアの言葉に、ふっと瞳を揺らしたノアが、ふにゅりと幸せそうに微笑んだ。
当たりの言葉を引いたようだぞと微笑んだネアも、そう思うことは少なくない。
よく似た心の淵を持つからこそ、選び取る言葉も近しいものがあるのだろう。
「シルへの薔薇は、どれにするんだい?」
「この薔薇にしたのです。…………変わり薔薇なのですが、一輪だけでも物語のようで、とても素敵だと思いませんか?」
「……………あ、僕もこれがいい」
「なぬ。ノア達への薔薇は、隠れてまた別のを選ぶつもりだったのですが、これがいいのですか?」
「うん。色合いが重なる訳じゃないんだけど、何だろう、ネアって感じがするからね!」
嬉しそうにそう言われ、ネアは、カタログの段階から目を付けてあった一輪の薔薇に視線を落とす。
しっとりとした天鵞絨のような手触りの花びらがしっかりした淡い菫色の薔薇で、だが、白っぽくはならず菫色の色味がくっきりもしている。
ネアのお気に入りの、カップ型で花びらのぎっしり詰まった薔薇だが、少し花が開くと、花びらの根元の淡い水色が見えてとても綺麗なのだ。
(蕾が閉じている時の印象と、花の終わりの頃の印象ががらりと変わるから、どちらも楽しんで貰える薔薇になるといいな…………)
上手く言えないが、如何にも薔薇の花ですという植物感を出してくる薔薇に対し、この薔薇は、美術品のように凛と佇む滑らかな温度がある。
同じような色味の薔薇が多くなってきていたので、色の系統が似ていても、がらりと雰囲気の変わる薔薇を見付けられたのは嬉しい事だった。
ネアは、いそいそと決めた薔薇を籠に入れてしまい、ノアが呼んでくれた家事妖精に渡すと、こっそり決めておいた、主となる薔薇に添えるものの選定に入る。
その間に、ノアも自分の薔薇をこっそり選んだようだ。
このノアのように、ネアの近くで、こちらの動向に気を配りつつも手元は見ないという手法もあるのだが、ディノはどうしてもご主人様の方を見てしまうので、部屋の外で待機としてあった。
「うむ!これで、主だったものは決まりましたので、ディノを呼び戻してきますね」
「うん。……………あ、見付かったみたいだね」
「は、配達人さんですか?!」
「あ、ごめんね。人形飾りの祝祭の桃を貰っていった妖精の方」
「ぐるる……………」
「おっと、僕の妹が威嚇し始めたぞ…………。桃の精霊が渡した桃は、全部使いきっていたことが確認出来たから、ひとまずはそのまま解放だってさ。まぁ、契約や誓約がない以上は、注意喚起だけしか出来ないからね。でも、今回は見付けたのがゼノーシュだから、自己防衛が出来る妖精なら、桃を手元に残していても不用意な利用は慎むと思うよ」
「ゼノが探索に当たったのは、高位の魔物さんという立場がそのように生かせるからでもあるのですね」
「でもまぁ、植物の妖精は基本我が儘だからなぁ……………」
発見された妖精は、匂い菫の妖精であったらしい。
需要の大きさで階位を上げたシーの階位の妖精で、刺繍工房の職人達の制服は大人の女性よりも小さな子供姿の方が映えると、我慢できなかったそうだ。
「……………ご主人様」
「あらあら、すっかりしょんぼりなのです?もう、お目当ての薔薇は選び終えたので、一緒に居られますからね」
「ノアベルトなんて……………」
「む。こうして手を繋いでいたのは、もう一度、薔薇雨の区画に、二人で行ってみたからだったのですよ?」
「ずるい……………」
「まぁ。正しい使用方法で出てきました!では、また一緒に薔薇雨の区画を見に行ってみます?」
ネアは、少しだけ悲しげにしている伴侶の三つ編みをえいっと掴み、もじもじする魔物に微笑みかける。
理解はしていても、こんな風に言ってみるということも、最近のディノだからこそ出来るようになった甘え方なので、こんな時はいっそうに仲良くしてしまうに限るのだ。
「うん。君の見たい薔薇にしようか」
「では、もう一度、ディノと薔薇雨の窓の近くの薔薇を見てみたいです。その後、あちら側の薔薇色の区画のあたりをゆっくり歩いてもいいですか?」
こくりと頷き、幸せそうに澄明な瞳を揺らした魔物に、胸の中がほこほこになった。
雪の香りの残る薔薇の並びを抜けて、薔薇雨の音の聞こえる花列へ。
胸の中に響く、どこか孤独な美しさと清廉さを眺め、ネアは、姿を消してしまった青年にも、愛情を司る薔薇の祝祭だからこその喜びと安堵に包まれた未来が届きますようにと、こっそり祈っておいた。




