114. 歌劇場でイブメリアを待ちます(本編)
降り始めた雪が、ウィームの風景を清廉に彩る。
潤沢な祝祭の恩寵を宿し、その雪には様々な色と祝福が煌めいた。
ゆっくりと暮れてゆく陽に禁足地の森が青く染まる頃、ネアは支度を終えて、ふかふかの毛皮の襟巻を選んでいるところだった。
(やっぱりこちらかな……………)
こんな雪の日なので、清廉な水色の毛皮の襟巻も捨て難いのだが、今夜の装いには恐らく灰色だろう。
ちらりと背後を振り返ると、目が覚めるような美しさを持つ伴侶な魔物が、長椅子に腰かけてこちらを見ていた。
僅かに首を傾げ、寛いだように座ってどきりとするような優しい目でこちらを見ている男性の美しさに、ネアはなぜか少しだけ狼狽えてしまう。
「………ディノ、水色の襟巻だと色が渋滞してしまいますよね?」
「どちらもよく似合うよ。君が好きな方にしてはどうだい?」
「せっかく素敵なドレスを仕立てて貰ったので、やはりその美しさを損なわない灰色でしょうか。この灰色は、僅かにラベンダー色がかっていてディノが私の瞳の色に合わせて注文してくれたものですから」
「それでは、ネアの色の方かな」
「またその基準になった!」
ネアの本日の装いは、素晴らしい灰色のドレスだ。
菫色がかっているえもいわれぬ色味のものなのだが、その色合いは淡く優しい。
しかし縫製が綺麗なので膨張してしまうこともなく、細やかに縫い付けられた白い小花の飾りにはディノが用意してくれた真珠が煌めき、まるで雪の日のウィームのようなドレスなのだった。
(綺麗…………。何て素敵なのかしら……………)
そっと指先で撫でると、しっとりとしたカシミヤウールのような手触りで、これは、着心地重視のネアが、レースやタフタのドレスではなくこのような素材を好むと知っている魔物の手配によるものだろう。
昨年とは違い伴侶になってからのイブメリアのお出かけなので、こんなドレスを選べるという贅沢もあるのだった。
重たい生地なのに軽やかに感じさせるのは、たっぷりとタックを取ったスカートの広がりがふんわりしていることと、裾にあしらったレースの質感かもしれない。
くるりと回れば花咲くように裾が広がる美しさは、どれだけの経験に裏打ちされた技術なものなのか。
シシィの縫製はいつだって最高なのだが、ネアは、今年のイブメリアのドレスには胸が躍るばかりであった。
「そのドレスが気に入ったのかい?」
「ディノ、このドレスは色もデザインも布地も全てが好きですが、襟元がとってもお気に入りなんですよ!どうしましょう。また宝物が増えてしまいました」
「うん。…………君は雪の日の空や空気の色を気に入っていたから、そのような雰囲気にして貰ったんだ」
「ふふ、さすが私の伴侶ですね。大好きなディノからの贈り物なので、更にお気に入りになってしまうドレスなのです」
「……………ずるい」
ゆったりとドレープをつけた襟元には、ディノの真珠と雪の結晶石、真夜中の祝福石までが飾られていた。
けれども、敢えて大粒の石は使わずにいるので、細やかな煌めきや彩りがこちらも雪空を思わせてくれる。
ネアの宝物である首飾りとの相性も良く、今年は、真珠と祝祭結晶のひと粒石を細い鎖で垂らして揺らすような耳飾りで仕上げた。
(ヒルドさんの耳飾りを付けられなくなってしまったけれど、その代わりにおでこに守護を貰ったから大丈夫!)
襟元の裏側には白い毛皮が裏打ちされており、敢えてその白を覗かせるのもお洒落なのだ。
髪を結い上げているので、首筋から鎖骨あたりまではしっかり見せることになるが、馬車に乗る間は毛皮の襟巻を使い、劇場でもし寒ければディノが保温魔術をかけてくれると言う。
「ウィリアムさんは、歌劇場で待っていてくれるそうです」
「うん。今日も馬車を呼んであるから、楽しみにしておいで」
「…………ふぐ」
ネアはもう心がいっぱいになってしまい、小さく足踏みし、よろよろしながら最初の年に貰ったケープの残りで作った白いコートを羽織った。
ここにディノの魔術でドレスとの同色の擬態をかけて貰い、お揃いで仕立てました風のコートにするのが本日の目論見である。
生地を傷付けないように状態回帰の魔術をかけてコートの胸元に添えたのは、昨年買ったリースのブローチだ。
「ほら、ディノの婚約者だった頃に買ったブローチですよ。今日は額縁からこちらに移動しました」
「良く似合っているよ。………ネア」
珍しくさっと褒めてくれたので笑顔で振り返ると、残念ながら魔物はすぐに弱ってしまった。
恥じらい目元を染めた魔物と連れ立ち、リーエンベルク前にやって来る馬車に向かう。
はらはらと花びらのように降り始めた雪は、一粒が大きいものの軽やかな花びらのような雪だ。
白薔薇の花びらが降るようで、ネアは唇の端を持ち上げてしまう。
(そして、正門前まで歩いてゆくのは、この飾り木を見たいからでもある!)
今年のリーエンベルクの飾り木も、白緑色の葉のところどころが綺麗に結晶化している上等な木を使っており、リーエンベルクで大事にされていたオーナメントが丁寧に飾り付けられていた。
こっくりとした色合いの瑠璃紺色のリボンには表面に玉虫色がかった水色の艶があり、統一感を出す為に同一色でまとめて飾る用の付け足しオーナメントは、きらきらと光を集める透明色の結晶石製だ。
その結果、大きな飾り木は冬の夜空のような煌めきで、ネアは、この飾り木を見ているだけで幸せな気持ちになってしまう。
飾り木の見える部屋な時間は取れずにいたが、ディノがその部屋の影絵を薄く切り取って一時的に残しておいてくれると話しているので、また後日ゆっくり楽しもうと思っていた。
何しろもう、この後の真夜中でイブメリアになるのだ。
正門前に向かう道中でエドモンに出会い、素敵な装いですねと褒めて貰ったネアは、ますますご機嫌な微笑みを深くする。
やがて、がらがらという車輪の音に合わせ、カポカポと雪道を走る馬車の蹄の音が聞こえてくれば、ネアはおやっと首を傾げた。
(この蹄の音がするということは、今年は妖精さんのお馬さんではないのかしら……………?)
しかし、首を傾げているとすぐにその違和感の正体に気付いた。
少し離れた位置に、観光で流している間に、妖精馬の馬車に遭遇してしまい大興奮のお客を乗せて後ろを走る観光馬車がいたのだ。
そちらの馬車に乗っているのは家族連れで、小さな女の子が目を輝かせて妖精馬に手を振っている。
そんな光景を見てしまったネアも、その家族の幸福をお裾分けして貰っていっそうに幸せな気分になってしまった。
「見て下さいディノ!今年は、綺麗な緑色の手綱ですね。よく見ると小さなホーリートの葉っぱの飾りがついていますよ。お馬さんに近いところにある赤い結晶石の飾りが、ホーリートの実のようです……………」
「ネアが可愛い………」
小粋な計らいにすっかり嬉しくなったネアがはしゃいでしまうと、一頭の妖精馬が首を傾げるようにこちらを見てくるではないか。
手綱を見ようとちょこまかして驚かせてしまったかなと反省したネアに、ディノが、この妖精馬は褒めて貰えて嬉しかったのだと教えてくれる。
なのでネアは、そんな馬達にいつも素晴らしく綺麗で、この馬車に乗れるのが誇りなのだと伝えておいた。
八頭立ての馬車の御者台には、お馴染みの漆黒の燕尾服の御者妖精が座っていて、ネア達に帽子を取ってお辞儀をしてくれた。
リーエンベルクの家事妖精のようなぼんやりした影姿の妖精だが、仕立てのいい燕尾服の美しさには毎年目を引かれてしまう。
ネアも笑顔で挨拶を返し、馬車に上がるタラップを上がる為に差し伸べられたディノの手を取った。
「転ばないようにね」
「はい。ディノ、有難うございます」
淡く微笑み優雅にエスコートしてくれるディノは、通り過ぎてゆく観光馬車の家族が呆然と見送るくらいに、輝くような美しさであった。
今年は、白灰色に僅かに青紫色を溶かしたような色の素晴らしい仕立てのロングコートを着ていて、首元の白い毛皮以外に一切の装飾のない禁欲的なデザインに、白灰色に擬態した長い三つ編みが宝石の様に寄り添う。
その下は、ネアのお気に入りなディノの髪色を思わせるフロックコートに少し手を加え、雪のように白いドレスシャツと合わせた装いである。
いつもの薔薇のロージェの中は他のお客から見えない仕様なので、どれだけ真っ白でも構わないのだ。
艶やかな伴侶の盛装姿に眼福極まれりな人間は、その三つ編みに結ばれたミントグリーンのリボンにまた微笑みを深めた。
(やっぱり、今夜も最初のリボンなのだわ…………)
ディノも馬車に乗り込み、ぱたんと扉を閉めて貰えばいよいよ出発だ。
既にリーエンベルク前の並木道がどれだけ美しいのかを知っているネアは、深呼吸をしてからディノの手を掴もうとしたところ、そっと三つ編みを手のひらに乗せられてしまい遠い目になった。
がらがらと車輪が音を立てて馬車が走り出すと、ネアは興奮のあまり小さく弾み磨き抜かれた水晶の窓にへばりついてしまう。
(…………わ、今年の並木道の妖精さんは、凄く光っているような気がする………!)
この世界に来たばかりの頃、ネアはリーエンベルク前の並木道のこの煌めきは、魔術の火を灯しているのだとばかり思っていた。
実際、枝の上で魔術の火を灯して盛り上がっている妖精達もいるが、殆どのものは、その妖精達自身が光っているのだと知ったのは翌年の冬の事だ。
「ディノ、今年は妖精さん達が去年よりも光っていませんか?」
「エーダリアの、宝石魔術の花火があったからかもしれないね。小さな妖精は、小さな菓子や宝飾品などの贈り物を喜んで光るというから」
「まぁ、宝石を拾えてはしゃいでしまったのですね。私も、綺麗な檸檬色のものと、ディノの瞳にもノアの瞳にも見えるような淡い青紫色のものを拾って大満足だったのです。因みに、こんなにも妖精さん達が喜んでいることを、エーダリア様はご存知なのでしょうか?」
「ノアベルトが、随分光っていると話していたから、伝えたのではないかな」
馬車はやがて、並木道を抜けてイブメリアの飾りつけも華やかな街に入る。
ザハの前には美しい箱馬車が停まっていて、真っ赤なお仕着せのホテルマンが、大きな革のトランクを下ろしているのが見えた。
そこかしこに、飾り木がある。
どの飾り木もそれぞれのテーマで飾られ、お気に入りのものを見付けておこうとしたネアは、最終的にはどれが一番お気に入りだったのかすら分からなくなった。
王立図書館の前は閑静な佇いだ。
ダリルは、重厚な扉にとっておきのリースをかけている。
この大きなリースは、ふくよかな緑の葉と赤い実だけの古典的で気品のある素晴らしいものなので、今年のウィーム観光の隠れた名所になっているらしい。
ウィームの住人はダリルダレンの名称を真っ先に思い浮かべるが、対外的には王立図書館と呼ばれており、そちらの呼び名しか知らないお客には、開かない書庫が沢山あるのだそうだ。
「……………ディノ、パンの魔物さんがいますよ」
「もう轢かれているんだね…………」
ゆるやかなカーブで道を曲がると、その道中には他の馬車に轢かれてしまったらしいパンの魔物が、ぺしゃんこになって落ちていた。
少し雪に埋もれて悲しい姿だが、きっと暫くすれば元気になってくれるだろう。
やがて、イブメリアの夜の公演を控えた歌劇場が見えてくると、ネアは、正面入り口前に燃える魔術の火の美しさも勿論ながら、ぽわぽわと水の光る噴水の輝きに目を丸くしてしまった。
「ディノ、ふ、噴水に木が生えてしまっていますよ!」
「あれは、…………木が生えたのかな」
「噴水の一番上の水盆の真ん中から、小さな木が生えてしまったのですね。よくエーダリア様がお話しされている魔術損傷にあたるのであれば、あの木はいつか移植されてしまうのかもしれませんが、花びらが光るちびスリジエの木のようでなんて綺麗なのでしょう!」
いつもの歌劇場の前の噴水は、今年も、漏れ聞こえる音楽や音楽が齎す祝福目当てで、沢山の妖精達が集まって明るく煌めいていた。
人間の目には寒々しく見えてしまうが、薄物を纏った妖精達はご機嫌で水をばしゃばしゃやっているし、心なしか、水そのものも光を溶かし込んだように輝いている気がする。
例年と違うということはこれも宝石魔術の花火の影響だろうかと思いながら、噴水の水盆の中に生えた満開の花を咲かせる木を眺め、ネアは、光っているのは満開になった花だけではないことに気付いた。
そんな木の枝には、噴水の中で遊ぶ妖精達に怪訝そうな顔で見上げられながら、ふくふくに丸くなった親指の先くらいの大きさの青い小鳥たちがとまっている。
ぼうっと光っているのだから、あの小鳥たちは妖精なのかもしれない。
こんなランプがあればと思うくらいの愛くるしさだ。
(かわいい…………!!)
ネアが馬車を降りるのに手を貸してくれていた魔物が、そんなご主人様の様子に気付いたものか、さっと小鳥方面の視界を遮る悪事を働いたが、今度は歌劇場の正面玄関に続く深紅の絨毯を歩くお客を見ていたネアは、魔物のちょっとした荒ぶりを受け流す事が出来た。
伴侶と思しき男性にエスコートされて階段を登るご婦人は、絨毯に映える華やかな檸檬色のドレス姿だ。
上品なキャメル色のコートの裾からその色が覗き、ネアはすっかり想像出来るようになったこの夜の歌劇場の客席を思った。
ネア達が馬車を降りて絨毯を踏むと、劇場に入ろうとしていた他のお客達がこちらを見るのが分かった。
歩みを急かさず、けれどもしっかり正面な位置で待っているのは、漆黒の燕尾服の劇場の支配人だ。
今年はどんなブローチかなと目を凝らしたネアは、支配人の襟元にイブメリア限定の銀狐専門店のブローチを発見してしまった。
リースの中央にボールを咥えて走る銀狐の姿があるもので、きらりと光るのは雪結晶だろう。
あのお店の中では高価めな品物だが、飛ぶように売れてしまい一時は完売していたと聞いている。
リーエンベルクにも五個セットが届き、本人や、エーダリアにヒルドの手元には勿論、ネアの部屋のブローチの額縁にもちゃっかり収まっていた。
騎士棟に届けられた一個は、厳選なくじ引きの結果、灯台妖精の血を引くエドモンの協力を得たアメリアが執念で勝ち取ったのだそうだ。
「今宵も、我らが歌劇場においでいただき、有難うございます」
「今年もどうぞ宜しくお願い致します」
ここは優雅に浅めのお辞儀をし、ネアは、エスコートをしてくれるディノの腕に手をかけて赤い絨毯の上に立った。
「街の様子は如何でしたか?今年は細い月の夜ですが、その代わりに星の光が明るく、物語を楽しんでいただくには相応しい詩的な趣きです。今宵の演目につきましては、やはりご説明するまでもありませんでしょうか。美しく安らかな祝祭の夜を盛り立てる、最良の時間をお約束させていただきます。今年も、皆さまのご要望にお応えして、お食事はザハのものをご用意しました。………では、ご案内させていただきます」
ふかふかと絨毯を踏み、その言葉に頷く。
ドレスに合わせて選んだ靴は、かつて舞踏会でも履いたものなので羽のように軽い。
ディノは新しいものをと考えていたようだが、事前にネアにお伺いを立ててくれたので、ここは是非にお気に入りの靴を死蔵させないでくれ給えと再利用にさせて貰った。
絨毯の上には雪が降り積もらないように特別な魔術が展開されており、街の何か所から魔術の道も繋がっているのだそうだ。
こうしている間にも、どこからか滲み出るように現れた人型の竜の姿があり、ネアは初めて見るような一角獣的な角に、どんな種類の竜なのかなと思う。
「今年も宜しく頼むよ」
「お任せ下さい。今年の少女役は、ザルツの音楽院を卒業したばかりの者ですが、歌劇場の花嫁の再来と呼ばれる程の歌い手でして。加えて、ザルツ派ではなくウィーム中央派の者ですので、安心して楽しんでいただけるでしょう」
ネアは、この新しい少女役の歌い手を楽しみにしていたので、期待を込めて頷いておく。
音楽畑の者達にとって、ザルツ派とウィーム中央派の違いはなかなか大事なものであるらしく、音楽院はザルツで卒業しても、ウィーム中央派であるというような主張をする音楽家は多い。
なお、音楽院としてはザルツのものの方が有名で、ウィーム中央では、音楽の系譜の人外者などに師事して、個人レッスンから才能を花開かせる者が多いのだそうだ。
「その歌い手さんの噂はあちこちで聞くので、今夜はとても楽しみにしていました」
「おや、では、是非にそのご期待に添える舞台にしないといけませんね」
柔らかな光と幻想的な祝福の煌めきの中に佇む歌劇場は、今宵も宝石箱のような美しさだった。
彫刻のある柱や壮麗な彫像などだけではなく、柱にもリースのような飾り木の枝を模したものを巻いてきらきらと輝く結晶石を飾り、祝祭らしい装いになっている。
他国の貴賓客に敬意を示して風にはためく国旗に、雪を積もらせた突き出しの屋根。
歴史のある建物の重厚さに、場所取りで待ち疲れてしまったものか、屋根の上で欠伸をしている竜がいる。
歌劇場の正面玄関の奥にはエントランスホールにある飾り木が見えていて、まるで一枚の絵のようだ。
しんしんと降り積もる雪のように心を震わせ、ネアは、手をかけたディノの腕をぎゅっと掴んでしまう。
「ネア………」
「こうして、イブメリアの夜の公演のある歌劇場に入る瞬間が、私の特別なお気に入りなのです。あの入り口から飾り木が見えるのが、まるで、イブメリアのカードのようだと思いませんか?」
見上げて微笑みかけ、なんと伴侶になってから一年になろうとしている美貌の魔物に体を寄せた。
気象性のものではなく、どこかで芽生えて揺らいだ祝福の風に揺れた前髪に、その下の光を孕んだような水紺色の瞳には、蕩けるような幸福感が揺らぐ。
大切な魔物がそんな表情をしてくれるのが嬉しくて、ネアはまた微笑みを深めてしまう。
「そうだね。君の好むような風景だ」
「ええ。そして、こんな風景を見るには、やはりお隣に伴侶な魔物がいないといけません」
「………私もだよ。君がいなければ、どんなものも意味がないんだ」
「ふふ、ではお揃いですね?」
本当はそこに、他の家族やウィリアムやアルテアも加えて欲しかったが、こんな夜は二人きりの約束でもいい。
だからネアは、ただ微笑んで頷いた。
どうやら自分は思っていたよりは長生きするらしいので、他の人達にも甘えるのだと言うのは、もう少し経ってからでもいいだろう。
そして、そんないつかに大切な魔物を託すべき相手が、歌劇場の入り口に立って待っていてくれた。
「ディノ、ウィリアムさんです」
「うん。もう少し後からでも良かったかな」
「こらっ!」
歌劇場の入り口に立ったウィリアムは、はっとするほど凄艶な装いだった。
髪色を淡い金髪にしてオールバックにし、瞳の色はそのままにしてある。
ウエストをぐっと絞ったデザインの漆黒のロングコート姿の美麗さは言葉に出来ない程で、コートの襟元には漆黒の毛皮がついていて、どこか不穏な終焉らしい冷たい美しさも漂わせている。
フラワーホールに挿した真紅の薔薇が、どこか危険な甘さをひと匙加え、ご夫婦で来ているご婦人なども思わず見惚れてしまっていた。
(と言うか、ふらふらとウィリアムさんの方に行ってしまって、ご主人に回収されているような……)
「シルハーン、ネア」
階段を登りきり、合流した終焉の魔物の微笑みはいっそうに艶やかだ。
内側から暗く輝くような色彩に、ネアはおやっと眉を持ち上げる。
そしてその差異には、ディノも気付いたようだ。
「おや、君がそのようにしているということは、アレッシオが司る、歌劇場そのものの魔術基盤が階位を上げたようだね」
「ええ。なので俺も、こうして視覚的な擬態だけで、どこにいても敷かれた魔術を損なわず、普通に過ごせて助かっています」
土地には様々な魔術の系譜と共に、建てられた建築物ごとの魔術の基盤がある。
敷かれた魔術の相性が悪くても、逆に良過ぎても困るらしく、白持ちの魔物たちは公共施設などではそれなりに気を遣って擬態をするらしい。
終焉の魔物の場合は、これまで、歌劇場とは親和性が高過ぎるので魔術の不安定な入り口のホールなどでは基盤を損なわないようにし、ロージェの中などの限られた頑強な場所で体を伸ばすという感じにしていたのだそうだ。
「この建物の階位が上がったことで、気を遣わずに済むようになったのですね」
「ああ。その点でも、リーエンベルクは有難いんだ。火の系譜などの例外はあるが、有害指定をかけたもの以外の特定の資質を過剰に省かない。シルハーンが整えたからでもあるが、元々の魔術の土壌がいいんだろう」
そう教えてくれながら、ウィリアムの指先がネアの髪の毛に触れた。
そろりと見上げると、どきりとするくらいに優しく微笑んでくれる。
「………おかしくはありません?」
「ああ。綺麗だよ。今年は、髪結いに行けなくてすまなかったな」
「その代わりに、ウィリアムさんがお仕事を一つ終わらせてきてくれたので、今夜もみんなで一緒に過ごせるのです」
「ああ。それだけは譲れなかった。…………シルハーン、グレアムは今年も?」
「うん。連絡を貰ったよ。統括の方は、今夜は何が起きても捨て置くつもりらしい。年に何回かある大切な夜だからと言ってくれた」
(あ、………)
そう聞けば、ウィリアムにとっての今夜は、やっと取り戻した友人と過ごす夜でもあるのだ。
であればもう一人と思ってしまうギードは、歌劇は好きらしいが、イブメリアや薔薇の祝祭の歌劇場には、とんでもない嵐のように絶望に荒ぶるお客がいる事が多いらしく、そちらが気になって歌劇に集中出来なくなるらしい。
今夜から明日にかけては、時間のあるときは静かな森で狼な仲間たちとのんびり祝祭のお祝いをし、それ以外の時間は、こんな祝祭の日だからこその絶望を幾つか訪ねるのだとか。
理由は少し違えど、アイザックなどにとっても、この祝祭は忙しい日にあたる。
エントランスに入ると、さっそく、顔見知りに出会った。
「まぁ、バンルさんです。こちらにいらっしゃるのは珍しいですね。あら、エイミンハーヌさんも」
「こんばんは、ネア。バンルは、恋人にふられて、奮発して買ったチケットが余ったからと、泣きながら俺を呼びにきたんだ」
「……………泣いてはいない」
「ほわ、既にここに一つ、絶望案件がありました………」
とは言え、バンルとエイミンハーヌは仲良しなので、二人でパンフレットを買って楽しそうにしている。
今年のクラヴィスの儀式は、朝と昼で完了しているので、エーダリアを支援する会の会長であるバンルも、珍しく夜をのんびり過ごせるのだそうだ。
祝祭儀式そのものは明日の朝までないのだが、日付が変わって暫くしてからの時間には公式な式典が一つ増えたので、舞台が終わり次第そちらに駆けつけるらしい。
(だから、リーエンベルクでは、ノア達がのんびりとした家族のクラヴィスを過ごせている)
家事妖精達は夕刻からお休みを貰い、料理人達は作った晩餐を魔術に長けたノアに任せてゆくそうで、塩の魔物の状態保存魔術により、三人は、ほかほかの食事をいただけることになっている。
なぜか、一瞬だけヴェンツェルとドリーがケーキを届けにくるらしく、ネアの義兄は、大切な家族の時間にちょっと邪魔だと苦言を呈していた。
「ふぁふ………」
歌劇場のエントランスホールにある大きな飾り木の正面に立てば、また心が弾む。
今年はクラシック志向なのか、緑の飾り木の枝には艶消しの金色のオーナメントと、ふくふくとしたインスの赤い実だけが飾られていた。
飾り木の上にはぺかりと光る大きな星型の結晶石が光っていて、色の対比を見る限り、この結晶石の為に敢えて飾り木を落ち着いた色味で統一したのかもしれない。
「気に入ったかい?」
「は、はい!……………歌劇場の内観と合わせると、いっそうに素敵に見える飾り木ですね。伝統を重んじて大切にされているものを見ているような、贅沢な気分になります」
「おお、そう言っていただけますと幸いです!王都からのお客様が、少し地味ではないかと仰られていましたが、この飾り木は美しいものを美しく見せる為に、華美さは必ずしも必要ではないのだと示す為に、敢えてこのようにしておりますから」
ここで、その王都からのお客の評価にむしゃくしゃしていたものか、支配人が少しばかり早口になった。
歌劇場の飾り木もすっかり大好きになってしまったネアは、その言葉に重々しく頷き、周囲のお客達がフィンガーフードのようなものをいただいている様子を鋭く見回した。
「皆さんがいただいているのは………、」
「今年は、一口大のエクレアに仕立てたものを、エントランスホールでお出ししております。小さなクッキーケーキもございますよ。宜しければ、如何ですか?」
「い、いただきます!」
支配人の言葉に小さく弾んでしまい、ネアは、その素敵なおつまみを配っている給仕を慌てて探した。
支配人に呼ばれた一人の給仕がやって来ると、座席に着く前のお客達の歓談用に配られている、一口エクレアとクッキーケーキは、速やかにネア達にも提供された。
淑女感などぽいっとやってしまって、すぐさまお口に入れたくなるが、ここは我慢だ。
「こちらの一口エクレアは、林檎の蒸留酒の風味のクリームソースをかけ、燻製鮭のムースが入っております。飾り木の枝に見立てた緑のものが、フェンネルを主とした香草のソース、赤い実の部分がイブメリアの祝福の雫を使った赤胡椒のソースになります」
「………むぐ」
今年のエントランスホールのおつまみは、随分と凝っているものが出されているらしい。
聞けば、歌劇場をご贔屓にしているお客から、歌劇場の魔物のアレッシオが最愛の歌姫を使い魔にしたお祝いとして提供されたものなのだとか。
そのような意味での、お祝い料理でもあるのだろう。
ネアの人差し指くらいの大きさの一口エクレアは、中にスモークサーモンのムースを詰めたエクレアの上に、林檎のお酒のソースをチョコレートコーティングのようにかけてあり、その上に、ムースソースで赤いインスの実と飾り木の枝が表現されている。
食べてしまうのが勿体ない程可愛いが、あちこちから美味しいという声が聞こえてきているので、ネアが、ロージェまで頬張らずに我慢出来たのは奇跡のようなものだった。
「……………うむ。既にシュプリを用意して貰っていましたので、い、いただきますね!」
「ネアが可愛い………」
「はは、焦り過ぎないようにな」
「ロージェに入るなり、食べ物の話かよ」
ロージェで待っていたアルテアは、入るなりエクレアをぱくりと齧ったネアに、呆れた目を向けた。
アルテアが一足先にロージェに入ってくれていた事ですぐにシュプリが用意されたのだから、ネアは、そんな時間前集合の使い魔に感謝しなければなるまい。
一口では勿体ないので二口エクレアにしたフィンガーフードをいただきつつ、開演も近い舞台を万感の思いで眺める。
(……………は!)
そこで我に返り、今年の歌劇場の飾り付けとロージェの美しさに呆然としたのは、一拍置いてからのことであった。




