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146. 迷宮に嫌がらせを受けます(本編)




無事に予防接種を終え、ネア達はミノスの丸屋根の食堂を訪れていた。


この食堂だけではなく、広場の周辺の建物は皆、盛り土で少し土地を高くして造られているようだ。

店の前の階段を上がり、ぎいっと重たい木の扉を開けると、店内は素朴な教会のような造りであった。



二階席はなく、吹き抜けの天井からは森鉱石の簡素なシャンデリアが吊り下げられていて、丸屋根には四か所の四角い窓がある。

そこから差し込んだ光が柔らかく落ち、一本渡された天井の梁にはフックに引っ掛けた籠がいくつもぶら下がっていた。


籠の中には乾燥させた野菜なども入っており、保管の為にというのではなく、乾燥野菜をそこで作っているようだ。



壁は柔らかなセージグリーンに塗られ、額縁に入れられた野の花の絵が飾られている。


ネアは、すっかりこのミノスの村の食堂の雰囲気が気に入ってしまい、唇の端を持ち上げた。

店内には他に二組のお客がおり、思っていたより混んではいないようだ。


ネアはここで、店の造りを素早く確認しているアルテアに、ここは何か特殊な建物なのだろうかと考える。

長閑な村の素朴な木造の建物という雰囲気ではなく、思っていたよりもどっしりとした石造りの建物を見ていると、そう言えばここは迷宮に寄り添って暮らした人々の土地なのだと思い出した。


店の入り口にかかっていた四角い真鍮のプレートによると、この食堂は移築された物ではなく、シヴァルが教えてくれたように迷宮が開いていた頃からこの場所にある建物であるらしい。


広場全域を含め、ガレンの魔術遺産に登録されていると記されていて、ネアはおおっと目を瞠った。



「いらっしゃい。三人と一匹だね」



ネア達に声をかけてくれたのは、店のおかみさんだ。

くるくるとした茶色い髪に、目元に刻まれた皺が人柄の温かさを伝えるような素敵な笑顔のご婦人で、綺麗な菫色のエプロンをしている。

 

ふっくらとしたご婦人の軽やかな歩き方に、これでもこの世界でそれなりに色々な人々を見てきたネアは、このご婦人は妖精の血を引く人なのかなと考えた。

魔物達の姿に慄く事もなく、にこにこと微笑んでいる。



「獣さんや使い魔さんも入店可能だと伺っているのですが、この狐さんは、リードに繋いでおけば問題ないでしょうか?」

「ああ、うちは、意思疎通さえ出来れば、元々人型じゃなくても入店可能なんだ。祠の竜達も来るからね」

「…………なぬ」

「ほら、あちらのお客は祠の竜達だよ」



にっこり笑ったおかみさんに視線で示され、ネアは、もう一組のお客がいることに気付いた。


窓辺の席の一つに、けばけばの小さな枕のような生き物が二匹、楽し気に着席している。

さながら弾む沼風灰色毛皮枕といった感じだが、ちょみっとした手を伸ばして揚げ物を食べて弾んでいるので、しっかりとお食事に来ているらしい。



「…………あのように、小さな竜さんもいるのですね」

「いや、体を縮めて来ているのさ。魔術階位の高い一部の竜しか出来ないけれどね」

「…………ほわ」



相変わらず、あまり可愛いという感じではなかったが、枕大であれば、おかしな生き物というくらいで済みそうだ。


ネアは、祠守りの竜と聞いて少しだけばくばくしてしまった胸を押さえ、心配そうにこちらを見たディノには、あれは大丈夫だと微笑んでやる。

とは言えやはり、近くの席は不安だったので、反対側にある窓辺の席を所望してみた。


その座席の木のテーブルは縁がトリミングされていて、素朴な風合いには手作りのような温かみがある。

どうやらこの店は、席ごとにテーブルの形が違うようだ。



「狐さんがいるので、もしご予約席などではなければ、あちらの窓側の席でもいいでしょうか?」

「ああ。今日はもうお客は増えないだろうから、どこでも好きな席に座んな。今日は迷宮のあわいが濃いからねぇ。これからの時間は、村民もあまり出てこないだろうよ」

「まぁ、そういうものなのですか?」

「買い物帰りに迷宮に迷い込むと、夕飯の支度に響くだろう?向いの郵便社の職員達も、今日は早々に食事を終えちまった。まぁ、私たちはこの食堂から扉続きで家になっているからね。帰り道の心配がないなら、あわいの事は気にせずにのんびりしていっておくれ」



ネアはこくりと頷き、とは言え魔物達の意向を確認してから席に着いた。


窓の向こうは長閑な昼の風景だが、確かに、そこそこに住人達が出歩いているようには見えても、注意して見ていると、皆用事を済ませると足早に帰ってゆく様子が見える。


ディノが少しだけもじもじしているので顔を覗き込めば、こちらの魔物は、からりと笑う食堂のおかみさんが少しだけ怖いようだ。

お茶とメニューを持ってきたおかみさんにぴゃっとなってしまい、慌ててネアの影に隠れている。



「皆さんもお家に帰るようなので、ささっと食べてしまいますね」

「いや、あわいが最も濃くなるのは、これから一刻の間くらいだろう。ゆっくり食事をして、安全になってから帰ろうか」

「酩酊歌は、ある程度歌わせておけば疲れて寝るからな。放置しておけば、同族達に回収される筈だ。鎮まった頃にこの村を出るのが一番いい」

「まぁ。もしかして、ここに移動する際に転移で調整したのも、一刻も早くお店に入る為なのです?」

「ああ。村を出るのは簡単だが、一度あれだけ至近距離で竜の歌を聞いているからな。迷宮魔術の付与がある状態で、境界になる橋を越えるのは推奨しない」

「ふむ。そういうものなのですね…………」



色々とお作法があるのだなと頷き、ネアは、メニューを開く。


なお、このお店ではお水ではなく、冷たい香草茶が出されており、ネアはこくりと一口飲んで好きな味であるとグラスを握りしめた。

アルテアの隣でふがふがとペット皿から飲んでいるのは、同じ公爵位の塩の魔物だった筈の銀狐だ。



どこからか、むぐるぉううるるという謎めいた声が聞こえてきて困惑に眉を寄せれば、枕サイズの祠守りの竜達がご機嫌に笑っているらしい。


そちらのテーブルは、決して上等な木ではないのだろうが、長年大事に使い込まれたからか少しだけ結晶化している。

その上には、小さなグラスに入ったお酒とおぼしきものがあって、そのグラスの中身をちびちび飲みながら、シュニッツェルのようなものを食べているらしい。


即ち、あの祠守りの竜達は、お酒を飲んでのほろ酔いでお喋りしているのだろう。



「………むむ!アルテアさん、アカシアの花揚げを食べた事はありますか?」

「ああ。季節の味覚だな。好みもあるが、山菜類が好きなら問題ないと思うぞ」

「では、頼んでみますね。てっきりお料理名だと思っていたのですが、お花を揚げてしまうのです?」

「夜明け前に摘んだ花に、衣をつけて揚げるんだ。使われる花の種類によって調理方法は変わるが、アカシアなら、房ごとだろう」

「房ごと…………」



黄色いぽわぽわした花で想像していたネアは、ここで料理にされるのは、藤の花のような針槐の花であることを知った。


となると、森で沢山見かけた藤のような花がそうだったのかと得心し、だから、初めましての異世界的な料理というよりは山菜風なのだなとわくわくと胸を弾ませる。


因みに、お食事揚げは塩やさっぱりめのタルタルソースでいただくが、デザートの花揚げは、ドーナツ生地のような衣をつけて甘く揚げるのだそうだ。

調理方法によって香りが変わると聞けば、どちらも頼んでしまうしかない。



「キャペオのトマトソースか。これも頼むぞ」

「むむ、ぷりぷりカッペリーニですね」

「…………なんだそれは」

「向こうの世界で私が暮らしていた土地では、キャペオのように細いパスタをカッペリーニと呼んでいたのですよ。そこに、むちむちぷりぷり食感を足したようなパスタですので、そう命名しました」


キャペオはぷつんではなく、むつんと切れるような、打ち立ての質感が素晴らしい特殊なパスタだ。

弾力が強くしこしことした噛み応えも堪らないのだが、この店ではたっぷり生クリームのトマトソースで、新鮮なバジルと塩漬け肉とで合わせているらしい。


美味しい予感に椅子の上で小さく弾むと、キャペオ大好きな魔物が正体である銀狐も、目を輝かせて尻尾を振り回していた。


燻製ハムとチャイブを使ったカネーデルリは、パンを再利用したお団子料理だ。

白いバターソースで焼き葱と一緒にいただく。


他には、森猪の肉の香草ステーキに、自家製チーズたっぷりの、春野菜とマッシュルームサラダ。

このサラダに使われているチーズはヨーグルトに近い味わいで、さっぱりといただけるのだという。

残念ながら、鶏肉のトマトソース煮込みは終わってしまったそうで、代わりに仔牛の骨付き肉のチーズクリームソース煮込みを注文する。



「ディノが注文したお酒は、珍しいものなのですか?」

「蒸留酒の製造過程で出る、酒精の祝福の強いシュプリのようなものなんだ。試してみるかい?」

「いえ、昼食は食べる方向に専念したいので、この、飲んでみたらとても美味しかった香草茶で進めようと思います」

「うん。このお茶は、道迷いの花を使ったものだろうね。特別な効能などはないのだけれど、体の余分な熱を取るそうだよ」

「まぁ、メニューの端っこに、お茶の説明があったのですね」



窓の外は、僅かに灰色がかった薄曇りの空になった。

光量は十分にあり雨は降らなさそうだが、どこか不穏な気配があるお天気とも言える。


迷宮のあわいとは、どんなものが見えてくるのだろうとこっそり期待していたネアは、村の奥の方からひたひたと流れてきた水に、目を瞠った。



「ディノ、………あの路地の奥から、水が流れてきました。どこかで川が氾濫していたりするのかもしれません!」

「ああ。あれは、迷宮のあわいが、風景を回帰させているんだ。迷宮が開いていた頃は、この辺りは水辺の土地だったようだね」

「…………まぁ」


さして驚く様子もないディノにそう教えられ、ネアは目を瞬く。

窓辺の席の銀狐は興奮して椅子の上で足踏みしてしまい、アルテアに叱られていた。



「この食堂も含め、以前からある広場周囲の建物の入り口が高くなっていただろう。水辺の土地の水害対策だな。入ってきた扉の下の部分に隙間があったのは、それでも浸水した際に水捌けや通気を良くする造りだろう」

「敢えて、隙間を作ってしまうのです?」

「このような土地では、玄関の水の侵入防止には魔術符を使う。だが、家の隙間の全てに術符を使う訳にもいかないから、僅かな浸水や、人の出入りや家財の収容で床が濡れたり汚れるのは避けようがない。水が引いた後に、井戸からの綺麗な水で床を洗うんだ」


こちらの世界での水難で怖いのは、水の系譜の生き物達の障りや、上流から流れてくる災いなのだそうだ。

疫病や呪いなどを避ける為にも、余計なものを招き入れてしまった建物の床は速やかに魔術洗浄しなければならない。


となると、建物への対策は、ひと雫の水も入れないようにするか、入ってしまったものを素早く洗い出すかのどちらかになる。


浸水を避けるように努力はしつつも、それを避けられない土地では、住居を素早く魔術洗浄する為の工夫も大事なのだ。



「この建物には、あわい除けの隔離魔術が敷かれているようだね。水害のようなものは再現されないだろうけれど、もしそのような事が起きても、ここに水が入り込む事はないから安心していいよ」

「それを聞いて安心しました。………むむむ、噴水の向こう側はもう、綺麗な川辺になってしまいましたね。そして、あちこちに石壁が聳えて、神殿のような円柱が立ち並んでいます」

「ほお、これか迷宮の通用口だな。迷宮へは、小舟で渡ったのか…………」



そう言われて円柱の奥を見ると、彫刻を施したファザードの下に、豪奢な石造りの船着き場のようなものが現れていた。


建物がある部分は浮島のように、道だった部分は川の中に沈み運河の街のようになっている。

水に浮かんだ円柱の通路は、水面すれすれの石畳を歩いて船着き場に誘う為の門のようにも見えた。



(あの向こうに行ってみたなら、どうなるのだろう…………)



勿論、これから美味しい昼食をいただく予定なのでそんな事はしないが、ネアは、冒険の始まりのような風景に少しだけその向こう側の景色について考えてもみる。


船で向かった先の迷宮には、ネアがあまり得意ではない、祠守りの竜達がいて、オフェトリウスが回収したかもしれない武器が眠っていたのだろう。

水辺にはアイリスが沢山咲いていて、風景の色ががらりと変わるのも面白い。


ああ、人ならざる者達の領域のものがあるのだなと、その美しさに魅せられるのは、いつもの事で。

そんな事を考えていると、サラダやキャペオがテーブルに届けられた。


いい匂いにぐーっとお腹が鳴ってしまい、ネアは慌てて素知らぬ顔をする。

アルテアは呆れ顔だが、ディノは、伴侶があまりない動きをしたので可愛いと目元を染めていた。



「おい、お前は待て。取り分けるまで動くなよ。………テーブルに足はかけるな」

「むぅ。狐さんを叱るアルテアさんが、お母さんのようです」

「やめろ」

「キャペオ…………」

「ふふ。ディノもキャペオは好きですものね。今取り分けて差し上げるので、待っていて下さい」

「ご主人様!」

「では………、」

「こちらでやるから待ってろ。その間、狐を見張っておけよ」

「むむ、ではそちらに専念しますね」



ほかほかと湯気を立てるキャペオに、新鮮な春野菜の葉物がしゃっきりしているサラダ。

美味しそうな料理の載った取り皿が並べられ、ネアは椅子の上で小さく弾んだ。



ぱくりと食べた最初の一口に、ネアは目を瞠る。

とてもとても美味しかったのだ。



「……………こ、これは好きな味です!」

「ほお、…………いい具合だな」

「…………キャペオ」

「むぐ!…………キャペオは、お代わりします?」

「お前な……………。せめて、他の物を食べてから考えろ。腰は残しておけよ」

「………私の腰は、きちんと生存しているのですよ?」



残りの料理もテーブルに届き、ネアはその全てを驚きと、最高に口に合う味付けの安堵を以て美味しくいただいた。


アカシアの揚げ物はふわりと花の香りが抜け、柑橘系の果実のような涼やかな香りは、贅沢なご馳走になる。

しゃくしゃくとした食感で、ネアはソースよりも塩で食べる方が好きだった。


結局キャペオは二皿目もお願いし、デザートには、再びのアカシア揚げに、檸檬のシャーベット。

どちらもとても美味しくて、ネアは大満足の溜め息を吐くばかりだ。



「キャペオやカネーデルリと、なぜ森の中でという疑問はさて置き、鰯のパスタも名物料理なのだそうです。むふぅ。また来たいお店ですね」

「では、またエーダリアに入村許可を貰おうか。祠守りの竜達が落ち着いている季節がいいかもしれないね」

「となると、夏か冬でしょうか。予防接種の時期は避けた方がいいかもしれません…………」



しかし、ここで誤算が生じた。

魔物達の予測の通りに、美味しい食事の時間の間に、ひたひたと満たされた水は引いてしまい、というような事は起こらなかったのだ。


窓の外を見ながら、ディノとアルテアはどこか遠い目をしている。


「…………おい、何で第二波になったんだよ」

「一度晴れかけたのに、また始まってしまったようだね。………祠守りの竜達は、仲間の病変を放っておくのかな」

「………ディノ、少し前から気になっていたのですが、お店の方が、あちらの席の竜さん達を王様と宰相様と呼ばれているのですが、もしや祠守りの竜さん達は今、指揮系統が死んでいるのでは………」

「…………え」

「………くそ。その上、患者枠の長老は病変中か。道理で回収されない訳だ」

「ふむ。窓辺で楽しく飲んでいるあやつらを、お外に放り出せばいいのです?」



ネアは、もうたらふく食べたので、そろそろお家に帰りたい気分である。

予防接種もあってすっかり疲れてしまったのか、銀狐は、椅子の上で丸くなって眠っていた。



「アルテア、転移であの橋の前に出る事は可能かい?第二波であわいが重ねがけされるのなら、出てしまった方がいいかもしれないね」

「………ああ。事前に魔術で道筋を付けてある。問題はないだろうが……」

「なぜこちらを見たのだ。事故率では、アルテアさんには敵いませんよ?」



ディノの魔術は、あわいを堅牢にしてしまう危険もあるようで、ここで使うのは危険なのだそうだ。

常用のもの程度であれば支障はないが、例えば、このあわいをどうこうしようという術式の切り出しは、控えておこうという事になった。


ディノとアルテアは暫く議論をしていたが、やはりこのまま待っている訳にもいかないと、僅かな危険は覚悟の上で、ここで帰路に就く事になった。


いつの間になのかさっぱり分からないままに支払いはアルテアが済ませてくれており、店の出口に向かいながら、ネアはまだ楽しく飲んでいる毛皮枕を、恨めしい思いでひと睨みする。


シヴァルの話で好感を持った王様も、こんな時に飲んだくれているようでは残念としか言いようがない。

魔物達が、彼等をこの店から摘み出してしまうという案もあったが、酩酊歌の発病した長老に加え、お酒で酩酊した王と宰相が騒ぎに加わったりしたら大惨事になる。


混乱を避ける為、放置しておくしかなった。



「…………水の匂いと、アイリスの香りがしますね」


扉を開けると、周囲は迷宮が開いていた頃の風景のままになっており、先程までのミノスの村とはまるで様子が変わってしまっていた。


ぎいぎいと船に括り付けられたオールが軋む音がして船着場を見たネアは、ぎょっとして目を瞠った。



「……………アレクシスさんです」

「え………」

「おい、あいつは船に乗るのかよ…………」

「この魔術証跡だと、本人で間違いないようだね。あわいだと知った上で迷宮に向かうようだ」



ネアが、食堂の入り口のところでびょいんと弾んで手を振れば、こちらに気付いたアレクシスが驚いたように顔を上げる。


にっこり笑って手を振ると、躊躇する事なく迷宮の入り口に向かって船を進めていった。



「…………念の為に発言しますが、ここがあわいだと、気付いていないという事は………」

「ないだろうね。あわいとして開いているからこそ、今の内に手に入れたい物があるのだろう」

「ほわ………。あわいの迷宮の何かが、スープにされてしまうのですね」



もしかするとそこで、思いがけない出会いに緊張感が解けてしまったのかもしれなかった。



すっかりぐうぐう寝ている銀狐は、ディノが抱いており、ネアはまた帰り道も持ち上げると言うアルテアが伸ばした手に掴まろうとして、何げなく食堂の入り口にかかったオリーブの小枝に触れた。


それは、そちらに方向転換した際に、おでこに当たらないかなと確かめる為にだった。

まさかその小枝がもう、あわいの一部だとは思わなかったのだ。



「ネア!!」

「っ!!ネア!手を伸ばせ!」

「ぎゃ?!」



小枝に触れた瞬間の事だ。



しゅばんと、水の輪が足元に湧き上がった。

綺麗な円を描いたそれに、ネアは、ぞっとして体を竦ませる。

こちらの世界で、円形を模した魔術が扉になる事は、今更言うまでもない。


そこにすぽんと吸い込まれて堪るかとびゃんと飛び跳ねたネアは、その瞬間に、伸ばした手をしっかりと掴んでくれたアルテアにほっとしたのも束の間、着地の瞬間にぎゅむっと何かを踏み付けた。



その途端、ぎゃーっと悲鳴が響き渡る。



「…………む」

「おい?!」



足元でさらさらと灰になるのは、巨大な怪物の手のようなもの。

ネアは、鱗と鋭い爪の禍々しい手が、ちょうど飛び跳ねたタイミングで水の輪から這い出ようとしたところを、重力に従った着地による踏みつけの要領で、しっかりと踏み滅ぼしてしまったらしい。



きらきらちかり。

眩しい太陽を見てしまったような目眩に、思わず目を瞑る。


それでも、ぎゅっと手を掴んだアルテアの力強さは感じていたし、くらりと後方に倒れかけたネアのもう片方の手を掴んでくれたのはきっとディノだ。



だから、どこにも行ける筈がなかったのに。





「……………おや、御客人かな」



けれども閉じた目の目蓋の暗闇の奥で、ネアは見知らぬ何処かにいた。


さらさらと水の流れる音に、雪景色の王宮と、それに不似合いな常夏の庭園が見える。

色鮮やかな南国の鳥が舞い、極彩色の蝶がひらひらと揺れた。


豪奢な椅子に腰掛けているのは、足元までの長い髪の男性で、ぼさぼさなのか、瑞々しい初夏の植物のように艶やかなのか判断に苦しむその髪は、光の加減で黒真珠色を帯びた白い髪である。


こちらを見た瞳は淡い淡い薄紫色で、僅かな水色の光彩模様が、ネアが目を閉じる事になった不自然な眩しさと似た煌めきで、ちかりと光った。



(これは、誰……………?)



そしてここは、一体どこなのだろう。



ゆったりとしている聖衣めいたロイヤルブルーの服を着た男は、神殿に祀り上げられた聖なるものに見えなくもない。

だが微笑みには残忍さがあって、どこか酷薄で冷淡だった。



「迷宮の褒賞かな、迷い込んだ君。それにしては不思議な事だ。なぜか私は、君をとてもよく知っているような気がする。でもまぁ、ここは褒賞が繋いだ祝福の幕間なのだから、それに相応しいものを授けておこうか」



すいと差し伸べられた手には、一枚の譜面がある。

けれどもその銀水晶の譜面は、ぼうっと音を立てて青い炎に包まれて燃え尽きてしまった。


そしてその灰が、きらきらと光りながらこちらに舞い込んでくるではないか。



「運が良ければ、いつかこの音楽が、一度だけ君を助けるだろう。だがそれは、私がそちらで祝福になるか災いになるかにもよる。譜面のどちら側に触れるのかは、その身を置く場所次第」

「……………褒賞ではなかったのですか?」



思わずそう尋ねたネアに、男はふわりと微笑んだ。

魔物らしい眼差しを見せる時のディノのような、人間の領域を離れた美しい生き物の微笑みは、目眩がする程に暗く美しい。



「道のりは褒賞で、私は相応しい物を授けた。それがどう作用するのかは受取り手の資質次第。これは、ある種の武器なのだから、何の問題があるだろうか。…………ああ、でも」


そこで言葉を切り、男は愉快そうに低く笑う。



「君の領域では、私は悍しい災いになるようだ…………」

「……っ!!」


慌てて、体を引こうとして、ネアは、今も尚、手首にはしっかりと魔物達の体温が触れている事に気が付いた。


そうだ、これは目蓋の裏側の暗闇なのだと思い出し、そんな所からはどうやっても逃げ出せない事にぞっとする。



「………おや、」



けれども、ネアに触れかけたきらきらと光る燃え尽きた譜面の灰は、なぜかこちらに届く前にもろもろと崩れて跡形もなく消え去ってしまった。



(……………え?)



途端に目の前の男は不機嫌そうな顔になり、邪険に追い払うように片手を振る。



「興醒めだ、無粋な人間め!お前の魂には、よりにもよって私の祝福を殺す呪いが敷かれているらしい。災いも祝福も持ち帰れず、ここから立ち去るといい。何と悍しい!美しい音楽を永劫に発する事の出来ない、何と哀れで無様な魂か」



ぱちり。


その言葉を最後にネアは目を開き、手首を引っ張られるままに、ディノとアルテアの腕の中にどさりと受け止められる。




「…………あ、」

「ネア!!」

「………くそ、因果の結びの気配か!ネア、何を見た?………いや、何に出会った?」

「こちらで引き留めたから、持ち去られた物は無いはずだ。けれど、すぐに魔術洗浄をかけよう。………ネア、目を閉じている間に見た物を思い出せるかい?」



ただならぬ様子の魔物達に問いただされ、ネアは目を瞬いた。


目を覚ましたのか、ディノに片腕で抱かれけばけばになっている銀狐も、ぶるぶると震えながら涙目になっている。



(……………見た物を、)



それを思い出そうとして、ネアは、目蓋の裏側の暗闇の向こうにいた男に、最後に言われた言葉を反芻した。



混乱と驚きに阻害されていた思考が漸くまともに動き始め、言葉の内容がじわじわと理解出来るようになる。


その途端、かっと頭に血が昇った。



「ぐるるる!!!」

「……………ネア?!」

「っ、おい?!」



最後の言葉までを理解した途端、ネアは怒り狂った。だしだしと足元の石階段を踏み荒らし、歌乞いという尊い役目を拝する人間を不当に貶した生き物への怒りを露わにする。



「お、おのれ、許すまじ!!よくも、初対面で聞いてもいない私の歌声を貶しましたね!!!おまけに、不良品の褒賞です!!こんなものを用意した責任者は誰なのだ!!」


荒れ狂うネアに魔物達は困惑してしまい、ネアはふーふーと荒い怨嗟の息を吐き銀狐を震え上がらせながら、たった今見てきたものを魔物達に報告する。


途中までの説明では魔物達の顔色が如実に変わったが、最後の下りまでを話し終えれば、なんとも言えない顔になる。



「…………そうか。お前の音痴さは、とうとう因果の魔術で結ばれた災いすら退けたか」

「むぐるるる!!」

「ネア、落ち着いて。…………君の歌は可愛いけれど、今回はそれが幸いしたようだ。ここではないどこかの、…………恐らくは、今の世界の層ではない生き物から贈られた物を、背負わされずに済んだのだから、幸運な事だよ?」

「ぐるる…………ぐる。………むぐぅ」

「もはやその歌声は、守護の域だな。諸共滅す害虫駆除に使えるどころか、音楽の領域の高位者すら退けるのか………」

「…………ぐるる」



どうやらネアは、水の円から這い出た怪物を滅ぼした事で、あわいとして再現されているこの迷宮の試練に打ち勝った事にされたようだ。

そうして、褒賞としてあの空間に繋げられ、あの男に出会った。


ディノ曰く、そのような外見の音楽に連なる高位者は今の世界にはいないようで、ネアが以前に出会った前世界の書の魔物のように、かつての世界の層に触れたという事らしい。


与えられようとした物をあの男が武器と表現した事から、オフェトリウスが回収したという武器の仕様なのだろうが、因果の魔術で結ばれた褒賞は、奇跡や不可能を可能にするものを呼び寄せるのであった。



(でも私は、それを受け取らずに済んだ…………)



魔物達はとても安堵しているが、一方的に怖い目に遭わされ、尚且つ盛大に貶され反論する間もなく追い出されたネアは、この憤りをどうすればいいのかという心持ちである。


素早く魔術洗浄をかけて貰ったが、幸いにも、やはり何も付与されていなかったようだ。

であれば、ただ繊細な心を傷付けられただけという事になるではないか。



「……………ぽんこつ褒賞です」



むしゃくしゃしたままのネアが、そう、ぽそりと呟いた瞬間のことだ。



「ぎゃ?!」



次の瞬間、ネアはぶおんと強い風に包まれ、ばさりと布の落ちる音を茫然と聞いた。

足元に広がる布の輪は、ネアが先程まで着ていた服ではないか。


では、今のネアはどうなっているのだろう。 


ネアは、ちらりと視線を下げかけやけに肌色な視界に嫌な予感を覚え、肌に触れる風の温度にぎょっとして魔物達に掴まれたままの両手を引っこ抜こうとすると、逆にぐっと掴まれてそのまま、アルテアに抱き込まれた。



「…………馬鹿かお前は!!あわいを刺激するな!」

「ぐぬぅ…………」



すぐさまばさりとかけられたのは、アルテアがどこから取り出したケープのようなもの。

それにぐるぐると包まれて胸を撫で下ろしたところで、その中に手を突っ込んで確認したネアは、幸いにも下着は残されたようだぞと安堵する。


であれば、水着相当はあるので何ら恥じらう事はない。



ディノが回収してくれたネアの服は、どこかが切れてしまっていたする事もなく、ボタンまでしっかりと留められたまま、中身が消え失せたかのようにすとんと落ちていた。


たいへん残念な事に、ネアがこうして服をすぽんと脱がされるのは初めてではなく、またかという悔しさが募るばかりである。



ケープでしっかりと覆われたまま、ネアは、アルテアに抱え上げられ、帰りを急いだ魔物達に村に入る際に通った橋の前に転移で連れてゆかれる。


ケープに簀巻きというたいへん不本意な状態で橋番の騎士達にワッペンを返し、何かあったのだとざわつく騎士達にアルテアが簡単に事情を告げたところ、あわいの迷宮に弄ばれたのだろうと痛ましい目で見られるおまけ付きだ。



「その、………どの時代の祠守りの竜が治めていたかによって、現れるあわいの迷宮の気質が違うのですが、もっとも厄介で癇癪持ちなのが、初代の祠守りの竜王の治めた迷宮だと聞いていますので、お話を伺う限りはそれではないかなと。………大変な目に遭われましたね…………」



気遣わし気にそう言ってくれた騎士に先導されて橋を渡れば、そこはもう、最後に散々な目に遭わせてくれた迷宮跡地の村の外だ。



ネアは、世界を呪う暗い目で橋の向こうを眺め、祠守りの竜は、咎竜と並ぶ最も大嫌いな竜だと心の中で決定付ける。


共生しているミノスの住人達がいるので声には出さないが、あの食堂の料理がどれだけ美味しくても、二度とこの村を訪れる事はないだろう。



「……………ぐるる」

「ネア、可哀想に。守ってあげられなくてごめんね。………帰りにザハに寄るかい?」

「むぐ、………ケーキ」

「ったく。またおかしな事に巻き込まれやがって………。帰ったら、好きなタルトでもパイでも焼いてやる。それで我慢しろ」




リーエンベルクに帰ってあった事を報告すると、ネアは、まずは案じてくれながらも、ミノスの祠守りの竜達の気質を説明しただろうと、エーダリアに言われてしまい項垂れた。


裁定者として君臨していた時代の祠守りの竜達は気位が高く、怒らせると面倒な事になるのだそうだ。


最後に服を脱がせられた一件は、人間ごときが与えた褒賞に文句を付けたと嫌がらせをされた可能性が高く、何かあるといけないので、今後は、不用意によく分からない物を刺激してはいけないと言い含められる。



その後、では、約束通りにパイでもタルトでも食べられるのかと言えば、まずは念には念入れて魔術洗浄しておこうと、ネアは、魔物達にお風呂に入れられてしまった。


さすがに浴室着は許されたものの、二人がかりでごしごしと磨き上げられ疲労困憊してしまい、悲しみに暮れた人間は、こちらもそれなりに疲労困憊の、義兄な銀狐を抱き締めて眠るしかなくなる。



眠りに落ちる前にネアは、ミノスに暮らす全ての祠守りの竜達が次に受ける予防接種が、飛び切り痛くなりますようにと心の中で呪いをかけておいた。



人間はとても恐ろしく理不尽で、執念深く冷酷な生き物なのだ。


なお、ネアが音痴なのはちょっぴり音階の揃え方が不得手なだけで、決して呪いなどではないと主張させていただきたい。









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