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50. 案外気に入ってはいます(本編)




ネア達が泊まる事になったホテルの部屋は、清潔なだけではなく、調度品も美しい優雅な部屋であった。


勿論、宿泊施設という括りの中で無駄のない範囲ではあるが、やはりある程度の優雅さがあり、心地よく過ごせそうな環境であることは嬉しい。


宝石質な木の床板に水灰色と菫色の織り模様のある絨毯を敷き、部屋の装飾な青みの強い深い森の翡翠色と艶消しの金色が基調となった部屋だ。


壁の際の部分にだけある壁紙の絵柄に、ほんの少しだけ、花の絵柄の部分に薔薇色が乗せられている。

それがまた何とも美しくて、ネアはなかなかいい部屋であるとふんすと胸を張った。




「さて、………ノア、まずはこやつを封じましょう!」



ネアはまず、腕輪の金庫から取り出したデジレに貰った赤い宝石を、浴室の洗面台の上に隔離しておくことから始めた。


その宣言に凛々しく頷いた銀狐は、おもむろにネアの足の甲をぎゅむっと踏んで体を寄せると、ごしごしと冬毛のままのふかふかの毛皮を摺り寄せてくれる。



(これは、景気付けのつもりなのかしら…………)



狐姿から戻れなくなってしまったからか、銀狐は度々こうして元気付けてくれるのだが、ネアは今日だけで何度毛皮の偉大さを思い知らされただろう。


その度に強張った心がほろりと解けるのだから、今後とも毛皮の会の活動は続けてゆこう。



「むむ?」



すると、そんな銀狐は、部屋の見回りは任せろと言わんばかりにしゅたたと部屋の中を駆け回ったが、主寝室兼居間となる大きな部屋と、浴室兼トイレとなる部屋しかないと分かると、なぜ二部屋しかないのだろうと首を傾げながらてぽてぽと歩いて戻ってきた。


くすりと笑ったネアは、狭い客室に慣れていないであろう塩の魔物に説明をしてやった。


「貴賓室も借りられそうな驚愕のお値段でしたが、等級としては普通のお部屋なので、寝台と談話用の空間のあるこちらのお部屋と、洗面台とお手洗いのある浴室の二部屋のようですね。警備上の理由から事前にお部屋を見せてはもらえませんでしたが、部屋の内観の絵がついた間取り図の通りのお部屋でほっとしています………」



あの値段でやっぱり二部屋しかないという驚愕の事実にけばけばになった銀狐を連れ、真鍮のドアノブを掴んで重厚な木の扉を開けば、浴室は思っていたよりも広いようだ。


大きな鏡の下の長方形の洗面台には、楕円形の洗面スペースが二つ並んでいるのが贅沢ではないか。


シャワーと浴槽のある部分とは花を生けた花瓶を表現したエッチングのある硝子戸で仕切られていて、浴槽の猫足とシャワーの金具は質の良い水晶に見えた。


銀狐に前足でちょいちょいっと突かれて振り返ってみれば、湿気が部屋の中に入り込まないように浴室の扉には湿気取りの魔術式が刻まれて陽光の祝福石が嵌め込まれているようだ。


初期費用は嵩むが、客室を安価で長期間維持したいのなら必要なものなので、ネアはなかなか賢いオーナーなのだろうと眉を持ち上げる。



(とても清潔で良かった。お風呂に入るにしても、気持ちよく入れそうだわ…………)



手に持った赤い宝石を深い緑色の翡翠の洗面台の上に置くと森の果実のような美しさだったが、そんな美しさに心を緩めることはなく、ネアは、上からえいっと隔離魔術を添付したハンカチで覆っておく。


これは常にハンカチと一緒に持っているもので、狩りの獲物を持ち帰るのにも重宝しているとっておきの隔離魔術が編み込まれた布なのだ。



(これで、もしそんな効果があるとしても、盗聴や盗撮は防げたかな……………)



作業の進捗を足元からじーっと見上げている銀狐に厳かに頷いてみせ、ネアは、浴室を使いたい欲求は後回しにすることにし、そそくさと浴室を出るとその扉をぱたんと閉めた。



後はもう、ノアに貰った大きな遮蔽布を被ってカードを開くばかりだ。



「やっと、ディノに無事ですよと言えます!」



寝台の上に座り込んでばさりと大きな布を広げて入り込めば、ムギーと鳴いた銀狐もお尻をもふもふさせて入り込んでくる。


無事を知らせることが出来ると思うと漸く唇の端を少し持ち上げることが出来るようになり、ネアは、案の定、開いたカードにびっしり届いていた沢山のメッセージに目を通す。



そして、ペンを握ると猛然と返事を書き始めた。




“ディノ、私は無事です!ごめんなさい、あんなに皆さんから注意喚起を受けていたのに、こんな事になってしまいました……”

“……………ネア、無事で良かった”

“狐さんが一緒なので、安心して下さいね。今はやっと誘拐犯とは別行動になり、一人でお宿に籠ったところなんですよ”

“ノアベルトが一緒にいるんだね。ヒルドがそちらに向かう手段を整えているから、ノアベルトに置き換えた方がいいかどうかを聞いてご覧。……………守護に揺らぎはないけれど、怖い思いをしていないだろうか………”


文字からも不安げな様子が伝わってくるディノのメッセージに加え、エーダリアだと思われる言葉も浮かび上がった。


“ネア、タジクーシャにウィームの住人が滞在しているという情報がある。早急に名前と滞在先を確認しているが、その者と合流することも視野に入れておいてくれ”



「まぁ、ウィームの方がこちらにいらっしゃるのですね。心強いです。………狐さん?」



遮蔽用の布を被った臨時テントの中は、枕を支柱にしてはいるものの思った以上に狭い。


そんな中で突如として銀狐がくるくる回り始めたのでネアはむがっとなったが、何かを伝えたいもののその手段を持たずにじたばたしてるようだ。


ネアはそんな銀狐をわしっと掴んで動きを封じると、首飾りの金庫から華麗に手帳を取り出した。

その中のとあるページをぱかっと開くと、喋れないような事態に見舞われた時用の文字表が現れる。


随分前に用意しておいたものだが、活躍する時が訪れたようだ。

おおーっと目を丸くした銀狐に、ネアは誇らしげに微笑むと、手帳を寝台の上に置いてやった。


すると銀狐は大慌てで文字表にかじりつき、ムギムギしながら前足で文字を示してくれるではないか。

ネアは、もふふかの前足をえいっと握ってしまいたい欲求を堪えつつ、差し示された文字を追う。



「………お、……き、かえ、……いそ……こ、ではなくて、……く。…………置き換えを急いだ方がいいのですね?」



ネアがそう尋ねると、青紫色の瞳を潤ませて銀狐はこくこくと頷く。

続けて示された文字を追えば、ネアの大切な家族は、切実な思いを示してくれた。




「いまの……………ぼくがここにいても………きみをまもれない。…………ノア」



傍にいてくれただけでどれだけ心強かったかを伝えたくなり、ネアは置き換えを急いで貰うようにディノ達にメッセージを返しながら、大事な家族をそっと撫でた。



「でも、ノアが傍にいてくれたからこそ、私は冷静に対処出来たんですよ?それは、他の誰でもなく狐さんなノアだったからこそ、デジレさんに警戒もされず寄り添えたのではありませんか」


ネアがそう言えば、ぺしゃんと寝てしまっていた銀狐の耳がぴっと立ち上がった。

ネアはそんな銀狐をぎゅーっと抱き締めてから、カードの返信を続けることにした。



“ディノ、狐さんから、置き換えを急ぐようにと言われました。実は、こちらに来る為の道に、誘拐犯な妖精さんを標的とした変質禁止の魔術が仕掛けられていたようで、私達も巻き込まれてしまったんです………”



ネアはここで、敢えて銀狐がノアであるという言葉を書かずにいた。


ディノからのメッセージにはノアの名前が出てしまっているが、カードの向こう側にアルテアがいる可能性を考慮したのである。



(こんな状況で狐さんの正体がばれたら、無事に帰るどころではなくなってしまうもの………)



“変質を禁止する魔術は、タジクーシャで発展した固有の上位階位のものがあると聞く。ネア、アルテアはここにはいないから、ノアベルトのことをそのまま話して構わないよ”

“まぁ、それなら有りの侭に書けますね!つまり、そんな状態ですので、ノアは元の姿に戻れずにいるのですが、お陰で誘拐犯な妖精さんに警戒はされずに一緒に居られたようです。誘拐犯めの目的はヒルドさんで、私を囮にして、仕える王様の為にヒルドさんを裁定者として招聘したいのだとか………”

“……………そうだったのだね。ノアベルトが元に戻れなくなっているとは考えていなかった…………”

“ヒルドが狙いだったのか。……………すまない、お前を巻き込んでしまった”

“いえ、誘拐犯めが姑息だったのです!それに、狐さんが狐さんのままだったので、誘拐犯を警戒させずに済んだのかもしれません。…………ところで、ヒルドさんはそちらにいますか?”

“いや、今はリーエンベルクにも宝石妖精の訪問があってな。アルテアに同席して貰い、彼等と対面している”



(リーエンベルクにも…………?)



そんなエーダリアの言葉に、ネアは眉を寄せた。


それは、正規の訪問であり正式で礼儀正しいタジクーシャへの訪問要請なのだろうか。

もしくは、ネアを人質に取ったという前提での身代金交渉のような形で、タジクーシャへヒルドを連れてゆこうとしているのかもしれない。


アルテアが一緒なら安心かもしれないが、それでもネアがこんな事になっているのだから、ヒルドは不利な交渉を強いられるのではないだろうか。


言葉にするには拙い不安ばかりだが、不安の種があることは伝えておかないといけないとぐっと指先を握り締めた。



“私はこの通り無事ですから、ヒルドさんが交渉で不利にならないよう、無事を伝えて差し上げてもいいですか?”


ネアが慌ててそう書けば、思いがけない返答が返された。


“いや、その宝石妖精達はお前達が連れ去られた事を知らないのだ。………承知の上で、素知らぬふりをしている可能性もあるのだが、密かに状況を見ていたダリル曰く、本当に知らないようだと話していたところでな………”

“その妖精さん達は、どんな理由でリーエンベルクを訪ねたのでしょう?”

“彼等はね、王の側近とその従者達らしいのだけれど、地上での買い付けをしていたところ、自分達の戻り道が不自然に塞がれている事に気付き、不審を覚えたようだ”



その一団を指揮している王の側近は、すぐさま何か不測の事態が起きていると考え、真っ先に思い浮かべたのは、過激派が道を封鎖し、その間に接触を禁じた地上の者達に何かをするのではないかという事だったらしい。



“少し前に、グレアムとアルテアがタジクーシャを訪れ、私の伴侶である君には手を出してはならないと話を付けてきたばかりなんだ”

“なぬ…………。そんなことをしてくれていたのですね?”

“うん。だから、まず一つとして、君にわざと誰かを接触させ、王の身を危うくする為の陰謀が行われる可能性を彼等は考えた”

“まず一つという事は、他にもあるのですか?”

“もう一つは、ヒルドだ。タジクーシャの宝石妖精達は、ヒルドに王からの正式な書簡を送って、宝石狩りへの裁定者としてこちらを訪れないかと招待していたようだ。これについては、ヒルドはエーダリアやダリルと話して正式な文章で断りを入れている。ごめん、ネア。私も相談を受けていたんだ………”



聞かされていなかったと、ネアが気持ちを波立たせる事はなかった。


危ない事や取り返しのつかない事をするのであれば相談して欲しいが、そうして、個人的に、もしくは魔術的な問題や政治的な問題から、こちらに伏せて対応する案件など幾らでもあるだろう。



“事前にヒルドさんから正式にお断りしていたのに、今回の事が起きてしまったのですね…………”

“話していなくてすまなかったな。ダリルとディノから、あまりお前をタジクーシャに縁付けたくないという事になり、その一件は伏せていたのだ”

“いえ、色々な事情があってこちらに下りてこない案件もあるでしょうし、それはいいのです”

“………だが、今回のような事が起きてしまったのだ。こちらの対処が足りなかったのは否定のしようがない。……その書面に返された返答上のタジクーシャの妖精達は礼儀正しいもので、不参加の返事に合わせ、もはや一族の王としての責務は果たしていないので無理な接触も遠慮されたしと伝えたヒルドに対し、それを誓うという旨の返事だったのだが………”




つまり、タジクーシャの宝石妖精達は既に一度、ヒルドと話をしていたのだ。

であれば、デジレが持ち込んだ王からの招待状は一体何だと言うのだろうか。



(一度は辞退を承知しておいて、それを後からひっくり返そうとしたのかしら?………でも、やっぱり何かが上手く嵌らないというか、妙な感じがするわ……………)



どこかにパズルのピースが少しだけ形が違って嵌らないような、小さな引っ掛かりがある。


ネアはぎりぎりと眉を寄せ、誘拐された時の状況と、犯人であるデジレから言われた事を書いてみる。



“エーダリア様、あの方は、狐さんが肩に乗っていた私をエーダリア様と間違えて攫ったと話していました。ヒルドさんが標的だとも。……………でも、決して乱暴にされた訳でもなく、危害を加えられるどころかこうして一時的に解放までされていますが、その全てが言葉通りではないような、とても奇妙な気配のする方なのです”

“その妖精の名前は分かるかい?アルテアやグレアムが、タジクーシャの妖精達を少し知っているようだ”

“デジレさんと仰っていました”



ネアがそう書けば、カードの上は暫く静まり返った。


ひやりとしながらその続きを窺うと、淡く光った文字が浮かび上がる。



“ネア、それはタジクーシャの妖精王の名前だ。バルバでヒルドが言及したことを忘れているのでなければ、名前を示しても自身の正体に気付かれないような惑わせる術界の擬態をかけているのだろう”



(……………あ、)



ネアはここで漸く、その名前を聞いた時の不思議な違和感の正体に気付いた。

偽名だからということではなく、名前の意味でもなく、本当は知っている筈の名前だったのだ。


銀狐の方を見るとこちらもけばけばになっているので、銀狐姿だからなのか、ノアもその魔術にかけられてしまっていたのかもしれない。



“……………まぁ。ディノにそう教えて貰うまで、すっかり思い出せずにいました”

“では、擬態だったのだろうね。タジクーシャの宝石には、名前を語っても正体を隠す魔術がある。求め崇められ、宝石妖精が派生する程の力を蓄えながらもどこかに模造の宝石が混ざっているからだと言われているが、その魔術が生まれた理由は定かではないんだ”



その説明を聞けば、何となく想像出来るような気がする。


欲深い人間の手を経てゆくのであれば、さも本物のように受け継がれる偽物の宝石が存在してもおかしくはないだろう。


そんな歪さも固有魔術にしてしまうのだから、この世界は不可思議で奥深い。



(偽物が本物として宝石妖精さんを派生させる程の力を蓄えてしまったからこそ生まれた、正体を偽る魔術…………)



そんなものがあれば、デジレが簡単に名乗れたのも頷けるし、言葉通りのものが全てなのかを疑わねばなるまい。



“私の会ったデジレさんが、偽物のデジレさんという事は考えられるのでしょうか?”

“その可能性もあり得るね。王の名前を貶めておき、グレアムやアルテア達と交わした誓約や、ヒルドに誓った言葉の魔術を損なわせようとしたのかもしれない。………ただ、最も不思議なのは、今回、そのどちらの魔術もまだ動いていないという事なんだ”



(…………誓いを破った筈なのに、それに反応がない…………?)



“勿論、誓約の裏をかく方法がない訳ではないから、グレアムとアルテアも、ヒルドとその返答について言葉を練ったダリルも、かなり慎重に行った。その上で、どちらにも何の反応もないのも少し妙だね。………だが、今更、彼等がどのような事をしどう望むかを議論しても仕方ないだろう。君達を無事に保護する事が最優先だからね”



ディノのその言葉に、銀狐が目を丸くしてから尻尾をふりりっと動かした。


ネアは以前、ディノのこのような考え方について、エーダリアから特殊な思考だと教えられた事がある。

魔物はこのような時、まずは愛するものや自身の領域に触れた、その相手への報復を第一とするのだそうだ。


そんな気質が強いことで、魔物達はいっそうに伴侶を亡くしやすいとも言われていると重ねて教えてくれたのはノアで、ディノにはその傾向はあまりないらしい。



(ディノはいつも、犯人達ではなくて真っ先に私のところに来てくれるもの………)



そう考えると誇らしさにふんすと胸を張りたくなったが、そんなディノの気質は、レーヌという黄昏のシーが絡み、ネアが咎竜の呪いを受けてしまった時の事件以降、そうなったのかもしれない。



二人で体験した一つ一つの時間や苦しみは、そうやって身を守り育む為の糧となっているのだ。




“ネア、置き換えというのはね、ノアベルトが持たされているリーエンベルクの滞在許可証の結晶石に元々添付されている魔術式なんだ”

“はい。以前、ヒルドさんから教えて貰った事があります。エーダリア様とダリルさんの結んでいるものと同じ術式なのですよね?”



今はもうそれを示す必要はないのだが、リーエンベルクで最初に貰った受け入れの印として、銀狐にとっては宝物のその結晶石は、外される事はないままであった。



(そんな結晶石には、滞在を許された人が悪さをしようとした場合、特定の騎士や護衛との立ち位置の入れ替えをする魔術が付与されていたらしくて…………)


追跡や召還の魔術とは違い、置き換えの魔術は、階位が低い術式ながらに双方の承認などもいらず、なかなかに汎用性が高いものなのだそうだ。


よってリーエンベルクの滞在許可証には、その種の術式が予め添付されている。

もし誰かが、悪意を持ってウィーム領主に近付けば、お互いの居場所を入れ替える事で、敵を遠ざけ護衛対象の側に駆けつけられるという戦法である。


そんな効果が元々あるものであればと、有事の際の人員の入れ替えを想定し、ノアとヒルドを入れ替える為の術式が上書きされていた事までは、ネアも聞かされている。


とは言え、道を整えているという発言があった以上は、タジクーシャとの間の道を結ぶとなると、やはり手間がかかるのだろう。



“うん。元の術式を生かし、ノアベルトとヒルドで行うことになるだろう。タジクーシャの上位権限となれば、ウィリアムとヒルドなのだけれど、ウィリアムは、現在出ている戦場の状態があまり良くないようだからね………”

“しかし、狙われているヒルドさんを、よりにもよってこちらに招いてしまっても大丈夫なのですか?”

“それは心配ないよ。タジクーシャの妖精達にとって、命を繋ぐ森を枯らしてしまうことの出来るヒルドは、損ないたくはない相手ではなく、損なえない相手になるんだ。だから今回も、ヒルド本人が近くにいたのに君を攫ったのだろう”


勿論、相手の思惑に乗ってしまうことへの危険もあるが、ネアを連れて最短でタジクーシャから戻るには、上位権限上有利になるヒルドが適任なのだそうだ。


早々に置き換え、デジレやその他の者達に見咎められる前にタジクーシャを出てしまえば良いのだし、そう簡単にいかないにしてもそれが一番無理がない。


ネアが自分の為にそんな事をと駄々を捏ねたところで、ネアがこちらに囚われている限りは、ヒルド達も動きに制限が出る。



(だから、私は出来る限り早く、ヒルドさんに保護されなければいけないんだわ………)


自分の為に大切な人を危険に晒したくはないと、表面上ばかりは清廉な我が儘を言う事は簡単だが、お互いが本当に大切ならば、それぞれの怖さを克服して最善とされる策を講じなければならない。



今のネアに出来るのは、狙われているヒルド本人が助けに来てくれるという怖さを飲み込むことであった。




“……………ネア。………そのだな、タジクーシャに滞在しているのは、アレクシスだ”



そんなネアの重苦しい気分をさらりと薙ぎ払ったのは、ぺかりと光ったエーダリアからの文字であった。



“アレクシスさんが………”



その名前を見た途端、ネアはもう、後は観光をして帰ればいいのかなという気持ちになってしまう。


何しろアレクシスは、魔物達も慄くような特製スープを作れる魔術師で、おまけにディノとカードを分け合っているのだ。


時差なく連携が取れる相手で、尚且つ相当な技量の持ち主であるアレクシスがいれば、状況がかなり好転するのは言うまでもない。



“………私から、すぐにカードに連絡しよう。彼がタジクーシャのどこに滞在しているにせよ、アレクシスに迎えに行って貰うように依頼するから、君は、その部屋から出てはいけないよ”

“はい。ここで大人しくお迎えを待つようにしますね。では、私がいるホテルの名前と部屋番号を書いておきます!”



ホテル名と部屋番号を告げ、ネア達は、ひとまずの連絡を終えてカードを閉じた。

あちらでも各所との連携が必要とされるので、二十分後にまた連絡をくれることになったので、この待ち時間は短い休憩時間として活用しよう。



「とは言え、もしもに備えて大切なものはきちんとしまいましょうね。私は慎重な人間なのです」



そう言えば、銀狐は足踏みして尻尾をふりふりしてくれる。

休憩時間に襲撃があり、カードを取り落として敵に奪われたりしたらひとたまりもない。


突然落とされる系の事件に縁のあるネアは、たいそう慎重になっていた。



「さて…………」



遮蔽用の布を剥いだネアはまず、置き換えをそわそわと待ちつつも、ネアが心配でならないのかべしんと体当たりしてくる銀狐を両手で持ち上げて、そのふかふかの首元に顔を埋めてみた。


家族を守るということにおいては神経質でもあるノアが、今回の一件で、魔物の姿に戻れないことに責任を感じてしまわないよう、たっぷり毛皮を堪能させていただくことにしたのだ。



「不思議ですね。こうして狐さんが隣にいると、怖いことが怖くなくなってしまいます。誘拐犯めと別行動になり、ディノ達ともお話し出来たのは狐さんが側にいてくれるからでしょうか………?」



わしゃわしゃにされた銀狐は大興奮でムギャーとなりつつ、その狂乱が収まると寝台の上に座り込んだネアの膝の上に顎先を乗せて尻尾をふりふりする。


ふりだけではなくすっかり心を蕩かされてしまったネアは、ディノのカードに新しい報告が上がって来るまでの間に、少しだけの腹ごしらえをしてしまうことにした。



「狐さん、おやつワッフルを食べ損ねてむしゃくしゃしていましたので、一緒に簡単なおやつを食べませんか?向こうの時間の感覚だと晩餐には早い時間ですが、こちらではそろそろお昼の時間なのですよね…………」



そう言えば銀狐の尻尾がぴしりと立ち上がり、青紫色の瞳がきらきらするではないか。

ノアは食べないことも多い魔物だが、銀狐は食いしん坊なのだ。



ネアは、首飾りの金庫からとっておき用のザハの焼き菓子を取り出し、甘いものに対してのしょっぱいもので、おつまみ用の燻製チーズも取り出した。



銀狐用にも同じものを用意し、テーブルセットの方に移動する。

ネアのおやつはテーブルの上に置き、銀狐用のものは、ネアが手で千切ってお口に放り込んでやるのだ。



「………むぐ。美味しいものは偉大ですね。こちらで買えば幾らになるのか分かりませんが、賢い私には備えがあるので、この通り幸せなおやつ時間を得られるのです!」


美味しい訪れにすっかり心を満たしたネアの隣で、蜂蜜入りのパウンドケーキを食べて尻尾を振った銀狐は、燻製チーズの美味しさにも襲われてしまい、振っていた尻尾をぶりぶりといっそうに激しく振り回す。



人心地ついたところで、ネアは、カーテンの隙間からこの街のどの辺りが見えるのだろうかと窓の外を見てみた。



このホテルは五階建ての、こちらの世界ではなかなか高い建物になっており、ネア達の部屋があるのは三階だ。


それも不思議な事ではあるのだが、竜に対応していたり、大きな木や泉や滝などが内側にあったりと、ネアの生まれた世界での高層建築がすっぽり入ってしまいそうな巨大な建造物はこちらの世界にも沢山あるのだ。


だが、階数を重ねて建てられる建築はあまり多くなく、何階建てというような括りになれば、五階ともなるとなかなか珍しいという気がしてしまう。



(技術がない訳ではなさそうだから、百階建てとかの建築物が塔くらいしかないのはそれなりの理由があるのかしら…………?)



帰ったらディノに聞いてみようと考えつつ、ネアは、窓から見えるタジクーシャの街を興味深く観察する。




美しい街だ。



砂漠のオアシスに無理やり王城や教会のある文化圏の街を持ち込んだような雰囲気がそこかしこにあり、ネアの生まれた世界の、西欧と東欧の意匠が混ざり合ったように見える。


屋根の瓦には宝石の釉薬が使われているのか、宝石質なとろりとした輝きを帯び、どの家にも、宝石を使ったステンドグラスや飾り窓があるのが特徴的だ。


広めのバルコニーのような空間を家々の最上階に設け、そこに、テント風の色鮮やかな布の屋根をかけて、のんびりと寛ぐのがタジクーシャ風と言ったところだろうか。


そのバルコニーのようなところには、大きな植物の鉢植えや屋上庭園のようなものが必ずあり、空を飛ぶ竜の姿は見えないが、カナリヤめいた綺麗な檸檬色の小鳥達がたくさん飛んでいる。


寺院や公的な施設だと思われる建物は、東欧の寺院建築めいたドーム状の天井が、華やかな金色と瑠璃色の装飾に宝石のように煌めく。


あちこちに鮮やかな色が重なるのだが、見事な庭園の文化もあるようで、街のいたるところに茂る木々の緑が、その色鮮やかさを上手に纏めているようだ。


空をずっと奥まで見通せば、空と地上の境目あたりが砂色に靄がかっているので、深い森の向こうには砂漠があるのだろう。


幾つもの宝石に穴を開けて紐を通した飾りを軒先から吊るしてあるのも、こちらの文化なのだろうか。


いつからか吹き始めていた風が街を抜ければ、あちこちでその飾りが風鈴のような透明な音を立てる。

同時に、星屑みたいに光るので、ネアは思わず見惚れてしまった。



「……………何て綺麗なのでしょう。攫われたのではなく、旅行で訪れた街であれば、私はタジクーシャが大好きだったかもしれません…………」



迎えが来たら早々に帰路に就くことを考え、ネアはこの短い時間にそんなタジクーシャの美しい風景をじっくり堪能しておいた。


どこかへ向かうらしい、妖精駱駝を連れた商人の一団を見れば、不思議で美しいものがあちこちにあるこの世界で、異邦人としての感覚を久し振りに感じた。



(そろそろかな……………)



守られた場所から美しい景色を見ると、心がとても穏やかで静かになる。

ネアは、お腹も膨れていい気分になり、銀狐と顔を見合わせて頷き合うと、また寝台の上によじ登って遮蔽布をばさりと被った。



カードをぱかりと開けば、既にディノからの一報が入っている。




“ネア、アレクシスと連絡が取れたよ。彼は君が滞在している場所の近くにいて、すぐにそちらに向かってくれるそうだ。一つ、二つ、三つのリズムのノックがアレクシスだから、そのノックがあったら部屋を開けていいからね。それから、ヒルドとノアベルトの置き替えは、ひとまず保留になったよ。こちらを訪れた宝石妖精達の印象が、あまり良くないとダリルが言うんだ。アレクシスからも、ヒルドを今のタジクーシャに招き入れない方がいいかもしれないという話があった。………不安だと思うけれど、まずは、アレクシスと合流して彼から話を聞いてくれるかい?”




長いそのメッセージを読み切り、ネアはふすんと頷くと、了解の返事をしておいた。

ヒルドが来れないとなると少し心細いが、状況が悪化するのだけは避けなければならない。


銀狐はけばけばだが、ネアは微笑んでそんな家族を膝の上に引っ張り上げて抱き締めてやる。



「狐さん、アレクシスさんはとても強いので、そんなアレクシスさんと合流出来るだけでも幸いとしましょう。ご迷惑をかけてしまいますが、あの方はとっても優しいのですよ」



その時、教えられた通りのノックが部屋に響いた。


ネアは、ぱっと顔を輝かせると、念の為に警戒を怠らぬようきりん札を手に取り、扉を開けに向かった。







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