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113. クラヴィスでは竜に飛ばされます(本編)




祝福交じりの穏やかな雪の日だった。

今年の雪は僅かに菫の色を帯び、降り積もると雪のその白さの奥が青く青くなる。


その美しさに溜め息を吐き、ネアは、雪と森との情景が美しい祝祭の朝を楽しんでいた。



本日はクラヴィスの朝に祝祭の儀式があったのだが、ネアは残念ながら参加は見送りとなっている。

当初は出席の方向で調整していたのだが、ガーウィンから枢機卿の一人が参加することになってしまい、敢えてのお留守番となったのだ。




「こちらも司教の一人が交代したばかりだからな、様子見も兼ねての訪問であったらしい」

「感じの悪い方だったりしたのですか?」

「いや、つとめて穏やかな様子だったな。だが、ガーウィンの方にも表面化しない動きがあるのだろうと察せるくらいには、ウィームの様子を気にかけてはいたようだ。後はダリルが調整すると思うが、やはり今朝の儀式には、お前は参加しなくて良かったのだろう」

「ふむ。ですので、クラヴィスの美味しい鶏肉を食べてしまうこともなく、大人しくエーダリア様達の帰りを待っていました」



ネアがそう言えば、エーダリアはさっと丸鶏の無事を確認をしたようだ。

こんがりと飴色になった皮目の部分が残されていることに安堵しているウィーム領主の姿に、ヒルドが呆れたような顔をしている。



今朝のエーダリアは、毛先の艶が白っぽく見える淡いオリーブグリーンの毛足の短い毛皮の儀式盛装姿で、刺繍には銀色と水色の祝福結晶が縫い込まれている。

羽模様に見える優美な模様は、ノアが構築した守護の魔術式も兼ねているらしい。



「その代わりに、お昼の儀式では擬態をかけて貰って観覧席に座る予定なのですが、その枢機卿さんはまだいらっしゃるのですか?」

「いや、朝の儀式の後でガーウィンに戻ったそうだ」

「では、お昼の儀式であればお手伝い出来たような気もします。のんびりお気楽なお客様席にいてもいいのでしょうか?」

「昼の儀式には、アルビクロムから竜伯爵が来るのでな……………」



どこか苦々しくそう答えたエーダリアに、ネアは、こてんと首を傾げた。


エーダリアがあからさまに不得手そうにしている人物というのも珍しいし、初めて聞く名前である。

竜と言うくらいなので竜種なのかなと考えていると、ヒルドがその人物について教えてくれた。


「名前を伏せておられますので、皆が竜伯爵と呼ぶ御仁ですよ。元は雷竜の祝い子でしたが、人間の扱う道具や工業事業などに興味を持ち、人間に転属した珍しい履歴を持つ方です。とは言え気質は竜ですから、……………皆、警戒しているのでしょう」

「……………警戒?」



それはもしや、がおーと暴れたりするのだろうかと考え、ネアはお昼の儀式にはポケットに激辛香辛料油入りの水鉄砲を入れておくことにした。

本当であればきりん札が一番なのだが、大聖堂で取り出すと殺してしまうものが多過ぎる。



「伯爵はあまり屋敷の外には出てこない人物で、大の女性嫌いでな。お前を儀式に参加させると、事前に挨拶などをする必要が出てくるだろう。ウィーム領主としても、今回の竜伯爵の参加は有難い。何とかしてあの男が帰らないようにしたいのだ」

「その竜さんは、………お若い方なのですか?」

「いや、竜だった頃と合わせれば、八百年は生きている筈だが……………」

「いい大人なのに、どうしてその程度のことが我慢出来ないのでしょう」



ネアは少しだけ遠い目になってしまい、エーダリアも同じような目になる。


テーブルに運ばれてきたのは、雪じゃがいものポタージュで、僅かな酸味はサワークリームだろうか。

ほっこりとした黄色い銀杏のようなものが入っているが、これは星の実という祝祭に好んで食べられる栗の仲間の木の実であるらしい。

松の実のような食感だが仄かな甘みは栗のようなこの実を、ネアはすっかり気に入ってしまった。



「その竜さんは、ご結婚されていたりはしないのですか?もし伴侶さんがいるのであれば、奥様から窘めて貰うことは出来ないのでしょうか……」

「なかなかに偏屈で、一度アルビクロム側から差し出された花嫁も逃げ出したって話だよ。どっちかと言えば、竜にしては珍しく女性蔑視の傾向がある男だね」

「ノアは、その方の事をご存知なのですか?」

「うーん、知っているっていうより、竜だった頃に殺そうとして逃げられたことがあるんだよねぇ」

「……………思ったより拗れた関係でした」

「向こうが悪いんだよ。僕がその時の恋人だった子と喋っていたら、一方的に絡んで来たんだから」



ネアはここで、そんな気質は、そもそも社会的にどうなのだろうと胡乱気な眼差しになってしまったが、ノアの会話の続きを引き取ったヒルドによると、単身者の男性にはとても手厚く穏やかな気質なので、アルビクロムの独り者の職人達には人気があるのだそうだ。



「もしや、男性が恋のお相手なのでは……」

「………そうなのかい?」

「まだ判断材料が少ないですが、独身男性にだけ感じがいいというのも、おかしいと思いませんか?」



薄く焼いたフリーコに蕩けるチーズを挟んだ、ミルフィーユ状のごちそう版フリーコのようなものを食べながら、ネアはそう指摘する。


女性蔑視の傾向があり、独身男性が好きというのであれば、何やら根深い嗜好を抱えているのではないだろうか。

しかし、淡く苦笑したヒルドが、そうではないのだと首を振った。



「どちらかと言えば、竜伯爵は恋愛や家庭に現を抜かす者を好まないという思想であるようです。それだけ工業の発展に貢献されていると言えば聞こえはいいのですが、自身の信念を他人にまで押し付けてくるのはいただけませんね。彼の中で、魅力的なご婦人は例外なく職人を狂わせる毒という認識のようですから」

「偏見の塊ですね。女性の職人さんはいらっしゃらないのですか?」

「いるにはいるのですが、そのようなもの達は、彼からすると、これまでの生活を恥じて俗世を捨て、技術躍進に身を捧げた改心者という認識のようでして」

「そんな竜伯爵めは、一度恋でもしてこてんぱんにされればいいのだ……………」



ここは勿論女性目線であるネアは、暗い声でそう言うばかりだが、竜伯爵の思想が一定の賛同を得ているというのも分からないではなかった。


元々そのような思想ではなくても、魔術師達のように結果的に生涯独身を貫く羽目になってしまう者達もいるし、恋に破れてもう女性なんて懲り懲りだと思う男性もいるだろう。

そんな男性たちにとって、目立つ誰かが声高にそれを忌避してくれるということは、優しい屋根のような効果があるに違いない。




(さて、そろそろ……………)




美味しく甘くグラッセした祝祭人参に、オリーブと梨を使ったたっぷり野菜のサラダ。

彩りも鮮やかな一口キッシュには、薔薇塩がぱらりと振りかけられており、アスパラのソースが添えられている。


ぶ厚めに削ぎ落された生ハムには、冬の芽という蕗に似た食感の植物の茎を煮たようなものと、乾燥杏が細切りになって包まれているようだ。

ネアはぱくりと食べてむふんと頬を緩め、気に入ったものかジャガイモのポタージュがなくなってしまったと悲し気な顔をしている伴侶の魔物の方を見る。



「では、鶏肉様を……………」

「よし、私が切り分けよう」

「エーダリア様に丸鶏様を奪われました!!」

「エーダリア様、大人げないですよ」

「ヒルド……………」



鶏肉の切り分けは、中立の立場であるヒルドがやってくれた。


勿論美味しい鶏皮は、それ以外の者達や、ネアとエーダリアにも均等に配られ、一番美味しい部分は、二人で半分ことなった。


先程からとても静かに食事をしているゼノーシュの前には、勿論今年も一羽分の丸鶏が出されている。

隣のグラストは、幸せそうな笑顔で見上げた契約の魔物を、はっとするほどに鮮やかで愛おし気な目で見ていた。



「ゼノの今年のイブメリアのケーキは、グラストさんの白いケーキなのですか?」

「うん!グラストは色々工夫してくれようとするんだけど、あのケーキは特別なんだ」

「ふふ、ゼノの一番大切なケーキですものね」

「だから僕、イブメリアは凄く幸せなんだよ」



その宣言を受け、隣のグラストが少しだけくしゃくしゃになっているが、ゼノーシュだって、今年のカレンダークッキー缶を貰った時にはくしゃくしゃになっていたのだ。


初めてそのクッキー缶を貰った時には、毎朝、こんなクッキーだったんだよとネアとお喋りしていたが、今年は、出会えば本日のクッキーについて教えてくれるものの、あの頃のようにわざわざ報告をしに来てくれることはなくなった。



(それだけ、グラストさんと一緒に過ごす時間が確かなものになってきたのだろう)



そう思うから、ネアはちっとも寂しくはなかった。

今でも、寂しそうな目をして、グラストに頭を撫でて貰いたいんだと呟いていたゼノーシュの姿はよく覚えている。


ぎゅっと抱き締めてあげたい愛くるしさだったが、やはり大事な友人には幸せでいて欲しいと思う。

お互いに一番大事なものがくっきりと際立ち、共に過ごす時間が少なくなっても、二人はずっと友達なのだから。



「あのね、今日はやっぱりローズマリー味のチーズクッキーだったよ」

「ふふ、今年の推理も当たりましたね。明日はケーキ味か、ホットワインのような風味のクッキーだと信じています」

「僕はね、今年から売り始めた赤い木の実のクッキーかもしれないと思う。糖衣がけのイブメリア限定クッキーは、大人気なんだ」

「なぬ。そのような品物が出ているのは初耳です…………」

「いつもみたいに新商品の列じゃなくて、奥のチョコレートクッキーの隣にあるの。何かをかけてあるクッキーは、そっちなのかも」

「それはもう、絶対に買わねばなりません!ディノ、どこかでしゃっとクッキー専門店に行ってくれますか?」

「うん、勿論だよ。こっちの鶏の皮も食べるかい?」

「むぐ。………鶏肉さんは、詰め物とソースと皮目も合わせて美味しくいただくべきなので、それはディノがいただいて下さいね。その代わり、この美味しい人参を少しお裾分けします!」

「ずるい……………可愛い」

「私は、ディノが今日の人参を気に入ったことにしっかり気付いていたのでした」

「ネアが可愛い。気付いてくる………」



伴侶にしっかり見ていて貰った魔物が目元を染めて恥じらってしまい、ネアは、膝の上に献上された三つ編みを乗せたまま食事を続けることになった。

食事中には三つ編みを手渡してはいけないが、汚れないようにナプキンの下にそっと置いてゆくのは問題ないと、ディノも学んでしまったのだ。



「僕ね、竜伯爵は嫌いじゃないよ」

「むむ、ゼノは確かにそうかもしれませんね」

「うん。でも、ネアはあんまり会わない方がいいと思う。竜伯爵は意地悪だから、ネアを虐めたら嫌だし、竜は踏まれるとすぐにネアに懐いちゃうから」

「むぐ。偏屈な竜さんなど、踏んづけたくありません……………」



ネアは、見ず知らずの竜など踏みたくないと眉を寄せたが、なぜか魔物達は不審そうにこちらを見るではないか。



「…………ノアベルト、その竜は、この子を気に入りそうなのかい?」

「うーん。最初は気に入らなくてネアを怒らせて、踏まれて懐く未来が見えるって感じかなぁ。人間に転属しても竜だし、そのままの転属が難しい階位だったとかで、妖精を経由しているからね」

「……………二重転属なのだね」



(そんな、列車の乗り換えのような事が出来るんだ………)



意外に自在な乗り換え模様にネアは目を瞠ったが、どうやらそこまでのことを可能とするのは、ごくごく一部の器用な者だけなのだそうだ。


魔物に於いて言えば、王族相当や事象などを司る者達は乗り換え不能であるが、例えばノアやアルテアのような気質の者がそれを可能とする技量を持っていると言える。


竜伯爵は、何事も大味な竜の中では珍しく器用な魔術操作を得意とした人物であったらしい。

二重転属を実践したということは公にされておらず、あまり表舞台に出てこないような者達だけに可能であることなので、一般的には転属は一度までという常識が用いられるのだとか。



「私とて踏んでもいいものの選別はしますので、その竜さんは踏まないようにしますね。なので、食事中のご主人様の手首に三つ編みを巻こうとしてはいけません」

「持って帰ろうとしないと約束してくれるかい?」

「それは、もはや誘拐になるのでは…………」



ネアは勿論そんなことはないと断言したし、どれだけ伴侶な魔物が疑わし気にこちらを見ても、にっこり微笑んで首を横に振っておいた。



だからもし、この世界に不幸な偶然があるのだとしたら、今回の邂逅において、咎があるのは竜伯爵の方だろう。



何しろその御仁は、大聖堂の入り口の混雑の中で、誰かと夢中で話し込んでいる途中で周囲が見えなくなってしまい、ネアのことをお尻でどしんと突き飛ばしたのだ。




「ぎゃふ!」



大柄な男性にどしんと体当たりをされてしまい、ネアは簡単に吹き飛んでしまった。

ディノは、ネアと教会関係者との接触を減らすべく大聖堂の入り口での観覧者受付をしてくれており、手が離れていたほんの一瞬のことであった。



「ネア!」



吹き飛んでしまった伴侶に慌ててディノが駆け寄ろうとしたが間に合わず、その場にいた誰かがしゅばっと駆けこんできてネアを抱きとめてくれたが、か弱い人間は、元竜のお尻にどしんとやられて吹き飛びかけて心臓が止まりそうになっていた。



「………お、おのれ、これだけの人混みなのです。周囲を良く見て下さい」

「なんだ、女か。わざとらしく転んで見せて、僕の気を引こうという魂胆らしい」

「な、…」

「周囲も見ずにはしゃいだ挙句、女性を突き飛ばしておいてその言い様か。あなたには、倫理観念以前に羞恥心というものすらないらしい」



そう冷ややかに吐き捨てたのは、ネアを抱きとめてくれた人物だ。


艶やかな黒髪の巻き髪に、光を集める水色の瞳が美しい、しなやかで強靭な肉体を持つ背の高い男性だ。

言うべきことを取られてしまったと顔を上げ、ネアは、それが擬態をしていないワイアートだと気付く。

慌ててその隣に並んだのはベージで、気遣わし気にこちらを見てくれた。



(とても怒っているみたい…………?)



肌がびりびりしそうなくらい、ワイアートの怒りが伝わってくる。


ネアは、こうして怒ってくれることを嬉しく思いつつも、大事な祝祭の儀式なのでどうぞ事を荒立ててくれませんようにという思いにはらはらしながら、慌ててこちらに駆け寄ってきた魔物にそっと頬に手を当てられた。



「ネア、守ってあげられなかったね………」

「ディノ、私はまだ生きていますし、この通り無傷ですのでどうか泣いてしまわないで下さいね?」

「ネアが、いなくなった…………」

「むぐ。吹き飛んだのでその言葉でも間違っていないのですが、その表現だと、まるで私が死んでしまったかのようです」

「ネアは死んだりしない……………」



あまりにも悄然としているのでそう言ってやったのだが、今度は魔物が怯え始めてしまった。

ワイアートから引き取られぎゅうぎゅう抱き締められている間に、背後が何やら不穏な感じになっている。




「ほお、雪竜の祝い子か。幼い竜らしい耳障りな吠え方だ。年長者に躾けて貰い、女というものがどれだけ頑強で目障りな生き物かをよく学ぶといい」

「…………仮にも年長者を気取るのなら、相応しい品格を持つべきだろう。私は、女性を傷付けたばかりのあなたが、そのように平然としていられるのが不思議でならないな」



これは荒れそうだぞと察してしまった人間は、慌てて魔物をべりべりと引き剥がし、振り返って見てしまった現場にむぐぐっと眉を寄せる。

被害者として言いたいことは幾らでもあるが、この応酬を聞くだけでも、仕立てのいい黒いフロックコートを着た男性が話の通じない御仁であるのは明らかだ。



コートと同素材のトップハットにはスウェードリボンがかけてあり、そのリボンに挟まれているのは恐らくメモ書きか何かだろう。

職人が使うような分厚い片眼鏡には術式陣が刻まれていて、盛装姿ではあるのだが実用性に特化した指先を出した手袋など、どうにも職人に近しい雰囲気がある。


下から見上げていって、神経質そうで鋭利な輪郭の美貌の、琥珀と黄色の瞳に黒髪の男の面立ちまでを認め、ネアは、これは間違いなく竜伯爵とやらだなと考えた。



(エーダリア様は、この方に儀式に参加して欲しいみたいだった………)



なので、何かを言い募ろうとしてくれたワイアートの袖を掴むと、にっこり微笑んで首を横に振る。



「このような方とは、お話をしても無駄でしょう。助けていただき、有難うございました。そして、わからず屋さんには、欲しがっているような素材や素敵な技術の情報などが届かなくなるようにこっそり心で呪いをかけておき、後はもう放っておきましょうか」


そう言えば、はっとしたように目を瞠り、ワイアートは小さく項垂れた。


「申し訳ありません。………却ってお手数をおかけしました」

「いいえ。代わりに怒って下さったので、私は、すっかり心を落ち着けてしまえたのです。守っていただいただけでなく、むしゃくしゃした気分もすっかり落ち着かせてくれたのですから、またあらためてお礼を言わせて下さい」

「ごしゅ…」

「ご無事で良かったです!俺が最も近くにいたのですから、こうなる前に気付くべきでした」

「まぁ、ベージさんまで!」



ネアの意向を汲んでワイアートが落ち着いてくれたのと、何かを考え込んでいる様子ではあったが、ディノが荒ぶらずにいてくれたので、そこで和気あいあいとして終わるべきだったのだ。


しかし、聞きしに勝る偏屈さというものはあるようで、加害者である竜伯爵らしき男性はそこで言葉を収めなかった。



「生意気な女だな。このような女が工業の発展を鈍らせるのだ」

「……………今日は儀式に参加されるのですか?」

「え、ええ。後半の魔術詠唱に」

「まぁ、それでは楽しみにしていますね」


しかし、難癖をつけられたネアが、珍しくさらりと竜伯爵を無視したので、ワイアートは少しだけ困惑したようだ。

とは言え、鋭敏な彼らしく、すぐさまこちらの意図を汲んで調子を合わせてくれた。


竜伯爵の方から睨むような視線を感じたが、ネアは、祝祭の儀式を大事にしたいのである。

その為なら、面倒な元竜など無視されて然るべきであった。



「……………彼は、後で私が対処するよ。君は、エーダリアに迷惑をかけたくないのだろう?」



頬を寄せるようにして、そう耳元で囁いてくれたのはディノだ。


何かを考え込むような様子があったが、やはり、儀式の事を考えてくれていたらしい。


表面上は何事もなかったかのように振舞っていたが、それを聞いて安心したネアはふぅっと肩の息を抜く。

狭量だと言われる魔物でありながら、ディノはこうしてネアの心配をきちんと汲み上げて守ってくれる。




「二人とも、儀式観覧に入るのなら、席までは一緒に行こう」



そんなネア達に、不意に声がかかった。

穏やかだがどこか冷ややかな声音に、おやっと振り返ったネアは目を丸くする。



「まぁ、………アレクシスさんです」



そこに立っていたのは、擬態をしていても造作は変わらないアレクシスだ。

菫色がかった多色性の白灰色の髪に、鮮やかな黒紫色の瞳をしている。

こちらに向けてにっこり微笑んでから、アレクシスは、はっとする程に冷ややかな視線をネアの向こうに向けた。



(もしかして、竜伯爵さんを見ている……………?)



ネアには背後にいるであろう竜伯爵の表情は見えなかったが、何だ何だと周囲に集まった人々の表情から、何となく状況を察する事が出来た。

にっこり微笑んだアレクシスに対し、どうやら竜伯爵はぴっとなってしまったらしい。



「アレクシス……………!!」

「俺の娘夫婦に何の用だろう。よもや、危害を加えようとはしていないだろうな?」

「……………娘夫婦……。……………認識の相違があり、少し話をしただけだ。僕に過失があったらしい」

「では、謝ったんだな?」

「す、……………すまなかった」



ここで思わず振り返ってしまったネアに、屈辱に頬を染めた竜伯爵がぎりぎりと音を立てそうな程にぎこちない仕草で腰を折り、頭を下げる。


周囲から、やはりスープの魔術師はさすがだという囁きが聞こえてくる中、ネアは、謝っていただけたようですし、こちらも怪我はありませんでしたのでと社交上の微笑みのみでやり取りをさっと終わらせてしまう。


竜伯爵の方も早々に立ち去りたかったようで、一度アレクシスの方を見てまたぴっとなると、そそくさとどこかに行ってしまった。



振り返れば、珍しいくらいにしっかりと、美しい深みのある紺色の盛装で祝祭の装いとなったアレクシスが、安心させるように頷いてくれた。



「アレクシスさん、助けていただき、有難うございました。竜伯爵さんとはお知り合いなのですか?」

「転属はしたものの、彼はまだ竜化の魔術を残しているからな。竜化している時に、角を採取したことがある」

「なぬ、角を………」

「あまりいい出汁は取れなかったので、すぐに廃棄することになったが。………もしあの男に何かをされたら、俺に言ってくれ。出汁にはならなくても、鍋を温める燃料くらいにはなるだろう」

「ほわ…………」



どうやら竜伯爵は、スープの魔術師に角を取られた挙句に使えないと捨てられてしまったらしい。

それはきっと悲しかっただろうなと思うし、そんな恐ろしい逸話を聞いてしまったワイアートとベージも、居心地が悪そうにもぞもぞしている。


ディノは、ネアにちょんと突かれ、少しもじもじしながらアレクシスにお礼を言ってくれた。



「有難う………」

「いや、俺の大事な娘夫婦だからな。当然のことだ」

「ふふ、あの方の手前、娘夫婦相当にして下さったのですね」

「ネアとディノは、そのようなものだろう。いつも、新作のスープをいち早く飲みに来てくれるからな」



そう微笑んだアレクシスは、あの伯爵には、妹も難癖をつけられたことがあるのだと呆れた様子で呟いていた。


このまま一緒に観覧席の隣の席に座ってくれるらしく、ネアは、あの場では竜伯爵を受け流さなければならずに強張っていたディノの眼差しも和らいだのでほっとする。


スープの出汁にされることを警戒したベージ達がそそくさといなくなってしまったという弊害もあるが、やはりアレクシスが一緒に居てくれることは心強い。



(わぁ……………!)



足を踏み入れた大聖堂は、天上から吊るされた香炉が揺れ、香木を焚いた煙が立ち込めていた。

今年は朝の儀式の後なので、既に大聖堂内部はかなり煙たい。


香りとしてはお伽噺の森のクリスマスの匂いのような、悪くない香りなのだが、こうして香炉の煙に包まれてしまうと少し不安になる。



「ディノ…………」



そんなネアの不安を察したように、ディノがネアの手から三つ編みを引き抜いて手を繋いでくれたのは、もう二度とどこかに落とされては困ると気を引き締めた伴侶の気配を感じ取ってくれたからだろう。


本日は娘夫婦相当として扱ってくれるアレクシスに反対側の手も繋いで貰い、ネアは安心してその煙の中を歩いた。




揺れる香炉が、儀式を進行する誰かの手で揺らされ、がおんがおんと教会の鐘の音のような音を立てる。

聖堂の中をたなびく煙の向こうには、繋がった魔術のあわいから深い森や、不思議な明かりの煌めく湖などの景色が垣間見えた。



煙に落ち、差し込み散らばるのはステンドグラスの色とりどりの光だ。

そんな幻想的な色のカーテンをくぐるように、ネア達は観覧席に向かった。


こつこつと踏む床石には、時折、潤沢な魔術から派生した鉱石などが生えているので躓かないように注意しなければいけない。


儀式祭壇の檀上には、お久し振りな信仰の魔物の姿があり、ネアはこちらを見たレイラが、アレクシスの姿を認めるなり呆然としている様子に目を留めた。

ふるふるしているので、どうやらスープの魔術師は、信仰の魔物にも何かしてしまったことがあるようだ。



ネア達が座るのは招待客用の観覧席で、水色がかったウォルナット色の木材に、こっくりとした青色の天鵞絨のクッションの張られた座り心地の良さそうな椅子が並んでいる。


大聖堂での儀式は長引くこともあるので、こうして置かれている椅子の全ては肘置き付きだ。


今日は祝祭らしいお洒落を楽しみ、艶やかな薔薇色の冬用ドレスを着ていたネアは、スカートの裾を綺麗に手で直しながら座ると、儀式の始まりを待った。




祭壇に立った信仰の魔物の周囲に、淡い魔術の光が宿る。



飾られたリースや飾り木の華やかさに負けないくらい、祭壇に上った者達も一様に華やかな装いだ。


朝食の席で見たエーダリアはオリーブ色の儀式盛装だったが、今はネアの大好きな儀式用の水色のケープを羽織っている。

以前の儀式の際には窓からの光を受けて新雪のように輝いていたケープは、二度目の儀式の光の中では、霧の中から望む湖の湖面のような儚く美しい色に見えた。


儀式開会の挨拶が成され、クラヴィスの日への感謝や祝福の言葉などを司祭が述べ、ゆっくりと染み込むように高まるその瞬間への期待に、ネアは胸を熱くした。



(ああ、私はこんな場所と時間が大好きだわ…………)



何か、きらきらとして美しく祝福深いものが訪れる。

そんな喜びと安堵は、かつて何も叶わなかった場所での切望を宿しているのだろうか。

例えようもなく美しく、胸を熱くする。



司祭の詠唱が終わると、いよいよエーダリアの番だ。


瑠璃紺色のケープを揺らして司祭が壇上の端に寄り、祭壇中央にエーダリアが立てば、ふっと大聖堂内部が喜びと期待に揺れる。


水晶の管を組み合わせた楽器がパイプオルガンのような響きを立て、静かに、エーダリアの詠唱が重なり始めた。



(ああ、………やっぱり、エーダリア様の詠唱はいいな)



同行しているヒルドの羽が微かな光を放ち、騎士に擬態したノアも満足そうな顔をしている。


大きな石造りの建物の中に響き、跳ね返り、殷々と満たされてゆく澄んだ詠唱の美しさは言葉に出来ない程だ。

静謐だが艶やかなその響きに酔いしれる領民達に、詠唱の最後の音はまるで語り掛けるような柔らかさであった。



その次に詠唱を引き取ったのは、先程は黒いケープを羽織ってしまっていて気付かなかったが、何とも美しい深紫色の盛装姿のワイアートだ。

式典用の軍服姿のような装いには、ふんだんに雪の祝福石が飾られており、その乳白色の輝きで特等の一人としての存在感を放つ。


目を奪うような美しい竜の姿に、ほうっと溜め息を吐いたのはご婦人たちだろうか。

ネアは、そんなワイアートと目が合ったような気がしたが、気のせいだったのかもしれない。




「其は、暗く青白き祝祭の灯火。魔術の火より豊かなものの名前。夜の静寂より温かきものの名前。その祝福の眼差しに映すは、祝祭の恩寵と理」



雪竜の祝い子の詠唱は、音の余韻に宝石が光るような不思議な艶やかさがあった。


硬質なのに、天鵞絨の手袋の指先で背筋を撫でるような声とでも言えばいいのだろうか。

腰砕けになったのか、ふぅっと椅子に座り込んでしまったご婦人がいたが、それくらいの威力は確かにあったように思う。



(そして、私の時と結びの言葉が違うのは、あの時はディノに配慮してくれたのかもしれない?)



そんな事を考え、白茶色の髪を耳下で切り揃え男装の麗人風の装いの信仰の魔物のケープは百合の刺繍が綺麗だななどと思っていたら、竜伯爵の詠唱は聞き流してしまっていたらしい。



ゴーンゴーンと鐘の音が鳴り響く。



全てが終わり、わぁっと歓声が上がってから、ネアは、壇上でどこか満足げにしている竜伯爵の詠唱を、さっぱり聞いていなかったぞと目を瞬くことになったのだった。










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