表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
307/880

旋律の礼拝と魔物の溜め息





はらはらと雪が降る。

この後に控えた薔薇の祝祭と春告げを思い、ネアは、ぽっかりと広がった黒い夜の中に、スポットライトのように降りしきる雪を見ていた。



もうすぐ、この季節も終わってしまう。

そう思うと何だか名残惜しくて、はらはらと落ちる雪片がとても大切なものに感じられるのだ。



真夜中の庭にはそっと雪が落ちる音がして、花影に滲むのは、奥の夜闇に広がる黒さとは違う青紫色の影だ。



不思議な夜である。



その闇の向こうには、また別のスポットライトのような雪の筋が落ちている。

はらはらと。

はらはらと。



ウィームの夜が純粋な黒であることは滅多になくて、そこには大抵、水彩絵の具を滲ませるように紫紺や紫、水灰色や青銀色の夜の光があった。

こっくりと深まる冬の夜は、黒に近しい紫色であることも多い。



けれども今見ている夜の色は、何とも上品な漆黒であった。





「……………ふぁぐ」



何かを言おうとして、ネアは、小さく乾いた吐息を飲み込んだ。


かさかさの喉には冷たい水が欲しかったが、何かを飲み込むと思うと胸がむかむかする。

眉を顰めて自分の体に意識を向けると、僅かに呼吸が早く、両胸の間が鈍く痛む。



どうやら体調が悪いらしい。




「むぐる……………」




体調が悪いと思うと、少しだけ理不尽な苦しみを背負わされているような気がしてしまう。


やりたい事があっても、やりたい事が何もなくても自分の時間は大切で、ネアはこの世界に来てからやっと、小さな時間のひと欠片までもが愛おしくなり、それが指先からこぼれ落ちるのが堪らなく腹立たしくなった。


前の世界で一人ぼっちだったネアにとって、病は諦観と孤独を際立てるスパイスのようなものだったのだが、こちらの世界に来てからは、ばしんと蹴り飛ばしたい腹立たしいとげとげに変わっている。


ネアが飲むスープにはもう、あってはならないものなのだ。



この胸の鈍い痛みは、かつてのネアの、ぼろぼろだった心臓の痛みに似ていた。


普通に扱うだけで夕刻には息が苦しくなり、手で胸を押さえるしかないくらいに胸が痛くなる。

背中までが痛くなる日は体を伸ばす事も出来ず、脈拍を測りながら、冷や汗をかいてじっと発作が収まるのを待っていた。



その時のままならなさを思うと、ネアはわあっと声を上げて暴れたくなる。

それでなくても自由はとても少ないのに、思い通りにならない体が、ネアの選択肢をどんどん切り落としていってしまうのだ。


そうしてまた、選べないことに疲弊したり、破綻する事に恐怖を覚えると、体が軋む。




あの日々。





(……………でもここは、何て冷たくて、………それでも、何てあたたかな夜だろう)




また少しだけ、はくはくと息を刻み、上質な天鵞絨のように滑らかでふくよかな夜を眺めた。


そこに舞い落ちる雪は、美しい布地にしっかりと刺された刺繍のようで、そのコントラストの鮮やかさに胸が締め付けられるようだ。



こんなに胸が苦しいのに、なぜかあの頃のような、悲しさややるせなさはなかった。

まるで、両手で拾い上げた宝物のように、美しい夜をどこまでも覗き込んでいる。




「…………っく」




しかし、こんな美しいものを見ているのにどこか寂しくて、寄る辺ない気持ちになるのはなぜだろう。


手を伸ばしても愛おしいものは掴めなくて、ネアはなぜか、お気に入りの毛布に包まり、いつもの枕を抱えてその向こうに広がる夜を見ていた。


多分ここはネアの寝室で、隣か、同じ部屋の中の毛布の巣の中にはディノがいる筈なのだ。

けれども、確かにそこにいるかどうかを確かめる為に、大切な伴侶の名前を呼ぶことは出来なかった。




(もし、これが綺麗だけれどとても残酷な夢で、ぱちんと泡が弾けるようにして、なくなってしまったらどうしよう)



そう考えてくすんと鼻を鳴らすと、ネアは、むっちりふかふかの素晴らしい手触りの毛布に頬を擦り寄せた。



とは言え、駄々を捏ねる子供のように怖い事を考えてはいるが、心の片隅では、そんな怖い事は起こらないと知っているような気がする。

ネアは絶対に大切な伴侶のいる世界にいるし、名前を呼べばディノはすぐに来てくれる筈なのに。




その時だった。




じゃりんと、鮮やかで美しい音がした。

どこから聞こえてきたのかも分からないのに、誰かの作り物のように美しい手が、黒白の鍵盤に落ちるのが見えたような気がして、ネアは目を瞬く。




かっこうと鳴く声。

それとも、あの不思議な花畑と雪山。


かつての不思議で恐ろしい夢の谷間が思い出され、ネアは少しだけぞっとする。



じゃらん。

ぽろん、じゃりりん。


そんな中でピアノの音が鳴り響き、きらきらと夜の中で煌めくダイヤモンドダストのように美しく、けれどもほんの一雫の不穏さのようなものが広がっていった。




このままではいけないと考えるのだが、胸のむかつきや奇妙な脱力感に苛まれ、何も出来ないまま毛布の中でくしゃりと転がるネアは、もう一度だけ己の心に触れてみる。




(でも、…………悲しくはないのだ。とても寂しいけれど、悲しくはないわ……………)




胸の苦しさは続いているし、ディノの名前は呼べないでいる。

それなのになぜだろうと考えたが、考えがまとまる前に今度は、ぱらぱらと頬に当たる雨粒のような音楽の中に心を委ねてしまった。



(あ、……………これは好きな曲だわ)



弾きながらどんどん曲を変え、繋げているのだろう。

切り替わった新しい曲は、艶やかで悲しげで、けれども儚くて美しい。



そんな旋律は、不思議な程に音が広がる。


現在のネアの前に広がっているのは夜の庭園と森なのだから当たり前とも言えるのだが、随分と音が高くまで響くではないか。

それはまるで、野外の演奏と言うよりは、天井の高い空間の中で、誰かが無心でピアノを弾いているようだった。



(こんな風に音が響くのはどこだろう。……………大聖堂の中。王宮や神殿、…………美術館や博物館の吹き抜けのホールのようなところ)



けれども、そのような石で出来た建物ほどに音が反響せず、適度に絨毯やカーテンなどの、音を吸い込む素材もあるところ。

その空間いっぱいに美しい音がばらばらと散らばり、敷き詰められた音の中に揺蕩うような陶酔感がある。


音の響き方は違えど、荘厳で清らかな演奏には幼い頃に訪れた大聖堂の礼拝を思い出し、ネアは、この美しい旋律を何とかして覚えておこうと、きっちりと保てない意識の中でじたばたした。



覚えておこうとしても、なぜだか記憶がこぼれ落ちてゆく。

そのことに頭にきてしまい、ネアは悲しく唸り声を上げた。




「……………ったく。大人しくしていろ」




そんな声がひたりと落ちたのは、心の中だけで暴れ疲れたネアが、またしてもへなりと寝台に沈み込んだ時の事だった。



(……………アルテアさん?)




確かにその声は聞こえたし、声の位置からすると近くにいるのだろう。


暫くの間は私用で不在にしていた筈の使い魔がここにいるという事は、ネアの現在の状況はあまり芳しくないものなのだろうか。

そう考えたネアは、ここでやっと悲しくなってふしゅると湿った息を吐いた。



ふつりと落ちたのは、どこか呆れたような溜め息の気配だ。



おかしなことだが、それは確かに人間のものではなく、魔物の溜め息だと確かに分かるもので、ネアは、そんな僅かな音にも人ならざるものの気配が宿るのだなと驚いてしまう。




「ったく。…………いいか、身体的な不快感があるだろうが、それはただの食べ過ぎだ。魔術的な効果の強いものを、短時間で飲み込み過ぎた事による反応だな。くれぐれも、おかしな勘違いをするなよ」

「……………食べ過ぎ」

「それ以外の何ものでもない。体調を崩しているのは、お前の繊細さの欠片もない胃袋にとっても、食べたものが特殊過ぎだだけだ」

「私の胃は、とても可憐なのです……………」

「どこがだよ。…………おい、意識を薬の向こう側に引き摺られ過ぎるなよ?」

「ちょっとよくわかりません………」




(薬の向こう側……………?)



首を傾げようとして、また毛布の中に隠れて、枕を抱きしめて見ている美しい夜に視線を戻す。




しっとりと黒い夜に降る雪がスポットライトのようになって、どこまでも等間隔に続いている。


それは、いつものネアの部屋から見える風景の中に広がっているけれど、リーエンベルクの庭から禁足地の森まで繋がっている様は、初めて見るもののような気がした。




(もしかしてこの風景は、その向こう側なのだろうか………?)




「毛布の中から、お庭や夜の森が見えるのですが、………向こう側に引き摺られているのでしょうか?」

「…………よく考えてみろ。今のお前がいる位置から、その風景が見えた事がこれまでにあるのか?」

「……………にゃいでふ」

「やれやれだな。………もう少し顔を出せ。薬湯を追加するぞ」

「……………沼の味のやつでは」



ネアは、胸がむかむかするのにそれはないなと考えて、厳かな気持ちで頷いた。

毛布を引っ張り上げて奥に隠れると、ふっと落ちたのはより呆れたような気配だ。



「ほお、無理矢理引き摺り出されたいのか」

「…………胸が苦しいのですから、沼味を飲めば確実に儚くなります」

「症状が出ているからこそ、飲むんだろうが」

「………むぎゅる」

「そもそも、魔術効果や祝福値が高い食べ物を、どう考えても普通の人間が食べない量で食べたからこそ、こうなったんだからな。いいか、例え普通の食べ物だろうと、一般的な人間の女はあの量は食べないぞ」

「…………ぐるる」



糾弾の内容に打ちのめされたネアは、悲しみのあまりに威嚇するしかなかったが、確かに、ディノがジッタから貰ったパンは大籠二つ分にもなる、たいへんな量であった。



その中でもネアが気に入ってしまったのは、刻んだオリーブがごろごろ入った、もちもちだが少しだけ堅めの食感の白パンである。

大きな円形のパンは保存食にもなるそうで、膝の上に乗せると、銀狐より重いかなという重量は確かにあった。


しかしそのパンは、生地に少しだけ練り込まれた香草の風味があまりディノの好みではなかったようで、ネアが引き取ってちまちま千切っていただいている内に、すっかりなくなってしまったのだ。



(でも、貰ったのが昨日だから、早めに食べた方が美味しいかなと思ってしまって…………)



明日は仕事が休みであるし、少しくらいは暴食してもいいかなと自分会議の上で可決したのである。



「覚えているなら、大人しく薬湯を飲め」

「お、おかしいです!痛いのは胸で、胃ではありません!!」

「パンの中に練り込まれた魔術祝福を、短時間で摂取し過ぎた魔術過多の中毒症状だ。心臓への負担はその為だろう。軽微な頭痛と吐き気、息苦しさに胸の痛み、心臓の裏側の背中の痛みもあるかもしれないな」

「…………ふぁい。ぴったりでふ」

「疑いの余地なく、魔術侵食による中毒症状だ。シルハーンとの婚姻や、俺の守護がなければ、命を危うくしたかもしれないくらいのものだぞ」

「……………むぐ?!」



思っていたよりも危険に晒されていたと知り、ネアは毛布の中でぴょんと体を弾ませた。

しかしそうなると、胸が痛いので余計にぜいぜいしてしまう。


静かに寝そべり、雪景色を見ていた時とは打って変わり、こうして体を動かすと肉体的な不快感が強まった。

どこかで覚えのあるその苦しさには、思わず涙目になってしまう。



「保存用のパンだ。袋の中央には、食べ過ぎるなと記載されていなかったか?」

「き、記憶にございません……………」

「覚えていなかったのなら、読み上げてやる。……このパンは、旅先や滞在先で悪しき妖精から身を守る為のものですが、長期保存を可能にする為に城塞魔術を応用しています。可動域が七十以下のお子様は、一度に一つ食べてしまうと中毒症状を起こしますのでご注意下さい。…………そう書いてあるな」

「…………きおくにございません」



実際にその注意文は、ネアの記憶にはないものだ。

中に入ったパンが透ける薄さだが油などは通さない魔術加工の素敵な袋は、真っ白ではなかったのは記憶しているが、文字の部分はお店の案内文だと思って全く気にかけていなかった。



「普通の抵抗値なら、この袋に触れると注意文に気を留めるように魔術指定がかけられているが、お前の場合は守護の何かがその効果を取り去った可能性もあるな。……………選択の魔術領域か」

「アルテアさんのものではないですか!」

「よく考えてみろ。そもそも質量的に、その大きさのパンを食べる人間がどこにいる?お前は、自分の体とパンの大きさを比較してみたのか?」

「黙秘を要求します………」



狡猾な人間はここでぴたりと口を噤んだが、すぐに今度は、近くにいるはずなのに声を発しないディノの事が気になり始めた。


ディノも、一緒にジッタの店のパンを食べていたのだ。




「……………ふにゅ。ディノは無事ですよね?」

「無事だが、夜睡パンを食べて寝ているな。子供の寝かしつけ用のパンだ。………万象すら寝かしつけるとは思わなかったが」

「むぅ。ディノがすやすや寝ているのなら、寧ろ安心でした。となるとアルテアさんは、どうやって不法侵入したのですか?」

「シルハーンに呼ばれてだ。寝落ちる前に、お前の体調の異変を察したんだろう。不法侵入な訳があるか」

「まぁ、ディノは最後に私を案じてくれたのですね………」




優しい伴侶の行動にほんわりしていたネアは、ここで毛布の中に差し込まれた悪い魔物の手にわしりと掴まれてしまった。

慌ててじたばたしたが、すぐに息が切れてしまい、へなへなになってぱたりと力尽きる。




「ったく…………」



あえなく引き摺り出されたネアは、思っていたよりも優しい手に体を起こされ、誰かの膝の上に抱え上げられて、その胸を背もたれにする事になった。



こうして体を起こすと胸の痛みがしっかりと出てしまうので、力なく唸り声を上げ、何とかへろへろの手を持ち上げて胸を押さえる。



「……………痛むか?」

「昔からこうなのですよ。私の心臓はすぐに痛くなってしまうので、あまり、走ったりは出来ないのです。胸の間はいつも痛くて、体を後ろに反らすと背中もとても痛みます………」



そう答えたネアに、小さな沈黙が落ちた。

そのあまりの長さに、ネアは、それはかつてのことであったと思い出した。



「……………むぅ。それは、こちらに来る前の事でした。………でも、久し振りにこうして胸が痛くなりました。呼吸の奥が少しだけ熱くて、湿っているような感じもします」

「……………ああ。それが魔術摂取による、典型的な中毒症状だ。普通は、祟りものや階位の高い竜や獣の肉を食べた場合に起こる。ウィーム中央は管理が徹底されているが、時々大きな都市の市場でも紛れ込んでいて、中毒事故が起きるな」

「…………お肉は入っていませんでした」

「あの店のパンが異常なんだ。あわいの獣に触れた影響は、魔物の薬だろうとその場では治せないものなんだぞ」



ネアは、昨日の失態までがアルテアに知られている事に慄いたが、ディノが眠ってしまっているのだから、リーエンベルクの誰かに話を聞きに行ったのかもしれない。



であれば、あまり遅い時間でなければいいのだがと考えかけ、ネアは、パンを貪り食べていたのが夕刻前のおやつの時間だった事を思い出した。




「は!わ、私の晩餐は…………」

「今日はなしだ」

「ぎゃ!」

「寧ろ、その体調でよくも食べようとしたな………」

「美味しいものを食べれば、気が紛れて痛みを一時的に忘れられるかもしれません」

「それで、すぐに余計悪化させるんだな」

「………お、おのれ!今夜は、香草パン粉をつけた焼いた棘豚さんの、氷古酒ソースなのですよ!」

「諦めるんだな。もう、とっくに晩餐の時間も終わっている」

「……………棘豚の香草パン粉焼き………」



ネアは、中は素敵なミディアムレアで、薄く切り分けてたっぷりとソースを回しかけて食べるお肉を思い描き、無念さのあまりに涙目になった。


呆れたような溜め息が落とされ、ぞんざいに頭を撫でる手を感じるが、アルテアがこうしてネアを毛布の聖地から引っ張り出したのは、薬湯を飲ませる為なのを忘れてはいけない。


現に、どこからかほこほこと湯気を立てているような薬草めいた独特の臭気を感じるではないか。




(……………でも、この体温は嫌じゃない)



恐らくネアに自分で体を起こす力がないのでこうして抱えてくれているのだろうが、アルテアの体温はどこかひんやりとしていた。


夜に触れる戸棚の中のグラスや、早春の日の夜明けのような程よいひんやり感が、触れていると例えようもない心地よさで表情が緩んでしまう。



恐らく、アルテアの体温をこんな風に感じるのだから、発熱もある筈だ。


せっかくのお休みである明日は、完成したノアの指貫をヒルドと一緒に受け取りに行く予定である。

帰り道では、市場の屋台の新作である、星蜜と林檎蜜のたっぷりかかったヨーグルトを食べる予定でいるので、それまでには良くなってくれなければ予定が狂ってしまう。




「あ、明日はお出かけできます?」

「無理だな。一日寝ていろ。不快感は収まるだろうが、しっかりと治すまでは外出禁止だ」

「……………ぎゃふ」



ここで、二度に亘る美味しいものの取上げに、繊細な人間の心はぽきんと折れてしまった。

この場合、最初に暴食して体を損なったのは自分であるという事実は、都合よく一時的に忘却される事になっている。



かくりと項垂れたネアの顔を片手で持ち上げ、アルテアはもう一度哀れな人間を抱え直した。


ことんと、テーブルの上に置かれた陶器のものを動かすような音がして、ほこほこと湯気を立てている沼味の物体が近付いてくる。

顔を持ち上げただけでもう、胸の痛みとむかむかとした炎症性らしき不快感はかなりのものだ。


こんな状態で、カップ一杯分の沼を飲めというのは、あまりにも残酷ではないだろうか。



涙目で見上げたアルテアが、微かに溜め息を吐いている。

うんざりしてしまっただろうかと少し悲しく思っていると、ふんわりと抱き締められて体を固定され、ぐぐっとカップを充てがわれた。



「飲みきれない分は、吐こうがこぼそうが構わん。飲めるだけ飲めよ」

「しゅ、淑女の矜恃としてはどちらもなしでふ!」



あんまりな選択肢にネアはぜいぜいし、開いていた唇にカップを当てられ、ぐいっと傾けられてしまう。

流れ込む沼味にネアはしびびっと指先まで震え上がりそうになったが、そもそも気持ち悪いので、沼味そのものの破壊力が軽減されている事に気付いた。



(でも、人体で感じ取れる吐き気が百だとしたら、既に六十くらいは数値が出ているので、後はもう四十くらいしか感じられないという事に過ぎないけれど……………!!)




何度か吐きそうになっては片手を上げてカップの傾けを止めて貰い、また落ち着いてから続きを飲む。

ネアは、淑女のプライドに賭けて、使い魔のお膝の上で薬湯を吐き戻したり、飲みきれずにだらだらとこぼすような真似はしなかった。



薬湯を飲み切ったところで、小さなグラスで吐き気止めの祝福をかけた冷たい氷河の水を飲ませて貰い、未だにざらついたままの息を吐く。



「………けぷ」

「思っていたより飲めたな。………少しこのままで薬湯を体に馴染ませたら、また眠って体力を蓄えろ」

「………沼。………にゅま風味です」

「葡萄ゼリーはなしだ。胃に、これ以上何も入れるな」

「む、無念……………」





ネアはここで力尽きてしまったが、使い魔は最後まで面倒を見てくれたようだ。


毛布から引っ張り出されたからか、あの美しい夜と雪のスポットライトはもう見えなくなってしまい、礼拝に向かうような気持ちになる不思議なピアノの音もその後はもう聴こえてこなかった。




けれどもその後は、低く甘い柔らかな歌声のような旋律がどこからか聴こえていて、苦痛と微睡の間に揺蕩いながらその歌声を聴いていると、胸の痛みが少しだけ楽になるような気がした。



翌朝に目を覚ますと、ディノは寝台の隣に寝かされていたようで、優しい祝福を貰いぐっすり眠って艶々になっていたようだ。



アルテアから、人間の女性が食べていい上限質量を学んできりりと頷いている伴侶に、ネアは、人間には時として無謀な挑戦をしなければならない時があるのだと、心の中で悲しく呟く。


然し乍ら、お見舞いに来たエーダリアやヒルドからも、保存用のパンを塊で食べてはならないと叱られてしまい、ノアからはあの量を食べたなんてと怯えられてしまったので、とてもほこりに会いたい気持ちでいっぱいである。



幸いにもディノは、ネアが体調不良になるくらい食べてしまう美味しいパンがあるという認識で、ジッタのパン屋を覚えたようだ。

ディノのせっかくの貰い物に悲しい思い出がつかず、そればかりはほっとしている次第である。



ジッタの店のオリーブの保存用塊パンには、丸々一個食べると、リーエンベルクの歌乞いでも寝込んでしまうという注意書きが加えられたそうだ。


無謀な挑戦をしたがる子供達にもその一文は絶大な効果を齎したと聞き、ネアはとても不可解な気持ちで一杯になった。















明日の更新は、「長い夜の国と最後の舞踏会」となります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ