優雅なお客と失礼なお客
ウィームはお茶の時間を楽しむ文化が古くからあり、紅茶や珈琲とケーキを出す店も多い。
そんな中でも老舗のカフェと並び人々を魅了するのは、ザハのチョコレートケーキと香り高い紅茶のセットだ。
夏が終わり秋の足音が聞こえてくると、人々はそんなザハで一杯の紅茶を飲みのんびりと過ごす午後や夕暮れに憧れるようになる。
勿論、春や夏もそうなのだが、そんな時間は秋や冬にこそ好まれる傾向があるのも、ここがウィームだからだろう。
ネアはその日、一人でザハのティールームにいた。
様々な系譜の人外者達が多く暮らすウィームらしく、実はこのザハの営業時間はかなり長い。
ホテルレストランとしての役割もあっての事ではあるものの、早朝より朝食とカフェでの営業が始まり、しっかりとした食事はお昼と夜、それ以外の時間はカフェとして賑わっている。
深夜から開店までの短い時間しか休みがないのだが、朝食と昼食、そして晩餐とで担当する料理人を分け、給仕達もそれぞれの担当時間を持っている。
給仕長はなんと五人もおり、一人の従業員に負担がかからないようにしつつ、多くの従業員を抱えるからこそサービスの質を落とさず様々な種族のお客様の要求に応えられるのだそうだ。
とは言え勿論、美味しくなければお客は来ない。
一時期はその品質が低迷したと言われるザハは、見事な復活を遂げ、今日も美味しい料理やケーキを楽しむお客で溢れていた。
(ディノ達は大丈夫かな……………)
窓から通りの方を見ても、ディノ達が見える訳ではないのだが、ついつい外を見てしまうのは人間の残念なところだろう。
ディノは今、突発性の悪夢という厄介なものの顕現で席を外している。
ネアが触れるとよくないものであるらしく、経路を変えるためにその悪夢の核に介入する大仕事に挑んでいるのだ。
当初はノアがその作業を引き受けたのだが、今回の悪夢はノアとの相性があまり良くないらしい。
塩の魔物は現在、ダリルの命令でリーエンベルクの奥深くにしっかり閉じ込められている。
(でも、突然の発生予報から、発生までにかかる時間はこんなにも短いのだわ…………)
ごく稀にだが、こうして突発的に気象性の悪夢が発生する事があるらしい。
魔術異変で急変した天候が悪夢を発生させるのだと聞いたが、そこに至るまでの細かい理論はネアには少し難しかった。
とっぷりと夜も更けたような窓の外の暗さは、まだ悪夢そのものの暗さではない。
荒天の翳りの中にはまだ陽光の曖昧な煌めきがあり、窓を流れ落ちる雨の模様に、街灯の魔術の火の色が滲んでいた。
ごうごうがたがたと揺れる窓枠は祝福結晶を光らせ、ザハに敷かれた魔術の頑強さを示していた。
この祝福結晶は防壁のようなものなのだが、外部からの影響を全て遮断してしまうのではなく、こうして、がたがたと揺れる方が優秀なのだとか。
ディノがネアに施した守護についても、全ての痛みを取り払うのではなく、ある程度の影響を残している。
このような措置はやはり、高位の魔物にしか出来ないものだった。
(だからよく、中階位より低い魔物の伴侶になった人間が、守護などの為に施された魔術で心を壊してしまう……………)
魔物は伴侶を失いやすいと言うが、それは、巡り合わせが悪いだとか、魔物の気性が狭量にも程があるだとか、様々な理由がある。
その中の一つが、決して万能ではない肉体を保護する為の守護魔術なのだ。
肉体を損なわず痛みを感じなくなるのだとしても、その結果、味覚が変わってしまったり、体質に変化があったりすれば、それは確かに小さな棘になる。
あなたの為にと言うその言葉が、容易くやがていつかはあなたの所為でという憎しみに変わるのは、人間の心が弱いからかもしれない。
「こちら、宜しいですか?」
考え事をしていた時だった。
見知らぬ人の声がはらりと降ってきて、ネアは目を瞬く。
ゆっくりと窓に向けていた視線を外し、ネアがその声の主を見付けたのは、よりにもよって自分のテーブルの向かいの席だった。
ぎりぎりと眉を寄せたネアに対し、勝手に真向かいに座った男性は柔らかく微笑む。
(綺麗な人だわ……………)
柔らかな栗色の髪は肩までの長さで、緩やかな曲線を描いている。
しっかりとしたウェーブではなく、巻きが解けたようなゆるやかな曲線だが、それが女性のような美貌に映え、人間なのだろうが人外者寄りの美貌をいっそう艶やかなものにする。
上質な生地の葡萄色の上着も、栗色の髪と淡い水色の瞳に良く似合っていた。
然し乍ら、全くの見知らぬ人である。
ネアは冷ややかな目をすると、断りはしたものの返答を待ちもせずに他人様の席に座ってしまった礼儀知らずの人物を鋭く見返した。
(女性が一人で座っていたから、軽く見られているのかもしれないけれど…………)
ここがザハでなければ、ネア自身も不用心だと言われても仕方あるまい。
けれどもここは、異性に声をかけて気軽に戯れるような港町の酒場ではなく、ウィームのザハなのだ。
紳士淑女が優雅なお茶の時間を過ごす場所で、何と礼儀を欠いた行為だろう。
「宜しいというお返事はいたしておりません。席を変えていただけますか?」
「これは、気の強いお嬢さんだ。怖がらせてしまったようで申し訳ない」
くすりと微笑み、男性はわざとらしく首を傾げてみせる。
その仕草には自分の魅力に自信のある男性らしいしたたかさが透けて見え、ネアはむしゃくしゃした。
今はもう、特等の美貌を持つ魔物達を知っているし、そもそも好みではないという話でもない。
無作法な人物がそこまでの自信に裏打ちされてしまう程に恵まれている事が、かつての上手く生きられず殆どのものを持たなかったネアハーレイの欠片に刺さるのだ。
「怖いというよりは、不愉快に感じております。私は既婚者ですから、見ず知らずの男性の方にこうして相席されるのは評判にもかかわります。何の御用か存じませんが、立ち去っていただきたい」
「…………はは、ウィームの歌乞いはなかなかに気位が高い。ですが、あまり私を不愉快にさせない方が良いでしょう。これからの交渉と査定に響きますからね」
「……………査定?」
そう問い返しながら、ネアは、なぜザハの優秀な給仕達が、そしてディノがネアをここに残していけた理由であるご贔屓のおじさま給仕が、この不届き者を追い出しに来ないのか不審に思い視線を巡らせた。
すると、壁際に立ったいつものおじさま給仕が、漆黒の装いの騎士達に囲まれて穏やかではない雰囲気で話している姿が見えた。
どうやら、ザハ側としては無理な相席を注意しているようだが、ネアの目の前に座った男の護衛らしき騎士達がそれを跳ねつけているらしい。
「……………あなたは、どこかの王子様か何かですか?」
「おや、これはお見事。こんなに早く私が誰なのかを当てたのはあなたが初めてだよ」
(自分に酔っていて、他人の話を聞かないタイプだわ………)
愉快そうに笑う男性に対し、そう考えたネアは暗い目になる。
ネアとて未熟な人間であるので時として格好良く自分に酔いはするが、目の前の男性は何しろネアではないのでそれだけで腹が立つ。
そもそも、ネアは身分を当てただけで、この男性の事をさっぱり知らないのだ。
他人の話を聞かずに持っている権力を恥じらいなく幼稚に振るう無垢な程の身勝手さが、ちょっと残念な王族のようですと言いたかったが、喧嘩をしても疲れるだけなのでネアは特に何も言わなかった。
(グレアムさんは、……………良かった、気付いてくれているみたいだわ。あの様子なら、何か手を打ってくれていると思う……………)
こちらを見たグレアムが、微かに頷いたような気がしたので、きっと、この状況を打開出来るような誰かを呼んでくれるだろう。
ウィームらしい無尽蔵さで、いざとなれば助けを求められそうなお客達もちらほらと見える。
周囲のテーブルに座った領民達も、非難を込めたぴりりとした沈黙を保っているので、万が一の場合は、そちらからも助けの手が差し伸べられそうだ。
「ウィームの歌乞いと呼ばれるのは、君の事だろう?」
「それをご存知であれば、正式な申し入れの上で訪問するべきです。また、肩書きではなく私個人への訪問の場合は、きっぱりとお断りいたします」
「……………ウィームの民は皆このような感じなのか。美しい者の傲慢さは映えもするが、あなたのような凡庸さでは悪目立ちするばかりだ。似合わないのでやめるといい」
「例えばあなたが、最初の問いかけで私の返事を待つ方でしたら、相席はお断りしたものの、きちんとお話を伺ったでしょう。ですが、あまりにも失礼な方に対しか弱い女性が警戒するのは当たり前なのでは?」
「私は王子だよ。あなたの返答を必要としないだけの階位を持ち、本来ならばその無礼さを断罪する事もできるのだけれど、そこは気にならないのかな?」
心の内側を勝手に覗き込むようなべたべたとした視線に、ネアは何の根拠もなく、この人は妖精か、或いは妖精の影響を強く受けた人なのだろうと考える。
ヒルドのような清廉な気配からは程遠いが、かつて出会った藤の館の妖精の気配に似ていたのだ。
「公式の場ではない場所でそのように問われても、例えこの国の王子様であっても、失礼なものは失礼だと思うでしょうとお答えします。………ですが、こちらの国にはあなたのような王子様はいませんね」
「確かに、私はヴェルクレアの王子ではない。訪問も非公式なものだ。……………だが、この国が大陸航路や国家間の街道を開いている時点で、私の訪問は正式なものでもあるのだよ」
「……………道が繋がっていても、他所様の土地に踏み入る時にはご挨拶が必須のお立場だと思いますので、ご主張は良く分かりませんが、どうであれ、私は、あなたと向かい合ってチョコレートケーキを食べたいとは思いません」
ここで男性は、ネアが、これからザハ名物の一つでもあるチョコレートケーキを食べようとしている事に気付いたらしい。
ふっと微笑みを深めると、どこか嘲るような美しい微笑みを浮かべた。
「王族への謁見の作法を知らないようだが、私も私用で来ているから許してあげよう。…………ただ、これから私が話そうとしているのに、食事を始めるのはいただけないな。そのケーキは下げさせよう」
この瞬間、目の前のお粗末な王子は、残忍で冷酷な人間の逆鱗に触れてしまった。
言われた事を理解する為にゆっくりと瞬きをし、ネアは可愛らしく微笑んで、水色の瞳の王子を凝視する。
けれど、どれだけその眼差しに怒りを込めても、やはりネアは、可動域もさして高くないか弱い乙女に他ならず、その眼差し一つに込められた威圧感という意味では目の前の男性に分があった。
何しろ彼は王子であるらしいし、そのような意味に於いては大きな力を持ち、また、その権力を管理出来ているだけの実力もある人物なのだろう。
(この人は絶対に生かして帰さないけれど、………切り出されようとしている話を聞きたくないのは、知るという事は知られるという事だから。用件を、一人で聞く羽目になるのは避けたいわ……………)
この失礼なお客がどのような用件を持ち込むにせよ、それを聞いてしまえば、ネアは無関係ではなくなる。
聞いてしまった側が理不尽に巻き込まれる危険を避けようという配慮など、この王子には出来ない筈だ。
もう一度、給仕姿のグレアムの方を見たが、黒衣の騎士達と何やら険しい顔で話をしている。
この時間は、グレアムが給仕長にあたるので、ザハの給仕としての立場でも、無作法をあらためるよう、しっかりと話をしなければいけないのだろう。
その時、カランと、ザハの扉にかけられた祝福結晶と夜樫の災い除けが鳴った。
かつかつと上等な革靴でエントランスの床を踏む音がして、ゆっくりとネアの席のある部屋に入ってきたのは一人の背の高い男性だ。
グレアムが騎士達の間をすり抜け、話の途中でその場を離れた給仕に剣呑な気配を纏う騎士達を鋭い一瞥で黙らせると、入ってきた男性の雨除けのコートを受け取り、優雅にお辞儀をする。
(あ、……………)
そのお客が誰なのかを知るのと同時に、ネアは、一人のお客がエントランスの床を踏む音が聞こえるくらいにザハの中が静まり返っている事を奇妙に思った。
はっとして窓の方を見れば、いつの間にか窓の外は漆黒の闇に塗り潰されていて、気象性の悪夢が落ちてきている。
既に、悪夢が落ちてきているのだ。
であれば、そんな中をこのお客は歩いて来たのだろうか。
そしてザハは、一時間程度で晴れる予報の悪夢に備え、残ってお茶をしてゆくというお客達を守る為にも、エントランスは遮蔽結界でしっかりと閉ざしておいた筈なのだ。
それを崩さずに店内に入れるともなれば、それはもう、高位の人外者しかないだろう。
そんな優雅なお客の漆黒の装いは、同じ黒を纏う騎士達をばっさりと切り捨てるような艶やかさで、本当の黒の美しさはこうであると体現するよう。
ネアの目の前に座った王子の護衛なのだろう騎士達は、装飾的な鎧の形状や長いケープといい、恐らくは近衛騎士なのであろう美麗さであるのに、圧倒的な落差と言っても良かった。
「……………誰だこいつは?」
ネアのテーブルの横に立ち、失礼なお客を見下ろした黒衣の男に、王子だと告げた男が微かな苛立ちを見せて顔を上げ、そのまま言葉を失った。
よりにもよってそのお客は、かけたリボンまで漆黒のトップハットの下の髪を、擬態もせずに白い色のままにしてきたのだ。
首元のクラヴァットや腕にかけた杖も、雪のように白い。
がしゃんと音がしてそちらを見れば、目の前を歩いた男の髪色に気付いてしまったものか、騎士の一人が床にへたり込んでしまっている。
「知らない方なのです。突然にその席に座ってしまい、どのように言ってもどいてくれません」
「ほお、これまで特別に悪い評判は聞かなかったが、ドーレントの王子は礼儀すら知らないのか」
嘲るようなその言葉にひゅっと喉を鳴らし、王子は、ここでやっと蒼白になった。
ネアにも経験があるが、高位のもの達の絶望にも似た隔絶の向こう側の美貌には、目にした一瞬をぴたりと止めてしまう強い力がある。
まるで時が抜け落ちるような空白の後に、残酷な程の冷淡さで心をずたずたにする獰猛さや、自分とはまるで違うものだと感じる冷たさは、ネアがこの世界で初めて知った怖さの形だろう。
「……………っ、申し訳ありません」
がたたっと椅子を浮かせて音を立てて、水色の瞳の王子は転がるようにして席を空けた。
ここで呆然としてしまわず、アルテアの立ち位置を見て席を空けられたその判断力に、ネアは、なかなか油断のならない相手だったのだという事を理解してひやりとした。
(エーダリア様でも、ディノを見た瞬間は倒れてしまったくらいなのに……………)
あの時はきゅっと胸元を押さえて倒れたので、その美しさに心奪われた瞬間でもあったのだろう。
けれども、その大半の要因は高位の魔物への畏怖であったのだと、今のネアなら理解出来る。
それなのにこの王子は、明らかに不機嫌な高位の魔物に、ザハにいる他のお客達のように何らかの方法でその精神圧を軽減されてもいないのに、よろめくだけで耐えてみせた。
よろけたついでに隣のテーブルに体が当たりそうになったものの、それを回避し、騎士達の方へ退くだけの判断力も残している。
さらりと触れたのは、アルテアの手だろうか。
頭を撫でられほっとしたネアに、きっと、いきなり呼び出されたに違いない選択の魔物は、器用に気配だけで微笑んでみせた。
「フォークがおかしな握り方になっているぞ」
「…………む。いつの間にか、敵を刺す用の握り方になっています…………」
邪魔者を追い出し無言で空いた椅子に座ったアルテアは、艶やかな赤紫色の瞳を眇めると、白手袋に包まれた指を持ち上げ、給仕長を呼ぶ。
ゆっくりとこちらに歩いて来たおじさま給仕は、心得たように銀色の刷毛のようなものを取り出すと、テーブルクロスの上をさっと掃いた。
きらきらと魔術の光の粒子がきらめくのは、テーブルクロスを染み一つ皺一つない綺麗な状態に整えるよう添付された魔術が動いているからだ。
あの王子が手を乗せた場所を、綺麗にしているのだ。
珍しく夜霞と薔薇影の珈琲を注文し、アルテアの視線が漸くこちらに向く。
「何もされていないな?」
「はい。幸い、肉体的に危害を加えられるような事は、ありませんでした。強引に相席され、何らかの査定をするのだと高圧的に接されたくらいです。……………ですが、とても不愉快な方でした」
「成る程。あの国は、それなりに出来のいい王子が他にも居たはずだ。一人欠けてもさしたる影響は出ないだろう」
しかし、霜が下りるような声でそう言ったアルテアに対し、異論を唱えたのはまさかのその本人であった。
「……………お待ちいただきたい。私は、彼女に側妃としての寵を与えようとしただけです」
そして、当事者であるネアもびっくりのおかしな主張を始めるのだから、こちらの反応が遅れたのは致し方ないことだろう。
訝しげにこちらを見たアルテアにぶんぶんと首を横に振ると、ネアは身の潔白を主張した。
「初めてお会いした方ですし、勝手にお向かいに座った理由も初めて知りました」
「お前に、寵を与えようとしていたらしいぞ?」
「既婚者を側妃にと望むことが馬鹿げていますし、心からお断りいたします。早くお国に帰って下さい」
「その王子の国は、国を守る妖精達との婚姻を結ぶ者が多いことで、重婚の制度があるからな。問題はないと判断したんだろう」
そう微笑んだ選択の魔物の美貌は、仄暗くぞくりとするような凄艶さがある。
人間を破滅させる為の問いかけをする人ならざるものらしい微笑みに、ネアは、だからと言って許容するものではないとひらりと片手を振った。
手にフォークを持ったままだが、これは、もう安心してチョコレートケーキを食べられると判断したからだった。
「それぞれの国に様々な文化があるのは当然ですが、それを、こちらも勝手に理解するだろうと考えられるのはとても不愉快です。誰かの振る舞いや主張に自由があるのはたいへん良い事ですが、その主張を他者に向けたいのであれば、共有する為に相応しいものでなければなりません」
「言葉を尽くして望まれれば、それに答えると?」
「私にとっては不愉快なばかりのものですが、そもそも、用途に応じての言葉を選べもしないだなんて、ただの礼を欠いた愚か者ではないでしょうか」
ぴしゃりとそう言ってのけたネアに、アルテアがふっと微笑みを深くする。
一人の可憐な乙女として、王子からの求婚に浮かれるとでも思われたのだろうか。
まるで勧めるような声音で話しかけられ顔を顰めたネアに対し、よく出来た愛弟子を労うような表情を向け、瞳だけを動かして、騎士達の前に立ち果敢にも公爵の魔物に話しかけた一人の王子を美しい瞳に映した。
「お前が望まなければつまり、それは、俺の領域を侵したことに等しい。……………妖精との婚姻を城塞代わりにしているようだが、魔物の障りとどちらが残るだろうな?」
「……………っ、………あなたの気に障るようであれば、勿論、私は引き下がりましょう。国の繁栄の為にある程度真っ当な魔物を使役する歌乞いの側妃を探していただけで、それは彼女である必要はありません」
「ほお、であればなぜ、こいつに目をつけた?」
静かな静かな問いかけに、水色の瞳の王子は、それならばと微笑んだ。
ここでもまだ怯えるばかりではないのだから、王子として、相当な経験を積んでいるのだろうか。
有事の際にも動じないようにと教育を受けているのかなと首を傾げたネアは、そればかりではない微かな歪みに眉を寄せる。
(まるで、……………心が、少しだけ歪んでずれているような……………)
そう考えかけて、ああ、これが妖精だと得心する。
妖精にも様々な種族がおり、霧雨の妖精達やダイヤモンドダストの妖精、或いはディートリンデのように、このような侵食の暗さと歪んだ身勝手さを感じさせない種族も多い。
だからネアは、何度もグリシーナの藤の妖精達を思い出し、あのような気質の妖精と深くかかわっている者特有の気配なのだろうかと推理してみた。
「……………彼女は、素手でカワセミを狩れますからね。私の国は森や川が多く、毎年のカワセミの被害もそれなりのもの。契約の魔物を使い国に貢献させ、尚且つカワセミの駆除を出来るのであれば申し分がない」
しかし、王子がそんな理由を真面目に語ると、なぜかアルテアは遠い目をするではないか。
ネアは、そう言えば昨日、街に迷い込んだカワセミを捕まえたかなと、狩りの女王としての力量を認められた上での事だったかとほんの僅かに溜飲を下げたものの、それでもこの王子は好かないと結論を出し、長らくお待たせしているケーキに向き合う。
そして、思い出した。
「……………そう言えば私は、そこにいる王子めを生かして帰さないと誓ったのでした」
「……………は?」
「アルテアさんが来てくれた事ですっかり安心してしまい、危うく忘れるところでしたが、滅ぼして山に埋めるか沼にでも沈めるつもりだったのです。いけませんね、うっかりケーキに夢中になっていました」
やれやれと首を振り、小さく苦笑してネアが立ち上がろうとすると、伸びてきた手がわしりと頭の上に乗せられる。
今回は撫でる為ではなく、ネアを椅子に押し付ける為だ。
「何もされていなかったんじゃないのか?」
「その方は、私からこのチョコレートケーキを取り上げようとしたのです」
「………は?」
「私が狩りの女王だと知っての狼藉であるので、であるならばいっそうに滅ぼすしかありません。ふむ。きりん箱でいいでしょうか……………」
「おい、やめろ。妖精の伴侶にお前が迂闊に手を出すな」
「なぬ。きりん箱にぽいして、沼にぽいでいいではないですか。愚かな振る舞いに相応しい報いです」
ネアが大真面目にそう言えば、アルテアは、低く呻くと片手を振った。
じゃりんと、耳慣れない硬質な音が響いたのはその直後だ。
鉱石の表面に刃を滑らせるようなその音に、眉を寄せたネアは、はっと息を飲む。
そこにはもう、先程の王子はいなかった。
漆黒の装いの騎士達も全て消え失せ、艶々とした黒い箱がぽつんと置かれているばかりだ。
突然の事に呆然とそちらを見ているお客達や給仕達の中を、いつものおじさま給仕が優雅に歩いてくる。
床の上の箱を見て淡く苦笑すると、アルテアの前に美しい仕草で湯気を立てている珈琲を置いた。
白い珈琲カップは優美で繊細で、珈琲の水面には僅かに夜の気配が揺れる。
「あの箱はどういたしましょう?」
「直接触れなければ問題ない。店を出る時に持って帰る」
「かしこまりました。では、こちらでお預かりしております」
「少し重いぞ」
「おや、では力のある者に運ばせましょう」
そう微笑み、ちらりと後方を見ると、一人の給仕が真っ白なナプキンで包み箱を持ち上げると、どこかへ運んで行った。
「お怪我などはございませんね」
柔らかな声が今度はこちらに向けられ、ネアは微笑んで頷いた。
「はい。うっかりこちらのフォークで戦ってしまう前で良かったです」
「先程は、すぐにテーブルにお伺い出来ず申し訳ありません。ご不快な思いをさせてしまい、また、ご不安な時間を過ごさせてしまったのは、我々の不徳の致すところです」
「いえ、あちらで騎士さんに囲まれてしまっていましたものね。こちらこそ、場所を変えるなどの事が出来ず、せっかく皆さんがお茶を楽しまれているところで、お騒がせしてしまい申し訳ありません」
ネアがそう言えば、勿論グレアムは微笑んで首を横に振ったし、何人かのお客達から、あの王子達が横暴であったのだからそんな事はないだとか、一人で怖かったでしょうと労って貰ってしまった。
「これに懲りず、また当店をご贔屓にしていただけますと、幸いです」
「まぁ、いただけるのですか?」
「ええ。宜しければお使い下さい」
ネアに渡されたのは、ランチかお茶が無料になるザハのギフトカードだ。
記された人数によると、三名まで使える。
「アルテアさん、今度、ディノと三人でゆっくりお昼を食べに来ませんか?」
「ったく……… 」
「ふふ、秋のメニューがそろそろ出揃いますものね。楽しみです!…………じゅるり」
一礼して立ち去る犠牲の魔物の仮の姿を見送り、ネアは、あらためて、お待たせしましたなチョコレートケーキに向き直る。
他のお客についても、珈琲か紅茶のお代わりか焼き菓子を一つ無料でどうぞと声がかけられており、ティールームは途端にほのぼのとした空気に包まれた。
「…………なんだ?」
「ふふ、その髪色のアルテアさんと、お外でお茶をするのは初めてですね」
「厄介な奴に目をつけられやがって。ザハがあの客を隔離している間に、よりにもよってお前がここにいるのは何でなんだ」
「なぬ。あの失礼な方々は、ザハに滞在していたのですね」
「もしも捕縛の上で国外に放り出すと決まっても、ザハ以外の施設では対応が出来ないからな」
「元々、少し厄介な方々だと思われていたようです…………」
「あの王子は、魔術師としての力量もそれなりだからな。商人として、まんまとガーウィンの国境を越えたことで、国としても警戒対象にしていたらしい。………まぁ、これで俺はいい素材を手に入れられたようなものだ。あの王どもとて、統括の魔物の障りに触れた獲物を欲しがりはするまい」
「むぅ。とても悪い顔をしていますが、アルテアさんが来てくれてとてもほっとしたので、あんな失礼なお客のことなどぽいです」
フォークに刺したチョコレートケーキをぱくりと食べると、ネアは幸せな甘さにうっとりした。
しかし、お客達のテーブルに、サービスの飲み物や焼き菓子が届き始めると、ネアは少しだけそわそわした。
まだまだ悪夢が晴れるまではここを出られないし、今はチョコレートケーキを食べているので、いただくのは、紅茶のお代わりにしたのだ。
オーダーを取っている様子はなかったので、いつの間に頼んだものか、或いはグレアムが勝手に選んでしまったのか、アルテアのところには木苺とホワイトチョコレートの焼き菓子が届けられ、アルテアは無言でネアにその焼き菓子をくれた。
「まぁ、いいのですか?」
「珈琲だけで充分だからな。それから、お前はいつになったら、素直に俺を呼ぶようになるんだ」
「むぐ。………今回は、まだこのテーブルから追い払おうとしていただけでしたのと、悪夢の事もありましたし、おまけにここには頼もしい方々がいましたので誰かを呼ぶのをすっかりさぼっていました」
「……………方々?」
眉を寄せたアルテアに、ネアは、視線で音の壁はありますよねと確認をし、安心させて貰うと、本日のザハのお客達の説明を始めた。
「はい!あの奥のテーブルには、擬態しているミカさんがいますし、斜め向かいのテーブルの方々は、エーダリア様の会の魔術大学の先生方です。こちらのお部屋ではないのですが、壁を挟んで向こうのお部屋にはバンルさん達もいて、実は今日は、エーダリア様の会の方々の交流会でもあったのだとか。だから皆さん、アルテアさんを見ても動揺されないのですよ」
だからこそディノは、ネアをザハに預けたのだ。
勿論、本来ならリーエンベルクに帰るのが一番安全なのだが、今回の悪夢は、よりにもよってリーエンベルク前の並木道に発生し、そこから街の方へと流れてくる経路であった。
転移を踏んで、もし、発生する瞬間の悪夢を跨ぐと宜しくないと言うことで、ネアはこちらに一時避難となっていたのた。
ザハのお客達を見回し、アルテアは半眼になる。
二つの会の交流会の日だったかと呟いているので、どうやらエーダリアの支持者達以外にも、会として集まる者達がいるらしい。
「シルハーンは、悪夢のところか?」
「はい。今回の悪夢は、魔術異変から発生したものなので、鎮めの儀式が必要なのだとか。私がそこに触れると良くないようなので、こちらに経路がかからないようにしてくれているのだそうです」
「原因になっているのが、ムゲの教会の崩落事故だからだろうな」
「ディノの話していた、女性の方の避難所だった教会の事でしょうか?」
ネアがそう言えば、アルテアは頷いた。
何らかの理由で、恋人の家や嫁ぎ先などから逃げ出した女達の隠れ家として、ムゲの教会はある。
どのような時代でも必要な施設の一つであるが、そこが昨晩、大規模な崩落事故で倒壊した。
その結果、気象性の悪夢が発生したのだから、開設からこれまでの四百年で教会に溜め込まれた女達の思いがどのようなものだったかは、推して知るべしと言うところだろう。
リーエンベルクからも、今回の悪夢には、結婚したての幸せな妻達と、妻や恋人達と上手くいっていない夫達は決して触れてはならないと注意喚起がなされ、ウィームは厳戒態勢に入っている。
「この悪夢は、少し長引くだろうな。顕現したばかりの悪夢が定着したら、リーエンベルクに連れて帰ってやる」
「………まぁ、それが出来るのですか?」
「俺には、ドーミッシュから得た資質がある。それに、悪夢の発生元の教会も、契約という、選択の後に結ばれる魔術に属するものだ。今回の悪夢は俺の領域に等しいな」
悪夢が長引くのは心配だが、リーエンベルクに帰れるのであれば、経路がネアの居場所にかからないようにと奮闘しているディノも一安心だろう。
今暫くはここから動かない方がいいようなので、ネアはディノへのカードにアルテアの話してくれた事を書くと、やっと戻ってきた穏やかな時間を楽しむべく、すっかりなくなってしまったケーキの代わりに、使い魔から献上された焼き菓子を美味しくいただいたのであった。




