氷狼の障りと氷竜の騎士 2
ふくよかな夜の織りの影で、ひっそりと涙を流す人々がいた。
ネア達はその啜り泣きの声を背後に聞きながら、封印庫の処置室を出る。
そこは、高度な封印魔術を必要とする症状に見舞われた領民が、その他の治療と共に封印庫の魔術師達の封印魔術を受けられる特別な部屋で、先程保護されたばかりの氷狼に襲われた少年の治療が行われていた。
勿論、リーエンベルクの関係者及び、医師魔術の所持者や街の騎士達などを経由させて申請し、封印魔術を受けるに値するかの審査もあるのだが、緊急時は十分程で済むものなので、いざという時の受け皿の一つとして機能しているそうだ。
独特の、封印魔術の為に焚きしめる香の煙が微かに廊下にたなびき、扉がばたんと閉じれば部屋の中から聞こえる啜り泣きも聞こえなくなった。
ほうっと息を吐いたのはエーダリアで、その隣では、弟子の一人に何やら耳打ちしているダリルがいる。
その女性はネアが初めて見るダリルの弟子の一人で、柔和な顔立ちの栗毛色のご婦人は、どこか鋭い瞳でにっこりと笑うと、ネア達に会釈して足早に立ち去った。
(…………ダリルさんは、沢山のお弟子さんがいるのだわ)
あの様子だと、彼女は何かを言いつけられたのだろう。
ダリルがこうして立ち合ったことといい、今回の事件が、ウィームにとってどれだけ大きなものだったのかを、ネアは、こんなところからも思い知らされた。
ネア達は、今夜の氷狼の捜索で保護した少年の魔術解毒と洗浄に立ち会ったばかりだ。
今も処置室の中には少年の両親と祖父母、更にはあの少年に守護を与えていた氷竜がいる。
少年に守護を与えていたという氷竜の少女は、先日ボラボラにかぶれてしまい、氷竜の国にある自分の屋敷で寝込んでしまっていたらしい。
けれども、寝台でうんうん唸っている最中に、大事な友人にかけた守護の異変に気付き、真っ赤な顔のまま駆けつけてきたのだ。
「あの少年が、氷竜の宝だったとは思わなかった。障りを受けてしまったにせよ、思っていたよりも重篤でなくて何よりだ」
「ベージさんは、あの竜さんに頼まれて宝物だという少年を保護しに来たところで、氷狼めに遭遇したようですね……………」
「氷竜は厳格な気質の者達が多いからな。あの少年に守護を与えるということで王族の承認は得ているにせよ、一族としてあまり推奨していない人間への守護を与えた挙句、結果として騎士団長があのようなことになったのだ。…………あの竜も、これから辛い立場にはなるだろう……………」
溜め息交じりにそう呟いたエーダリアに、ネアは小さく項垂れた。
ベージの意識はまだ戻っておらず、高位の竜である彼が祟りものになった場合、その被害は甚大なものとなる。
なので、万が一のことを考えて、現在は影絵の一つの中で治療を続けていた。
ディノの見立てでは、ベージが駆けつけたときにはもう、あの少年は襲われていたのだろうという事だ。
襲われた人間の子供をそれ以上傷付けずに取り戻す為には、直接あの氷狼に触れるより他になく、ベージは、より外皮の厚い竜の姿に戻って、自らの手で氷狼を押さえつけて同族の少女の宝である少年を助け出したのだ。
(そんな選択をしたベージさんを、エーダリア様は立派だと言い、ダリルさんは愚かだと言う…………)
どちらの考えも間違ってはいない筈だ。
結果としてあの少年は助かったが、ベージは、悪変し祟りものになるかどうかの瀬戸際にいる。
氷竜は、強大な力を持つ古い竜種ではあるものの、水竜程ではないが、穢れなどには弱い傾向にあるらしく、その中でも今回の氷狼の悪変は、同じ系譜の生き物であり悪変の度合いの大きな精霊であるという、最悪の相性の相手でもあったのだ。
ダリルは、ベージが、同族の幼い少女が仲間達の批判に晒されないようにと、一人で出かけたことにも苦言を呈していた。
例え不満が上がったとしても、せめて部下たちを連れて来るべきだったのだと。
(その意見に関しては、私もそう思う……………)
部下たちがいてくれれば、ベージがこんな風に傷付くことはなかったかもしれない。
氷竜の結束などはよく知らない部外者としてはその後の問題などはさて置き、ベージは、ネアにとって失いたくない竜の一人なのだ。
「まったく。ウィリアムが来てくれなかったら、川沿いの運行がひと月近く不能になるところだったよ。ネアちゃん、後でお礼を言っておいてくれるかい?」
「ダリル、今はそのようなことは…………」
「あの氷竜に関しては、自己責任でもあるんだよ。害獣の討伐は領主の仕事でもあるけれど、土地の管理責任をも負う氷竜の騎士団長が、自らが祟りものになる危険を負うのは、無責任と言わざるを得ない」
割れそうな程に青い美しい瞳を眇めてそう言ったダリルに、ネアは微笑んで頷いた。
個人的な思いを横に置けば、やはりそれは正論であったのだ。
「ええ。ウィリアムさんは、ディノと一緒にアクス商会に話をしに行ってくれていますが、今夜はリーエンベルクに泊まってくれるそうですので、後で伝えておきますね。……………ただ、今回はウィリアムさんもお仕事だったようなので、鳥籠で崩壊を隔離したことは気にしなくていいと言ってくれました」
「ああ、あの氷狼の崩壊が、終焉の予兆に繫がっていたんだっけ?」
「そのようです。ウィームで終焉の予兆が出たことに驚いて、こちらに駆けつけてくれたみたいで…………」
勿論、ウィリアムが慌てて駆けつけてくれたのは、ウィームが友人達が暮らす土地であるからだが、同時に、ウィーム程の土地で終焉の予兆が出てしまうと破局的な騒乱に発展する可能性があるからでもあった。
今回の終焉の予兆は大きく、終焉を司る者としては見過ごせない事態であったそうだ。
「それにしてもさ、額縁の魔物絡みだったとはなぁ…………」
そう呟いたノアは、ディノが不在の間はと、ネアの手をしっかりと繋いでいてくれる。
全員が出払ってしまわぬようにと、ヒルドはリーエンベルクに残っているので、エーダリアのこともしっかりと見ているようだ。
ネアは少しだけ気になったが、ダリルはそんな様子を見てもヤキモチを焼いてしまったりはしないらしい。
ダリルがエーダリアに向ける愛情や執着は、あくまでも代理妖精としてのものなのかもしれない。
「…………全く困ったもんだよ。今回の件が意図的な襲撃ではないと完全に判明するまでは、こちらも気が抜けない。薔薇の祝祭の準備もあるって言うのにさ…………」
「そうだな。自然派生のない悪変となると、偶然を装ってウィームに齎された場合は厄介だからな……………」
ウィームを騒がせた氷狼は、ディノも気付いて不審そうにしていたように、人為的な魔術の手が加えられたことで悪変した精霊だったのだそうだ。
ウィリアムは以前からこの精霊を注視していたそうで、今回、ウィームに終焉の予兆を見て慌てて駆けつけたところ、五十年程前に封印された筈のその姿を見付けてひやりとしたのだとか。
かつて、ガゼットからハヴランの辺りの集落で、何度か戦乱に姿を現した氷狼がいた。
元々の氷狼の精霊は、狼と馬の間のような生き物で、長く生きれば人の形を得ることもあるという程度の階位の精霊なのだそうだ。
しかし、その時に戦場で兵士たちを襲った氷狼は、黒い靄のようなものを纏い悍ましく姿を変えながら、敵国の兵士達に悪夢と言い伝えられる程の被害を齎したという。
通りがかった額縁の魔物が、邪魔だったという理由で自身の持つ額縁に封印してしまい暫く歴史上からは姿を消していたものの、使った額縁を別のものに使いたいという理由で中身の氷狼をぽいっと捨ててしまい、よりにもよってそれがウィームの近くのことだったそうだ。
(それが、本当にただの偶然だったかどうかは、自分の資質の魔術が絡んでくるウィリアムさんが調べてくれるということだけれど………)
その獣を使役した集落が滅びてしまった今、どのような経緯でその獣が作られることになったのかはもう誰にも分からないが、悪変の材料には終焉の資質が使われており、その悪変の魔術を敷いたのはアイザックであるらしい。
アイザックの気質を踏まえると、恐らくは商品として与えられたものであるに違いないということで、アクス商会に向かったディノ達は、アイザックがその悪変を取り除く為の薬や術符を残してあるかどうかも含め、崩壊した氷狼がウィームに出現した経緯を詳しく探ってくれている。
(もし、アイザックさんの手元にも何の手掛かりも、治療薬も残っていないとなると、ベージさんが助かるかどうかは運次第になってしまう………………)
そう考えると胸が苦しくなった。
ネアの表情が暗くなったことに気付いたのか、ノアがすぐさま声をかけてくれる。
「アルテアとは連絡が取れたかい?」
「ノア……………。アルテアさんは、カードにお返事がきましたが、氷竜さんのことはどうでもいいのだそうです………………」
「ありゃ、やっぱり彼のことを警戒してるなぁ。…………ネアから頼んでその返答だと、協力を取り付けるのは難しいかもしれないね」
「………………ええ。先ほど、ダリルさんともそんな話をしていたんです。やはり、アルテアさんも魔物さんですので、自分に益のないところで、違う種族の生き物を助けて欲しいと頼むのは難しい部分があるのだとか……………」
「ごめんよ、ネア。本来なら僕がどうにか出来れば一番だったんだけど、残念ながら、対ウィリアム、対アイザックのものに関しては、これまであんまり調べたりどうこうしたりしてこなかったから、どうにも分が悪いんだよなぁ……………。もっと研究しておけば良かったよ」
ノア曰く、彼等の隙を突いてその持ち物を奪うというのであれば話は別なのだそうだが、終焉や欲望の魔物の資質に手を加えるということは、なかなかに難しいのだそうだ。
処置室で絶対安静となっている少年は、人間だからこそ、魔術洗浄で事足りたが、竜種であるベージはそうはいかない。
魔術というものを体の中に流すだけの人間は、魔術洗浄で取り込んだ悪変を洗い流すことが出来る。
しかしながら、元々自身の体の中に魔術を持ち、その魔術を変質させられてしまったベージの場合は、変質してしまった部分を修復する必要があるのだ。
先程、封印庫長がベージのことも診察してくれたが、やはり封印という魔術の領域で回復までもとなると難しいということであった。
(……………ディノは、この悪変で穢れに侵食されてしまっても、ベージさんの命が失われる訳ではないとは言ってくれたけれど……………)
悪変したものの、その進行を何とか途中で止めておき、体に巣食う穢れと共生してゆく方法もある。
けれどもそれは、ベージのこれからの生活を大きく変えてしまうものだろう。
まず間違いなく悪食にはなってしまうそうで、その場合、食事の嗜好が望ましくないものになるのと同時に、彼の気質にも変化はある筈だ。
(…………………それでは嫌なのだ)
そんな思いはネアという人間の身勝手さでしかなく、ベージ本人は気にしないかもしれない。
この世界の生き物達は、それであれば致し方ないという考え方をする者も少なくはないことを、ネアもよく知っていた。
変化に弱い生き物が多い反面、柔軟にその変化に対応し、受け入れる生き物も多いというのであれば、ベージは後者かもしれないのだ。
でもベージは、ネアが素敵だなと思う騎士で、ホットミルクを奢ってくれた優しい氷竜で、竜禁止令がなければもっと仲良くなりたかったお気に入りの竜である。
そんな彼らしさの要素は、ネアにとって失えないくらいに大事なものであった。
(でも、そんな思いのどれもが、私の為に動く私の為のものでしかない…………)
あの氷狼と対峙した時、きっとベージ本人も様々な覚悟を決めたことだろう。
その結果として、自分が悪変するかもしれないという可能性を考えない程、楽観的でもないだろう。
しかし、そうして決意し動いた彼がどう思うかを確かめない内にと謗られようとも、ネアはネアなりの理由があり、ベージを元のベージに戻してあげたかった。
「やれやれ、おいでになったようだね」
封印庫を出て、リーエンベルクに帰還しようとネア達が転移を踏む直前のことであった。
そう呟き顔を顰めたダリルに、ネアは、はっとして周囲を見回す。
すると、封印庫前の広場に一人の美しい女性がひっそりと佇んでいるではないか。
(お見舞いの人かしら…………?)
修道女のような服装で髪を隠してしまっているので、その髪色までは分からなかったが、どこか冷ややかで他人行儀な静謐さを感じる美貌は、どう見ても人間のものではない。
そして、ダリルの声音からすると、あまり歓迎したいようなお客でもないようだ。
そしてその女性は、こちらを見るとエーダリアに温度のない微笑みを向けた。
「エーダリア様、少々宜しいでしょうか」
「……………ゲーテ殿か」
そう目を瞠ったエーダリアに、ネアは、この女性がエーダリアとはあまり付き合いのない人外者であり、同時になかなかに高位でウィームに住む生き物なのだなと理解した。
交流がある人ならざる者であれば、エーダリアは、領主としての立場から対等に振る舞い敬称を省くことも多い。
けれども、互いに名前を呼ぶことを許すだけの繋がりもあるようで、ダリルを含め、この場に現れたことをそこまで驚く様子もないので、今回の事件の関係者なのだろうか。
「面会の申し入れもなく、こんな夜更けに何の用だろうね。こちらから送った使者から、あの氷竜は悪変の処置の見通しが立つまでは、リーエンベルク管轄の影絵で預かると説明させた筈だ。その際に、見舞いについては翌朝以降にして欲しいと伝えたつもりだったんだけれどね」
「ええ。そのように伺っております。けれども、我々氷竜の決定が出ましたので、早急に申し伝えた後、ベージの身柄を引き渡していただきたいのです」
「へぇ、……………」
その嘲るようなダリルの声に、ゲーテと呼ばれた女性は目を細めた。
目の色などの印象が掴み難いひとだなと思っていたネアは、ここで、この竜があえて自身の外見的な特徴を認識させないような魔術を敷いているのだと気付いた。
視界がぼやけて焦点が合わないような感覚で瞳の色すら認識出来ないのだから、ネア自身も使うことのある認識阻害の魔術の一種を展開しているのだろう。
(そう言えば、氷竜さん達は、統一戦争以降は、あまり人間と関わらないようにしているって……………)
今の世代の氷竜達の中には、親世代の同族達が、統一戦争でウィームの王族達に殉じてしまったことを恨んでいる者も少なからずいるようだ。
戦後、大きく数を減らしてしまった一族を守る為に外界との接触を断った氷竜達は、氷竜の国を出ることを好まなくなり、排他的な種族になってしまったという。
そんな話をしてくれたのは、氷竜の賢者の翼を継いだというベージの部下の一人で、ベージは統一戦争以前の氷竜の在り方を知る存在として、今の仲間達を取り巻く状況を案じていたようだ。
この女性は、そんなベージを案じて迎えに来た仲間なのだろうかと考えていたネアは、その次の一言で衝撃を受ける事になる。
「一族から祟りものが出るなど、決して許されることではありません。そのような悍ましいことを防ぐ為にも、ベージは悪変の進行が早まる前に、処分することとなりました」
(……………………え?)
ゲーテの言葉が飲み込めず、ネアは、ひゅっと鋭く息を飲んだ。
ぐらりと揺れてしまったネアの体を支えるように、ノアが繋いだ手をぎゅっと握ってくれて我に返れたが、それがなければネアは、そのまま封印庫の入り口の階段から落ちてしまったかもしれない。
この人は何を言っているのだろう。
そう思ったのはネアだけではなかったのか、気色ばむようにエーダリアが一歩前に出る。
「………………何を言っているのだ?彼は、お前達の仲間ではないか。悪変についても、治療の方法を探っているところではあるが、現在は進行を止める措置を行った上、眠っているだけなのだぞ?」
「そう仰られても、これは一族の決定なのです。ベージは、白を持たなかった為に祝い子としての銘は得られませんでしたが、大きな力を持つ竜です。長きを生き、そこに騎士としての経験も重ねた彼ともなれば、我らの中でも対等に戦える者は一部の王族のみ。………………そのような竜が祟りものになれば、このような土地はたやすく滅んでしまうでしょう」
「待ってくれ、ゲーテ。そのような懸念を氷竜達が持っていることは理解したが、万が一の場合の押さえも、こちらでは想定済みなのだ。決断を逸らず、今暫く私達の手に委ねてくれないだろうか」
「人間の手には余る問題だからこそ、我々はこのような決断に至ったのですよ」
「しかし………」
反論しようとしたエーダリアを遮ったのはダリルで、ネアはその艶やかな微笑みを見て、美しい書架妖精がとても怒っていることに気付いた。
「第一王子派や、第三王女派とは合意しているのかい?……………ふうん。その表情だと、まだみたいだね。そんな状態で押しかけて来られようと、あの氷竜は引き渡せないよ。今回のことは、ウィームの領民も絡む事件でもあるんだ。あの氷狼も特殊な武器の一つであったようだし、ベージの証言は必要なんだよ」
ダリルのその言葉に微かに顔を歪めはしたものの、ゲーテには引く様子はない。
「それは、私達が考慮するべき問題ではありません。彼は我々の一族の者です。引き渡しを願うのは、決しておかしなことではありますまい」
その時だった。
我慢出来なくなったネアが口を開いてしまう前に、瞳を揺らしたエーダリアが何かを言う前に。
その眼差し一つでゲーテがぎくりと体を竦めるような目をしたのは、ノアだ。
「黙っていてくれるかな。君がつまらないことを囀る度に、僕の妹や契約者が動揺するんだけど」
「……………ご不快にさせましたことを、お赦しいただきたい。お耳汚しであれば、退出していただいても…」
久しく聞いていなかったノアの刃物のような声に怯みはしたものの、ゲーテは自分の主張を取り下げるつもりはなかったようだ。
けれど、彼女がそう言い重ねた途端に、ダリルは意地悪な目をしてにやりと笑い、ノアもどこか嬲るような冷酷な一瞥をゲーテに投げかけた。
「僕は君に、黙れと言ったんだよ」
「…………………っ、」
鞭のような一言に体を揺らし、それでも口を開こうとしたようなので、彼女も決して階位の低い竜ではないのだろう。
「僕は魔物だからね、君たちの一族の体裁や主張には欠片も興味がない。ただ、僕がそうしたいと望み、それでいいと思うから、あの竜は君達には渡せないな」
「……………であれば、あなた方で、祟りものになったあの竜を殺せると言うのですか」
「………………ゲーテ、これ以上あんたが一族の命運を危険に晒さない内に忠告しておくけどね、あんたが今噛みついているのは、公爵位の魔物だよ」
呆れ顔のダリルにそう言われ、ゲーテは唖然とこちらを見る。
驚いたり怯えたりするということ以前に、言われたことが上手く理解出来ないようだ。
「………………馬鹿な。…………今回の問題に、統括の魔物を引き入れたのですか?」
「あんたねぇ………………。これだから、氷竜の騎士団長は、付き合いの悪い氷竜達の無知さを嘆いていたんだろうね。今のリーエンベルクに知恵を貸してくれる白持ちの魔物は、何も統括の魔物一人じゃないんだよ。少しは街の中を歩いて、今のウィームにどれだけ高階位の者達が暮らしているのかを確かめて御覧」
「と、統括の魔物でなければ、公爵の魔物がどうして契約などと………」
「うーん、黙らない子だなぁ。僕は、エーダリアと契約してるんだよ。それに、この子は僕の妹になったばかりだ。因みに付け加えておくとね、ベージというあの竜は、そんな僕のお気に入りになかなかに気に入られている。それに彼は、彼自身の交流の輪として、霧雨の妖精王や精霊王、真夜中の座の精霊王、夜海の竜の王子や犠牲の魔物とも親しいからね?もし、彼を処分したいのであれば、氷竜という種は随分な危険を覚悟した上で、その主張を叫ぶことになりそうだね」
そう笑ったノアに、ゲーテはよろよろと何歩か後退した。
ネアには何も感じ取れないが、恐らくノアが精神圧のようなものを向けているに違いない。
「それで、何だったかな。この先の発言を、君の一存で口にしまっていいのかい?僕は、既に充分なくらいに不愉快なんだけど………」
弄うような魔物の声音に後退り、ゲーテは顔を歪めつつもノアに向かっては深々と頭を下げ、ふわりと転移で姿を消してしまった。
「……………きりんさんを投げつける必要はなくなりましたね」
「わーお、やっぱりポケットの左手はそれかぁ…………」
「……………彼は、一族の少女の助けに応え、自らの身を犠牲にした高潔な騎士ではないか………」
低い声でそう呟いたエーダリアは、こんな提案が成されたことがショックだったらしく、鳶色の瞳に静かな苛立ちを浮かべている。
「だから、あいつは馬鹿だったんだよ。氷竜達の中には、根強い国籠りの推進者達がいる。こんな問題が起きると、これまで外に出ることを許されていた若い竜達が、一族の中で批判に晒され易くなるだろうに」
肩を竦めてそう呟くと、ダリルはきっちりと畳んでいた羽を振るった。
「ネアちゃん、アルテアには私からも話をしておくから、ひとまずあの氷竜の症状についてはまた明日にしよう。私はこれから領内の手入れもしないといけないからね」
「…………はい」
ダリルのこの言葉は、ベージを取り巻く環境がどうであれ、勝手に氷竜達と事を起こしてくれるなという牽制でもあるのだろう。
ネアは、失礼な氷竜達は滅ぼせないらしいとがっかりしつつ、頷いておいた。
「さてと、僕達もまずはリーエンベルクに戻ろうか。……………ありゃ」
「ノアベルト、ネアは俺が引き取ろう。エーダリアに付いていてやるといい」
「ウィリアムさん!」
そこに合流してくれたのは、アクス商会に出向いていた筈のウィリアムだ。
目を輝かせたネアに困ったように薄く微笑み、そちらでの交渉の結果を言葉にせずに伝えてくれた。
しょんぼりとしたネアをひょいっと抱き上げた終焉の魔物は、悲しい息を吐く力もなくなりそうなくらいに落胆しているネアの髪をそっと撫でてくれる。
「今、シルハーンがシェダーに会いに行ってくれている。彼であれば恐らくは、悪変そのものはどうにか出来る筈だ。幸いにもまだ、本人の意志は確認出来そうだからな」
「……………ふぁい」
どこからともなく吹いてきた夜の風が、ばさりとウィリアムのケープを揺らす。
今夜は不安であまり眠れないかもしれないと、ネアは微かに唇を噛んだ。
氷竜達の事情も踏まえ、何としてもベージが受けた悪変をどうにかせねばならない。
そこまでを完遂してこそ、今回の仕事がきちんと終わったと言えるのではないだろうか。
ネアは、これまでに拾ったり狩ったり貰ったりした品々を思い浮かべ、何か役に立つものがないか脳内大捜査を始めることにした。




