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小箱と街と山猫の荷馬車 6




朝になると、ハムの街は青白い朝の光の中で独特な空気の色を纏った。


僅かに白くけぶる砂色の建物に反射する光は、どことなく澄んだオリーブ色に染まる。

瑞々しく葉を伸ばした街路樹の影は萌黄色で、そして可憐に咲き誇る花々がそこに色を添える。


すらりと茎を伸ばして小さなマーガレットのような黄色い花があちこちにたくさん咲いていて、ネアは唇の端を持ち上げた。



(朝の光の色は青白いのに、この街の色相は少しだけ砂色、或いは黄色がかるのだわ…………)



だが、街には一本路地に入るとそこかしこに水路があり、緑も豊かで決して乾いた印象はない。

植物や建物の持つ色相が少し黄色に偏るので、その色を映して全体の色合いが変わるのだなとネアは頷いた。


どちらかと言えばウィームの色調の方が好みだが、ここまで視界を染める色合いが変わると、異国に来たという感じがあってわくわくしてしまう。


また、夜露に湿っていたので夜は質感が違ったものか、朝になって石畳の質感が思っていたものとは違う事に気付いた。

こちらの街の石畳は、砂岩のような少しざらついた質感のものであるらしい。

そしてその表面が、朝日が当たるときらきらと光るのだ。



「初めて見る色相ですが、気持ちのいい朝ですね」

「キュ」

「この色合いは、街造りに使われている石材に含まれる、黄色を帯びる流星水晶のせいなんだ。最初は黄色の結晶石ということで軽視されていたんだが、後に星の系譜の結晶である事が判明して、価値が上がった経緯がある」

「まぁ、という事はこの石材も土地の特別なものなのですね」

「この規模で切り出して金庫の中に入れてあるからには、石切り場も含めてはあるんだろうな。流星黄水晶として、ヴェルクレアでもガーウィンの一部の聖堂で装飾に使われていた筈だぞ」

「ほわ………!」



そんな水晶が採掘されるこの土地の砂岩は、ざらりとした表層の質感の割に頑強で、街の建材や石畳にも使われている。

朝日や夕暮れなどで強い陽光が差し込むと黄色い色を映すだけでなく、夏場には陽炎が出来やすいのだとか。


ネアは、じゃりりと踏みしめた石畳の一つにもそんな物語があると知り、何だか嬉しくなって唇の端を持ち上げる。

胸元に入れてあるムグリスディノもきゅぴんと三つ編みを伸ばして興味津々のようだ。


ウィリアムと繋いだ手がぴんと伸ばされるくらいのところまでじゃりりと石畳を踏んで歩いてみてから、ネアはててっとウィリアムの腕の中に戻った。



「………まだ朝で肌寒さもあるが、陽が昇ってくると少し熱くなるかもしれないな。ネア、アルテアのかけてくれた、シルハーンの保冷魔術が効いてなさそうだったら、すぐに俺に言うんだぞ」

「はい。ディノ、何だかほこほこしてきたと思ったら教えて下さいね?」

「キュ!」



この街も、今は春なのだそうだ。

だが雪国であるウィームとは違い、春が早く夏が長い。

となると当然春でもそれなりの陽射しになるので、冬の系譜のムグリスは要注意である。


なお、厄介な妖精がいると判明した以上は徹底した防御をと、ムグリスの伴侶にはウィリアムの鉄壁の守護もかけて貰った。


名付けて、着れる鳥籠である。

朝、ウィリアムが膝の上に乗せて髪を結ってくれている際に我が儘な人間が頑張ってお強請りしたもので、ネアは、捥ぎ取った成果にたいそう満足していた。


かつては物語本で息をしていた人間は、こんな時に小さなふくふくした生き物にどんな災難が降りかかりがちなのかを、きちんと把握しているのだ。

それだけは、絶対に阻止しなければならない。




(アルテアさんも、無茶をしなければいいのだけれど…………)



アルテアとは、庁舎の部屋からは別行動となっている。


そんな選択の魔物は、ウィームから落とされた男性の保護されている施設に足を運び、ハバーレンの妖精王の副官が姿を現さないか調べたりと、ネア達とは違い積極的に今回の事件に関わってゆくことになる。


問題の妖精はなかなかの武闘派であるらしく、ネアはそうなってくるとウィリアムの方がいいのではと思わずにいられなかったが、ウィリアムは妖精の浸食を探るのには長けていないようだ。


実はこんな時も有用なのは、災いを退け尚且つ武闘派な戦いも可能なオフェトリウスの資質だと知れば、ネアは、ますます剣の魔物の老後のウィーム移住に積極的にならざるを得ない。

それぞれに特性があるのであれば、少しでも多くの要素をと考えてしまうのが強欲な人間なのだ。



(でも、先住魔物との相性もあるから、移住する時は大変なのかな…………)



そんな事を考えていると、がやがやざわりという市場の喧騒が近付いてきた。


焼き立てのパンの匂いや、雨に濡れた草原のような収穫されたばかりの野菜の少し青い匂い。

そんな生活に根差した生きた香りに期待が膨らみ、ネアはぴょんと弾んでしまう。


ウィリアムに、この街の女性の好む三つ編みを取り入れたハーフアップのような髪型にして貰っているので、異国風のお洒落に気持ちも浮き立っている。



「市場はこちらのようですね。向こうでもし何かがあれば、巡回の兵士さんに相談するといいそうです」

「ああ。各街の管理者を中心に、それぞれの街の要所には兵士が配属されているようだな。防衛力が偏らないように、山猫商会側で管理と教育を徹底しているらしい」

「それはやはり、ならず者さんが落とされてしまうからなのでしょうか?」

「ああ。だがその中でも、生活さえ安定すれば更生の余地がある者は、兵士として配属される者もいるらしい」


そう聞けば大丈夫かなと思わないでもなかったが、貧しい土地などでは、生活の為に山猫の積み荷を襲う者も少なくはないらしい。

働きに見合ったものにはなるし、ここから出ることは叶わないが、安定した報酬と住処、そして美味しい食事というものは、そんな誰かにとっての失い得ない財産にもなるようだ。


当たり前の物を持たずにもがいていた人間が、真っ当に生きていける基盤を与えられたのなら、それを守る為に懸命になるという気持ちはネアにもよく分かる。




(あ、風が気持ちいい…………)



しゃわしゃわと、風に揺れる葉が音を立てる。

どこかの家の朝食の匂いに、歩道沿いの花壇に植えられた美しい八重咲きのチューリップ。

菫やアイリスは木立の方に咲いており、茂みや花壇に宿る妖精の煌めきは控えめなものの、この道は歩いていて気持ちがいい。


途中で市場に向かう住人達にもすれ違ったが、ウィリアムの美貌に一瞬は固まりはしても、ネア達が山猫商会の仕入れ人タグを首から下げているのを見ると安心したように会釈をしてくれる。


市場への道のりに終焉の魔物となると、雑踏に紛れる資質のウィリアムも、少し分が悪いようだ。

ネアは、アンジュリアから渡された正式な訪問者としての許可証に感謝した。




「ふぁ。いい匂いがしてきました!」

「…………これは、ベーコンかな」

「入り口でもう、ベーコンサンドが売られていますよ。じゅるり…………」



ハムの街の市場は、森の中にあった。


というのも、この市場は、街の中心にある森林公園を市場にしているようだ。


木々に囲まれ、少し開けた広場に市を構え、木々の枝の高い部分に小さな三角の旗を並べて付けた紐を通して市場の開催を示している。

ネアは、その何だか祝祭のような旗の可愛らしさに弾んでしまい、手を繋いでいるウィリアムに、ぎゅっと手を掴み直されてしまった。



木陰には、色とりどりの屋台やテントの屋根の色が躍る。

小さな布を張っただけのテントには、美味しそうな野菜が並び、木造の少し立派な屋台で美味しそうな果物のソーダが売られていて、テーブルだけを並べた店では朝市とは言え陶器なども売られているようだ。


勿論、土地の人々の朝市としての傾向が強い分、住人の常用の食器なので華やかな品物はないが、ネアは、小さな小皿をすっかり気に入ってしまい、市場に足を踏み入れて数歩のところでもう二枚セットの菫の絵付けのお皿を買ってしまった。

 


「ふぁ。素敵なお買い物をしました………」

「キュ!」

「これはもう、即買いでした。艶なしの淡い青磁色に、藍色で菫の絵付けがあるなんて。おまけにこのお値段…………」

「キュ!キュキュ!」

「お家に帰ったら、これを取り皿にして、一緒に酢漬け野菜などをいただきましょうね。涼し気な雰囲気に、きっと合うと思うのです」

「キュ…………」

「まぁ、さては恥じらいましたね?」



いそいそと品物を腕輪の金庫に入れながら、今回は何としてもこの腕輪を奪われてはなるまいと、ネアは気持ちを引き締めた。


美味しいムーハのシュプリと、この小皿が入っているのだから、この金庫を奪おうとする者が現れたら、その場で滅ぼすしかない。



「ネア、ベーコンサンドの店は二店舗あるようだな。どっちにする?」

「な、なぬ…………。一つはオリーブのパンに挟んで食べる焼きベーコンで、もう一つは、中にこま切れベーコンとチーズを挟んだベーコンサンドなのです?」

「ホットサンドの方は、ジャガイモも入っているようだな。分けて食べるか?」

「…………分けまふ」



綺麗な色のソーダも大変魅力的であったが、ここは朝食になるベーコンサンドを堪能するべく、ネア達は、冷たく冷やした香草茶を選んでそれぞれのサンドイッチを購入した。



「ネア、こっちで食べられるみたいだぞ」

「まぁ!素敵なベンチがありますね」



まだひんやりとしている朝の空気の中で、ネア達は、少し奥に入った木立の中に、ベンチを見付けた。

ベンチの足元には小さな水色の花が咲き乱れており、まるで絵本の中に出てくるような風景だ。


そんな場所でいただくあつあつのベーコンサンド程に素敵なものはなく、ネアは高鳴る胸に微笑むしかない。


かさかさと包装紙を開けて、それぞれのサンドイッチを半分にし、ネアは、乙女の手では少しもたつくベーコンを挟んだサンドイッチも、ばりんと簡単に半分にしてくれるウィリアムが同伴者である事に感謝した。



「むぐ!」

「キュ!」


まずはとろりとチーズがこぼれてしまうホットサンドをいただき、茹でて潰したジャガイモと蕩けるチーズ、そしてベーコンの組み合わせは至高のハーモニーであると認め、ではもう一方のサンドイッチをと焼いたベーコンを挟んだものを食べれば、昨晩のベーコンステーキとは違い、少し薄切りのものをかりかりに焼いて何枚か挟んだものの美味しさに、ネアは目を閉じてうっとりしてしまう。



「はは、気に入ったみたいだな?」

「…………ふぁぐ。…………ふぁい。どちらも、ベーコンの美味しさが引き立っていて、噛み締めるだけで幸せな味なのです」

「キュ…………」

「そしてムグリスなディノは、ジャガイモとチーズのホットサンドに夢中ですね?」

「キュ…………」



昨晩の料理といい、どうやらムグリス姿の伴侶は、チーズトースト風のものがお気に入りのようだ。


ネアは、人型でも食べて貰ってやはり気に入るようであれば、自分の厨房でも作ってあげようと心の中に書き留めておく。

ご主人様の料理のハードルがとても低い魔物にとって、これは、簡単に作ってあげられる料理になるに違いない。



朝食を終えると、ネア達は朝市場を巡ってあれこれと買い物をした。


ネアは、先程ウィリアムから聞いた土地の石から掘り出した小さな聖堂の置物を買い、エーダリアへのお土産とした。

ここで全部揃える必要はないのだが、事件が急展開する可能性も見込み、先に揃えておくのがネア流だ。


ノアにはムーハの辛口のシュプリを買い足し、ヒルドには素敵な陶器の小物入れを買った。

もしこの後でまた素敵な物が見付かったのなら、それはそれで買う事も出来る。


今回、大きな買い物は山猫商会のツケに出来るので、余分なお土産は他の人に流用すればいいのだ。



「ウィリアムさん、見て下さい。この陶器のペンのような物は何でしょう?絵付けがとても素敵なのです」

「ああ、これは絵笛だな。祝福を呼び込む為の縁起物なんだ。この土地の住人達は、一年ごとに買い替えるらしい」

「それで、あちこちに沢山売られているのですね………」


ネアは、その細長い笛のお値段を見てぴゃっと飛び上がると、全部で二十種類程ある物の中から、お気に入りを手早く選別し十五個程購入した。



「キュ?」

「ディノの分も買いましたからね」

「キュ!」

「これだけ買っても、さっきのサンドイッチより安いのですよ」

「キュ!」

「いい買い物が出来たみたいだな?」



そう微笑んだウィリアムにも、ネアが旅の思い出として笛をお裾分けすると、終焉の魔物は白金色の目を瞬き、ゆっくりと微笑みを深めた。



「いいのか?」

「はい。素敵な用途のものですので、大事な方々と分け合って持っていたいなと思ったのです。私達と、お揃いになってくれますか?」

「…………ああ。勿論」



安価な陶器の笛を、ウィリアムが大切そうに指先で撫でる。

ネアはムグリスディノと顔を見合わせ、そんなウィリアムの姿ににっこりと微笑んだ。



最後に搾りたての美味しいグレープフルーツのような果実のジュースをいただき、ネア達は、朝市での買い物を終えた。


懸念していたような事件や襲撃は起こらず、その後はウィリアムと春の花々に彩られたハムの街を歩きながら、有名な陶器工房にお邪魔したりしつつ、観光客気分でたっぷりと楽しんでしまう。



「ふは!先程の工房で、素敵な絵皿を買い込みました。私の厨房の食器棚は最初は空っぽだったのですが、こうして食器を増やしてゆくのも楽しいですね」

「キュキュ!」

「最後の絵皿は綺麗だったな。どことなく、イブメリアのリースに見えた」

「まぁ、ウィリアムさんもですか?四季それぞれのリースの揃えのようで、四枚セットですが買わずにはいられませんでした。今度、ウィリアムさんにもこのお皿で何か作りますね」

「それは楽しみだな」



目を細めて柔らかく微笑んだウィリアムにふわりと頭を撫でて貰いながらそんなお土産も金庫にしまい、さてそろそろ昼食かなと考えた時の事だった。



(……………え、)



不意に、ひゅんと風を切る音がした。

その後の鋭さと不自然さにネアが目を瞠った瞬間、ぐるんと視界が反転し、ウィリアムの腕の中に力強く抱き込まれる。


誰かが悲鳴を上げているのが聞こえてぞっとしたが、その理由を確かめる余裕もなく、ウィリアムに抱え上げられ、また視界が反転した。

何が起きているのかが分からないネアはもう、なされるがままに振り回されるしかない。



「…………っ、」



ウィリアムの短い呼吸の音と、石畳を踏みしめ走る靴音。


だだだん!

その鈍く連なる音に、石畳がひび割れる。

次々と撃ち込まれたのは、鉱石で出来た矢のようなもので、硬い石畳に深々と突き刺さっていた。


弓矢で襲撃されたのだと理解し、ひたりと、慄きと震えのようなものが背筋を這い上がる。

こんな周囲の人が巻き込まれそうなやり方でと、それどころではないのに、心の端が怖さに震えた。


ネアはとても身勝手な人間だが、それでも、この襲撃で、関係のない誰かが巻き添えになったらと思うと堪らなかった。

出てきたばかりのお店の綺麗な外装のタイルが傷付いていたらどうしようと、こんな時に人間はしょうもない事を考えてしまうらしい。


抱えられて守られ、運ばれるその間にがきんと矢を弾く硬い音が響いた。


走り、体を反転させ、どこからともなく絶え間なく撃ち込まれる矢を避けながらまた走る。

ここから転移を出来ない事情があるのだろうかと考え、またぐるんと視界が入れ替わる。


(恐らく、ウィリアムさんは自分の体を盾にしてくれているのだ)


だからネアをしっかりと抱き上げる事は出来ないし、矢が飛んでくる方向を把握する為に、その飛来音を掻き消す声を発する余裕もない。

どれだけの技量の射手なのだろう。

そう考えると怖さが少しずつ積み重なってゆく。


それでも、ネアは頑張って抱えられ、時には走った。

ウィリアムの動きに意識を集中し、違う方向に走ってしまったり、出遅れて転んでしまったりしないように。


そしてまた、抱え上げられ視界が回る。



「…………っ?!」


その勢いのあまり、しっかりと胸元に収まっていた筈のムグリスディノが、すぽんと体が浮いてしまった。

ひゅっと息を飲み、ネアは永遠のような一瞬で、宙に浮いた大切な伴侶の体に夢中で両手を伸ばした。


血の気が引いて、あまりの怖さに吐きそうになりながら、けれどもネアはしっかりと両手でムグリス姿のディノを受け止める。


しかしそれは、苛烈な襲撃の中でネアを抱えて逃げてくれていたウィリアムの体の影から、迂闊にも飛び出してしまった一瞬でもあった。




ばつん!




その直後に響いた音は、ぴんと張った皮を貫くような鈍く鋭い奇妙な音で、ネアは、強く強く自分を抱き締めた人の体温に竦み上がる。



最後の最後で、襲撃の方向から死角になる物陰に飛び込んだ。

だが、そうして飛び込みはしたが、最後の最後ではみ出してしまったネアのせいで、大切な誰かが盾になりはしなかっただろうか。



「……………ウィリアムさ…」

「怪我はないな?」

「…………ふぁ、………はい」

「よし」


抱き込まれて逆光になったまま、こちらを見たウィリアムが安堵したように微笑む。

けれども、泣きたくなるくらいに優しいその微笑みから視線を少しだけずらせば、ウィリアムの腕には四本もの矢がしっかりと突き刺さっていた。


じわりと滲んだ真紅に目を見開き、ネアはそれでもしっかりと捕まえた大事な伴侶をもう一度胸元に押し込んだ。

手のひらの中のムグリスディノも、ウィリアムが負傷した事には気付いたのだろう。

とても震えていたが、動揺のあまりに手のひらから飛び出してしまう事はなかった。



「…………っ。き、傷薬を」

「いや、術式添付の呪いの矢だな。断ち切らないと少し危うい。………すまないが、少しだけ目を逸らしていてくれ」

「…………っ、………う。はい」



ネアはここで、そんな事は嫌だと駄々を捏ねなかった。


この矢傷の処置の仕方はウィリアムが分かっているようだったし、まだ逃げ切った訳ではないのだから、ここで足手纏いになる訳にはいかない。



「ア、………アルテアさんを呼びます」

「…………っ、………ああ。そうするか。俺一人ならどうにでもなるが、あの遠距離の武器は少し手間取りそうだ。…………ネア、もういいぞ」



ネアは、その音を聞きたくなかった。

けれども、ざんという鈍い音と、何かが燃え上がるような風に煽られる炎が燃え上がる音がほんの一瞬だけ聞こえてしまい、耳を塞ぐような無作法な真似は出来なかったのだ。


唇を噛み締め、涙がこぼれないようにしてアルテアの名前を呼ぶと、ふっと微笑みを深める気配がある。

目尻に落とされた口付けに、ネアはそろりと顔を上げた。



ウィリアムの片手は元通りになっていたし、もうあの矢は影も形もない。

けれども、魔術で再生された服地は、やはりどこかそちらだけ違うような気がした。

その傍らには、石畳にざくりと突き立てられた抜き身の剣がある。



「ネアのせいじゃない」

「…………む、むぐ。矢を射った奴めのせいです!でも、………いえ、今はそんなやり取りをしている余裕はありませんよね」

「いや、アルテアが合流するまで動かないようにしよう。ネア、ここで少しだけ息を整えようか。いいか、シルハーンが飛び出したのは、俺が、君をあまりにも激しく振り回したからだ。あの矢をネアに触れさせたくなかったから、つい全力で走ったからだ。……ネアのせいじゃないからな?」

「……………ふぇっく」



あまりにも優しい声でそう言われ、ネアは、じわっと滲んでしまった涙を慌てて袖口で拭う。

しっかりと抱き締められ、その片方の腕が、あの矢に仕込まれた何かを断ち落とす為に一度切り落とされたのだと知っていて、息が苦しくて堪らなくなる。


ああすればこうすればと考えるのは、無駄なのだ。

あの時のネアには、ウィリアムに抱えて逃げて貰うしかなく、となれば荒っぽい退避になるのは必至。

ウィリアムが次の行動をいちいち伝えられる余裕はなかったし、いきなり勢いよく振り回されその遠心力に揺さぶられていたネアには、胸元の伴侶を押さえておく為に手を持ち上げる余裕はなかった。



(それでも、…………)



それでも、ウィリアムが傷付いてしまった。

その事が堪らなく悲しくて悔しい。

だから、こんな所で泣いてしまう役立たずにはなりたくないのに、込み上げてくる涙で瞳がひたひたになるのを押し止められずにいた。



「ぜ、絶対にあの弓の奴めは、私が滅ぼします………!」

「ネア、今回は我慢してくれ。あの手の妖精の捕縛はアルテアが得意だろう。……………アルテア、少しかかりましたね」

「……………ネア、どうした?」



その声にそろりと顔を上げ、ネアは、アルテアが駆け付けてくれた事に心から安堵した。

胸の中できつく押し留めていた吐息を吐き出し、また滲んだ涙をごしごしと拭う。



「わ、私は大丈夫でした。ですが、ウィリアムさんが………手を」



そう言えば、アルテアの赤紫色の瞳が、ほっとしたように緩められる。



「お前は怪我はしていないな?」

「……………ふぁい」

「…………ウィリアム。お前が遅れを取るのは珍しいな」

「アルテア、あの弓は銘ありの妖精の武器ですよ。………恐らく、譜面縫いでしょう。最初の一手で腕をかすめられたせいで、転移と隔離結界の構築が出来ませんでした。…………うん、その傷ごと腕を落とした今は、もう出来るようですね」

「……音留めの武器か。厄介な物を持ち込みやがったな」

「そちらはどうしたんですか?あの妖精を探していたんでしょう?」

「あいつは、既にこちらの入れ物を見付けていたようだぞ。慎重な質の宝物庫の妖精だな。…………あの矢を防ぐには、音払いの魔術と弓矢除けの魔術だな。………ネア?」

「…………は、はい!まだ動揺はしていますが、意識はしゃんとしています」



確かめるように名前を呼ばれ、ネアは慌てて返事をした。

だが、胸元からそっと顔を出したムグリスディノも、目に涙をいっぱいに溜めていて、ネアはまた泣きたくなってしまう。



「ディノ、怖かったですよね?無事でしたか?」

「……………キュ」

「まぁ、…………」


目をうるうるにして自分を見上げたムグリスな王様に、ウィリアムは目を瞬き、途方に暮れたようにゆるゆると首を振った。


「……………シルハーン、この通り俺は、あの手の傷には強いですから。………その、………ええと、……困ったな」

「キュ…………」

「ったく。そういう事は後でやれ。そろそろ魔術の場が構築固定されるぞ」

「……………あの妖精は、………ああいたな。こちらを探していますね。じきにここに気付いて狙いをつけるでしょう。この場所なら、あの白緑の屋根の辺りかな」

「それなら術式の反転で引き摺り落とす迄だな。あの武器の破壊はお前にしか出来ん」

「ええ。俺が壊しましょう。だが、いいんですか?あなたが手に入れられる道具を壊すのは珍しい」

「終焉に矢傷を負わせた武器だ。その縁を残しておくと、後々に足を掬われかねないからな」

「おっと、確かにそうでしたね」



どうやらここに陣を構え、敵を迎え撃つ方策のようだ。


じりじりとした息の詰まるような時間の中で、アルテアは、襲撃を仕掛けた妖精が既にこの土地の人間の入れ物を得ており、こちらが発見する前に、保護されていたウィームから落とされた人物に接触していたのだと教えてくれる。




「身代わりを保護した職員の中に、妖精が混ざっていたらしい。こちらの宝物庫の妖精が気付いて処分した時には、それが身代わりだという情報が抜き取られていた」

「その身代わりの人間は?」

「多少内側を喰われたが、死にはするまい。どっちにせよ、戻されても妖精に食われ直すだけだがな」

「それにしても、そちらで手間取りましたね。………正直なところ、こちらへの襲撃があるとは思っていませんでした」

「一師団入り込んでやがった。山猫側の手落ちだな」

「………それでか。こちらには一人でしたが、他の妖精達は?」

「アンジュリアと一緒にいた妖精が、二人、俺が六人駆除してある。王の副官だというあいつで最後だな。まぁ、これを機にハバーレンの現王の派閥の入れ替えにもなるだろうよ」

「その規模の兵を待機させていたとなると、なかなか真剣に槍を押さえに来ていたんですね…………」



二人のやり取りは、いつもの会話のように落ち着いていた。


その声が不思議と心を落ち着けてくれて、ネアは、ふうっと深呼吸する。

心を落ち着け、憎っくき妖精はすぐにぺしゃんこにされるのだと自分に言い聞かせた。


この手で滅ぼせないのは残念だが、ここで余計なことをして足手纏いになったら最悪だ。

二人の邪魔をしないように、動かないようにしていると、ぴしりと伸ばした体がぷるぷるし始めた。


「…………ネア、少し力を抜いていいんだぞ?」

「……………ふぁい」


くすりと笑ったウィリアムにそう言われ、ネアが悲しく項垂れたその時だ。

ぶおんと揺れた空気に、ネアのスカートやウィリアムのコートの裾が大きく膨らむ。


どこか遠くを見据えたアルテアの瞳が、ぞっとするような暗く冷たい嘲りを浮かべた。



暫くして、かしゃんと音を立てて地面に落ちたのは、先程、ウィリアムの腕を貫いたのと同じ色の矢だった。

石畳に落ちるともろもろと崩れてゆき、糸で束ねた花と一粒の宝石となった後に、ざあっと砂になって風に散らばる。



「指揮棒の木の花枝と、この土地に親和性の高い黄色の金剛石か。いい腕だが、もう弓は引けないだろうな」

「では、俺が弓を壊してきましょう。アルテア、ネアを頼みます」

「…………ウィリアムさんは、お一人で危なくありません?」

「ああ、勿論。少しだけ待っていてくれな」

「はい」



安心させるようにネアの頭を撫でると、ウィリアムは、ネアをアルテアの腕の中に押し込み、素早く姿を消した。


ネアは、展開していたらしい術式を閉じたアルテアの腕にぎゅっと抱き締められ、やっと襲撃が終わったらしいという安堵に少しだけくしゃりとなる。



「……………ったく。ひやひやさせやがって」

「…………ふぇぐ。ウィリアムさんは、………もう大丈夫ですよね?」

「元々、あの程度の武器でどうにかなる程脆くはない。あの武器は、様々な物の肉体や魔術の動きを音に見立てて止めるものだ。その効果が厄介ではあったがな」

「音に見立てて………」

「キュ……………」

「あいつが、お前に擦り傷でも負わせまいとしたのは、魔術の動きや抵抗値も、その矢傷で循環を止めかねないからだ。俺達にはせいぜいが足止めの攻撃でしかないが、人間は場合によっては致命傷となる。お前の場合は、元々魔術の可動域と抵抗値が均衡していないからな。予期せぬ影響が出る事もある」

「……………だからウィリアムさんは、覆い被さりながら逃げてくれたのですね」



あらためて、どうしてあの退避の仕方になったのかが分かり、ネアはへにゃりと眉を下げる。



「………俺が昨晩付け足したばかりの祝福が、磨耗されているな。今の襲撃で、危険を退けるような選択をしたか?」

「ウィリアムさんに運ばれていただけなので、思い当たる節はありませんが、………強いて言えば、すぽんと胸元から落ちてしまったムグリスディノを両手で受け止めたくらいです」

「であれば、その中のどこかに、選択の祝福で最善を選べたものがあったんだろう」

「…………ほわ。その祝福がなかったら、ディノを取り落としてしまっていたのかもしれないのですね?」

「…………キュ」



そうか、そんなところでも救われていたのかと得心し、ネアはアルテアにお礼を言っておいた。

あの時、ネアの意識しなかった他の選択肢が確かにあり、その中には、もっと酷い目に遭うような分岐もあったのかもしれない。



「…………あ、」



そう考えかけたところで、ネアの体を検分していたアルテアが、矢で傷付けられていたものか、びりりと破れたスカートの一部を見せてくれた。

何か入れていたかと尋ねられ、何も入っていなかったが、ムグリスディノの移動用ワッペンの転移先だった事を告白する。



「ならば、これだろうな」

「…………もし私が、落ちてしまわないようにポケットに移動していて欲しいとディノに伝えていたのなら、或いは、途中でディノを、胸元ではなくてポケットに隠していたら………」

「キュ………」



通り過ぎて選ばずに済んだその選択肢にぞくりとし、ネアは、慌ててアルテアの両手を掴んだ。

ぐいっと引っ張られ、帽子の影になった赤紫色の瞳が見開かれる。



「しゅ、祝福を追加して下さい!一個減ってしまったのですよね?」

「…………おい?!」

「キュキュ?!」

「無事にこちらは終わりましたよ。…………ネア?どうしたんだ?」

「アルテアさんの祝福でディノが助かったと判明したので、もう何個か付け足して貰おうと思うのです!」

「…………シルハーンは拾えたが、情緒は落としてきたようだな」

「なぜ情緒が絡むのだ………」

「ネア、もうこちらは片付いたから、祝福を足す必要はないんだぞ?」

「………むぐ。そうなのです?念の為に、もう十個くらい貰っておかなくて大丈夫でしょうか?」

「十っ、…………」

「いらないだろう。だが、心配なら俺が側に居るからな」



ネアはなぜか、頭を抱えてしまっているアルテアを見上げ、手を差し伸べてくれたウィリアムのところに歩いてゆくと、ぎゅっと抱き締めて貰った。


アルテアは祝福を毟り取られそうでとても怯えている様子だが、近い内に、今後のことも見越して幾つか奪い取っておこうと、邪悪な人間は静かに野望を温めるのであった。









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[一言] やっと現時点での最新話に追い付きました。 鬱々しがちな今の時期に、薬の魔物の物語は心の支えになってくれています。 薬の魔物を読んでいると、お料理の種類、服や装飾の知識の豊富さに感心させられ…
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