失いたくない
次に目が覚めた場所は自室のベッド。
見慣れた天井をぼーっと見ていたら人の気配を感じ、さらりと落ちる金色の髪が視界に混ざった。
疲労感が漂う目元は赤くなっていて、今にも泣きそうに揺れている。どうしたのだろうと伸ばした右手は大きな手に絡め取られて、もう片方の温かな手でそっと頬を覆われた。
「──良かった」
マティアスは目を閉じ、体の奥底から絞り出したような低く重い声を漏らした。
彼は何のことを言っているのだろう。フィオナは考え、そして思い出した。
自分は落馬したのだと。
「ごめ……んなさい……迷惑、かけて……ごめん……なさい」
声がかすれて思うように出ない。
マティアスはフィオナからゆっくり両手を離し、テーブルに置いてある水差しからコップに水を注ぐ。
フィオナは手渡された水を一口こくりと飲み、ふうと息を吐いてから残りをゆっくり飲み干した。
そして涙がぽろぽろと溢れる。
「ごめっ、ごめんなさい……私、皆に迷惑ばかりかけてて……もっと役に立ちたいのに上手くできなくて……ごめんなさい。ごめんなさい」
魔術さえ使えるようになったら、もう誰の手も煩わせずに済むと思っていたのに、そんなことはなくて。
空回りしていつも誰かに迷惑をかけている。
自己嫌悪に陥っているフィオナをマティアスはふんわりと抱きしめて頭を撫でた。
「そんなことはない。君はいつも皆の役に立っている。頑張りすぎて限界を見誤ってしまうだけで、それさえ気を付ければ良いだけだ」
「……うん。分かってるの……分かってるのに、気を付けているのに、つい調子に乗っちゃう。皆に喜んでもらいたくて、頼りになると思ってもらいたくて欲張っちゃう……私、傲慢でダメな人間なんだ」
王国に連れてこられてからというもの、丁重すぎる扱いに戸惑いながらも両親以外の優しさに触れて。
そのたびに大好きな人が増えていく。
その人たちに自分のことを好きになってもらいたい、嫌われたくないという思いが強くなる。
自分には魔術しか取り柄がない。それ以外で活躍できることなんてないのに、それすら満足にできない。
不甲斐なくてもどかしくて、そんな自分が嫌になる。
フィオナはマティアスに抱きしめられたまま静かに泣いていた。
背中を優しくトントンとされ、頭を撫でてもらう。彼の腕の中はどこまでも安心できる。
今はドキドキする気持ちよりも安心感に満たされていく。先程目を覚ましたばかりだというのに、うとうとと瞼が重くなっていった。
すーすーと寝息が聞こえてきたところで、険しかったマティアスの表情は少しだけ和らいだ。
だけどすぐに思い詰めたように呟く。
「やはり腕輪は必要だな……」
本人の意志をできるだけ尊重したかったが、これ以上の様子見はできそうにない。
魔力が使えない状態のフィオナはあまりにも無力で粗忽すぎる。危険に陥った時に自分で対処する能力を持ち合わせていない。
心配は尽きず、彼女を快く任務に送り出せなくなってきた。仲間が目を光らせてサポートするにも限界がある。
自分が常に近くで守れないのなら、腕輪の力は必要不可欠。こればかりはもう譲れない。
マティアスは、フィオナが再び金の腕輪を常時装着するための手続きを急ぐことに決めた。
* * *
目が覚めたら窓の外はすっかりオレンジ色に染まっていた。
フィオナはあれからまた二時間は寝てしまったようで、部屋にはもうマティアスの姿はない。
夕焼けに染められた室内はしんと静まり返り、もの寂しさを感じる。
いつもならこの瞬間は好ましく、落ち着いた空気の中で物思いにふけっていた。
その日あった楽しかったこと、幸せだったことを思い出し、胸の中に大切に貯め込んで温かな気持ちで過ごしていた。
今は静寂が心細い。
ベッドの上で膝を抱えて丸くなっていたら、不意に部屋の扉が開き、入ってきた人物と目があった。
「……すまない。まだ寝ていると思って、ノックもせずに入ってしまった」
一度足を止めて謝罪を口にする姿に懐かしさを感じる。それだけで悲しい気持ちはどこかへ消え去り笑みが溢れた。
「マティアスが来てくれて嬉しいから、そんなこと気にしないよ」
「ぐっ……」
潤んだ瞳を和らげてふんわりと微笑む姿にマティアスはたじろいだ。
コホンと一つ咳払いをし気を取り直す。
「もうすぐ夕食の時間だが食べられそうか? ここに運ぶつもりだ」
「えっと、お腹は空いてるから食べられるよ。でも食堂に行くから運んでもらわなくても大丈夫だよ」
「却下だ」
「えー……」
キリッとした顔で一瞬で断られてしまった。いつものことなので諦めるしかない。
「……一人で食べるのは寂しいんだけど」
「もちろん俺もここで一緒に食べるつもりだ。それなら良いか?」
「一緒に……そっか」
この部屋で二人で食事をするのはいつぶりだろう。
鎖が必要なくなってからは食堂へ行くようになったので、二人きりでお茶をすることはあっても、食事をすることはなかった。
仲間に囲まれてわいわいと食事することはもちろん幸せだけれど、マティアスを一人占めできる特別感が嬉しい。
(一人占め……)
以前、ミュリエルからマティアスを一人占めしないでと言われたことを思い出した。
あの時は申し訳なくて、彼女にお兄ちゃんのような存在を返そうとした。マティアスが自分の世話を焼かなくなるのは本当は嫌だったけど、自分は我慢しないといけないと思ったから。
今はどうだろう。
彼と一緒に過ごせなくなるなんて、耐えられるはずがない。
自分の中に確かに根付いている気持ちに気付いてしまったから。
ベッドに座ったまましばらくマティアスと会話をしていたけれど、途中でフィオナは大変なことに気付いてしまった。
自分は寝巻き姿のままで、髪は恐らくボサボサだ。一日以上寝ていた顔は脂汗でテカテカしている気がする。
(ほわぁぁぁ……!)
恥ずかしくて気が気じゃなくなる。他愛のない会話を楽しんでいる場合ではなくなった。
「あのね、夕食の前にシャワーを浴びたいの。だから部屋から出て欲しいんだけど……」
顔を見られたくないので両手で隠し、指の隙間から上目でじっと見て訴えかけた。
「っっ、分かった。それでは次は夕食の時に来よう。一時間半後に運んできて良いか?」
「うん良いよ。ありがとう」
マティアスはなぜか慌てて出ていった。寝起き姿を見られたくない気持ちを感じ取ってくれたのだとホッとした。
シャワーを浴びてスッキリし、膝下丈のニットワンピースを着て、厚手のタイツを履いた。
日が沈むと一気に気温が下がり、外は雪がちらつきそうな寒さになる。だけどフィオナの部屋はマティアスが起動させた温熱ヒーターのおかげで温かい。
部屋全体に温風を行き渡らせる魔導具は魔石の消費が激しく、定期的に新しく取り替える必要がある。
部屋の備品として費用は魔術師団の経費から落とされるが、できるだけ節約しようと稼働を最小限に抑えている。なんてったってフィオナの部屋は他と比べて広いから。
だけどマティアスが部屋を訪れると、毛布に包まって暖をとっているフィオナに苦笑いを向けた後、すぐに温熱ヒーターを起動してしまう。
『勿体ないから良いよ』と言ってもすぐに却下されてしまうのだ。
『魔石の消費量より君が快適に過ごせる方が大事に決まっているだろう』と言われると、フィオナは困りながらも嬉しくてたまらなくなる。
夕食までまだ時間があるので、団長であるレイラの執務室に向かった。目覚めた報告と謝罪をする。
「フィオナ、そんなに気を落とさなくていいから。もう顔を上げて」
部屋に入ってくるなり深々と頭を下げるフィオナに、レイラは収支報告書を作成する手を止めて優しく語りかける。
少し顔を上げてちらりと様子を窺う姿に笑みを向けた。
「ニナから経緯は聞いているわ。あなたは自分の任務は十分果たした上で村の人達を楽しませようとしたのね」
「そう、ですけど……調子に乗りすぎました」
「そうね。魔力を使い切るまでする必要はなかったと思うわ。そこはきちんと反省すること」
「はい……もちろんです」
レイラはしゅんとなるフィオナを頭ごなしに叱ることはできない。
帝国では命令されるがまま休む暇なく任務をこなし、ろくな人付き合いもさせてもらえなかったフィオナは、褒められる、感謝されるという経験がほとんどなかったのだろう。
だからそういう感情を向けられると歯止めが効かなくなる。
本人もそれを理解しており、今はそれを上手くコントロールしようと努力している段階である。
任務自体はしっかりとこなしているので、そこに支障は出ていない。
だからもう少し様子見をするつもりでいたけれど……
(そのうち頭を強く打ったりして、取り返しのつかないことになりそうなのよね……)
どれだけ優れた治癒士でも、失った生命を取り戻すことはできない。フィオナはもう大切な仲間。失いたくはない。
そして彼女を失ったら魔王と化し、目につく全てを斬り裂きそうな、それこそ世界を滅ぼす勢いで荒れ狂いそうな人物に心当たりがある。
レイラは眉をひそめ、深く長くどこまでも重い溜め息を吐いた。
その様子にフィオナはますます落ち込んで、肩をすくめた。
「ごめんなさい……」
「ああ、違うのよ。今のはあなたに向けたものじゃないから。落馬についてはニナの報告書だけで十分よ。始末書は必要ないから、もう下がっていいわ」
「……分かりました。失礼します」
レイラの部屋を出て、とぼとぼと廊下を行き階段を下りる。行き先はニナの部屋だ。
「フィオナです」
扉をノックして声をかけると、中からガタッ、パタパタと音がして、扉が勢いよく開いた。
「フィオナさぁぁぁぁ……!」
扉が開いたと同時に飛び出してきたニナに強く抱きしめられる。
予想していたことなので驚きはしない。
「迷惑かけてごめんなさい」
小さく謝罪を口にすると、返事代わりに更に強く抱きしめられた。
「うぅっ」
フィオナは苦しげに唸った。
ニナは華奢な見た目に反して力が強い。
「わたっ、私が守るってっっ、言ったのに、うえっ、助けるのが間に合わなくてっ、ごめんねぇぇ、うえぇっ」
ニナは嗚咽交じりに泣きながら謝ってくるので、違うよ、そうじゃないよと、ニナが落ち着くまでフィオナが慰めることになった。
謝りに来たはずなのに、あまりきちんと謝れなかった。
だけどこれ以上言ってもニナが再び泣き出しそうなので、彼女が落ち着いたところで部屋を後にする。
廊下は息が白くなるほど寒く、窓の外はいつの間にか雪がちらついていた。
少し急ぎ足で階段を駆け上り、部屋に戻ると温かな空気に迎えられる。
ソファーに座りながら今後のことを考えていたら、マティアスが夕食を運んできた。
一緒にテーブルに皿を並べて、ポットから温かいお茶をティーカップに注いだ。
テーブルを囲んで向かい合わせに座ると、張り詰めていた気持ちが少し緩み、フィオナはふんわりと微笑んだ。
「何か良いことがあったのか?」
大きなステーキをナイフで切り分けながら尋ねられ、どう答えようかと悩む。
(こういう時に好意を伝えてアピールしたら良いのかな……)
ニナの言葉を思い出し、実行に移そうとする。だけどいざ意気込んで言おうとすると、とてつもなく恥ずかしい。
フィオナは目を泳がせた。そんな彼女をマティアスは不思議そうな顔で見る。
(何か言わなきゃ……!)
「えっと、えっとね……マティアスと二人で食事ができるのが嬉しくて。何だか懐かしいなって思って、その……こうやって二人きりで食事をするのが……好き、なの」
いつも何も考えずに言っていたはずなのに、いざ好きと言おうと思うと躊躇ってしまう。フィオナは言葉を詰まらせながら伝えた。
「……っっ、そうか。俺もこういった時間を好ましく思う」
「そっか……えへへ」
上手く好意を伝えられた気がしないが、同じように思ってくれていたと知れて嬉しくなる。
フィオナは上機嫌で食事をとり始めた。
マティアスが肉を切り分ける動きがぎこちなくなったことには気付かない。






