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遙かなるユイス・ゼーランドの軌跡  作者: 乾 隆文
序章 第五節 涙の理由
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0-5-2.そして到着した山上の景色は







 どれくらい歩いたろう。二十分か、三十分くらいか。


 ふと、前方に人影があるのに気付き、俺は慌てて木の陰に隠れた。


 一瞬、顔を上げた時に見えただけ。でもわかった、あれはティリルの背中だ。やっぱりあいつ、この山道を登ってきてたんだ。


 もう一度、そうっと首だけ覗かせて様子を窺う。まだ、ティルの背中は見えるところにあった。どうしようか。ここまで来たんだし、声をかけてみようか。


 でも、何て。後をついてきたなんて言ったら怒られるかもしれない。せっかく昨日から一転、今日はにこやかな笑みを向けてくれたのに、また喧嘩になって雰囲気が悪くなっちゃうかもしれない。


 ティルが足を止めると俺も止まり、木の幹に姿を隠す。鬼ごっこでもしてるようなスリルが腹の内側をくすぐり、羽虫が耳許を撫でる音が腕に鳥肌を立たせる。全身むず痒くて堪らない。


 そうして、ふと立ち止まったティリルがまたきょろきょろ辺りを見回して、俺もそっと岩の陰に身を潜めて。ふぅっと息を吐いたあと、そぉっとまた首だけで様子を窺って、思わず「えっ」と声を漏らした。


 そこにはもう、ティリルの姿はなかった。たった数秒でどこへ行ったのか。俺は岩陰から転がり出て、ティルがいた場所に向けて慌てて駆け出した。邪魔な枝を振り払い、落ち葉を蹴散らし、立ち並ぶ木々の合間を縫って――。


「こっちかっ? ……って、わ、わぁっ!」


 更に坂の上に向かって走り出すと、そこは崖だった。


「あぁ、……こ、怖ぁ。と、突然崖なんてそんなの――」


 そんなの、ありかよ。呟こうとして、言葉がどこかへ消えた。


 壮観が広がってた。


 青空が目とおんなじ高さに。その青い色を映し出す鏡のような湖が崖の下に。そして、その鏡をそっと支える手の平のように、初夏の深緑をまとった山々が湖の周囲をぐるり。


 吸い込まれそうな、手を伸ばせば届きそうな幻想の景色。


 開いた口がふさがらなかった。


「……すごい。……こんなとこが、あったんだ」


 溜息がこぼれる。


 家の前から下に覗ける町の景色が、今までは世界で一番きれいな風景だと思ってた。ここには負ける。今まで見たことないくらい、雄大で華奢な青と緑のコントラスト。俺はただ単純に見惚れ続けた。


 我に返るきっかけは、どこからか聞こえてきた泣き声だ。


 絶景を前にしてぼんやりしちゃった目的を、その声が思い出させてくれた。


「そうだっ、ティル――っ!」


 すすり泣く声を頼りにして辺りを見回すと、崖に()り出して生える木と倒木の向こうに、紺色のシャツが見え隠れしてる。


 静かに駆け寄り、倒木の陰にしゃがみ込んで隠れた。ティリルの横顔を伝う涙のあとまで見える、ほんの四、五メトリくらいの距離。


 ティリルは両手で胸許を押さえ、体を震わせながら絶景と向き合っていた。


「――……お父さん」


 涼やかな山風が、ティリルの長い髪をくすぐって過ぎ、ティリルの言葉を俺のところまで運んできてくれる。


 それは、俺の前では今まで一度も聞かせてくれなかった、儚くて脆くて、幽かな声。今にもティリルの姿が、霞となって消えてしまいそうだ。


「……お父さん、どうして私も連れて行ってくれなかったの?

 どうして、一人でどこかに行っちゃったの……? 

 どうして……。

 私、淋しいよ……」


 声が滲む。


 その声が、昨日不用意に飛び込んだティリルの部屋で見た、あの泣き顔を思い出させた。


「そりゃあ、……そりゃあね。ローザおばさんも……、ウェルもね。二人とも、とっても優しくしてくれるよ」


 名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。


 滲む目許を指先で拭い、明るい声を出そうと努めるティリル。


「二人とも、私が落ち込んでるの、すごく気にしてくれて。特におばさんは、見ていないようで見てくれているから、私が部屋に籠って泣いてるときはそっとしておいてくれるの。でもお腹が空いちゃって、どうしようかなって夜中にこっそり部屋を出たら、ちゃんと起きててスープを温めてくれるの。

 ありがとうございますって、言ったの、ちゃんと聞こえたかな。ちっちゃい声になっちゃったから、聞こえてなかったら、やだな」


 そんなことあったんだ。俺は驚いた。


 母さんはまぁ、ああいう人だし。ティリルが辛いのはわかって、それで俺に「そっとしておけ」って言ったんだと思う。それはそうだったんだろう。


 でも、そっとしておくだけじゃないんだ。ちゃんと、ティリルが部屋を出てくるのを待ってたんだ。そういうとこ、ホント、すごいなと思う。


「ウェルも……、ウェルもね、昨日町へ誘ってくれたの。私を元気付けようとして、市場に連れていってくれたり、貸本屋に連れていってくれたり、いっぱいしてくれた。洋服屋さんにも行って、飾られてた服を買ってくれるって言ってたの。私が前にかわいいなって思って見てたの、覚えてくれてたみたい。ああ見えて、ウェルも細やかなんだ。優しいんだよね」


 うっそ、バレてたのかよ。完璧な計画だと思ってたんだけどな……。


「でもね、ウェル……、……ひとことも――」


 ティリルの声が急に小さくなる。


 両手で口許を押さえて、眉を顰めて。不満げに顔を歪めながら、両手の内側で口だけ動かして。


 なんだよ、なんて言ってんだよ。今一番大事なとこじゃん。すっげぇ気になるじゃん!


「私はね。ウェルに、…………。…………、言って…………たんだ」


 くっそ、俺が何だよ。なんて言ってたんだよ。俺何か悪いこと言ったか? 全然わかんねぇ。


「……お父さんだったら、……てくれたのに」


 びくり、と肩が震えた。


 おじさんだったら――? おじさんだったら、ティリルにこんな思いさせなかったのか? こんなことを言って泣かせなかったのか?


 俺じゃ、ダメなのか。俺じゃ足りないってのか。


 胸の裡。もやもやした思いが強くなった。


 ティリルはいつの間にか、口許から手を離していた。





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