夏休みとしつけ絵本の逆襲 4
夕刻になると、けぶるような青さが湖畔に立ち込め、澄んだ水を湛えた湖はえもいわれぬ青さに染まる。
昨晩に星の光を沢山浴びたせいか、今夜の湖の色合いは青銀に煌めいていた。
心なしか、湖面に映った星空は賑やかでチカチカきらきらと瞬いている。
星の色を帯びたせいか昨年に釣りに出た夜の湖とは色相が変わり、それでも透明な透明な青い水を重ね深みを増してゆくような美しさは相変わらずだった。
そんな湖に浮かんだ紫水晶の船の影が落ちれば、湖の底を泳いでゆく白銀の煌めきが見える。
初日にネアが見た浅瀬の部分に咲いている白い花は、湖の中に咲く湖底薔薇と呼ばれるもので、星の光を糧に育つ水草の一種なのだそうだ。
「見て下さい、船で湖面が揺れると、湖の色が複雑に混ざり合って、色が変わるんですよ」
ネアが微笑んでそう言えば、こちらを心配そうに見ていたディノがこくりと頷いた。
(あ、……………)
咎竜の時もそうだったが、この魔物はネアが受けた傷や恐怖をひたむきに観察し、おろおろしてしまうようなところがある。
そしてそんな時、この魔物は例えようもなく美しく、そして悲しそうに微笑むのだ。
ほろりほろりと取りこぼす、無垢な喜びや安堵とは違い、この魔物が悲しむ時には胸が潰れそうな程に清廉で美しく見える。
なのでネアは、そんな魔物にこつんと小さく体当たりしてやった。
「…………ネア?」
「こんなに美しい湖なのです。私は、ちっとも怖くありませんよ?」
「…………うん。君が怖がっていなくて良かった」
「あらあら、私の大事な魔物はとても心配性ですねぇ」
「…………人間は、……」
ふっと珍しく言葉を途切れさせ、水紺色の瞳を揺らしたディノに、ネアはおやっと首を傾げる。
じいっと見つめれば、ディノは少しだけ途方に暮れたようだ。
「さては、どこかからまた、おかしな事例を持って来てしまいましたね?」
「…………そうなのかな」
「不安な事があれば、私に話して下さいね。なお、水辺はちっとも怖くありません。私が恐れているのは、今年も月光鱒が釣れない事だけなのです…………」
ここでネアの声がぐっと低くなったからか、慌てたディノはどこからか取り出したギモーブを、さっとお口に入れてくれる。
これが普通の釣りなら、生き餌を触った手でやめていただきたいと願うところだが、月光鱒の餌は良質な水晶の歯車なので、潔癖症ではないネアは何の支障もない。
どうやらディノの手元にアルテアが補充しているらしいギモーブを、美味しくもぎゅもぎゅする。
「シル、包丁の言うことなんかより、ネアと話をした方がいいよ。それと多分、ネアが後退りしたのは水じゃなくて睡蓮が暴れたからじゃないかなぁ」
「…………ノアベルト」
この時、ネアはこれまで一度も疑問に思わなかった事にきっと偶然触れたのだろう。
そして、包丁と呼んだノアの口調にほんの僅かな苛立ちが覗かなければ、これからも気付かないままであったのかもしれない。
(もしかして…………、ノアは、包丁の魔物さんが嫌いなのかしら?)
ほんの僅かな疑念と躊躇いが揺らぎ、けれどもネアはこの場で触れるのはやめようと気持ちを切り替える。
気付いてしまった疑念に対し問いかけるのは、これからのいつだって出来るのだ。
ノアの言葉に瞳を揺らしたディノがこちらを見たので、ネアは、敢えてどんな懸念を持ったのかを尋ねず、こちらの状況を説明することにした。
「…………そして、ノアの言う通り、私は葉っぱの上で宴をする毛玉妖精達に怒り狂った、怒れる睡蓮さんを避けようとして後退したのです。…………しかし、残念ながら惨事は避けられませんでした………」
「………………………釣りの間くらい、お前は事故らずにいられないのか」
「この通り、葉っぱを大きくひっくり返した睡蓮さんの癇癪により、水飛沫を浴びたアルテアさんは水棲の魔物さんになっています」
「アルテアが…………」
さっと水飛沫を避けたネアを庇おうとしてくれたからか、アルテアは暗い目をして顔からぽたぽたと水を滴らせている。
ネアは、我慢が限界に達しそうにわなわなと震えている睡蓮を見付けてしまい、慌てて避難したのだが、怯えるように後退したネアを見た事で、ディノは水櫃の事を思い出したのかと心配してしまったらしい。
金庫からふかふかタオルを取り出し、無言で慰謝料を請求するようにこちらを向いた使い魔の顔を拭いてやりつつ、ネアは、大事な魔物に頷きかける。
尚、アルテアが魔術で顔をさっと乾かさずににタオルで拭かれているのは、釣りの為に魔物達が気配を抑えた状態でいるからだろう。
「睡蓮の近くだと、食いつきが悪いだろうな。もう少し船を左に進めるか」
「昨日の星返しで、湖の中に星の光の餌がいっぱいある状態なんだよね。湖面の星の光に負けないように、歯車を光らせないと寄ってこないかなぁ…………」
「ディノ、ここに針を引っ掛けて、くるっとですよ?」
「……………くるっと」
「ふふ、昨年の事なのに案外覚えていてびっくりしました。針を引っ掛けてからくるっとさせるのが、意外にコツがいるのですが、慣れると楽しいですよね」
「お前は、もう二度と棘牛は釣るなよ」
「ぐぬぅ……………」
湖面を揺らす夕の穏やかな風に、水面に降り積もった星の光がしゃわりと揺れる。
細やかな光の粒子になって少しだけ風に乗り、星の光を帯びた風が、湖畔で待つヒルドの方に流れてゆく。
湖の周囲には森の影が落ち、柳の枝が水面にかかり風に音を立てていた。
奥の方にある木立の中に満開に咲いている白い水仙に見えるものは、銀色の星椿なのだそうだ。
船に乗る前に見に行ってみたのだが、金木犀のような甘い香りがして、触れるとリーンと小さな風鈴を鳴らしたような音がした。
芳しく美しい夜の空気を吸い込んだネアが、穏やかな夜の入りの景色をのんびり楽しんでいると、驚くべき声が上がった。
「……………お、かかったぞ。ここがいいみたいだね」
ぐりんとそちらを振り返ったネアの目に映ったのは、見事な月光鱒をバケツに入れているノアの姿だ。
勝ち抜けたノアのまさかの早さに呆然とし、ネアは、ぎりぎりと眉を寄せる。
「………ノアは、もう釣れてしまったのですか?今年こそはと一番を狙っていたのに……………」
「言っておくが、お前の昨年の結果は、宝箱と水棲の棘牛だけだからな」
「あら、今年の私は一味違いますよ?華麗に月光鱒を釣り上げ、一番大きな獲物を披露してみせます!」
(負けてはいられない…………!)
船の位置を変えたりもしていたので、まだ竿を下ろしてもいなかったネアは、勇ましく準備を進めた。
綺麗なバケツに入った歯車は、星の光を帯びた湖に翳すとぼうっと青白く光り、そんな歯車をつけた釣り糸をぽしゃんと水に落とせば、この湖本来の色である美しいエメラルドグリーンの波紋が広がる。
しかし、船を動かしたことでいい場所に当たったのか、その後、エーダリアとアルテアも続けて釣竿を揺らしているのに、ネアの釣竿には一向に動きがない。
じっと自分の朝露の釣り糸を見たが、まだ湖面に浮かんだ赤い羽根の浮きが動く様子はなさそうだ。
おまけに、隣で釣り糸を垂らしているディノの羽まで、わすわすと揺れ始めたではないか。
少しだけ悔しいような気もしたが、この湖で月光鱒を釣り上げる迄、釣りにいい思いのなかったらしいディノについては、特別枠としよう。
「ディノ、お魚がかかったようですよ」
「うん。釣り上げてしまおう」
「……………ほわ」
基本的に、魔物達は一度覚えた事はそうそう忘れないのだろう。
ディノは、いつの間にか会得していた華麗な釣竿捌きで、大きな月光鱒を釣り上げた。
アルテアのような鮮やかな手つきでバケツにそのまま入れられた月光鱒は、ぴしゃんと小さな水を跳ねさせたくらいで、釣り針と歯車も簡単に回収してしまう。
時折、大きな月光鱒だと歯車を飲み込んでしまうが、基本この歯車は使い回しだ。
「やはり、こうして見ると綺麗なお魚ですよね。………じゅるり」
「湖に星の光が集まっているから、月光だけではなく、星の色も帯びているようだ。………ほら、尾の部分に銀色の斑らがあるだろう?」
「まぁ、ほんとうです!月も星もだなんて、贅沢な彩りで、美味しそ……綺麗ですね!」
「ご主人様…………」
月光鱒は、月光から育まれ生まれる魚だ。
むっちりとした立派な体には、背びれとお腹の部分に月光を蓄える檸檬色の筋が入っている。
美味しいだけではなく香りも良い魚なので、ウィームでも高級料理店に並ぶ季節の味覚だ。
月光鱒が美味しいのは夏から秋にかけてであるが、この夏の終わりの時期のものが最も美味しいとされる。
夏休みが遅れて始まったことで、今年はそんな最も美味しい時期の月光鱒が食べられるのだった。
「…………む!」
そして、ここで漸くネアの竿にも動きが出た。
慌てて釣り糸を巻き上げていると、湖の中に銀色の影が見えたような気がしたネアは、唇の端を持ち上げる。
狩りの女王ともあろうものが、二年連続で月光鱒を釣り上げられないなどという不名誉を拝する訳にはいかない。
このあたりで素晴らしい獲物を釣り上げて、皆に讃えられてみせよう。
「つ、釣り上げました!少し小さめですが、月光鱒です!!」
運命はそんなネアを見放さなかったらしい。
悲願の月光鱒を釣り上げ、ぱっと笑顔になったネアが振り返ると、なぜかアルテアとノアが何やら議論している。
びちびちと跳ねる魚を掲げたネアを見て、アルテアは呆れたような目をこちらに向けた。
「まだ小さいな。それは食べられないぞ」
「……………ちびこくても、これは立派な月光鱒です。美味しくいただきますよ?」
「本来、その大きさの月光鱒は、歯車を食わない筈なんだがな。よほど意地汚い幼魚だったんだろう」
「ち、小さくても、お料理の方法によっては美味しくいただけるのでは……………」
「ありゃ、食べる気満々だなぁ。…………ええと、ネア。月光鱒は背びれにも檸檬色の筋が入らないと、苦くて食べれないんだ。残念だけど、今回の獲物は湖に戻そうか。それとも、苦いけれど試してみる?」
「……………ぎゅわ。……………美味しくない魚など、ぽいです」
「うん。お兄ちゃんが手伝ってあげるよ。でも、これでもうネアも月光鱒を釣った訳だから、次は大きな獲物が釣れるんじゃないかな」
「……………ふぁい」
こうして、ネアの最初の釣果は悲しくも湖に帰ってゆき、不完全燃焼のまま夜樫の椅子に座った人間が、再び釣り糸につけられた赤い羽根を睨む時間が戻ってきた。
しょんぼりとしたネアに、ディノは、ご主人様の為に美味しい月光鱒を釣り貯めておくのだと張り切ったらしい。
そちらのバケツにはもう、立派な月光鱒が三匹も入っている。
エーダリアは、釣りが得意なのか既に目標の五匹を釣り上げてしまい、アルテアとノアも四匹目がバケツに入っていた。
「ず、ずるいです!どうしてエーダリア様の釣竿には、さっと月光鱒がかかるのですか」
「いや、私も急いで釣れるように、魚の群れを狙って歯車を落としたからな。幸い、お前の釣竿にはまだ水棲棘牛はかかっていないようだが、あれがかかると釣りどころではないだろう」
「…………おのれ。なぜ、私が水棲棘牛を釣り上げる前提なのだ」
しかし、そんなやり取りをしていると、もう一度ネアの釣り糸の赤い羽根が揺れた。
はっとしたネアは慌てて釣竿を持ち上げ、糸を巻き取り始める。
四匹目を釣り上げたところのディノが心配そうに覗き込んだが、ふっと星の光を映した水紺色の瞳を緩め、微笑んでくれた。
「大丈夫、かかっているのは月光鱒だよ」
「……………本当ですか?その、……………食べられる大きさでしょうか?」
「うん。大きいのではないかな。強く引かれるから、無理をせずに手伝って貰うといい」
「む。隣にはもう、網を持ったアルテアさんが待ち構えています」
「やれやれだな。逃さないようにしろよ」
ネアは、引き上げの状況をアルテアに見て貰いながら、最後は網でひょいっと掬い上げて貰う方式で、その月光鱒をようやく釣り上げる事が出来た。
釣り針を外されネアの空っぽだったバケツに入ったのは、ディノの釣り上げたものよりは幾分か小さいが、それでも立派な月光鱒だ。
ぜいぜいしながらそのバケツを覗き込み、ネアはむふぅと満足の微笑みを浮かべる。
たいへん残酷なことだが、これはもう塩焼きにしたら美味しいに違いないと、喜びに小さく弾んだネアは、手伝ってくれたアルテアにお礼を言うと、いそいそと次の歯車を針に通して湖に落とす。
(次は、もっと大きな月光鱒がかかるといいな……………)
そう考えてわくわくしていれば、すぐにまた、赤い羽根が揺れて何かが餌に食いついたことを知らせてくれる。
まだ一匹釣り上げただけだが、ネアは、さもこちらは釣り名人であるという優雅な手つきで釣竿を手にすると、二匹目の月光鱒はどんな風に料理して貰おうかなと思いながら、糸を巻き取り始めた。
「……………むぐ」
しかし、糸を巻き取り始めて、ネアはすぐに異変に気付いた。
明らかに先程より獲物が重く、ぐぐぐっと抵抗する力も強い。
だが、何よりも気懸りなのは、その動き方であった。
魚のように泳いで暴れる生き物ではなく、踏ん張って糸を引っ張っているような、そんな手応えではないか。
内心とても慄きながら懸命に釣竿を支えていると、横から手を伸ばしたディノが一緒に支えてくれる。
へにゃりと眉を下げたネアに微笑んだ魔物は、後ろから手を伸ばしたもう一人の魔物に小さく頷いた。
「アルテア、見てあげてくれるかい?」
「今度の月光鱒は、湖底にへばりつく系です」
「……………ったく。貸してみろ。今度は何を釣り上げたんだ」
「月光鱒です。……………月光鱒でしかありません」
「ほお、この妙な糸の引き方でか?」
「…………よし、僕がこれまでに釣った月光鱒は、川岸に移動させておくよ。さすがに船は転覆しないだろうけど、もしとんでもないものがかかっててあばれると、折角の僕たちの晩餐が湖に落ちるかもしれないからね」
「か、かかったのは、月光鱒です……………ぎゅ」
ネアは必死に弁明したが、大きく船が揺れた時の為にと、ネアが先程釣り上げたばかりの月光鱒も一緒に、ノアに岸に避難させて貰うことになった。
確かに昨年の水棲棘牛事件では船がびゅんとなったが、今年はまだ、この糸の先にいるのが月光鱒ではないとは言い切れない。
心配し過ぎではないかと半眼になったネアだったが、まさにその直後、紫水晶の船は水棲棘牛を釣った時の動きをした。
「ぎゃ!船が!!」
「……………っ、また水棲棘牛じゃないだろうな……………」
がっと船のへりに足をかけ、釣竿を引き糸を巻き上げているアルテアには、もはや余裕の表情はない。
捲った袖から見える腕には力が入り、釣果を避難させたばかりのノアも慌ててこちらに駆け付けて来てくれた。
ネアは、エーダリアは振り落とされていないかと心配になって振り返ったが、船の燭台を設置してある台座の柱にしっかり掴まっているようだ。
いざ大物がかかると驚いてしまったのか、鳶色の眼を真ん丸にしていて、ぎゅんと船が引っ張られる度に銀色の髪が揺れている。
びぃんと張った釣り糸は、水棲棘牛の時も思ったがこんな力で引っ張られても切れない強靭さであるらしい。
ネアは、船から振り落とされないようにとディノにしっかり抱き締められ、この死闘の中で、根気強くぎりぎりと糸を巻き取ってゆくアルテアの背中を見ていた。
水飛沫が上がり、ぽわりと花の内側に光を灯した睡蓮の周囲では、葉っぱの上での宴会をしていた小さなもち兎型の妖精達が、目を丸くしてこちらの死闘を見守っている。
大きく船が引っ張られるとまたざぶんと波が立ち、波に跳ね上げられて甲板に落ちて来たのは、立派な月光鱒だ。
「おさかな!」
「ネア?!」
はっとしたネアは慌てて思わぬ副産物を確保しにゆき、掴み取った月光鱒を空いているバケツに放り込むまでに、また大きく揺れた船の動きで危うく転びそうになってしまった。
「みぎゃ?!」
船がぎゅんと動き、空中に放り出されそうになったネアを慌てて抱きとめたのはディノだ。
後ろからしっかりと抱き締められ、空中前転落下の大技を決めずに済んだネアは、深々と安堵の息を吐く。
「ネアが逃げた………」
「………ふぁ。心臓が止まりそうになりました。…………ごめんなさい、ディノ。この月光鱒を逃がしたくなくて、つい追いかけてしまいました……」
「ありゃ、一匹増やしたぞ………。船の守護があるから、望まない限り湖に落ちたりはしないけど、転ばないようにね。…………エーダリア、大丈夫かい?」
「あ、ああ。私は問題ない。…………この気配だと、釣ろうとしているのは、祟りものではないのだろうか?」
「うーん、でも釣り糸につけた羽飾りが変色してないんだよね。それに、……………この気配をどこかで知っているような気がするんだよなぁ……………」
その時、ざぶんと大きな波が立ち、アルテアがぐいっと竿を引いた。
水から持ち上がったのは、明らかに生物ではないなというような不思議な黒い物体だ。
仔馬くらいの大きさはあり、人工的な造形にネアは目を瞠る。
驚愕の表情を浮かべたのは、ネアだけではない筈だ。
湖の中から引っ張り上げられたのは、思ってもいないものだった。
「……………毛織りの生地の、黒い帽子です」
「帽子も、釣れるのだね…………」
「あ、思い出した。あれ、躾け絵本だ!ほら、三巻のやつ」
「もしや、夜に水遊びをする悪い子用な帽子さん…………?」
「わーお、昨日あれだけ書庫を見回ったのに、もう、一冊脱走してるぞ…………」
「ノア、そう言えば我々は、十巻以降のものを探してばかりで、先に封じた十巻までの方を見ていなかったような気がします………」
「……………ありゃ」
しかし、うっかり釣ってしまったのが躾け絵本の三巻だとなると、それはそれで問題なのだった。
獲物としては速やかにリリースしたいのだが、巨大化しているからには水遊びをする悪い子を叱りに来たのだろう。
船体に守護はかけられているが、逃げ場のない船の上で、巨大帽子に襲われるのは出来る限り避けたい。
おまけにこの帽子は切ると白い粉をもうもうと吐き出すので、湖の上で退治すると水質汚染になりかねない。
何しろ、こちらの躾け絵本の素材は元祟りものなのだ。
「……………っ、おい!さっさとこれをどうするか決めろ!」
釣り上げて船の上に乗せる訳にもいかないと判明し、苦境に立たされたのはアルテアだ。
逃がす訳にも船に上げる訳にもいかないまま、船の周りでざぶんざぶんと跳ね回る巨大帽子と戦わなければいけない。
困ったねと短く呟き、ディノがエーダリアの方を見た。
「この船にかけられた魔術だと、釣り上げるのは難しいかもしれない。壊してしまうしかないかな。……………エーダリアいいかい?」
「………出来れば残しておいてやりたいが、この状況になってしまうと、湖の保全の方を優先するべきなのだろう。任せても構わないだろうか」
(……………そんな)
そのやり取りを聞いたネアは、途方に暮れた。
ネアとしては、躾け絵本に何の未練もないのだが、ここがウィーム王家の管理で守られた土地だという事には大きな意味がある。
一度失われたものは取り戻しようがなく、この土地にある全てのものは、大事な遺産のような品物ばかりなのだ。
(どうにか、……………あの絵本を鎮められないかしら…………?)
そもそも、前提として大きな誤解があるのだ。
そう考えかけたネアは、はっと息を飲んだ。
「……………ディノ、私が転がらないように捕まえていてくれますか?」
「ネア……………?」
「少しだけ、帽子さんの説得を試みてみますね」
「帽子を、説得するのかい?」
「ええ。出来れば大人しく書庫に戻って欲しいので、試すだけ試してみましょう」
ネアはディノにしっかり後ろから押さえていて貰い、釣り針を引っ掛けられて荒ぶる躾け絵本に向かい合う。
そして、すうっと息を吸いこみ声を張り上げた。
「帽子さん、我々は水遊びをしているのではなく、晩御飯を釣り上げているのです!!これは、断じて遊びではありません。晩餐で美味しい月光鱒が食べられるかどうかの、運命をかけた真剣勝負なのです!」
それは勿論、人間の側の主張だ。
魔術の結びなどを考えると、本来なら通らない言い訳である。
しかしこの絵本は、元々人間の為に作られたものなのではないだろうか。
しっかりと言い分を伝えたネアに、大きな帽子に転じた躾け絵本は、びくりと震えて動きを止めた。
一応は水中なのだが、素材が帽子だからか、ボートのようにぷかりと浮いている。
「つまりのところ、これは食事の準備なのですよ!食事の支度を邪魔するのは、悪い子ではないのでしょうか?」
しめしめ動きを止めたぞと追い討ちをかけた狡猾な人間の言葉に、湖の底から狙いにかかる系のなかなか狩りの腕の立つ躾け絵本は、ぽふんと音を立てて一冊の本に戻ってしまった。
「ありゃ」
「やりました!!」
「…………元に、戻ったか」
作戦の成功にびょいんと弾んだネアに、漸く腕を休められたアルテアも溜め息を吐いた。
すっかり軽くなった釣竿を器用に振るい、水面にぺそりと浮かんだ躾け絵本も回収してくれる。
すかさずノアが休眠状態にしてしまい、紫水晶の船の上には静けさが戻ってきた。
「……………終わったようだな。ネア、本を宥めてくれて助かった」
「終わりましたね………。理不尽に荒ぶるものではなくて、ほっとしました」
「僕の妹が、躾け絵本を説得したぞ………」
アルテアはすっかり強張ってしまったらしい肩を回していて、ディノは、ご主人様を抱えつつ、ネアが素手で捕獲した月光鱒の入ったバケツを守ってくれている。
「よーし、冒険は終わりだね。帰って晩餐にしよう。…………って、ネア!もう何も釣らないで!!」
「む?」
「おい、釣竿から手を離せ!」
さて目的の五匹の釣果を稼ぐかなと釣りに戻ったネアだったが、なぜか大慌ての魔物達に制止されてしまい、その後はちょっとした呪いの手鏡などを釣るくらいであった。
手鏡については、向けられた人物の最も知られてはならない秘密を暴くものであったらしく、顔色を悪くしたアルテアとノアの手で、再び湖の中に沈められた。
「ですので、私が釣った月光鱒は、この二匹だけなのです」
「おや、充分に立派な月光鱒だと思いますよ。お一人だけ女性なのですから、これだけ大きな魚を釣るのは大変だったでしょう」
戻って釣りの報告をすると、湖畔で飲み物などの準備をしながら待っていてくれたヒルドは、優しくネアを褒めてくれた。
休日が暮れてゆくのはあっという間だ。
それが楽しいものであれば勿論、時間は飛ぶように過ぎてゆく。
夏の終わりに滲む夕闇の青さが解けてゆけば、帰路の寂しさを思わせる最後の夜がくっきりと空を縁取った。
アルテアに美味しく塩焼きにして貰った月光鱒を齧りつつ、ネアは、またしても初めて聞くような新しいお酒を開けてあれこれと話をしている家族をそっと眺める。
「ディノの釣ってくれた月光鱒は、ノアのお塩をかけてアルテアさんが焼いてくれただけでもう、こんなにも美味しいのですね」
「…………ずるい」
「私の月光鱒は少し小さいですが、食べられるところが少なくてむしゃくしゃしませんか?」
ネアがそう尋ねると、ディノは驚いたように瞳を瞠ってふるふると首を横に振る。
「君が釣ったものだから、私はこれが一番だよ」
「ふふ、ディノにそう言って貰えると、とても嬉しいです。掴み取りをした方の月光鱒は、アルテアさんが素敵なスープにしてくれました。香辛料が効いていて濃厚なお味でとっても美味しいんですよ」
「うん……………」
「あら、さてはお気に入りですね?」
ネアにそう言われてしまい、ディノはこくりと頷いている。
かなり香辛料が効いているが、まろやかな味わいのスープは、パンとこのスープがあればそれだけで立派な晩餐になるという美味しさで、ディノはグヤーシュのような少しとろりとした濃厚なスープがお気に入りのようだ。
風に庭園の薔薇の花びらが混ざり、湖には星屑のようにライラックの花が落ちている。
淡く光る水面が星空を映し、振り返れば美しい古城が柔らかな明かりを灯して佇んでいた。
夏夜の宴に参加してしまったせいで、ネア達の今年の夏休みは、いつもより一日短くなっている。
今夜はゆっくりと過ごし、明日の昼にはもうリーエンベルクに帰り、またいつもの日常が始まるのだ。
野外演奏会にも参加出来なかった忙しない夏だったが、こうして最後にみんなで過ごせたのだから、これも幸せの形なのだろう。
(でも、こんな時間があるからこそ、どんな事が起きても、どんな心配があっても、私達は、こうしてみんなでご飯を食べて笑い合って過ごしてゆけるような気がする…………)
むにゃりと頬を緩め、ネアは、アルテアが果物を沢山入れて作ってくれたサングリアを一口飲んだ。
隣の伴侶にこてんと寄りかかり、いつだってこうしてみんなで過ごせる日々の豊かさと美しい夜に、心から感謝したのだった。
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