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32. 入れ替わりは突然でした(本編)




扉の外に、迷い子が訪ねて来ていると知り、レイノは、そっと隣の席のデュノル司教を伺った。


デュノル司教はまだ朝の召喚の儀式の時のままの美しい儀式聖衣姿で、僅かに伏せた瞼が睫毛の影を目元に落とし、その影の中で鮮やかな水紺色の瞳が扉の方を一瞥する。


ただ、それだけだった。



「公式な訪問かもしれないが、今日は優先するべき事が他にある。帰って貰うよう伝えてくれるかい?」

「階位上でごねるようなら、俺の名前を出しておけ。歌乞いとしてどれだけ優遇されてきたにせよ、教会組織の階位は聖人達よりこちらの方が上だ。その辺りを履き違えているようだな」



冷ややかに首を振ったデュノル司教に加え、リシャード枢機卿も、もし本人がここに居たらと思えばぞっとするような酷薄な瞳で一蹴してしまう。


扉の外で待たされている迷い子達にその拒絶を伝えにいかなれけばならない衛兵は、さぞかし気が重いだろう。


何しろそこには、契約の魔物までもがいるのだ。



(それなのに、こんな風に素っ気なく追い返してしまって、問題にならないのかしら……………)



レイノは、聖人と呼ばれるくらいなのだから、魔物と契約を得た迷い子はそれなりの権限を持つのだとばかり思っていたが、この様子だとどうやら、枢機卿の方が上位であるらしい。



「猊下には断る権限がありますからね」



首を傾げていたレイノに気付いたのか、アンセルムが説明してくれた。


こちらも飄々と紅茶を飲んでおり、追い返されてしまう迷い子達を案じる素振りはない。

精霊だと明かされてからもこうして一緒にいるし、まだ教官という感じが残っているので、レイノも分からない事があるとついついそちらを見てしまうのだ。



「この教区に仕えているだけの状態では、歌乞いとは言え、まだ正式な聖人の銘を得られないんです。毎年改定がありますが、正式な規定としては、教え子様とガーウィンの枢機卿の一定数の承認を得られれば、ガーウィン内と教会の領域内での聖人に。国の歌乞いは国家の聖人扱いとされます。このあたりは、それぞれの組織の思惑で権限が違うんですよ」

「聖人になれるというのは、あくまでもこの中だけでの事なのですね……………」

「ところが、この教区内では、そこを曖昧にして説明責任を怠っている。ある程度は戦略的な沈黙だろうがな………」



何らかの重要書類めいたものを手早く確認して決裁しながら言い加えたリシャード枢機卿に、レイノは、最初に迎え入れてくれた筆頭司祭達から渡されている、金細工の装丁の聖書のような教本を思い浮かべる。



「…………ええ。私がいただいた教本には、迷い子の中でも、特に魔物との契約を得られた迷い子は、聖人としてとても大事にされるのだと書いてありました」

「教区内では聖人として尊ばれますから、それもあながち間違いでもないんですけれどね…………。ただ、教区を出ればそうもいきません」

「知らないからこそ、猊下のお部屋を訪ねてしまったのであれば、後見人の方や、契約している魔物さんもいらっしゃるのに、どなたもその間違いを教えてあげなかったということなのですね…………」



ロダートの魔物のように、或いはここにいるウィルのように、あの魔物は自分の契約者と寄り添わないのだろうか。

召喚の儀式の場でシャーロットを守ろうとする姿を見ただけに、レイノは不思議に思う。



「シスターはこの教区で育った子ですし、あの魔物は、あまり人間の組織を知らないのだと思いますよ」

「俺はちらりと見ただけだが、あれは恐らく祭壇の魔物だろうな。祭壇の魔物は、空の舞台である事が望まれるから、あまり知識を飲み込むことを好まないんだ」



(教本から感じた魔物という生き物は、一様に物知りな印象だったけれど、そういう生き物もいるのだわ…………)



それなら、微塵も疑うこともなく、目上の者としてこの部屋を訪れたシャーロットは、申し出を拒絶されてから漸くその事実を知り、とても驚いたのかもしれない。



「先程の説明を踏まえ、リシャード枢機卿は、ここには滞在しているだけで本来は中央の所属となりますから、猊下の階位の方が上になります。デュノル司教については、教区の所属になりましたので、表向きは敬意を示しつつも、シャーロットは今回のような強引な要求を押し通せます。…………彼女は、気質的にはアリステルを彷彿とさせますね。だからこそ教区主様は、ウィームに押し付けようとしているのかもしれませんが………」



その言葉に、リシャード枢機卿はすっと瞳を細め、刃物のような冷たい微笑みを浮かべた。


「ほお、その気質を重用はしないのか。だが、そうなると、余程上手く立ち回らない限り、国からの剪定対象にされるな」

「と言うよりも、剪定の為に育てた枝だと、僕は思いますよ。中央教会に報告を上げていないくらいの徹底ぶりですから、不手際だとすれば随分とお粗末ですからね…………」

「それを俺に伝えていいのか?」


そう尋ねたリシャード枢機卿に、アンセルムは肩を竦めてみせる。


「僕はそれなりに自由にやっているので、この程度であれば、叱られる事もないでしょう。…………シャーロットを教区の外に学びに出しておけば、勝手に魚が集まると考えられたのでは?」

「アリステル派として、か…………?」

「共に剪定されるにせよ、小枝を与えておけば満足する教会関係者も多いと思いますから。それに、ウィームに派遣しておけば、気質的にまず間違いなく揉め事を起こすでしょう。その際に、教区の関係者がウィームを訪れる口実にしようとしているような気がします。猊下を含めたガーウィンの枢機卿の皆様も、あの土地から得られる恩恵や、当代の歌乞いの様子は気にかかるのではありませんか?」


アンセルムの評価は辛辣だったが、それに対し、リシャード達は何も言わなかった。

代わって発言したのはウィルで、なぜか疲れたような目で扉の方を見ていた。



「教会側の思惑で無知に整えられているのも確かだろうが、あの微細な終焉の翳りは、砂糖の影響もあるんだろう。どこかで良くない砂糖を食べたみたいだな」

「…………待って下さい。まさか、砂糖の魔物までどこかに紛れ込んでいるんじゃないでしょうね?」


その指摘に、気色ばみ呻いたのはアンセルムだ。


「彼は、薬品のようにその砂糖だけを流通させることもあるから、断定は出来ないさ。この聖域で畑作りをしようとしたら、今は砂糖を撒いていっただけで、本人はすぐに立ち去った可能性もある…………」

「…………であれば、…………愚者の砂糖かもしれませんね。やれやれ、彼に面倒を起こされるのはアリステルの時以来です。あの時は国の方で話を付けたようですが、あまり僕の管理地を荒らすようなら、どこかで話し合う必要がありそうですね………」



また一つ、不思議な言葉が現れた。

レイノがその言葉の意味を問いかけてみようと考えたのは、皆が常識にしている事を認識していない怖さを知ったばかりだからだ。



「ぐしゃの砂糖…………というものがあるのですか?」

「砂糖の魔物の祝福が込められた砂糖のことですよ。彼は、聖女を砂糖にして食べることを好みまして、畑作りと称し、獲物の育成の為の地盤調整をします。その砂糖は、口に入れると判断を誤りがちな愚かで短絡的な人間になるので、多くの者達が愚か者の砂糖と呼んでいますが、正式な名前があるのかまでは分かりません」

「……………何て嫌な砂糖なのだ」

「あれは、食事ではなく手入れと同じ扱いになる。食事に纏わる魔術の理は動かないから、俺と契約しているレイノは影響を受ける事はないからな」



ウィルにそう言われて、レイノはほっとした。



(でも、それならシャーロットさんの振る舞いには、誤解だけではなく、薬物の影響のような要素もあるのだわ…………)



けれど、あの歌乞いはレイノの大切なものを当たり前のように磨耗しようとした。

そう考えれば、幾重にもかけられた誰かの悪意に踊らされている不憫さよりも、身勝手なレイノが守りたいのは自分の宝物ばかりなのだ。



ここで、どこかで正午の鐘の音が鳴り響き、リシャード枢機卿が顔を上げた。


そろそろ昼食だなと呟いているので、目をきらきらさせていると、レイノに大人しく座っているようにと指示を出してから、作り付けの厨房に歩いて行った。



その後の時間では、レイノは、グラタンというものの認識を改めなければならなかった。

アンセルムのグラタンもとても美味しかったが、それを超えるものが現れたと言わざるを得なく、新たな時代をしっかりと噛み締めさせていただいた次第だ。


なお、グラタンの他にもとろりとした夜鶏の半熟卵の乗ったもぐもぐサラダや、メランジェのようなキノコのポタージュスープに、オレンジの風味の自家製デニッシュパンなど、料理界の各国から実力者の出揃った、たいへん素晴らしい食事であったと記しておこう。



そんな昼食を終えれば、あっという間に時刻はアリスフィアとの約束に近くなる。

その頃にはもう、暫く扉の外でごねていたらしいシャーロット達もいなくなり、一同は足を止められることもなく、無事に部屋を出る事が出来た。




柱廊を抜けて小さな聖堂を通り、立派な祭壇の横を曲がって、外に続く道を出る。



区画はしっかり切り分けられ、規則的な造りをされたこの教区の建物群だが、まだ地図を覚えられていないレイノには、何だか迷路のようにも思えてしまう。


しかし、外に出ると立ち籠めていた閉塞感が和らぎ、聖域らしい澄んだ空気が心地良かった。


レイノが来てからは曇りがちだった空模様は珍しく雲間から陽光が差し込んでおり、透明度の高く柔らかな春の陽射しが肌を温める。


壮麗な教会を出て渡った屋根つきの連絡通路が途切れると、長閑な景色に広がる葡萄畑の向こうには、とても美しい森が続いていた。



「……………見たことのない鳥さんです」

「あれは、木の葉雀だね。新緑の季節だけに現れるもので、雲雀の巣作りの前触れと言われているよ」


デュノル司教から、木の葉雀だと教えて貰った生き物に、ほほうと思いながらレイノはその鳥を観察する。


ジリジリっと鈴虫のような声を上げて、見たこともない鳥が飛んで行く。

綺麗な黄緑色の翼が木の葉になっているこの鳥は、木の葉雀という名前に相応しい奇妙な美しさだ。



「……………あの羽でとても自然に飛ぶのですね……。は!こちらには、枝に宝石のお花が咲いています!!」



契約の魔物に抱き上げられ、レイノはあちこちを見ては目を輝かせる。


これから、教区主であるアリスフィアに指定された鹿角の聖堂に向かうのだが、まだここに迷い込んでから三日目のレイノは、教会群を抜けて教区の西奥に広がる森に向かうのは初めての事だった。



不思議な木々や生き物達に、胸が震えるような美しさの花々。

表層のという言い方をアンセルムの工房でデュノル司教がしていたが、そのレイノにとっては初めて見るものばかりで、ついつい声が弾んでしまう。


鳥の名前を教えてくれたデュノル司教は、そんなレイノの姿を見て微笑んでくれていたが、リシャード枢機卿に声をかけられて、何やら密談に入る。

おやっと思ったが、レイノはまだ鉱石の花から目が逸らせなかった。



(…………この木の花という訳ではなさそうだから、寄生植物なのかしら。それとも苔のところに花の種が落ちたのかな…………)



「この花が欲しいなら、採取出来ると思うぞ?」

「…………貰えるのですか?………し、しかし野生の貴重なものなら、摘んでしまうのも可哀想かもしれず…………む、遅かったようです」


ウィルは、レイノが目を輝かせて見ていた鉱石の花をぱきりと一輪摘み取り、こちらに差し出してくれた。

そっと受け取ったきらきらと細やかに光る花は淡い水色をしていて、繊細な可憐さにはうっとりしてしまう。



「信仰の土地には意外に俺の系譜のものが多い。特に、ここはアンセルムが隠者だからか、終焉の資質が豊かだな。…………だが、終焉の結晶はあまり良いものではないから、資質自体は剥ぎ取ってある。祝福などは得られないが、安心して持っていてくれ」

「何て綺麗なのでしょう!ウィル、有難うございます。ずっと大事にしますね」

「契約を交わしている今であれば、レイノにしてやれることも多い。遠慮せずに何でも言っていいぞ」

「………………いや、僕の領域ですから、荒らすのも程々にして下さいね」



そう微笑んだウィルの隣で、アンセルムはとても遠い目をしている。

少し前を歩きながら何やら密談中のリシャード枢機卿とデュノル司教も、ちらりとこちらを振り返った。



「おい、遊びに行くんじゃないんだぞ」

「……………むぐ」

「やれやれ、彼は随分と君に厳しいな。これから儀式なんだから、不安もあるだろう。俺は、少しは気分転換をしていいと思うぞ」

「ウィルにそう言って貰えると、ちょっぴり心が軽くなりました。いただいたこのお花は、ポケットに入れて割れてしまったりしないでしょうか?」

「ああ、そうか。今は金庫がないんだったな。それなら、聖堂に着いたら俺が預かっていよう」



柔らかな風に、ウィルの水灰色のケープがはたりと揺れる。

その裏地はふくよかな夜空の青だが、擬態をしないと鮮やかな真紅なのだとか。



森の入り口から五分ほど歩くと、森の色にひっそりと姿を隠すようなドーム型の天井を持つ建物が見えてきた。



「ほら、あの聖堂ですよ。森の中に緑の聖堂ですから、見落としてしまう人も多いんですよね」

「…………まぁ、とっても綺麗な建物ですね………」



表面を微かにざらりとさせた水晶のような深緑色の石で作られた聖堂は、よく見れば壮麗な作りなのだが、森に溶け込む色彩が柔らかな存在感を与えている。

入り口の門のレリーフは白大理石だろうか。

そこだけがアーチ状に切り取られたように白く、翼のある天使のような生き物と花々、そして鹿の角を持つ女性の後ろ姿が表現されていた。



ピチチと鳥の声が聞こえ、優しい風にざわざわと歌う木々。

木漏れ日が地面に落とす模様はレースみたいで、そこには細やかな黄色の花が咲いている。


そんな森に佇む聖堂は、しんと静まり返っていた。



「……………とても静かですね。教区主様は中にいらっしゃるのでしょうか?」

「儀式の準備をしているなら、中だろうな」



そう答えはしたものの、リシャード枢機卿の眼差しはどこか鋭い。

入り口の扉が気になるものか、丁寧に目視で確認してから小さく頷いた。



「入るぞ。その魔物から離れるなよ?」

「………はい」

「いいかい、これから行うのは、約束を司る魔術の儀式だ。もし、危険を感じたり違和感を覚えた場合は、躊躇わずに彼に言うんだよ」

「はい、そうしますね。………デュノル司教もどうか気を付けて下さいね」

「……………うん」


そんなレイノの言葉に嬉しそうに淡く微笑んだデュノル司教は、手を伸ばしてレイノの頭をそっと撫で、扉を開けるリシャード枢機卿に対して最後尾に立った。



まずは扉を抜けて入り口の小さなホールを通るので、見事な壁画や左右に置かれた彫像に目を奪われていれば、ギャリンと硬い金属がぶつかる時に似た音がして、この聖堂の建材と同じ深緑色の鉱石で出来た扉が背後で閉まる。



幸い、扉が閉まっても聖堂は暗くはならなかった。



「お待ちしておりました」



その音すらも音楽のように従えて、柔らかな木漏れ日の差し込む鹿角の聖女の聖堂でレイノ達を待っていたのは、教区主であるアリスフィアだ。


簡素な白い聖衣を着て立っている彼女は、お伽話の中の聖堂に迷い込んだ無垢な子供のようにも見える。



まずはリシャード枢機卿らに一礼し、レイノの方を見ると、レイノを抱き上げているウィルに向かっても深々と頭を下げる。


けれども、高位の人外者に対しては、発言を求められずに話しかけることは不敬とされるらしく、ウィルに声をかけることはなかった。



(あ、……………)



その眼差しがこちらを見た時、レイノが感じたのは、これから何か厄介な事が起こるぞという予感だったのだと思う。

そのふくよかな緑色の瞳は、前に見た瞳の色とは違うのではないだろうか。


けれど、何の理由もないただの予感では、誰かに訴えられる筈もない。



「素晴らしい契約を得ましたね、レイノ。あなたが歌乞いになったのは、嬉しい驚きでした」

「こちらで得た学びのお陰でございます」



心の中に芽生えた予感を抱えつつも、教えられた通りにお辞儀をし、レイノは摘んでいたスカートから指を離す。


厳密には、レイノとウィルの契約は歌乞い契約ではないのだが、この世界では、一般的に魔物とは歌乞いでしか契約出来ないと言われているのだそうだ。


その大きな誤解の元で判断をし、この土地に住む祟りものなのだというアリスフィアですら、ネア達の契約を歌乞いだと考えたのだろうか。


あの場にいて儀式の全てを見ていた者達でさえ、レイノは、召喚魔術の中でひっそり歌っていたのだと囁き合っているらしい。

前提から組み立てた推理は、いつからか真しやかに語られるようになるのだ。


そしてリシャード枢機卿以下、レイノの頼もしい後見人達は、あえてその間違いを指摘しなかった。

魔術の錬成や儀式において、言葉や名前はとても大切な要素なので、相手側の持つ知識に偽りのものを加えておくのはとても有効な対応策であるらしい。



「猊下、この度はおめでとうございます。レイノには、これからの生活の為に歌乞いとしてのより高度な学びが必要となりますが、どうぞ、これからも宜しくお願いいたします」

「ああ。そのつもりだ。どこまでをこちらに預けるかは当人達とも話し合い決めるが、後見人として力は貸してゆこう」

「猊下にそう言っていただけるのであれば、この子も安心でしょう」



アリスフィアの声音は穏やかで静かで、そこから感情を読み取るのはとても難しい。


だが、そんな教区主が、アンセルムを見上げる眼差しだけには、古い友人を見付けたような僅かな温度を宿す。



「アンセルム、レイノという迷い子との出会いは、あなたにとっても喜ばしい事でしたね」

「ええ、それはもう」


かつてのこの二人がどんな関係性だったものか、アンセルムの言葉からはそれを懐かしむ様子はなく、彼はいつものお人好しのアンセルム神父の仮面でいるように思える。


見知らぬ場所に呼び落とされ、彼が興味を失いそのままにされた時、アリスフィアは悲しくはなかったのだろうか。

それとも、精霊の目を逃れられて安堵したのだろうか。


それぞれにお互いの思惑を知っている筈だが、そこには踏み込まないのがこの二人の関係なのだろう。



(そもそも、なぜこの人は異端者の素質ありとして呼ばれてしまったのだろう………?)



ふと、そんな事が気になった。

それについては一度尋ねてみたのだが、同種族の祟りものに深く心を寄せると、心を繋げられてしまう事があるという。

アンセルムは教えてくれなかったし、他の後見人達も、特に知る必要はないと話していた。


もし、その履歴に同情の余地があれば、レイノがアリスフィアを庇うとでも思ったのかもしれないが、そんな事はしないのだと言ってもレイノの心を検分出来ない彼等は警戒を緩めはしないだろう。



「デュノル司教、今朝はレイノの儀式に力を貸していただき、有難うございました」

「後見人として、出来る限りの事をしたまでだよ。誓約の儀式は、すぐに執り行うのかい?」


こちらの教区では暫定的に司教職を得ているが、それまでは神殿の神官としての役割を持っていたデュノル司教は、神官達が祀る人外者の代理人としての役割を持つことから、権限的には教区主のアリスフィアに従う立場ではあるものの、特例的にこうして対等な会話を持てるらしい。


その線引きの揺れは、アリスフィアが教区主以外の肩書きを一つも持たないからで、例えば、教会組織で神官よりも上位にあたるリシャード枢機卿が教区主となれば、その限りではない。



アリスフィアに促され、レイノ達はまず、金地に壁画のある大きなドーム天井の下にある、立派な祭壇に向かった。


宝石質な黒色半透明の石材を彫り込んだ祭壇については、レイノは、きっと黒曜石だろうと考えていたのだが、ウィル曰く、静謐の魔術石であるのだとか。



そして、その祭壇の前に立ち、アリスフィアはこちらを見て微笑んだ。



「レイノ、あなたには歌乞いとして新しい名前をあげましょう。あなたは、自分がどれだけ幸運なのか知っていますか?あなたの本来の名前は、歌乞いとしては得難い程の、最高の繋ぎを内包しているのですよ」

「…………名前を、いただけるのですか?」



想定していなかった展開に、レイノは眉を寄せて慎重にそう問い返した。


レイノをしっかりと抱き上げてくれているウィルも体を強張らせたが、安心させるようにレイノの背中を撫でてくれる。



ふっと、アリスフィアの声の温度が変わった。



「レイノ。歌乞いにとって、名前はとても大切なものなの」



朗らか、という事ではない。

上手く説明出来ないが、その言葉のトーンをそのままに、一歩こちらに踏み込み近しくなったような不思議さだ。



「例えば、シャーロットには、身内に公爵位の魔物を得た歌乞いがいる、とある国の王族の名前を授けました。ロダートには、かつて伯爵の魔物との契約に成功し、けれども呼び出した魔物の怒りを買いずたずたに引き裂かれた異国の神官の名前を」



それは、果たして良い名前と言えるのだろうか。


けれども、アリスフィアが行おうとしている事の輪郭は掴めた気がする。

元々に縁を持つ名前を名乗らせる事で、より強く歌乞いとしての力を持たせようとしているのだろう。



巧妙に敷かれた魔術を警戒し、レイノが、伴侶だった筈の人までを忘れているのは、そんな事がここで行われているからなのかもしれない。



「誓約の儀式だけだと聞いていたが、そうではないのか?悪いが、名付けの儀式を行うことは推奨しない。一度はこの魔物と結ばれた契約を歪に書き換える事になる」



こちらも名前云々は初耳だったものか、苦々しくそう指摘したリシャード枢機卿に、アリスフィアは優しく微笑みかける。



「勿論、大切な私の子供達に、そのような無理はさせません。けれど、このレイノの場合は、彼女が元々所有している名前とその響きが重なる事で、より安全に大きな効果を得られることでしょう」



(……………元々所有している?)



その直後、レイノだけではなく、リシャード枢機卿やデュノル司教、更にはウィルやアンセルム達にも予期出来ない事が起こった。




「だから、あなたには、ネアという名前を用意したの」

「……………っ?!」




ぐるりと、世界が入れ替わった。




(どうして、私の名前を……………?!)




そして目を瞬けば、聖堂の中に立っているのはレイノとアリスフィアだけだった。



確かにウィルの腕の中に立っていたのにと呆然としたネアに、アリスフィアは婉然と微笑む。



「さぁ、名付けの儀式を行いましょうか」

「…………私の魔物や、猊下達はどこへ行ってしまったのですか?」

「安心なさい。ここは、名前の領域とその魔術の中。ほんの僅かな魔術の夢のようなものです。よく来ましたね、ネアハーレイ」



その響きにぎくりとしてから、ネアは、動揺を表情に出すまいと奥歯を噛み締めた。


(ああ、どうしよう。…………思い出してきている…………)


与えられる名前を呼ばれたその時から、自分が誰でどうしてここに来たのかが、ぱちんとスイッチを入れるように理解出来るようになっている。


あの名前はきっと、ネアがネアに戻る為の手順として用意していたものの一つだったのだ。



だから、ここでアリスフィアに向き合うのは、レイノではなく、まだ記憶がところどころ曖昧ではあるものの、ウィームの歌乞いのネアで。



「あなたは、どうして私を見付けられたのですか?」

「だって、あなたはミサの時に私を見たではありませんか。こちらを覗き込んだその眼差しにあなた自身を浮かべておいて、それを見られないとでも思っていたの?」



そう微笑んだアリスフィアの眼差しは、色を変えて緑色になっても、やはり硝子玉のようだった。


綺麗だが空っぽで、その瞳を見ていると背筋が寒くなる。


その怖さは、例えば凄艶な美貌の魔物や妖精を知るのとは、また違う悍ましさだ。

かたかたと音を立てずに滑らかに動く人形めいていて、それでいて祟りものと呼ばれるに相応しい、ずしりとした暗さがある。



「………では、その名前をどうして私に与えようと思われたのですか?」

「あなたは、愛する者達を奪われた事がありますね?…………それは、とても不思議な切れ端だったわ。あの不思議な鉄の馬車に、無機質な建物。レイノは、アルビクロムの出身なのかしら。………そこで燃えてしまったのは、あなたのご両親ですね?」



(ああ、やはりそうだ…………)



ここでネアは確信した。

アリスフィアが得ているのは、朝のミサで出会った時に、レイノが思い浮かべてしまったネアハーレイとしての過去の一場面。

その記憶を覗き込み、ネアのかつての名前を知ったのだろう。


でも今はもうネアなのだと思い、辛うじて逃れられている魔術支配にひやりとする。



「その私の名前が、あなたが与えようとしているものに近しい響きだからでしょうか?」

「そう。こんな偶然は滅多にないでしょう。この名前を持って、シャーロットではなくあなたがウィームにお行きなさい。そうすれば、より高位の魔物を得たあなたこそが、この国の歌乞いになれるのでしょう」

「…………なぜ、それを奪う必要があるのですか?もう、国の歌乞いがおられるのに」

「弱くては意味がないの。奪われて殺されたあなたであれば、それがどれだけの選択の欠如であるのか、知っている筈よ」


それは確かにそうなのだ。

けれども、それがあれば失わないという事もない。



「…………ええ、それはよく分かります。弱くても、届かなくても、知らなくても意味がない。…………私の愛するものは、そうして全て殺されてしまいましたから」



そう答えたネアに、アリスフィアの表情がかくりと切り替わる。

心を損なった者らしい急な変化を見てしまったネアは、ぞっとして後退りした。



「………………でもあなたは、愛するものをその手でも殺したじゃない。手に入れられたかもしれないのに、どうして自分で殺してしまったのでしょう?それだけは、私にはよく分からない」



その問いかけに、レイノはくらりと目眩にも似た記憶の棘の痛みを押し殺す。


ネアの下に横たわるネアハーレイとしてのその記憶は、今も例えようもなく鮮やかだ。

こちらの世界に来てネアとして過ごした日々の記憶は、レイノとして作り上げた防壁と重なりかけてはいてもまだ一層の隔たりがあり、そちらの方が生々しい。



進水式の日の空の青さと、雨の降りしきる秋の夜に交わした短い言葉を含む記憶の欠片は、ネアを動けなくさせるくらいに鮮明だった。


けれど、ジーク・バレットという男を語るのに必要なのは、愛よりも遥かに深い復讐の暗さに他ならない。



だから、ネアはきっぱりと首を横に振った。



「いいえ。それは決して手には入らないものでした。彼が私の家族を殺したその瞬間に私達の道が交差したのであれば、どんな想いを抱こうと、私は彼を殺すしかありませんでしたから」

「…………ではそれは、力なのでしょうか。報復し、思い知らせたのなら、それは勝利ではないの?」



こちらを見たのは、とても大切なものを奪われた人間だけが浮かべる寄る辺なさで、ネアは、儀式の魔術の外周に置き去りにされている仲間達の気配がないかと密かに窺い、その遠さに微かな不安を育てた。


こんな風に隔絶されるとは思わなかったが、名前を握られるというのは、これ程のことなのだろう。


初めての怖さに震えそうになりつつ、けれども、今は見えないもののディノの指輪や首飾りの金庫の存在をもう知っている。



(……………きっと来てくれるわ………)



だから今少し、もう少しだけここでアリスフィアと向き合おう。

何とか時間を稼ぎ、ネアの大事な魔物たちがここに迎えに来てくれるまでを。



そう考えたとき、ネアはこの少女と話をしてみようと考えた。


迂闊にも自分を繋げてしまう事にはなったが、何よりもまず、ネアはアリスフィアの瞳にかつての自分を見たのだ。



「…………ふと、思うのです。私が最後に憎んだのは、…………あの世界そのものだったのかもしれないのだと」



その言葉は、今の彼女にも届くだろうか。

僅かでもいいから心を揺らしてくれれば、アリスフィアの残り時間をより多く削り取れる。

見ず知らずの彼女を救おうとは思わないが、その足止めの方法として。


「…………私ばかりから大切なものを奪い、顔をなくしてみんなと同じように生きようとしてもそれも叶わず、…………美しくて愛おしくて、それしかないくせに私を愛さないあの世界を、私は呪っていたのかもしれないと。……………私は敗者でした。最後はとても穏やかでも、それは破滅の手前の諦観の静けさで、あの世界では私の願いはとうとう最後まで一つも叶わなかった。…………最後は、その不公平さに暴れる力すらなくなっただけで、私はあの世界で惨めにも惨敗した人間なのです」

「…………………でも、今は持っているわ。あなたにはもう、あの美しい魔物がいるでしょう。その力を得て国の歌乞いとなり、私の願いを成就させるだけの力を得ている」



(………………願い………?それは、力のある歌乞いになることなのだろうか。何だか、そうではないように聞こえるけれど…………)



アリスフィアが示す魔物とは、ウィルのことなのだろうが、その言葉はネア自身にも響くようだ。



「そうなのかもしれませんね。…………でも、あなたが話しかけている今の私は、ほんの数日前までは敗北の中に暮らした私なので、私にはまだ、あなたの苦しみが分かるのかもしれません」

「それなのに、どうして私の一部になってはくれないのかしら?」



また一つ不穏な問いかけが重なり、ネアは、この少女が、祟りものとして迷い子を食べていたことを思い出した。


こうして向かい合うと普通の少女に見えるからこそ失念しがちだし、ネアを国の歌乞いにしたいのなら矛盾しているような気もするが、その辺りは、過去に遭遇したその種の生き物たちが持つ意識の混濁と同じ曖昧さなのかもしれない。


正常さの中に芽生えた違和感として、その僅かばかりに顔を見せた狂気が、いやに鮮やかに感じてしまう。



「どうして、こんなにも奪われ続けた私が、やっと手に入れたかもしれない平穏を脅かす人に、私が私を差し出さなければならないのでしょう?やっと手にした配当だからこそ、あなたの苦しみが想像出来るからこそ、私はその申し出を全力で拒絶します」




背筋を冷たい汗が伝った。



しっかりと覆いをかけられた筈のネアの防壁は、かつての名前を握られた今、どれだけ機能しているのだろう。

どの言葉を選べば最善で、どんな言葉を用いてはいけないのだろう。

ネア達は、その覆いこそを最大の武器として銀白と静謐の教区にやって来たが、名前の置き換えでその優位性はくるりとひっくり返ってしまった。



(……………ディノ……………)




その名前を呼ぶべきか、ここは確かな契約の魔物としてウィリアムを呼ぶべきか。

レイノという迷い子が歌乞いではない事が、果たしてこの状況でどれだけの力になるのか。



ごくりと息を飲み、ネアは閉じ込められた誓約魔術の内側で、たった一度しかないかもしれないその好機を待ち詫びた。







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