あわいの旅と雪白の館 2
美しい海辺でざざんと揺れる波を見ていたネア達の前に打ち上げられたのは、毛皮の桃のような奇妙な物体であった。
魔物達はぴしりと固まり、エーダリアとヒルドも呆然と見守る中、その毛皮桃はもぞもぞと動き出すと、ぴゃっと飛び上がった。
あまりにも白い魔物達の姿に驚いたのだ。
「ミュ?!」
「…………なぬ。丸まっていただけで、明らかに竜さんでした」
「ミュ?ミュミュ?!」
「…………わーお。海溝竜の一種かな」
「寝ている内に打ち上げられてしまったのかな……………」
丸くなっていたことで桃状だったらしいその竜は、ぴょこんとした小さな羽が緑色で、体は淡い桃色だ。
あまりの可愛さに頬を緩めるネアの方を見ることもなく、自分はなぜ砂浜にいるのだろうとくるくる回って大混乱の様子を見せ、慌ててじゃばんと海に飛び込んでどこかへ戻ってゆく。
「……………ぎゅわ。行ってしまいました。撫で撫でしたかったのに………」
「あんな竜なんて…………」
「とても可愛い子でしたね、ディノ」
「竜なんて……………」
「竜さんはもう海に帰ってしまったので、荒ぶらないで下さいね。それに、初めてお目にかかる竜さんでしたが、もうお会いする事もないで……………なぬ。また打ち上げられています」
「わーお、一匹じゃないみたいだぞ……………」
ごく稀に、桃毛皮な竜が砂浜に打ち上げられるのだろうと、ネアは安易に考えてしまっていた。
しかし、そんな竜が一匹どころではないことをすぐに思い知らされてしまう。
離れた位置の砂浜にも、同じようなものが幾つも打ち上げられているではないか。
「…………どうやらここは、その海溝竜が誤って打ち上げられる事の多い砂浜のようですね」
どこか呆れた様子でそう呟いたヒルドは、けれども少し安心したようだ。
せっかくエーダリアが気に入った場所なのに、得体の知れない毛皮桃が良くないものだったらと考えたのだろう。
よほど眠りが深いのか、流されても起きない竜達が打ち上げられるだけで危険がないと知り、ほっとしたに違いない。
少しだけ荒ぶったディノも、沢山の桃毛皮あらため、丸まって流されてきた竜達を見付けると、困ったような目をしてすとんと落ち着いてくれた。
「……………なぜ起きないのだ。寧ろ、一族郎党流されてきたのでは……………」
「恐らくこの辺りの土地は、とても平和なのだろうね。天敵などもいないので、あの竜達はのんびりと暮らしているのではないかな………」
「ふむ。だからこそ、ぷかぷかと波に乗り砂浜に打ち上げられてしまうまで目を覚まさないのですね…………」
とは言え野生動物としての警戒心はないのだろうかと言いたいくらいの有様だが、砂浜に打ち上げられると目が醒めるのか、慌てて海に戻って行く姿はとても可愛らしい。
となると、この呑気な竜達がこんな寝汚くて無事に生き延びられるのかが気になるのだった。
「まぁ確かに、海溝竜なら獰猛でもないから駆除しようとする者もいないし、海から離すと消えるから狩ろうとする者もいないだろうしで、かなりのんびり暮らせるのは間違いないね。ここは、比較的陸地から近いところに深い海溝があるんだと思うよ」
「……………初めて見た竜だ。海の系譜の色ではなく、あのような色合いなのだな」
「うーん、どっちかと言えば、あわいの竜種に近いかな。海の系譜でもあるけれどね。でも幼体だよ。海溝竜は成体になると岩のような外皮になって、かなり大きくなるからね」
「まぁ、もももけではなくなるのですか?」
「うん。ここがあわいの駅として残っているのって、あの竜達が成長して流れてこなくなったから、かつての情景があわいとして切り残されたんじゃないかな」
そのノアの言葉に、ネアははっとした。
(……………特別に強い魔術的な場ではないのだとすれば、ここは、もうなくなってしまった情景を残した場所なのだ……………)
そう気付けば何だか寂しいような気もしたが、ネアは、桃毛皮な竜達が無事に成長出来たのなら、それが一番だと考え直した。
どうやらここは、深い海溝に生まれた生き物達がまだ幼かった頃の、この世界がまだ生まれたばかりの頃の情景を残しているらしい。
ぐっすり寝ていて流されてしまった竜の子供達は、今はもう、どっしりとした岩のような大きな竜になっている筈であると言う。
「……………不思議ですね。その時代の景色の中を歩いているだなんて」
「ああ。…………今の時代の海では、もう見られない景色なのだろうか」
「うーん、大きな海溝が生まれたならまた派生するんじゃないかな。でもそうなると、海での地殻変動や、災厄が起きるって事だから、それもそれで問題だよね」
もももけが害のない生き物だと知り、ネア達は砂浜を歩いた。
エーダリアは綺麗な桃色の巻き貝を拾い、ネアは小指の先程の小さな結晶石を手に入れる。
柔らかな風が吹いているが、海風のようなべたつきはなく、甘い花の香りのする居心地の良い場所だ。
のんびりの散歩を楽しんでから駅舎に戻ると、ノアが時間を見ていてくれたのか、ちょうど次の列車がやって来るところだった。
列車の色は先程と同じなので、この線を走る列車は皆同じ色なのかもしれない。
しかし、開いた扉から列車に入ると、今回の列車は先程までのものとは違い、ボックス座のある豪奢な造りになっていた。
幸いにも、一部屋六人迄なので皆で一つの部屋が使え、使っている席を空ける時には、個室の扉に使用中の札をかけるようになっている。
エーダリア達は美しい個室に感動していたが、強欲な人間は、反対側の風景を見たい場合に備え、向かいの個室が空いたままであることを祈るばかりだ。
がたんごとんと、また列車が走り出す。
時折、もももけが落ちている海辺を眺めながら美しい海を見ていると、僅かな切なさと幸福感でいっぱいの、えもいわれぬ穏やかな気持ちになる。
ほうっと、満足げな溜め息を吐いたエーダリアが大切そうに手にしているのは、先程拾ったばかりの巻き貝だ。
(エーダリア様は、きっとここにまた来るのだろうな。ノアとヒルドさんが、また連れて来てくれるに違いないもの……………)
静かな静かな海が、少しずつ遠ざかってゆく。
「……………私は、幸せ者だな」
「えっ、やめて、まだ泣かせないで。まだ僕の屋敷に着いてもいないんだけど!」
「い、いや、……………では、その時にまたあらためて言う。……………だが、今日私をこの列車に乗せてくれた事に、心から感謝している。まだ中継地点にも来ていないのに、随分と早いとは思うだろうが…………」
少しだけ照れながらそんなことを言い出したエーダリアに、ネアは、照れ過ぎて顔がもしゃもしゃしている義兄と、はっとするほどに優しい微笑みを浮かべたヒルドという素敵な眺めに大満足で頷く。
エーダリアのお誕生日を忌み日に隠れて祝いたいという趣旨を思えば、これはもう計画通りの成果と言ってもいいだろう。
(次も、エーダリア様の気に入るような駅があるかしら?)
さて次はどこだろうと、ネアは車内に記された行き先案内板の次の駅名を探した。
そこに記されている駅名を見れば、否が応でも期待が高まってくる。
(次の駅がタムログレンの駅で、その次がいよいよバンアーレン……………!!)
なお、タムログレンとバンアーレンの間は山間部を走るので、駅間隔が少し長めとなるらしい。
タムログレンで後方に車両を連結するので、こちらの駅での停車時間は少し長めだ。
ネアの見ているものに気付いたエーダリアも、行き先案内板を見たのか、微かに首を傾げこちらに視線を戻す。
「タムログレン、か。どのような駅なのだろうな」
「連結のある駅ですから、きっと駅構内には売店があるに違いありません!」
「うん。タムログレンの駅は、これまでの駅よりは少し大きな駅だと思うよ」
「あら、ディノはタムログレンの駅を知っているのですか?」
「ロクマリアが、大国になる前にあの辺りにあった国の地名の一つだね。魔術的な要所だったものの、人間達はロクマリアを興すにあたって城塞都市に作り変えてしまったようだね」
「まぁ、そうしてなくなってしまったところなのですね…………」
「多分だけど、ネアは好きだと思うよ。宝石と渓流の町だ。アルテアはよく質のいい宝石の細工を持ってるから、隣駅だし、多分今もタムログレンで宝石を買っているんじゃないかなぁ……………」
「は!そうかもしれません。バンアーレンのお屋敷は、仕入れに便利なので、商談で使う事もあると話していましたから」
ネアがそう言えば、なぜかノアが考え込むような表情になる。
おやっと眉を持ち上げたネアの方を向き、塩の魔物はずっと疑問に思ってたんだけどと切り出した。
「前から思っていたんだけど、アルテアの商売って結構謎だよね。あわいに所有している屋敷での商談って事はさ、アルテアが引き受けているって事だもんね」
「言われてみれば確かにそうですよね………。もしや、取引先のご夫婦を手料理でもてなしたりもするのでしょうか?」
「アルテアが……………」
ネアの想像のせいでディノはすっかり困惑してしまい、慌ててネアの手に三つ編みを握らせてきた。
ネアも朗らかにお客をもてなしている選択の魔物を想像して何だか落ち着かなくなったので、その三つ編みをにぎにぎさせて貰う。
車窓からの景色は、目紛しく変わった。
海沿いを通って川沿いを山の方へと登って行くようだが、そこはあわいを抜ける線路らしく継続性はない。
途中で不思議な草原地を通り、一つトンネルを抜ければそこはもう山の麓の美しい森と湖の風景に切り替わった。
ポプラのような真っ直ぐに伸びた木が、湖の向こうに並んでいるので、並木道があるのだろうか。
「わ、何て鮮やかな色の湖なのでしょう。ヒルドさんの髪の色のようですね」
「緑柱石の湖に雪解け水かな。ヒルドの系譜とは少し違うのかな?」
「ええ。私の系譜は森林部の湖ですからね。こちらの湖だと、地や山の属性が強いように思えます」
「ディノ、……………あの湖のあたりで、もこもこ動いているのは何ですか?」
「モコムグリスかな……………」
「もこムグリス……………」
ネアは、それはムクムグリスとどう違うのかなと気になったが、列車の車窓からは巨大な苔玉のようにしか見えない。
(毛皮ではなくて苔に見えるけれど、実際には緑色の毛皮だったりするのかな……………)
それならふかふかしていそうだが、苔っぽい外皮であれば触るのは遠慮したい。
苔に沢山の生き物達が暮らしていることをよく知るネアはそう確信し、厳かに頷いた。
ご主人様が毛の多い生き物にご執心だと知る魔物は、ネアが暗い表情で首を横に振ると安心したようだ。
それからも幾つかの湖を通り過ぎ、ネア達の乗る列車はタムログレンの駅に停車した。
「思っていたより、可愛らしいところですね……………」
「ああ。ロクマリアの特徴的な石造りの街並みを想像していたのだが、随分と雰囲気が違うようだ」
タムログレンの駅の周りは瀟洒な木造の家がひしめき合っており、どの家の窓辺にも飾られているゼラニウムの赤い花が鮮やかだ。
木造ながらも壮麗な建物が多い事に驚いていると、家壁が光の角度できらりと光るので、もしかするとこの土地の家々は、結晶化した木で作られているのかもしれない。
町のあちこちにアーチ状の石橋がかかっていて、そこを流れる川は澄んでいてとても冷たそうだ。
草地には羊がいて、マーガレットに似た花がそこかしこに咲いている。
「み、見て下さい、ここからでも、川の中に宝石が沢山沈んでいるのが見えます!綺麗にカットされた宝石に見えるのですが、自然のものではないのでしょうか?」
ディノと訪れた歌劇の町にもこんな川があったなと思いながらそう尋ねると、ディノが、川や洞窟に住む妖精達が原石を研磨したりカットしたりして、見事な宝石にするのだと教えてくれた。
美しい宝石がきらきらと輝く川を星の乙女や月の乙女が覗き込めば、その美しさに祝福を落としてくれる。
祝福や賞賛を魔術として溜め込み、タムログレンを流れる川は周辺の土地を肥沃にしてゆくのだそうだ。
そんな話を聞いてわくわくしているネアは、突然ノアが短く声を上げたので、ぎょっとして振り返る。
「ノア……………?」
「ありゃ、ホームにアルテアがいるんだけど」
「なぬ。……………むむ、アルテアさんです!もしや、我々の到着を待ちかねて、ここまでお迎えに来てしまったのでしょうか?」
先程までの停車駅とは違い、タムログレンの駅には何人かの乗車客が待っていた。
想像する程に賑やかな駅という訳ではなかったが、乗車待ちのお客は十五人程はいるだろうか。
そしてそこに、紫がかった艶が上品な灰色のスリーピース姿のアルテアが立っている。
さすがに高位の人外者らしき人物と一緒には並べないのか、その列にはアルテアしか並んでいないので、日常の景色に紛れ込んだ人ならざるものとしての異質感が強い。
「アルテアだね……………」
「はい。…………あ、こちらに気付きましたよ。ノア、手を振ってみます?」
「わーお、僕の妹は冷酷だなぁ………」
「仕方がありませんね、ここは私が、パイのサインを送りますね」
「パイのサインがあるのだね…………」
列車が停まり扉が開くと、ネア達は自分達のボックス席に使用中の札をかけておき、扉からかしゃんと下された琥珀の階段を使ってホームに降りる。
今迄はホームと列車の扉の高さが同じであったが、この駅ではかなり段差があるようだ。
先頭車両に乗っていた他のお客達は、連結作業中はホームに降りるらしく、その殆どは、駅舎の中にある売店に向かってゆくのが見えた。
「アルテアさんです!」
「……………何だあの妙な動きは」
「あら、パイを献上して良しの手旗信号ですよ?」
ネアが澄ましてそう言えば、アルテアは呆れ顔になってしまった。
腕にかけた杖は、埋め込まれた金庫石でいつもの杖だと分かるものの、珍しく漆黒に擬態させてある。
そうしなければいけない事情があるというのではなく、帽子の黒と色合わせをしてあるのだろう。
「妙なものを作るな。それと、予想より一本遅い列車だったな。黎明白樺あたりで下車していたのか?」
「途中下車したのは、もももけ駅なんです。ぎゅっと丸まった竜さん達がいて、空と海の色の組み合わせが綺麗で、とても素敵なところだったんです」
「……………言っておくが、あの海溝竜は持ち帰れないからな?」
「………ぐぬぅ。私とて、あの可愛い竜さんを、生きられない場所に拉致するような酷い人間ではないのです…………」
「アルテア、ここで待っていてくれたのかい?」
「その必要があったからな」
聞けばアルテアは、次のバンアーレンの駅でネア達が列車を降りられるように、ここで待ってくれていたらしい。
足りない材料を仕入れに来ていたとも言うので、ノアの見込み通り、この土地で魔術道具用の宝石を購入しているようだ。
「むむぅ。さすがに全員で寝過ごす事はなかったと思うのですが、心配して下さったのですね」
「バンアーレンの扉は、俺が一緒でなければ開かないからな」
「なぬ。それは聞いていませんでした。行き違ってしまえば事故になるところだったので、事前の情報共有は徹底するべきですよ」
「列車は一日に六本しかないんだ。昼食に寄るのなら、その時刻に通るのは三本しかない。二両編成の列車でそうそうな事はないだろうが」
今回の訪問では、エーダリア達も含めて五人で伺うと伝えてある。
どうせまた誕生日が封じられたのだろうと呆れていたアルテアが、わざわざここで待ってくれていたのかなと思うと申し訳なさもあった。
しかし、どうせアルテアがいなければ列車の扉が開かないのだとしたら、最寄りのバンアーレンの駅で待っているよりも、駅舎の中にもお店のあるタムログレンの方が時間を潰しやすかったのかもしれない。
「ええと、君がいないと扉が開かないって事は、もしかして、土地全体の所有権を所持しているのかい?」
「あの屋敷の周囲には、質のいい祝福結晶を収穫する為の薔薇園もある。出入り自由にしておくのは不用心だからな」
「ああ、そういう事か。てっきり僕は、あわいの列車の経営にまで手を出しているのかと思ってびっくりしたよね」
ノアは、そうではないと知りほっとしたようだ。
あわいの列車については謎が多く、従業員達ですら自分達の勤める部門以外の事を知らないのが殆どだ。
その運営を含め、謎とされたままの部分を知ろうと調査に乗り出した者達はことごとく失踪している。
ディノ曰く、魔術の理が無意識に育てている機能の一つで、成り立ちや運営については詳しくは知らないが、あまり触れない方が良いものなのだとか。
この世界には、深い森のような不思議があちこちに点在しており、万象を司るディノですら、その全てを紐解ける訳ではないのだ。
「ところで、アルテアさん。あのお土産屋さんには何が売っているのですか?同じ列車にいた方達が夢中でお買い物をしているようです」
勿論ネアも、駅舎の中にある土産物屋にいそいそと向かう道中なので、アルテアにどんな物が売られているのかを尋ねてみた。
「宝石だ」
「……………ふむ。急いで向かいましょう」
ネアは、決して宝飾品に強い執着がある方ではなかったが、こちらの世界の宝石や結晶石はとても美しい。
ネアの中では、財産や栄華の象徴としてのものより、おとぎ話の中の魔法に近しい品物として認識されていた。
タジクーシャで宝石は沢山見たが、小さなものであればお値段も張らないので、ここは是非一つくらいお土産に買って帰ろうとネアは意気込んだ。
「連結には、発車準備を含めて半刻はかかる。駅舎の中も悪くはないが、駅前の店の方が物も値段も格段に優れている。どうせお前は何か買うんだろうから、そちらにしておけ」
「い、今すぐにそちらに向かいます!」
「っ、おい!走るな!」
「ネアが逃げた……………」
「ヒルド、私達もそちらに向かおう」
「……………エーダリア様。あなたまで走らずともいいのでは?」
「ありゃ、みんなで走るんだ…………」
このあわいの列車の線は乗り降り自由なので、駅舎の職員に切符を見せれば、入場の際にもう一度支払いをする必要はない。
その代わりに切符をなくすと支払う金額が大きくなってしまうので、紛失にはくれぐれも気を付けなければならなかった。
改札を抜けたネア達は、アルテアの教えてくれた駅舎の左向かいにある二階建ての宝石店に入る。
店の入り口にも緑青色の植木鉢が置かれ、こんもりとゼラニウムの花が満開になっていた。
「まぁ……………!」
店に入ると、ネアは驚きに目を丸くして小さく足踏みをした。
(品物がこれでもかと山積みにされていて、お店のあちこちで水晶の小箱に入った宝石がきらきらしているなんて……………)
薄暗い店の中は、教会にある見事なステンドグラスの影に立つような色に溢れていた。
そこかしこに色のついた煌めきがあるのだが、それは決して毒々しい騒々しさではない。
どこか荘厳で、けれども夜市場のような雑多さも少しだけあって、どんな品物が隠れているのだろうという期待に胸が弾み過ぎて倒れそうだ。
果たして残された時間で欲しいものを絞り込めるだろうかと焦ったネアは、苦しくなった胸を押さえて商品棚に突進する。
このあわいではアルテアも髪色を擬態していないので、突然白い髪の魔物達が三人も来店してしまい、店主は、店の奥でばたーんと倒れてしまっていた。
その様子を見ながら苦笑している店員は無事なので、お会計はそちらでしていただこう。
「…………よ、夜結晶には、こんなに色があったのですね。この、薄紫色に少しだけの灰色と澄んだ紺色の入った宝石は、まるでディノと私の色の組み合わせのようなのでお買い上げします!」
「ご主人様!」
「それから、この綺麗な檸檬色の宝石をゼノとグラストさんのお土産にしますね」
「ネア、それは私が買ってあげるよ」
「ほわ、小さな屑宝石の詰め合わせが、果物と同じくらいのお値段で売られています。これはもう買うしかないのでは…………」
ネアにとっての宝石と言えばほこりだが、山のような宝石を標本ケースに似た小箱に入れてこれでもかと並べているこのような店に来てしまえば、単純な人間はあっさり籠絡されてついついお買い物をしてしまう。
白緑色の小さな宝石を繋げて、葉っぱのリースのようにしてある小さなオーナメントを見付けると、ネアは歓喜に小さく弾んでしまい、値段を見てほくそ笑むと二つお買い上げさせて貰った。
「どの宝石も、見た事のないような美しさで、そしてとにかく安いのです。むふぅ。旅の記念に一つくらいと思っていたのですが、ついつい欲望のままに買い過ぎてしまいました」
「他にも欲しいものがあるのなら、買ってあげるよ」
「ふふ、もう、夜結晶とゼノとグラストさんへのお土産を買ってくれたというのに、まだ私を甘やかしてしまう優しい魔物には、このリース風のオーナメントを差し上げますね。私の分も買ったのでお揃いですよ」
「ネアが虐待する…………」
「聞きようによっては私がお揃いを強要する悪い人間になるので、その言い方はやめるのだ」
「ずるい……………」
しかし、ネアの買い物はまだ可愛らしいもので、魔術道具にも使える質のいい宝石の山に、エーダリアは籠いっぱいの宝石をお買い上げしていたし、ノアやヒルドは、質のいいお値段も高めの宝石を何個か購入しているようだ。
エーダリア達もほこりから宝石を貰う事も多いのだが、ほこりのくれる宝石は、希少なものばかり過ぎて魔術道具などに加工するのは躊躇われるのだとか。
となると、それ専用のものはやはり必要になる。
「……………まさか、ここまで揃うとは思っていなかったな」
「ええ。アメリアが探していた樹木と夜の系譜の宝石まであるとは思いませんでした。これで、西門の排他魔術が補填出来ます」
「僕も、この属性の宝石を買えるとは思ってなかったよ。こりゃ、いい店だなぁ」
限られた時間も即決のスパイスになったものか、求めている属性の魔術道具用の宝石を買え、全員、かなり大満足のお買い物が出来たようだ。
早速、ほくほく顔のエーダリアが、お買い上げの品物を魔術金庫にしまっている。
(そして、アルテアさんの様子からすると、このちょっと庶民派な感じの容姿ながら、でも人外者かなという店員の男性はお知り合いなのかな……………)
蜂蜜色の髪を肩口でまとめ、簡素だが質の良さそうな服装で穏やかな口調で話す男性は、ちょっと素敵な雰囲気ではないか。
感じのいい店員さんだなと思いながらじーっと見ていると、なぜか片眉を持ち上げたアルテアがこちらに歩いてくる。
おまけに、ディノからもしっかりと三つ編みを持たされてしまった。
「む?なぜ囲まれたのでしょう?」
「……………そろそろ時間だな。駅に戻るぞ」
「はい!すっかりお腹もぺこぺこなので、美味しいパイに向かって列車に乗りますね」
「何だ。アイリスの花蜜菓子や、木馬の村の蜂蜜ケーキは食べてこなかったのか」
「……………あいりすのはなみつがしと、もくばのむらのはちみつけーき?」
「……………食べなかったんだな」
「ふぎゅわ……………」
「ご主人様……………」
「ったく、屋敷に着くまでは我慢しろ」
「お、お菓子的なものは、そちらにもありますか?これはもう、お菓子を食べないとやってゆけません!」
「林檎のタルトなら焼いてあるぞ」
思いがけず停車駅に有名なお菓子があったと知らされてしまい、ネアはそんなものはお見かけしませんでしたと悲しく項垂れた。
アルテアはすっかり萎れてしまった人間の儚さに、やれやれと肩を竦めている。
頭の上にぼさりと手を乗せられ小さく唸れば、店員の男性が少し驚いたようにこちらを見ていた。
(でも、使い魔さんの林檎のタルトなら、きっと花蜜菓子や蜂蜜ケーキにも勝てる筈……………)
心の中でそんな呪文を唱えながら店を出て、駅舎に戻ると、ネアは気になっていたことをアルテアに尋ねてみる。
「ところで、あの店員の方は、お知り合いなのですか?」
「ああ。………この町で宝石の取り扱いを任せている」
「ふむふむ。柔らかな雰囲気がとても素敵な方でしたね。お店の窓近くの商品棚を見ていたお嬢さんが、明らかに恋する乙女の顔でしたよ」
「……………ほお、あの手の男が嗜好か」
「ネアが浮気する…………」
「なぜなのだ……………」
あのお店はアルテアの持ち物ではないらしいが、部下の男性を店主の元で働かせることで、探している宝石や、良い出物である宝石を、優先的に買い取れるようにしているらしい。
店には主人もいるので他の仕事で必要な時には休みも取りやすく、仕入れの際にこちらの探しているものを集中して集められるので、人件費をアルテア持ちにしても充分に元が取れているのだとか。
がっこんと連結した後続車両がネア達の乗っている車体を押し上げ、連結の金具ががちゃんと噛み合う音がした。
煙の匂いの代わりに辺りに漂うのは、魔術香炉で燃やされる香木の香りだろうか。
そろそろ発車なのでとボックス席に戻ったネア達は、ここからの登山列車感を楽しむべく、そわそわと窓の外を見ている。
ジリリとベルが鳴り、列車の昇降階段が収納され、扉が閉まった。
「……………ふぁ。楽しみ過ぎてはぁはぁしてきました。エーダリア様、きっとバンアーレンはとても素敵ですよ!」
「ああ。まさか、最後尾に雲の系譜の魔術を動力とした機関車を連結するとは思わなかった。あの、車体にも刻まれた魔術刻印を見たか?素晴らしいと言うより他にない」
「わーお、やっぱりそっちに夢中かぁ……………」
残念ながら、エーダリアはまだ列車の新しい動力に夢中のようだ。
(……………バンアーレンは、あの景色に似ているのかな)
瞼を閉じると、今もくっきりと思い出せるのは悪夢の中で見た美しい山々と湖の青さだ。
夜なのに星々の煌めきと花畑の輝きを受けて、雪化粧した山の美しさはどこまでも鮮明に見え、良くないものだと知った今も、その記憶は鮮明なまま。
魔物達はその思慕を危ぶむのだろうが、良くないものを引き寄せる程でなければ、ネア自身は構わないと思っている。
人間には、多かれ少なかれ、そのような不安定さもあるものなのだろう。
動き出した列車はすぐにトンネルを一つ抜け、小さな森を抜けるとまたトンネルに入った。
「わ……………、トナカイさんの群れが!」
そこを抜けると、周囲は雪景色に一変する。
とは言えしっかりと積もっている訳ではなく、春の手前の雪の残る景色といった感じで、木々の深い緑色と雪の白さの対比が例えようもなく美しい。
駆け抜けて行くトナカイ達は清廉な白灰色で、森の向こうには翼を広げて飛んでいる竜の姿も見えた。
雪景色となるとウィームの領域のものともなるが、この土地の纏う切り立った山々の厳しさと、どこか排他的な美しさは、同じような山々に囲まれたアルバンやシュタルトとも趣きが違う。
エーダリアも魅せられたように窓からの景色を見ていて、ヒルドとトナカイ達の属性について語っている。
ディノは、列車が揺れる度にネアがぎゅっとくっつくのでそれが嬉しいようだ。
がったんごっとんと、列車は先程までより重たい走行音を響かせ、やがて、きらきらと鉱石の輝くプラネタリウムのような洞窟を抜けると、その風景が現れた。
「…………なんて綺麗なのでしょう」
そこに広がっていたのは、何度も瞼の裏に蘇るあの夜を彷彿とさせる、素晴らしい景色であった。




