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15. それはもはや薔薇ではありません(本編)




ウィリアムからの薔薇を貰って会食堂に戻ると、ディノとアルテアは何某かの議論をしているところだったようだ。


ぎくりとしたようにこちらを振り返るので、自慢しようと思っていたウィリアムの薔薇が入った入れ物を抱き締めて、ネアは眉を寄せる。


そんなネアとネアの持っているウィリアムの薔薇を見て眉を顰めたアルテアに、帰路の間にまたネアを抱え込むようにしてくれたウィリアムが、なぜか小さく微笑む気配がした。



「内緒のお話でしょうか?」

「君の仕事で予定されている、ガーウィンの話をしていたんだよ」



ネアの問いかけに焦ってしまったのか、おろおろした伴侶はすぐに告白してくれた。

そうと分かれば一安心なので、ネアはそれ以上は特に追求しないことにする。

けれどもそれはそれで不安なのか、ディノは慌ててこちらにやって来ると、そっと三つ編みを差し出した。



「なぜ三つ編みを……………?」

「秘密があるのは嫌だろう?話してもいいものだとは思うのだけれど、知るという事は知られる事だから、上位擬態が可能なアルテアまでで、この話を留めておきたかったんだ…………」

「まぁ、そうであれば、ディノは私を心配してくれたのでしょう?私とて自分のか弱さは理解しているので、危ういと思っていることまで、無理をして伝えてくれなくてもいいですからね?」

「…………そうなのかい?」


ネアの返答に、ディノは目を丸くした。

水紺色の瞳に不思議そうに見つめられ、ネアはしっかりと頷く。


「ええ。私に出来ることと出来ないことを、せっかくお二人が振り分けてくれるのに、全てを知りたいのだと荒ぶるようなことはしません。ただ、ディノやアルテアさん自身に困ったことが起きているのに、それを隠されたら怒り狂いますよ!」

「ご主人様……………」



目をきらきらさせて三つ編みを握らせてきた魔物の為に、ネアは、その三つ編みを少しだけ引っ張ってやった。



「……………お前は、相変わらずの線引きだな」

「そもそも、魔術の中に私の出来ることへの線引きがあるのですから、危ないと言われている線をわざと踏んだりはしませんよ。人間はとても我が儘な生き物ですが、自分の責任で行使する我が儘さと、自分でも責任が取れないような愚かさは違います。例えば、絶対的な不利が生じると分かってるような、虫系統の生き物には勝負を挑みません」

「ほお、それならアルビクロムにうってつけの妖精がいるぞ?」

「おのれ、そんな情報は知りたくありません!」

「やれやれ、アルテアは意地悪だな。後で叱っておくが、まずはネアが薔薇を貰ってからがいいかな」

「おい、剣を出すのはやめろ。そもそも、蜈蚣の妖精くらいで…」

「むぐるる!」



怒り狂った人間はアルテアの背中をばしばし叩いてしまい、せっかく喜んだばかりの伴侶な魔物がご主人様が使い魔に浮気をするとしょんぼりしてしまった。



この場合、ディノはお仕置きがご褒美になってしまういけない魔物なので、ネアとしてはアルテアへの抗議の方法に配慮が必要だったのだ。



「み、見て下さい、ディノ。ウィリアムさんから、ウィリアムさんの歌で育った薔薇を貰ったんですよ!」

「おや、歌声から育てたということであれば、ウィリアムの祝福なのだね」

「おい、安全対策はしてあるんだろうな」

「勿論、ある程度の要素は剥いでありますよ。……………シルハーン、ネアに影響の出そうな要素は剥離させてありますから、ご安心下さい」

「うん。こうして見ていても、君の魂の色を写してはいるけれど、この子に問題のありそうなものは見当たらないね。…………ネア?」

「ここです!この、花びらのふちの部分が、淡く金色がかった白なのがとても綺麗だと思いませんか?ウィリアムさんの瞳の色のようで、とても素敵でしょう?」

「ウィリアムなんて……………」

「あらあら、そんな風に荒ぶってみせても、ディノだってウィリアムさんのことが好きなので、ディノも一緒に眺めればいいではないですか」

「ネア………………」



ネアにそう言われてしまったディノは目を瞠り、そんなディノと顔を見合わせてしまったウィリアムはなぜか微かな動揺を瞳に浮かべている。



「おい、そろそろ行くぞ。その薔薇は置いていけ」

「いいえ。この薔薇は、ノアやヒルドさんに貰ったものと一緒に、一度金庫にしまいます。後で並べて鑑賞するのですが、今はこうして自分のもの感を楽しむ時間なので、誰にも預けません!」

「どんな強欲さだよ」

「はは、ネアは可愛いな」



ネアは、大事な薔薇の入れ物を持って取り上げようとしたアルテアを威嚇し、ディノには後でじっくり二人で鑑賞しようと約束したうえで、そっと首飾りの金庫にしまった。


宝物に関してのネアの執着はとても酷いもので、大事なものは一度抱え込みたいという欲求があるのだ。




「お前は、竜の血でも引いてるんじゃないのか」

「むぐ。私の育った世界に竜さんはいません…………。いてくれたのなら、家族で飼ったりもして、どれだけ楽しかったでしょう」

「ネア、アルテアがいるから竜は飼えないんだよ?」

「ふぁい」



ここでネアは、賢い選択をした。

でも今は、ベージとの繋ぎがあるので、そのささやかな竜感を楽しんでいると言ってしまったら、きっと魔物達はまた竜への警戒を強めてしまうだろう。

都合の悪い事には触れないに限るので、ネアはさらりと話題を逸らした。



「そして、ふと思い出したのですが、アルテアさんとのお約束は昼食の後だったのでは………?」

「……………まだ食べてなかったのかよ」

「そんな目で見られても、確かに今日は少し遅めですが、アルテアさんの到着した時間はいつもの昼食の時間よりも前でしたと言わざるを得ず…………」

「約束の時間を忘れてしまったのかい?」



ディノに不思議そうに尋ねられ、アルテアは何とも言えない顔をした。

ネアはささっと近付くと、おでこに手を当ててみたのだが、幸い熱はないようだ。



「やめろ…………」

「ふむ。発熱の兆候はないようですね。体調が悪くて失念していたのではなく、確信犯です!」

「ずるい……………アルテアに新しいことをするなんて…………」

「ディノの荒ぶりどころは謎めいていますが、おでこに手を当てて、熱がないか確かめただけですし、それならディノにもやってあげたことがあるでしょう?」

「近くまで走ってゆくのは違うのかい?」

「助走ではありません…………………」




そうこうしている内に、給仕妖精が会食堂を訪れ、昼食の準備が始まった。



今年の薔薇の祝祭のお昼は、リーエンベルクを出ない予定だったネア達が最初に食べ始めるのだが、ウィリアムとの約束を圧迫しないよう、いつもよりは半刻遅い時間にしてある。


優雅な所作も美味しい食事への期待を高める給仕妖精は、いつもネアが感心してしまう舞踊のような動きで、素晴らしい料理のお皿を軽やかに並べてゆく。

今年の薔薇の祝祭は色鮮やかなものを選んでくれたのか、白いお皿に散らされた色とりどりの薔薇の花びらに囲まれた前菜は、目で見ても楽しい。



「こ、これは、着席して心を鎮めなければなりません!」

「可愛い、弾んでる……………」

「おい、弾み過ぎだぞ……………」

「ウィリアムさん、リーエンベルクの昼食では、薔薇の精が出るんですよ」

「ああ、ヴェルクレアでは食べられるんだったな。砂漠寄りの国や島国では食べられないものだから、あちらに行くとかなり高価な食材になるんだ」

「となると、輸出されていたりするのでしょうか?」

「直接の持ち込み以外の流通は難しいだろう。確か、運送中に状態が悪くなると、祟るんじゃなかったか?」

「流通には向いていない嗜好品だな。収穫地の国内であれば、流通経路が整っていることを前提にして、風と水の祝福石を添えて梱包すればどうにかなるかもしれないが、後は殆どが自家栽培だ。薔薇の精は祟ると面倒なことになる」


さすがその種の話題に詳しいアルテアがそう教えてくれて、ネアはふむふむと頷いた。

いつかどこかで、薔薇の精を運ばなければいけない危機に直面したら、先ずは水と風の祝福石を手に入れよう。



「ディノ、この盛り付けを見て下さい。今年のお料理も可愛いですね」

「ネアがかわいい…………」



椅子の上でネアを小さく弾ませてしまったのは、一枚の白いお皿の上に盛られた赤蕪の薔薇だ。

薄く切って火を通した赤蕪をふわっと絞ったクリームチーズの土台の上で薔薇のように盛り付けてあり、そのクリームチーズは混ざった岩塩と黒胡椒がアクセントになっている。


これは、薔薇の祝祭の名物料理の一つで、薄く薄く切った魚と赤蕪でカルパッチョ風のお皿を出すのだが、そのお皿の中央に、赤蕪の薔薇が飾られていた。


カルパッチョは透けるような薄さの鯛と新鮮なグレープフルーツが使われており、シンプルながらに絶妙な味付けが堪らない美味しさなので、嗜好が海鮮寄りのアルテアが気に入りそうな一皿ではないか。



「酸味と塩気がちょうど良くて、鯛の上に散らされた香草と薔薇の花びらでサラダ風にもなっていて、最後に果実の香りがして美味しいです!」

「オリーブの油じゃないな。……木薔薇の油か………………」



アルテアは、回しかけられたオイルが気に入ったのか、その部分だけを味わうという玄人な食べ方をしていた。

ネアは少しだけ真似してみてオイル部分を舌先で味わったが、確かにふわっと薔薇の香りが感じられる。

とは言えその薔薇の香りも爽やかなもので、決して食品に過分な花の香りという感じではないのが素晴らしい。



「これは、美容にも使われるものだからな。残すなよ?」

「む!であれば、お塩と油の部分が美味しかったので、予定通りにパンにもつけて食べます!!」



木薔薇は、オリーブによく似た木で、花は咲かないのだそうだ。

とは言え立派な薔薇の系譜のものであり、初夏と冬にはその葉が美しい薔薇色に染まる。

採れる油は、香水瓶のような特別な瓶で売買される高価なものらしい。


テーブルの上には、他にもネアを喜ばせる薔薇の祝祭と言えばなハム盛りのお皿があり、その横には話題の薔薇の精が塩焼きになってこんもり盛られていた。


この熟れていないブルーベリーのような物体は、大事に手入れされた薔薇の枝に派生するものだ。

触れるだけでも祝福が得られる上に、こんな風に祝祭の料理になったりもする。

その代わり、さすが植物の系譜とも言うべきか、食べずに廃棄された薔薇の精は激しく祟るので、食卓に上げる際には細心の注意を払う必要があった。



(やっぱり、このお皿は大好き……………)



ハム盛りのお皿を見ているだけで唇の端が持ち上がってしまうのは、他のどんな凝った料理にもない、かつて美味しそうなハムを心ゆくまで食べられなかったという無念の記憶故だろうか。


花びらのように盛られたハムは五種類もあり、中にはさもハムですが何かと言わんばかりのボロニアソーセージなど、ネアの好きなものばかりが集まっている。

見栄えよりも味優先で盛り付けられた骨付きハムは、塩気は控えめにしてあつあつとろりのチーズがかけられていて、今年の野菜巻きハムは、しゃきしゃきとした謎食材がとても美味しい。



「この、白葱のようですが、味わいはアスパラなものは何でしょう?ハムと食べると、食感が良くて美味しいですね…………」

「雪草だな。葦の茂みのような大きなものに育つが、新芽の先を摘んで雪の上に置いておくと、苦みが抜けてこういうものになる。雪草の刈り取りは冬の系譜にしか出来ないが、あのザルツに向かう川沿いにも生えてるぞ」

「どっちかというと、他の国では雑草なんだがな。清浄な雪が降る土地だけは、こうして食べられるんだ」

「……………身近な野草という感じなのですね。………美味しいれふ」

「私のものも食べるかい?」

「ディノも食べてみて下さい、しゃきしゃきですよ」

「草……………」

「ディノはまだ、野草とお野菜の境目がまだ厳格なのですね…………」

「ご主人様…………」


魔物は、食卓に上がったのがその辺の川沿いに生えている草だと知り怯えていたが、ウィリアムもアルテアも普通に食べているので、意を決して食べてみたようだ。

その結果、割と好きな味わいだったものか、目を瞠って美味しそうに食べている。


ネアは、フォークでぷすりと刺した薔薇の精をほくほくと食べながら、今年は厳しく配分を管理した。

塩焼きでも充分に美味しいので、ついついソースにつけるものが減ってしまい、今迄に何度も後悔したのだ。



「むふぅ。三種類のソースで至福の思いです」

「タルタルソースがあるね………」

「ふふ、ディノの好きなソースですものね」

「うん…………」


ディノはもっぱらタルタル推しだが、ウィリアムは赤い香辛料の辛いソースが気に入ったようだ。

ちらりと隣を見ると、アルテアはスタンダードなマヨネーズソースが気に入ったのかそれでばかり食べており、ネアを、リーエンベルクのマヨネーズは美味しいのだという誇らしい気分にさせてくれた。


終焉の魔物や選択の魔物が、フォークに小さな薔薇の精を刺してちょびちょび食べている姿も、何だか可愛らしい。



途中、ゼベルから、街中でノアが美しいご婦人に蹴り飛ばされていたという報告を貰って青ざめるような場面もあったものの、ネア達は美味しい薔薇の祝祭の昼食をいただき、よれよれになったノアからも、もうお家に帰るという無事を知らせる連絡が入ってきた。



「シルハーン、こいつを借りるぞ」

「事故ってしまわないようにね」

「………………影絵の中で事故る程落ちぶれてはいないな」

「あれ、今年はアルテアも影絵にしたんですね」

「昨年もそうだ。…………とは言え、それでも、あの流星の騒ぎだったからな」



ウィリアムの言葉に、アルテアは顔を顰めてなぜかネアの方を見る。

ネアは、なぜ事故の発生率の高さをこちらに振るのだと、低く唸っておいた。



「でも、影絵であればここから動けるのですよね」

「ああ。…………おい…………」

「む。別に、三つ編みを掴んでディノを持ち込もうという事ではないんですよ。こうして、行ってきますねの挨拶を兼ねて、三つ編みを引っ張ってあげると喜ぶ魔物なのです」

「ネアが懐いてくる。可愛い……………」



そんな出がけの挨拶に遠い目をしていたアルテアだったが、ネアがきちんと隣に立つと、どこからか取り出した杖で、床をこつりと鳴らした。


先程のウィリアムの移動の仕方とは違い、アルテアの移動は、目的地に繋がる薄闇が、足元からふわりと煙のように立ち昇る気がする。

ウィリアムは押し通ると言わんばかりにばりんと空間を渡り、ディノは霧の中を歩いてゆくように自然に進み、ノアは爪先から魔術が広がってその中に踏み込むような感じだ。


けれど、どちらにせよこの魔物達の転移や移動はとても軽い。

次の一歩を踏み出すような自然さで、ふわりと魔術の風が吹くのは変わらず、ネアが体験したことのある公共の転移門による移動などは、どこの土地よりも質がいいとされるウィームですら、ぎゅんと風が吹くような激しさがある。


魔術が豊かではない土地では、激流に飲まれたようなとんでもない転移もあるらしいので、注意が必要だ。




すとんと広がった薄闇の向こうに、しゃりんしゃりんという不思議な音が聞こえてきた。

遠くから聞こえてきたその音に目を瞠っていると、やがて空間の間の薄闇が綺麗に晴れる。



「………………ぎゃふ」



あまりの光景に小さくそう呟き、ネアはアルテアの手を逃れてててっと駆けだそうとしてしまい、すぐに捕獲されて小脇に抱えられてしまった。



「た、たくさんのきらきらのお花が落ちています!これは、波に攫われてしまう前に、拾い集めなければいけません!!」

「拾うな。これは、流星の光を溜め込んだ湖に、花々の祝福結晶を保管しているんだ」

「……………落し物ではないのですか?」

「そんな訳あるか」

「………………大収穫の夢が潰えました。世界はとても残酷です…………」

「とは言え、薔薇の祝祭だからな。好きな薔薇の一輪だけ、持って帰っていいぞ」

「……………ほわ」



ネアは思いがけない提案にごくりと息を飲み、目の前にどこまでも広がっているように見える淡いエメラルドグリーンの水辺に立つ。


どうやら今年のアルテアからの薔薇は、自分で好きなものを収穫出来る仕組みのようだ。


最初は、イブのあわいで見たような南洋の海辺かと思ったのだが、湖面が揺れるのは、沈めてある花々の祝福結晶から気泡が立ったり、真上の淡い水色の夜明けの空から流星の煌めきが落ちるからなのだそうだ。


流星の煌めきが湖に落ちると、しゃりんしゃりんという儚く美しい音が聞こえてくるらしい。



「こ、この中から……………」



水の中には、様々な色の結晶化した花が落ちていた。

無雑作に落ちているように見えるが、アルテアが保管しているとなれば、沈め方にもそれなりの規則性もあるのだろう。



花びらが透けるような石楠花に、ほわほわした花が小さな宝石のようなミモザや、可愛らしさよりも美しさで目を引くチューリップ。


花々の揺らめかせる光の煌めきが、水面にまた色を持ち上げる。

そこに星の光が落ちると、えもいわれぬ光の色の波がしゃわしゃわと揺らめくのだ。



「いいか、薔薇にしろよ」

「……………ふぁい。綺麗なものが多過ぎて、心の中がくしゃくしゃです。…………薔薇…………」



声は虚ろだが、強欲な人間の眼差しは鋭い。

薔薇選びの為に解放されると、素早くあちこちを見回し、体勢を低くして誰にも自分の獲物を取られないようにしゃっと水辺に駆け寄る。


はぁはぁしながらあっちに行ったり、こっちに行ったり、水の質感はあるが濡れないと言われたのでしゃばしゃばと浅いところに入ってみたりしながら、ネアは頑張って欲しいものを二つの薔薇に絞った。



どこか展示室にでも置いてあればまた違うものが良く見えるのかもしれないが、こうして淡い色の水に沈んでいると、やはり鮮やかな色のものが美しく見える。

淡い色だと、水面に揺れる光の色が重なって見えてしまうのだ。



「ふぎゅ。…………これと、…………あれなのです。拾ってしまってもいいのですか?」

「取ってやる。特に奥のものはそれなりに水深があるからな」

「わ、私の獲物……………」



ネアは収穫もまた楽しいのにとじたばたしたが、妙に事故を警戒する魔物には待機を宣言された。

アルテアが手に持っていた杖で水面に文字を描くようにすると、ネアが選んだ二輪の薔薇が湖面に浮かんでこちらに流れて来るではないか。



「湖面に結晶化した薔薇が浮かんでいるなんて、お伽話のようですね…………」

「海で見かけたら、絶対に手を出すなよ。人魚達が伴侶を捕らえようとしていることが多い」

「ぎゃ!人魚さんはとても怖いので、絶対に近寄りません…………」



人魚は求婚の際に片目を差し出して来る上に、恋が終わると相手を気軽に呪う人外者だ。

王都のヴェルリアには、職業柄人魚との恋が多い船乗り達向けに、人魚に呪われた体を固定する為の包帯屋がある。


人魚に求婚されて追い回されたことのあるネアは、その時の恐ろしさを思い出してしまい、恐怖に身震いした。

人魚は、相手に伴侶がいようが婚約者がいようが、全く気にしない種族の一つなので、これからも注意が必要となる。




夜空の流星が、しゃりんと光の粒子を湖面に落とす。



結晶化した薔薇が水面に揺れるので、また先程とは違う美しさにうっとりしてしまう。

その薔薇を水際から拾い上げたアルテアも、なんとも絵になった。



「これと、これだな」

「はい。持ち方の注意はありますか?」

「武器に加工出来るくらいに頑強だ。扱いは気にしなくていい」



ネアは、可憐な印象もある薔薇色の薔薇と、紫がかった赤紫色の薔薇を手に持たせて貰い、その二つで迷うふりをした。



「………ど、どちらも捨て難いですが、こちらの薔薇の美しさには敵いませんね」

「随分と白々しいな。目が泳いでるぞ」

「い、いえ、そんなことはありませんよ!ここに流れて来るまでも散々迷い、私の中では大掛かりな自分会議が行われた後、こちらに決めたのです…………きっと」

「きっとって何だよ」

「ふぐぅ……………」



実は、アルテアの言う通りだった。


水から出した途端に色味の見え方が変わり、ネアとしては後者の紫がかった赤紫色の薔薇にすぐ心が決まったのだが、その時にはもう薔薇がこちらに届いてしまっており、わざわざ魔術を振るい取り寄せて貰ったことを無駄にしないよう少しばかり気を遣ったのである。


(大人の社交術なのに………)


魔物は傷付き易いので、その気遣いや努力を無駄にしないようにするのもご主人様の務めではないか。



(でも、選ばなかった方の薔薇もとても綺麗。ディノに選んだ薔薇に少し似ているかな…………)



渡された薔薇を手に取る時には少し緊張したが、この薔薇は、ネアが、力一杯放り投げても壊れないくらいに頑丈なのだそうだ。




「アルテアさん、これにします!」



手の中できらきらと光るのは、艶やかな赤紫色の宝石で出来たような薔薇だ。

ネアは花となるとやはり植物としてのそれに敵うものはないという考えだが、これはもはやその範疇のものではない。


見ていると吸い込まれそうな光の煌めきは、こうして流星の光を蓄えた湖にさらしてあったからこそなのだとか。



アルテアはなぜか、ネアが選んだ薔薇をひたりと見据え、魔物らしい微笑みを深める。

どこか満足げで、だからこそ、よく知らない相手であれば背中を向けて逃げ出した方がいいような魔物らしい微笑みに、ネアはおやっと眉を持ち上げる。



「……………成る程な。二百六十三の中から、これを選び出したか」

「………もしや、これが一番高価なものなのですか?」

「前にお前にやったものと、元は同じ薔薇だ。俺の血から育てた薔薇を結晶化させたものだからな」

「まぁ!ということは、これはアルテアさんの薔薇なのですね?であれば、この中にあるお花の中で一番綺麗なのも当然かもしれませんね」

「ほお、ここにはヨシュアのものと、ジョーイのものもあるが、お前はそう思うんだな?」



こちらを見てふっと微笑みを深くしたアルテアに、ネアは手の中の赤紫色の薔薇を取られないようにしっかりと握り直してから、そろりと水際に近付こうとして、またアルテアにさっと捕獲されてしまった。



「おい……………」

「むが!ヨシュアさんと白百合さんのお花を見たいのです!」

「選べるのは一本までだと言わなかったか?」

「むぐる!あるのだと知らされてしまった以上は、ヨシュアさんのお花や、白百合さんのお花も見てみたいと思うのが自然なことではありませんか。お二人のものも、きっと綺麗に違いありません!!」

「腕捲りをしておいて、よく見るだけだと言えたな?」

「……………む?」




大仰に溜め息を吐くと、じたばたするネアを抱えて、アルテアは少し歩いたようだ。


いつの間にかあの湖はもう遠ざかっており、ネア達は、きらきらと花の光に煌めく湖を見下ろす小高い丘の上にいた。

背後には深い森が広がり、丘の上にも見事な大木がある。



「……………ここは、まるで風景が違いますが、ランシーンのルドヴィークさん達のお住まいの辺りを思い出しますね。何というか、ひたむきな美しさを感じるところです」

「遠からずだな。あの近くの国の、やはり魔術の質が古い土地の影絵だ。今はもう、その国の王都になっているが、かつてはあの流星の湖があった」

「…………あの湖も、もうなくなってしまったのですね」

「聖域として祀り上げられたことで、信仰の領域になったからな。星の属性を保てなくなり、あっという間にただの湖に戻った。まぁ、人間達にはどちらの属性の階位が高いかまでの判断は難しいだろうな…………」



(良かれと思って保護したことで、かえって自然の姿が失われてしまうこともあるのだわ…………)



あの湖の美しい煌めきが失われた時、人々はどれだけがっかりしただろう。

そう思えば尚更、この影絵は大切なもののように思えた。


もう逃げないと判断されたのか、ネアは細やかな白い花の咲く草地に下ろされた。

夜が淡いとは言え、まだ充分に薄暗いのだが、空の星明かりに足元の花の白さがぼうっと浮かび上がるようで、暗さはまるで感じない。



そして今更ではあるものの、ネアの周囲には、からりと晴れた青空の景色をこのような時に使う人外者はあまりいないようだ。

何となくだが、そういう資質の者達が好むのはグラストのような気質の人物なのだろう。



「アルテアさん、あのお花は、どのようなことに使うのですか?」

「主に魔術の材料になる。内包する魔術の質が上がらなければ、武器の材料や、宝飾品としてアイザックに流すものもある。結晶化で価値を高めるものが多いが、元々の花としての階位が高くても、結晶化することでその質を落とすものも少なくはない」

「やはり、お花はお花として咲いていてこそというものもあるのですね…………」



大切に握り締めていた、アルテアの薔薇を眺める。


流星の光の煌めく湖から離れても、きらきらと鮮やかな色に輝き、触れただけでも割れてしまいそうな繊細な花びらの巻き込みは、儚げな印象すら与えてくれる。


けれども実際には、暴れるネアが持っていても欠ける事がないどころか、ネアの可動域では傷一つつけられないものなのだそうだ。




「こんなに素敵な薔薇を、…………というかもはや薔薇とはというくらいに素敵なものを、有難うございます」



あらためてお礼を言ったネアに、その薔薇と同じ色をしたアルテアの瞳がこちらに向けられる。


そのもの単体で魔物の瞳の色を表すのは難しいとされるが、流星の光を蓄え、そしてここで夜の光をも透かした結晶の薔薇は、アルテアの瞳の色にとてもよく似ていた。



「血を糧にしたものだ。俺との契約の補強にもなるし、守護の付与の効果もある。なくすなよ」

「薔薇とは………」

「お前の首飾りにつけた石も、この薔薇の一つから彫り出したものだ。だが、こうして本来の形のものの方が、蓄えた魔術は潤沢だからな。少しでもお前の守護を固めるという意味では、これで良かったんだろう」

「ふふ、結果としては、私もアルテアさんの薔薇が選べて良かったです。でも、うっかりヨシュアさんや白百合さんのものを選んでいた可能性もあるのですよね…………」

「それはないな。ヨシュアとジョーイのものは薔薇じゃない」

「なぬ」



また綺麗な光の尾を引いて、空を流星が流れてゆく。



「やれやれ、今年は去年のようなことにはならなかったな。俺自身の管理が強い影絵にして正解だったな」

「あの時は、巨大な星が落ちてきてびっくりしましたね…………」



淡い夜の畔りに立って微笑んだ魔物の仄暗さは、漆黒の装いからも決して善良な生き物には見えない。

けれども、見上げたネアに向ける眼差しに、今日はこの身を損なおうとしていないだろうかと、都度考えることはもうなくなった。



「アルテアさん、これが私からの薔薇です」

「……………趣向を変えたな」

「はい。今年は新婚さん風の薔薇にして…………がっかりした顔をするのはやめるのだ!確かにアルテアさんに白ピンクは似合いませんが、綺麗な薔薇ではありませんか!!」



薔薇を選んだ経緯を説明しようとしたネアは、明らかにがっかりした顔を見せたアルテアに、眉を跳ね上げた。



「お前らしさという意味で失点だが、とは言え祝祭の薔薇ではあるからな。貰っておいてやる」

「おのれ許すまじ、我が儘な魔物め。今は、私からの薔薇を二貶しですので、五失点したらその薔薇は回収しますよ!」

「…………ったく」



小さく唸ったネアに苦笑すると、アルテアはふわりと口付けを一つ薔薇に落とした。

大事にしてくれるのだろうかとじっと観察している人間に恐れをなしたのか、屋敷に飾っておくと約束をしてくれる。



「それと、お前にやった薔薇の保管用の箱を用意してある。後で届けるから、そこに入れておけ」

「じっくり鑑賞するので、蓋は開けておきたいのですが、悪くなってしまったりしませんか?」

「俺の資質的にはないな」

「………っ、」



ふっと体を屈め、まるで当然のように口付けを一つ落とした魔物に、ネアはこのような場所で成される祝福はいささか心臓に悪いと眉を下げた。

この世界の家族相当の祝福は慣れないなともぞもぞしていると、意地悪く微笑んだ魔物は、わざとらしくまた体を屈める。



「むぐ?!」

「お前への祝福が、一度で足りると思ったのか?」



そう満足げに微笑む選択の魔物は凄艶な美しさで、今日は愛情を司る薔薇の祝祭なのである。




「何だか、勿体無い気持ちになってしまいますね…………」

「勿体無い?」

「ええ。こんなに素敵な魔物さんを私の守護ばかりに費やされていては勿体無いので、来年こそは、私の使い魔さんが素敵な彼女さんと過ごせる薔薇の祝祭を…」

「よし、黙れ」

「むが!鼻を摘むのはやめるのだ!」

「いいか、その種の話題にはお前は二度と口を挟むな」

「何度も叱られてしまいますが、良さが分かるからこそ、案じてもしまう慈悲深く心の美しいご主人様なのですよ。そして、そこまで恥じらうとなると、もしやアルテアさんは思春期…………?」

「やめろ………」



そこでは魔物らしい酷薄な表情をしていたアルテアだったが、ネアが、帰り道で貰った薔薇を色々な角度で持ち上げてきらきらさせて見入っていると、機嫌を直したのか唇の端を持ち上げていた。



こんなに美しく光るのだから、窓辺に置いてこの薔薇を透かした夜明けの光を見るのもきっと素敵だろう。

ネアは、寝室の窓辺に飾ったらディノが荒ぶるかなと思い悩みつつ、リーエンベルクに帰った。



帰るなり、アルテアは甘いのがお好きでしたよねと、またしてもアルテアの紅茶に五個も角砂糖を入れて待っていてくれたウィリアムがいたので、やはりこの二人も仲良しである。














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