意識
「遅いな…。」
温泉から上がり、待ち合わせ場所の休憩室で明と富士山を眺めながら、腕時計を確認した司は溜息をついた。
「仕方ないさ。女の子は髪を乾かしたり化粧し直したり、何かと時間がかかるからな。それに咲はいつも長風呂だし。まあ気長に待ってやろうぜ。」
「分かっている。」
咲に強請られて温泉に来る事になった時点で、こうして待つ羽目になる事は織り込み済みだ。司の苛立ちの主な原因は他にある。
「あの~、すみませぇん。」
女性の鼻にかかった声に、司はまたか、と更なる苛立ちを覚えた。これで三回目だ。
「お二人でご旅行ですかぁ?私達も二人なんですぅ。良かったらご一緒しませんかぁ?」
「あー、悪いね。俺達は人を待っているんだ。」
こういう場合は明に返答を任せているが、それでも声を聞いているだけで苛々してくる。
「君達は何処から来たの?」
「東京です~。」
「奇遇だね。俺達も東京から来たんだ。」
「キャ~!本当ですかぁ!?」
司は大袈裟に溜息をついて席を立った。明に任せていれば確かに返答はしなくて済むが、暇潰しに会話を楽しむ明には付いて行けない。しかも東京から来たとなると話は長くなりそうだ。
休憩室を出て元来た道を戻って行く。女湯の前まで様子を見に行ってやろうか、と思っていると、咲の声が聞こえてきた。
「だから、人を待たせているんですってば。」
「いいじゃん。そっちの彼女、具合悪そうじゃん?俺達が介抱してあげるからさ。」
「結構です。あなた方の手を煩わせる程ではありませんので。」
はっきりと聞こえた怜の声に、司は慌てて駆け付ける。
「怜、咲、どうかしたのか!?」
「あ、お兄ちゃん!良い所に。」
周りを数人の男性に囲まれていた咲は、司の顔を見るなりほっとした表情を浮かべた。
「君達、俺の妹に何か用か?」
思いっ切り睨み付けながら近付くと、男達はそそくさと立ち去って行った。
「助かったよお兄ちゃん。意外としつこくて手こずっていたんだ。」
「全く。遅いと思ったら、まさかこんな事になっていたとはな。」
「すみません。私が少しのぼせてしまって、休ませて頂いていたんです。」
咲の後ろから顔を出した怜に、司の心臓が跳ね上がった。上気した顔に潤んだ瞳、少し気だるげな姿に思わず見惚れる。だがすぐに我に返った。
「のぼせたって、大丈夫なのか?」
「はい、もう大丈夫です。お待たせしてしまって申し訳ありませんでした。」
「いや、構わないよそれくらい。休憩室で少し休んで行こう。」
司に二の腕を取られ、怜の顔は熱くなった。咲とあんな会話をした直後では嫌でも意識してしまう。
「だ、大丈夫です!一人で行けますからっ。」
怜は思わず司の手を振り払ってしまった。ショックを受けたような司の表情に罪悪感を覚えるが、これ以上触れられていたら別の意味でのぼせてしまう。
「す、すみません。…私先に行っていますね。」
居た堪れずに小走りで休憩室に向かう怜の後ろ姿を、司は呆然と見つめていた。
「…咲、俺、何か変な事したか?」
腕を触ったのがいけなかったのだろうか。嫌われてしまったのかと不安になりながら、司は縋る思いで咲を振り返る。
「ううん。多分怜さんが、漸くお兄ちゃんの事意識しただけよ。」
「え?」
咲の言葉に、司は目を見開いた。
「さっき温泉で怜さんに訊いてみたんだけど、お兄ちゃんの気持ち、怜さんに全然伝わっていなかったみたい。婚活が嫌になったから、手近な自分で済まそうって言う考えだと思っていたみたいよ。」
「なっ…!?」
司は言葉を失った。色々と思い悩み、思い切って伝えた自分の想いが完全否定されたようで、頭から血の気が引いていく。
「フォローしておいたけど、今一実感出来ていないみたい。それに、怜さんは自己評価が低いみたいなの。自分の事を、人間不信を拗らせた面倒臭い貧乏女、って言っていた。」
「そんな…!俺にとって彼女は「はいストップ。そんな事私に言っても仕方ないでしょ。そういう事は本人に直接言ってあげて。」
「…分かった。ありがとう、咲。」
休憩室に向かいながら、司は心を決めた。一度言って伝わらなかったのなら、この先何度だって言ってやる。彼女は自分にとって、初めて好きになった唯一無二の女性なのだから。




