尾行
「あれ?」
支払いを済ませ、席に戻って三人を待っていた司は、困惑した様子で帰って来た華を見て怪訝そうな顔をした。
「母さんだけ?怜達は?」
「それがね、何だか良く分からないんだけど…。」
華が先程の一部始終を話すと、司は血相を変えて立ち上がった。
「母さん、俺も行って来る!」
「え!?司も!?…ちょっとっ、この荷物どうするのよ!?」
叫ぶ母の言葉など気にも留めず、司は走り出しながらポケットからスマホを取り出した。
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「あ、お兄ちゃん、こっち!」
不安げに窓の外を見つめていた咲は、コーヒーショップの店内に入って来た兄の姿を見付け、ほっとした表情を浮かべた。
「咲、怜は?」
「向かい側にあるカフェの中。ほらあそこ。」
咲が座る窓際の席の向かいに腰かけ、道路を挟んだ向かい側のカフェを見ると、窓際の席に座っている怜の姿が確認出来た。その向かいにはショートヘアの女性と男の子が座っている。
「いらっしゃいませ!ご注文はお決まりでしょうか?」
「アイスコーヒーを。」
「畏まりました。すぐお持ちします!」
少しばかり顔を赤らめた、やけにやる気に満ちている女性店員が立ち去ると、咲は既に自分の手元に来ているアイスカフェオレに口を付けた。
「でも、あの女の人、怜さんと一体どういう関係なのかな。怜さんの反応からして、あまり良くない関係だとは思うけど…。」
「おそらく、怜の中学二年生以前の知り合いだろうな。」
司は怜を見遣りながら答えた。そしてきっと、怜への嫌がらせに何らかの形で関わっていた人物だろう、と思いながら。
「え!?何でそんな事分かるの!?」
咲は目を丸くして兄を見つめた。
「あの女性、怜の事を水野、って呼んでいたんだろ?」
「うん。」
「怜が中学二年生の時、お母さんが雪原良輝さんと結婚している。その時に怜の名字も雪原に変わったんだろう。つまり怜はそれまでは別の名字、お母さんの旧姓を名乗っていた筈だ。それが水野なんだろうな。」
「へえ…って、何で水野が怜さんのお母さんの旧姓になるの?怜さんのお父さんの名字かも知れないじゃん。それに怜さんは水野じゃない、人違いだって言っていたよ?」
「怜のお父さんの名字は藤堂だ。怜のお父さんは、お母さんと結婚する前に亡くなってしまったらしい。それに怜は実際に今水野姓じゃない。それでなくても怜の反応からして、彼女に関わりたくなくて人違いを装った事は十分に考えられる。」
「おお、成程。」
「ついでに言うと、怜は眼鏡の有無で別人のように雰囲気が変わるからな。転校して以降はずっと伊達眼鏡をかけてきたのに、眼鏡無しの怜の面影を認識出来て、かつ怜の名字が変わった事を知らないって事は、中二以前の彼女しか知らないって事だろ。」
咲は感心して目の前の兄を見た。先程の女性店員が運んで来たアイスコーヒーを受け取り、心配そうに向かい側のカフェを見つめる兄がいつもより頼もしく見える。
「お兄ちゃんやっぱり頭良いね。」
「そうか?これくらい普通だろ。」
「…って言うか、怜さんのお継父さんのフルネームとか、お父さんの名字とか、お母さんと結婚する前に死んじゃってた事とか、私今初めて聞いたし!お兄ちゃんずるい!!」
口を尖らせて喚く咲を適当に宥めながら、司は怜を見遣る。すると、ずっと無表情だった怜が、少し口元を緩めたように見えた。
「…どうやら大丈夫そうだな。」
「え!?あ、本当だ。怜さん微笑んでいるね。」
大事には至らないようで、司も咲もほっとして頬を緩めた。それから暫くして、怜と男の子連れの女性が席を立った。カフェを出て別れ、怜の姿が視界から消える。
「俺達も行くか。」
「そうだね。」
会計を済ませて二人がコーヒーショップを出た時だった。
「お疲れ様です、司さん、咲さん。」
「「うわあっ!?」」
背後からいきなりかけられた声に驚いて振り返ると、無表情の怜が出口の死角から現れた。
「れ、怜。どうしてここに?」
「それはこちらの台詞です。…と言いたい所ですが、お二人共私を心配して来てくださったんですよね?ありがとうございます。」
にこりと微笑む怜は、いつもの穏やかな雰囲気に戻っている。良かった、と二人は胸を撫で下ろした。
「怜さん、私達の事気付いていたの?」
「勿論です。向かいのコーヒーショップに物凄くお似合いの美男美女のカップルが居ると、カフェの店内でちょっとした騒ぎになっていましたから。」
「…まさかとは思うが、それは俺達の事じゃないよな?」
「何処からどう見ても、そのまさかでしたが。」
「頼むから止めてくれ。」
司が心底嫌そうな表情を浮かべて溜息をつくと、何よー、と咲が頬を膨らませた。
「今度から尾行される時は、変装される事をお勧めします。そのままだとお二人は注目を集めますから、すぐに気付かれてしまいますよ。」
クスリと笑う怜に、二人共毒気を抜かれて苦笑した。
「ところで、華さんのお姿が見えませんが、今はどちらに?」
「ゲッ!!忘れてた…。」
漸く母の存在を思い出した司は青ざめる。
「忘れてたって?…まさか、お母さんから話聞いてすぐに、荷物毎お母さん置いて飛び出して来た訳じゃないよね?」
「…そのまさかだ。」
「本当に!?…あーあ、お兄ちゃんやらかしちゃったね。せめて荷物と一緒にタクシーに乗せるくらいしてから来れば良かったのに。お母さん絶対怒っているよ。」
「だろうな…。兎に角すぐ戻るぞ。」
司は左手で頭を抱えながら、右手でスマホを取り出して母に電話する。案の定、母は相当に臍を曲げ、先程の喫茶店で追加のケーキをやけ食いしている所だった。喫茶店に戻り、母に平謝りしながら荷物を回収して車に詰め込む。意外とすぐに母の機嫌が戻ったのは偏に怜が取り成してくれたお蔭で、それがなかったら帰りの車内でもずっと怒鳴られ続けていたに違いない。




