わたし、お兄様を愛しているの
眩しい光の中で、幼い自分たちが笑っていた。
土の匂い、風の音、そして、兄フェリクスの温かな掌。
「ソフィアは、本当に優しいね」
その声に包まれながら、世界は穏やかな眠りの中にあった――。
微かな木の脂の香りと、古い紙が乾いたような匂いが、ソフィアを現実に引き戻した。
重い瞼を開けると、埃の粒が午後の柔らかな光に踊っているのが見えた。
(……ここは、どこ……?)
ソフィアは、自分が使い古されたソファの上に横たわり、柔らかな毛布を掛けられていることに気づいた。
傾いた陽光に照らされているのは、簡素な木の机と、今は冷え切った古い暖炉。かつて大人たちの目を盗んで、兄たちと共に過ごした、森の奥の小さな小屋だ。
窓の向こう、木々の隙間からは、ハリントン伯爵邸の重厚な裏側の壁が遠くに見える。
ソフィアは一瞬だけ、時が戻ったかのような錯覚に陥った。だが、急速に蘇るオルディナでの光景が、その安らぎを恐怖に塗り潰した。
(そうだわ。わたし、オルディナで……お兄様に捕まって……)
腕を掴まれたときの衝撃、馬車の中に引きずり込まれたときの絶望、そして、鼻を突いた薬の甘い匂い。
ソフィアは反射的に自分の肩を抱いた。指先が触れた衣服越しに、七年前のあの夜の感触までもが蘇り、胃の底からせり上がるような吐き気が彼女を襲う。
同時に、数日前にオスカーが軍港の屋敷で告げた言葉が脳裏をよぎった。
『母さんが兄さんに言ってたんだ。〝お前を屋敷に連れてこい〟って』――。
(……つまり、これはお母様の指示ってことね。でも、どうして屋敷ではなく、この小屋なの……?)
そのとき、古びた扉が重く、軋んだ音を立てて開いた。
「――っ」
ソフィアは短い悲鳴を飲み込み、ソファの上で身を強張らせた。
入ってきたのは、フェリクスだった。手には水の入ったグラスを携えている。その表情は驚くほど静かだったが、顔色は死人のように青白かった。
「気がついたか、ソフィア。……気分はどうだ? すまない、あんな手荒な真似をして。喉が渇いているだろう」
フェリクスが静かに歩み寄り、グラスを差し出す。
やはり、自分をここに運んだのは兄だった。その事実に、ソフィアの体は拒絶を示した。グラスを受け取ることができず、ソファの端へ、這うようにして後ずさる。
差し出されたフェリクスの手が、空中で止まった。
彼は自嘲気味に口角を歪めると、グラスを机に置く。
「……そうだな。怖いよな。私が、お前を壊したのだから」
掠れた声は、まるで自分自身を呪っているかのようだった。フェリクスは一歩、二歩、と後退し、ソフィアから距離を取る。
「母上から聞いた。お前が夫と上手くいっていないと。……それは、本当か?」
ソフィアは言葉に詰まった。
上手くいっていないわけではない。ただ、彼とはそもそも、「契約」で結ばれた仲だというだけ。それを、兄にどう説明すればいいのか。
沈黙を肯定と受け取ったのか、フェリクスの瞳に、深い絶望が宿る。
「何も言わないか。……なら、イシュと国外へ逃げようとしていたというのは?」
やはり、ソフィアは答えられない。
その沈黙が、フェリクスの罪悪感に火をつけた。
「すまない、ソフィア。全部、私のせいだ。七年前、私は自分の心を制御できず、お前を傷つけた。お前から男への信頼を奪ってしまった。……お前を、一生消えない恐怖の中に閉じ込めてしまった。だから……お前は……」
フェリクスは、視線を床に向け、拳を握りしめる。
「本当は分かっていたんだ。オルディナでお前の姿を見つけたとき、お前をあのまま行かせるべきだったと。……だが、体が言うことを聞かなかった。母の命令が蘇り、私の脚はお前を馬車へと運んだ。私はもう、私自身ですらいられない。母の操り人形だ」
「……っ」
「ソフィア……お前は信じられないかもしれないが、私はお前の幸福を心から願っている。だが……実際は、こうしてお前を地獄へ引き戻すことしかできない。……ソフィア、私は……どうしたらいい?」
ソフィアは、胸を抉られるような痛みを覚えた。
確かに、母の勧める縁談を拒み、レイモンドを結婚相手に選んだ遠因は、あの事件にあったのかもしれない。
けれど、ソフィアは知っていた。跡取りであるフェリクスが、あえて外交官という職を選んで家を空け続けていたのは、これ以上、妹を怖がらせないためだったということを。
「……お兄様。お願い、そんな顔をしないで」
ソフィアは震える声で言った。
怖い。逃げ出したい。けれどそれ以上に、兄を覆い尽くす孤独が、彼女の心を繋ぎ留めた。
「わたしは……お兄様を怖がってしまう自分が嫌だったの。お兄様が大好きだから……愛しているからこそ、怖がっている姿を見せたくなかった……。だから、逃げたのよ。お兄様を、これ以上傷つけたくなくて。――だって、わたし、ずっと前から気づいてたから。お兄様が、お母様に打たれていたこと。それを、止めたくて……でも、何もできなくて……せめて、お兄様の迷惑にならないようにしなきゃって……」
「――!」
大粒の涙が、ソフィアの頬を伝い落ちる。
「なのに、逃げたの。……お兄様を置いて、逃げたのよ。だから……弱いのは、お兄様じゃないわ。お兄様はずっと、わたしたちを守ってくれた。わたしは……それを知っていたのに……」
本当はわかっていた。自分が〝いい子〟でいるからといって、母の折檻が止むことはないだろうと。
ただ自分は、正当化したかっただけなのだ。自分は兄の負担になっていないと、免罪符にしたかった。――それだけだった。でも。
「聞いて、お兄様。離縁のことは、お兄様のせいじゃないの。わたしと旦那様の結婚は、最初から三年の契約だったのよ。国外に行く計画も、三年前からイシュと立てていたもの。それはお兄様のせいじゃないわ。わたしが、わたしとして生きたかったからなのよ」
ソフィアは、誰にも言えなかった真実を兄に晒した。
「わたしね……『サーラ・レーヴ』っていうブランドを経営しているの。昔、ドレスを破ってしまったあの日……あんなに悲しいことが起きないように、誰でも楽に着られるドレスがあったらいいのにって。それを、イシュに手伝ってもらっているのよ」
かつての傷痕が、今は自分の誇りになっている。ソフィアは涙を拭い、兄を真っ直ぐに見つめた。
「確かに最初は、この家から逃げるための口実だったのかもしれない。でも今は、自分のブランドが、わたしの夢が、本当に大切なの。だから帝国に行こうと思った。イシュと一緒に、もっと沢山の服を作って、沢山の人の手に取ってもらいたいって。……だから――」
フェリクスは呆然としてソフィアを見つめていた。唇がわずかに震える。
「……お前の離縁は、私のせいではないと……そう言うのか?」
「ええ。だから、自分を責めないで、お兄様。……わたし、お兄様を愛しているのよ。本当よ」
その瞬間、フェリクスの顔が、初めて子供のようにくしゃくしゃに歪んだ。
母に折檻された時ですら、一度も涙を見せなかった兄が、声を押し殺して泣き始めた。
「……ソフィア、すまない……。本当に……すまない。弱い兄で……」
「弱いのは、わたしも一緒よ」
ソフィアはそっと、フェリクスの大きくて逞しい掌を包み込んだ。レイモンドほどではないけれど、大人の男の手だ。
幼い頃、この手に頭を撫でられるのが大好きだった。
「……お兄様、もう一度、わたしの頭を撫でてくださらない? ね?」
「……いい、のか?」
「もちろんよ。わたしも、ずっと望んでいたの。お兄様と、またこうやって笑い合える日を――」
フェリクスの大きな手が、おずおずと、けれど慈しむようにソフィアの髪を撫でた。
その温もりに、ソフィアは心を決める。
この優しい兄のためにも、母と立ち向かわなければならない。もう、逃げているだけの自分は終わりにしなければ――と。




