ごろごろ獣と会の事後処理
ネアはその日、お仕事派遣で、ウィームのとある公共施設に滞在していた。
「むむぅ。公共文書館に来たのは初めてですが、素敵な作りの建物ですね」
「天井が、…………低いのかな?」
「ええ。ここに注意書きがありますよ。公共文書館では、魔術誓約書の脱走時の対策の為、天井が低くなっております。竜種の方々におかれましては、ご不便をおかけしますとのことです」
「書類が逃げてしまうのだね………」
「ゼベルさんに噛み付いていた、報告書を思い出しますね」
書類が脱走すると聞いて、ディノは少しだけ警戒を強めたようだ。
そっと差し出された三つ編みを、ネアは微笑んで一拍置いてから、そっと受け取った。
「………その、手を繋いでくれてもいいのですよ?」
「ネア、ここでは大胆だから、帰ってからにしようか」
「そうなるともう、繋ぐ必要がなくなるのでは………」
「ひどい…………」
「仕方がありませんねぇ。では、リーエンベルクに帰ってから、エーダリア様にご報告に行くまでの間に手を繋ぎましょうね」
「ご主人様!」
必要性は皆無だが、今後に備えて耐久性を上げる為に必要な訓練である事を思い出した人間は、そのように運用する事にした。
(……………もう、あの包丁の魔物さんの言葉の呪縛は、少しずつ解け始めているのだとは思うのだけれど、…………)
それでもディノはどきどきしてしまうのだろうし、魔物が大切に噛み締めようとしているのであれば、平時は仕方あるまいと考えている。
緊急時には、魔物が何かを言う前に強引に手を掴んでしまえばいいのだ。
まぁいいかと受け流せる事と、そうではなく致し方なくしなければならない事。
生活の中には、平時でも有事でも、線引きがあるのであった。
そうなると今回の仕事は、そんな線引きが出来ない人物を取り扱うものと言っても過言ではないだろう。
「今日のお仕事は、アルビクロムから観光でいらっしゃった子爵さんが、この季節の山間部では、満月の夜はあわいの獣さんがあちこちにいるので注意して下さいというウィーム観光協会からのお知らせを他人事と考え、対策を怠ってウィーム入りをし、尚且つ文書館でお仕事の書類を作って帰ろうと思った結果、森で受けていた障りが実体化してしまった案件です」
「障りの獣が現れたようだね」
「はい。因果の顛末の魔術も宿した獣さんは、左足に取り付いてしまっているらしく、どうにも排除出来ないので我々が招聘される事になりました。その獣さんをぽいするだけのお仕事なのです」
「………森で、妖精避けや、獣避けの香を焚かなかったのかな」
「魔術階位が足りないのなら、そうするべきでしたね。ですが、そもそもの、森の危険情報などを収集せずに突入し、あまつさえ旅先の森でご機嫌でお仲間達と火を囲んでわいわいやったそうです」
そう説明すれば、ディノは困惑したように頷いた。
ネアも、気を抜けば遠い目になってしまいそうになるのをぐっと堪え、哀れな犠牲者ではなく自己責任としていただきたい旅行者を訪ねるべく、公文書館の係員に来訪届けを出す。
「リーエンベルクから参りました」
「お待ちしておりました。こちらの建物では、正式な取り交わしに色々と決まり事がございます。便宜上、私をジンとお呼び下さい」
「名札には、本日のジンとありますが…………」
「ええ。その日の窓口担当が、本日のジンとなります。あちらの、案内係は、本日のマリアンとなります」
緑の瞳に淡い銀糸の髪の青年にそう指し示され、ネアは案内係として立つ、筋骨隆々とした本日のマリアンの姿に戦いた。
恐らくは、可愛らしい案内嬢を想定して付けられた名前なのだろうが、男性が担当する場合を考えていなかった為に酷いことになっているではないか。
ではご案内しますねと言われ、ネア達は本日のジンに連れられ、問題となっているアルビクロム子爵のいる部屋に向かう事になった。
柔和な印象の本日のジンは、青年といってもいいくらいの外見であるが、これでも公共文書館の副館長であるらしい。
半分妖精になりかけている事で、年齢不詳の人物なのだと知り、ネアは、ほほうと目を瞠った。
「それだけ、この施設には魔術が蓄えられているという事ですね。例えばこの名前ですが、魔術公文書の作成時には、担当魔術師が織り上げられた魔術を確認し署名と捺印をします。ですが、個人情報などをご記入いただく際に、文書を作成される方が窓口担当や案内係の名前を誤って担当官の欄に記載してしまいますと、契約魔術管理の資格を持たない我々が誓約魔術に巻き込まれてしまうのです」
「まぁ、だから、仮の名前を持つのですね?」
ネアは、出がけにエーダリアから、お前達は、公共文章館で名前を使っても大丈夫だぞと言われた事を思い出した。
公共施設であるので、名前を明かしても問題ないという意味かなと考えていたが、どうやらこの事であるらしい。
「ええ。もし誤って記載されても、この名前では魔術を結ばないように用紙に指定がなされているんですよ」
「任命の際に、我々は名前を出しても大丈夫だと聞いていますが、そのように認識していて問題ないでしょうか?」
「ええ。お二人も含め、リーエンベルクの方々は、名前に紐付く魔術が、誓約用の文章魔術に勝手に結ばれないように事前に魔術処理されていますからね。ダリル様もそうなっておりますよ。文章で誓約締結されてしまうと魔術的な拘束力を持ちますので、改名などで意図的に同名を名乗る者を警戒した運用なんです」
「まぁ、そのような対応もなされているのですね…………」
「ええ。そんな対応を求められるくらいに、この館内には、契約魔術を結ぶ為のあらゆる魔術が集められております。事故などがないように閉鎖魔術が常時発動されており、そうなりますと、日々その魔術に晒されている我々は、徐々にこの施設そのものに取り込まれてゆくのは致し方ありません」
さらりと言われた事であるが、ネアはまじまじと本日のジンの顔を見つめてしまった。
すると青年は、我々はそれを受け入れた上でこの仕事を選んだので、どうぞお心を痛めませんようにと微笑むのだ。
「少し偏った視点ではありますが、ここでの仕事は、後天的に、孤立派生型の妖精となれる機会を得られる、類稀なるものという見方も出来ます。それ以外の場面においては、置き換えや取り替え子、或いは妖精の伴侶や養子になるしか術がありませんから、どんなに妖精になりたくてもその手段を持たない人間も多いんですよ」
「……………ジンさんも、妖精さんになりたかったのですか?」
「ええ。僕は子供の頃からダリル様に憧れておりました。あの方のように、ウィームを守る妖精になりたいんです」
「まぁ、ダリルさんが憧れなのですね」
「ダリルに…………」
ダリルは、たいそう鋭い舌鋒こそ際立つが、ウィームを象徴する美しく有能な書架妖精である。
憧れるのも致し方ないと頷いたネアに対し、ディノは、種族性すら変質しかねない場所に好んで身を置く人間の嗜好は分からないようで、すっかり怯えてふるふるしていた。
このように後天的な変質を遂げる場所は、そもそもが稀であるのだが、そこに敷かれた魔術の質によって、変化する種族が決まってくるらしい。
ここは妖精で、ヴェルリアの港には精霊になってしまう造船所があるのだそうだ。
「魔物さんになってしまうところは、あるのでしょうか?」
「魔物は聞いた事がないかな。魔物だと言われているけれど、祟りものになる森はあるけれどね」
「ぞわっとしました………」
細長い廊下は水色がかった砂色の石床になっていて、等間隔に小ぶりなシャンデリアがかかっている。
小さな窓は正方形で、窓枠に施された木の葉と蕾の装飾細工が、判を押したような印象を優美なものに整えていた。
こちらも書類の脱走防止なのか、窓硝子はぶ厚く、カーテンなどはかけていないようだ。
廊下沿いに扉が並んでいるので、こちらの棟は、利用者達が書類作業をする為に、個室を沢山設けてある造りなのだろう。
こつこつと、靴音が響く。
廊下の中程のところで、本日のジンは足を止めた。
「こちらの部屋になります。遮蔽魔術で中には聞こえませんのでここでお伝えしますが、たいへん我が儘な御仁で、あわいの獣の障りを受けた事で不機嫌になっているのでご注意下さい。子爵の言い分では、自分の思い通りにならないのは、ウィーム領での対応に不備があるからなのだとか」
聞いていた通りのお客人の様子に、ネア達は顔を見合わせた。
「観光でやって来て、よく知らない旅先がどのような所なのかを調べず、対策を怠った方です。自損事故と自己責任しかありませんが、不機嫌………?」
「そのように疑問を抱いていただけて、良かったです。ごく稀にですが、そのような者にすら同情してみせる方もおりますから」
「むむぅ。私はウィームが大好きなので、少しばかりむしゃくしゃしてしまいますが、一緒に拘束されている魔術師さんの為にも、その方に障っている獣さんをぽいしますね」
ネアがそう言えば、本日のジンはとても良い笑顔で頷いてくれた。
その、アルビクロムの子爵とやらは、現在、魔術誓約書を代筆してくれていた魔術師と共にこの部屋に閉じ込められているのだ。
「一緒にいる担当魔術師は、私の友人でもありまして。子爵があまりにも無知でしたのと、獣に関わる魔術誓約書でしたので、よりにもよって友人をその担当にしてしまった事を心より後悔しております」
「まぁ、では尚更早く済ませてしまいましょう。その方も、早く解放されてゆっくり昼食をいただきたいでしょうから」
アルビクロム子爵に障りを出しているのは、さしたる階位の獣ではないようだが、種族的な障りが高位魔術に当たる為、今回はネア達に仕事が回って来ている。
そんな魔術の結びを警戒し、ディノは、ネアの前に出てくれたようだ。
なお、ノックはせずに部屋に入る事になる。
遮蔽魔術で遮られてしまうらしく、入札を知らせる術式に触れると、部屋の中で魔術灯が点くようになっているそうだ。
「いいかい。あわいの獣は、捕まえてはいけないし、撫でないようにするんだよ」
「むむぅ。思っていたのとは違う警戒の仕方をされています………」
「飼えないものだから、抱き抱えてもいけないからね」
「なぜにそんなに警戒しているのだ」
「ご主人様………」
とても警戒している魔物を先頭に、ジンが魔術遮蔽の扉を開いた瞬間であった。
「どれだけ私を拘束するつもりだ!!」
「ぎゃ?!」
壮年の男性らしき怒号が響き渡った直後、ばさっと重たい音がし、ネアの視界が真っ白になる。
いきなりディノが擬態を解いてしまった訳ではなく、紙束を扉に向かって投げつけた不届き者がいたらしい。
ばさばさと落ちてゆく申請用紙のようなものに呆然としつつ、ネアは、慌てて振り返った魔物にすぐさま抱き締められる。
「怪我はしなかったかい?!」
「…………ふぁ、び、びっくりしました」
「ご無事でしたか?!」
水紺色の瞳を揺らした魔物に頬に手を当てられ、ネアはふはっと大きく息を吐いた。
紙束ごときに損なわれる事は流石にないだろうが、突然の顔面への攻撃にはいささか驚いた。
ジンも、焦ったようにこちらを振り返っている。
(せっかくディノが前に立ってくれていたのに、たまたま、子爵が紙束を投げたのが、私の側の真正面だったのだわ…………)
ばくばくする胸を押さえ、ネアは足元に落ちた書類を見て、腹立たしい気持ちを募らせた。
子爵が投げたのは、この文書館で用意された、誓約書類への記入事例を示した資料だったようだ。
拾おうとしたネアを制し、ジンが拾ってくれているが、本来なら投げた人が拾うべきものである。
「ふん。大袈裟にしおって。何だね、その小娘は」
「………彼女に謝罪をするべきだ。今のあなたの行為は、癇癪を起こして何の関係もない女性を怖がらせたのだから。………ジン、彼女に当たっていなかったかい?」
「大方は届かなかったようだが、軽くとは言え、何枚かは当たっただろう。…………暴行罪で、騎士を呼ぶか」
「暴行罪だと?!ノックもせずに扉を開けたのが悪いのだろうが!」
ネアは、ご主人様を攻撃されて荒ぶった魔物に前髪を直して貰いながら、思っていたようなどっしり型の体型の中年男性ではなく、竜種のように引き締まった体型のなかなか美麗なアルビクロム子爵の隣に立ち、冷ややかな声音で謝罪を要求した魔術師に、目を瞬いた。
「まぁ、………」
うっかり名前を呼びかけてしまい、ここでは色々と厄介なのだと飲み込んだ。
顔を赤らめて何やら騒いでいる子爵の隣に立っているのは、銀狐の予防接種でお馴染みの獣医師、シヴァルではないか。
「野蛮な振る舞いを止められず、あなたを巻き込んでしまった」
「い、いえ、紙束を投げたのはそちらの方ですし、遊びに来て、注意を怠って案の定厄介な事に巻き込まれたのもその方なのです。禁則事項に触れたわけではありませんが、ご自身で事前の情報管理が出来ていなかったのですから、文句をつけるのが恥ずかしい事だと未だにご認識出来ないのでしょう」
微笑んでそう告げたネアに、ひゅっと息を飲む音がした。
睨み付けるような子爵の眼差しには、激昂以上にどす黒い憎しみのような感情すら窺えたが、注意喚起があったにもかかわらず、その対策措置を自分事に出来なかった観光客を叱るのも、ある程度はリーエンベルク側のお役目の内である。
「…………そして、ごろごろしているだけの獣さんがいます」
「……………ワフ」
「これが、……………悪獣?」
あまりの屈辱にわなわな震えている子爵の足元には、その足に長いふさふさの尻尾を絡み付けた、毛だらけの愛玩犬のようなものがこてんと横倒しになって寛いでいる。
障りを出しているというよりは、良いお尻止めを見付けて体を固定し、いい感じにごろ寝しているとしか見えない光景だ。
そんな小型犬めいた因果の獣を見下ろし、ネアは困惑したまま首を傾げた。
ネアを腕の中に入れてしっかり守っている魔物も、駆除するべき獣の無防備な姿に、とても困惑しているようだ。
「…………おまけに、可愛いワンコに懐かれたくらいで、困ってしまっているのです?」
「……………礼儀を知らないどころか、物も知らない小娘のようだな。愚鈍で狡猾なウィーム領主に今回の騒ぎの責任を取らせた後、貴様の処分も請求しておこう」
「…………この人間は、いるのかい?」
相変わらずの発言どころかエーダリアへの暴言も加わり、ネアが眉を持ち上げるよりも早く、すとんと部屋の照度が下がった。
変わらずにシャンデリアには魔術の火が灯り、窓からは雪の日のものとは言え、淡い陽光が差し込んでいるのにもかからわず、一層の闇を這わせたように部屋が暗くなる。
短く息を飲み、がくんと膝を突きかけたのはそちら側にいたシヴァルが先で、ぎょっとしたネアは慌ててディノの三つ編みを引っ張った。
「いけません!子爵めは後でこっそり闇に葬るとしても、今は、お隣の狐さんの主治医にしたい獣医さんや、本日のジンさんを巻き込んでしまいますからね」
「…………おや、では後で壊してしまおうか」
「むぅ。その場合は、ここでは障りとやらを解いて差し上げて感じ良くお外に放し、この方がアルビクロムに帰ってウィーム旅行から半月ほど経った、こちらに疑いをかけられない頃合いで、アルビクロムにある産業用排水専門の用水路にでも捨てておけばいいのでしょうか?」
「排水用の用水路なのだね…………」
アルビクロムの産業用排水路は、魔術濾過が出来なかった時代のアルビクロムの負の遺産とも言うべきもので、かつて排出された工業用水を綺麗にする為に、今はへどろの精的な祟りものが投げ込まれているかなり危険な場所である。
投げ込まれている祟りものは、汚水の中でしか生きられないのでそこから這い上がったりはせず、毒性の高い工業用水を日々美味しく食べているらしい。
そんな廃棄場所を真っ先に提示したからか、魔物は少しだけ落ち着いたようだ。
残虐過ぎる伴侶が怖かったのか、そっと頭を撫でてくれた。
さて子爵はと言えば、ディノの精神圧で魂が抜けてしまったようになっており、立ち尽くしてこちらを見てはいるが、半ば失神しているような状態であった。
足元の障りの獣はと言えば、こちらもディノの精神圧に当てられてしまい、けばけばになって震えている。
(ここは、早く仕事を済ませてしまった方がいいのかもしれないわ。この種の人は、多少怖い思いをしても自分の言動を撤回するとは思えないから、またディノが嫌な思いをするばかりかもしれないもの………)
「まったくもう、仕方ありませんねぇ」
「ネア!」
「ディノ、これはお仕事ですので、荒ぶらないで下さいね」
ネアは、アルビクロム子爵にこの狩りの女王の偉大さをしっかり理解させられないのは残念であると考えながらも伴侶の手の輪から抜け出し、子爵に歩み寄って体を屈めると、けばけばのままの獣をむんずと掴む。
足に絡み付いた琥珀色の獣があっさりべりりと引き剥がされたところで、子爵は我に返ったようだ。
目を瞠っている子爵の足元から持ち上げた獣を片手に、ネアは厳かに宣言した。
「触らないようにと言っただろう?その獣は飼えないよ?」
「ふかふかかと思えば、ごわごわの油っぽい毛並みの獣さんです。あんまり好きではありませんので、勿論、飼ったりはしません」
「……………ワフ」
「窓からぽいしたら、通行人の方に当たってしまいそうなので、どこに捨てればいいですか?」
「ご主人様……………」
「ワフ?!」
ネアが言いつけを破って獣に触れてしまった事で荒ぶりかけた魔物は、慌てて障りの獣を捨てる為にどこかの森への道を開いてくれた。
ネアは、足元にぽわんと現れた森の景色の見える穴にぽいっと獣を捨ててしまい、ディノがさっと取り出した濡れお絞りで手を拭かれてしまうに任せる。
「終わりました。引っ剥がして捨てるだけの、簡単な事です。観光を楽しむのは結構ですが、旅の中での自己管理は大人としての最低限のマナーです。こうして我々が派遣されたのは、あなたの当然の権利ではなく、ウィーム領からの優しさですので、その事について考えてみて下さいね」
「…………素手で、」
「寧ろ、ごろごろしているだけの獣さんすらどかせずに、どうして、魔獣管理の会社など興せるのでしょうか。魔獣さんの管理については、専門家を雇われた方がいいと思いますよ」
高位の魔物の精神圧よりも、アルビクロム子爵は、小馬鹿にしていた小娘が、自分を苦しめた獣を簡単に掴み取ってしまった事の方がショックだったようだ。
がたんと音を立てて力なく椅子に腰を下ろしてしまった子爵を一瞥し、先程の魔物による時間差の報復型暗殺行為への言及を思い返されない内にと、ネアは、しずしずとお辞儀をして颯爽と部屋を出た。
三つ編みを引っ張られ一緒に部屋から出されてしまったディノがもの問いた気な目をしたので、ネアは、きっとまだあの子爵を許していないのであろう魔物の爪先をぎゅっと踏んでやる。
ぱたんと、後方で部屋の扉が閉じた。
「……………ご褒美」
「はい。あの場では、子爵めに報復せずに我慢してくれたでしょう?後でぽいするにせよ、ここで我々が犯人だと足がついたら困りますので、ディノが我慢してくれて良かったです」
「…………私が、あの人間を壊してしまってもいいのかい?」
「紙束を投げつけられたくらいですので、ちょっぴり痛い目に遭わせるくらいにしてくれると嬉しいのですが、私がいきなり攻撃されて、ディノはびっくりしてしまいましたものね」
「…………ネア、」
「そして、驚いただけの私に対して、ディノは、せっかく私を後ろに隠して守ってくれていたのに、それでも私が紙束攻撃を受けてしまった事で、とても怖がっていました。そんな風に私の伴侶を怖がらせたのですから、あやつはその報いを受けるべきなのです」
ふんすと胸を張ってネアがそう主張すると、ディノは途方に暮れたような目でおろおろとした後、そっとご主人様を持ち上げる事にしたようだ。
「……………君を守れなかったね」
「まぁ、そんな風に考えてしまうのです?あのような場合は、運が悪かったというのですよ。それに、ディノの守護があるので、本当に私を損なうような攻撃は届かない筈なのです。つまりのところ、ディノはきちんと私を守ってくれていたのでしょう」
「…………ネア、」
「むむぅ、そんな風に悲しい顔をしないで下さい。大事な伴侶がしょんぼりなので、帰りに、運河沿いのお店で美味しい紅茶とタルトをご馳走しますね」
「君が食べたいものを食べさせてあげるよ。君の行きたい店にしよう」
「……………運河沿いのお店でいいですか?」
「うん」
優しい伴侶の言葉に、うっかり私欲混じりの提案であった事が露見してしまったネアは視線を彷徨わせたが、幸いにもディノは気付かずにいてくれたようだ。
(……………おや?)
ここでふと、ネアは、まだ部屋からジンが出てきていない事に気付いた。
扉が閉じてしまうと、遮蔽魔術があるので、中のやり取りは聞こえないのである。
ディノと顔を見合わせ、先の経験を生かし、ディノが薄く扉を開いて中の様子を確認してくれる事になる。
そんな魔物の背中にぴったり張り付き、もう二度と紙束に攻撃されませんの体勢でいたネアには、その部屋の中の様子は見えなかった。
「……………すぐ終わるそうだよ」
「ディノ?むむ、どうしてこんなに震えているのです?」
「…………ジンという人間は、………先程の人間を………その、躾けるようだ。エーダリアへの言葉を重く見たらしいね」
「……………ディノの様子と、諸々の状況を総合して推理したところ、本日のジンさんは、エーダリア様の会の方かなという推論に達しましたが、そんな感じなのでしょうか?」
「……………そうなのかもしれない」
閉ざされた部屋の中で、どんな対話が行われていたのかは知らない。
だが、ややあってお待たせしましたと出てきたジンはとても穏やかな目をしており、なぜか、青いハンカチで手を拭いていて、ネアを震え上がらせた。
「お陰様で、子爵にも節度ある対応をご理解いただけたようです。今後につきましては、ひとまず我々で対処させていただきまして、後日問題があるようであれば、契約の魔物殿のお好きなようにしていただくというのはどうでしょう?」
「ふぁ、既に子爵さんはどうにかなってしまっていそうですが、それでいいと思います。……………ディノ?」
「うん。それでいいかな………」
とは言え魔物は魔物なので、ディノはどこかで、アルビクロムのとある子爵から、魔物の伴侶を傷付けかねなかった行為の対価を取ったようだ。
しかし残念な事に、とても恐ろしい組織を怒らせてしまったアルビクロム子爵は、既に取るべきものがあまり残っていなかったのだとか。
それを知った義兄も含め、魔物達はとても慄いていたが、ネアとしては、とても容赦のない素敵な組織だと思うので、今後もエーダリアを守っていっていただきたい所存である。
アルビクロム子爵の足元から引き剥がされたのは、禁忌に触れた際に現れるあわいの獣だったらしい。
ノアからは、今後の素手での取り扱いを固く禁じられた。




