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痛いの痛いの、とんでけ!


 ソフィアの記憶の底にある風景は、いつも眩しいほどの木漏れ日に満ちていた。


 屋敷の裏手に広がる小さな森。そこは、ソフィアと二人の兄たちにとって、誰にも邪魔されない秘密の王国だった。

 表の庭園のように美しく刈り込まれてはいないけれど、土の匂いがして、鳥たちが自由に歌っている。


「ソフィ、早く!」

「待って、オスカーお兄さま!」


 風をまとうように駆けていく三歳上の次兄、オスカーの背中を、六歳のソフィアは笑い声を上げながら追いかけた。

 転んでドレスに少し泥がついても、平気だった。


「二人とも、あまり遠くへ行ってはいけないよ」


 後ろから、穏やかな声が追いかけてくる。六歳上の長兄、フェリクスだ。彼はいつも、無鉄砲なオスカーと、その後ろをついて回るソフィアを、少し離れた場所から優しく見守っていた。


 ソフィアは、二人の兄が大好きだった。そして、美しく完璧な母と、威厳ある父のことも、心から尊敬していた。

 私たちの家は、愛に満ちている。ソフィアは疑いもなくそう信じていた。



 そんなある日のこと。

 いつものように兄たちと裏庭で遊んでいるとき、木陰で休んでいたフェリクスの袖がめくれ、白い腕に青紫色のあざがあるのが見えた。


「……お兄さま、怪我してる?」

「ああ、これはね。剣術の稽古で、少し打ち身をしただけだよ」


 フェリクスは慌てて袖を下ろし、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。


「痛そう……」

「大丈夫だよ。僕は長男だからね。家を守るために、強くならなきゃいけないんだ。これはそのための勲章だよ」


 そう言って、フェリクスはソフィアの頭を優しく撫でた。

 ソフィアはその言葉を素直に信じた。


(お兄さまはすごい。家のために頑張っているんだわ)


 だから、ソフィアは兄のために、小さなおまじないをかけた。


「痛いの痛いの、とんでけ!」

「ありがとう。ソフィアは本当に優しいね」


 フェリクスは目を細め、嬉しそうに微笑んだ。

 その笑顔が、ソフィアにとっての世界の全てだった。



 それから半年が過ぎたころ。

 その日、屋敷は朝から、心地よい緊張感に包まれていた。


 重要な来客があるため、母ヴィクトリアは完璧な準備を整えていた。ソフィアも、母が選んでくれた最高級のレースがあしらわれたドレスを着て、お姫様のような気分だった。

 母の役に立ちたい。いい子にして、褒めてもらいたい。そんな無邪気な思いで胸がいっぱいだった。


「なぁソフィ、少し、外の空気を吸いに行かないか?」


 準備に飽きたオスカーが、悪戯っぽくウィンクをした。ソフィアは嬉しくなって頷き、二人でこっそりとテラスへ出た。


 ほんの少しのつもりだった。

 けれど、美しい蝶を追いかけて、ソフィアは薔薇の植え込みに近づきすぎた。


 ――ビリッ。


 刹那、乾いた音が、世界を止めた。

 振り返ると、繊細なレースの裾が薔薇の棘に引っかかり、無残に裂けてしまっていた。


 さあっと血の気が引いた。オスカーも顔面蒼白になっている。

 約束の時間は迫っている。着替え直す時間があるだろうか。



「……あの、お母さま。ごめんなさい、ドレスが……」


 だが、部屋に戻ったソフィアを見た母は、怒らなかった。

 鏡の前で髪を整えていた母は、裂けたドレスを鏡越しに一瞥し、ゆっくりと振り返った。


 その表情は、能面のように静かだった。


「……ソフィア」


 母の声は、いつも通り優雅で、落ち着いていた。けれど、なぜだろう。その声を聞いた瞬間、肌がぞわりと粟立ったのは。

 まるで、冷たい水の中に放り込まれたような寒気がした。


「このドレスを着付けるのに、どれほどの時間がかかるか、わかっているわね?」


 母は静かに、諭すように言った。


「もし、このせいで約束の時間に間に合わなくなったら、お客様はどう思うかしら。『ハリントン家は、約束の時間も守れないのか』と失望されるわね。それは、家の名誉を汚すことなのよ」

「ご、ごめんなさい……」

「謝罪は結構よ。――いいこと、ソフィア。この不始末の罰を受けるのは、あなたではないの」


 母の視線が、ソフィアの背後に控えていた侍女に向けられた。


「あなたのお世話を完璧にできなかった侍女か……それとも、あなたを監督する責任を負っているお兄様方かしら? わかるわね」


 ソフィアは息を呑んだ。

 自分が叱られるのではない。自分のせいで、誰かが罰を受ける?

 その意味がすぐには理解できず、ソフィアは呆然とする。


「待ってください!」


 耐えきれず、オスカーが前に出た。


「俺が誘ったんです! ソフィアは何も悪くない!」


 必死に妹を庇おうとするオスカーを、母は冷ややかに見下ろした。その瞳には慈悲の欠片もなく、ただ「浅はかだ」と断じる侮蔑の色が映っている。


「……オスカー」


 だが、母が口を開いた、その時だった。


「母上」


 いつの間にか部屋に来ていたフェリクスが、音もなく二人の前に進み出た。


「騒ぎ立てて申し訳ありません。これは、長子である私の責任です」


 フェリクスは、迷いのない瞳で母を見つめた。そこには、すべてを受け入れた者の、悲しいほどの覚悟があった。


 母は、ゆっくりとフェリクスを見つめる。

 そして、ふわりと、優雅に微笑んだ。その微笑みは美しく、そして凍り付くほどに恐ろしかった。


「立派だわ、フェリクス。嫡男としての自覚を持ったのね」


 母の声は甘く、しかし残酷な響きを帯びていた。


「いいわ。あなたに免じて、この二人は許しましょう。あなたは来客の応対が済み次第、わたくしの部屋にいらっしゃい。いいわね?」


 刹那、フェリクスの肩がほんの一瞬だけ強張ったのを、ソフィアは見た。

 けれど彼は、何も言い返すことはなく、深く頭を下げるだけ。


「……はい、母上」


 母はそれ以上何も言わず、侍女たちにソフィアの着替えを命じると、部屋から出ていった。


 重苦しい静寂の中、フェリクスは顔を上げ、ソフィアを振り返る。

 兄の顔色は少し青ざめていたが、ソフィアと目が合うと、いつも通り、優しく微笑んでみせた。


「大丈夫だよ、ソフィア。……さあ、急いで着替えておいで」

「……はい、お兄さま」


 そのときは、まだ気づかなかった。

 母の言葉の意味も、兄の笑顔の理由も。


 それを知ったのは、その日の夜――偶然廊下を通りがかった際、母親の部屋から、フェリクスの呻き声が聞こえてきたとき。その後、部屋から出てきた兄の、青白い顔を見てしまったときだった。


「……お兄……さま……?」


 光を失った目で、足を引きずって歩く兄――その姿を見た瞬間、ソフィアの中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。


「……そんな、……嘘」


 これまで何度も目撃した、兄の体についた無数のあざ。母親の冷たい言葉と態度。全てが繋がった。

 兄のあざは、勲章なんかじゃない。母に付けられた傷だ。

 そして今、自分のせいで、愛する兄が傷つけられたのだ。――それは幼いソフィアにとって、何事にも代えがたい恐怖だった。




 翌日から、ソフィアは変わった。


 大好きだった裏園には行かなくなった。兄たちからの遊びの誘いも、すべて断った。

 代わりに、母が好む刺繍やピアノの練習に没頭した。


「ソフィア、外へ行かないの? 今日は天気がいいよ」


 心配そうに覗き込むフェリクスとオスカーを前に、ソフィアはにこりと笑う。

 鏡の前で何度も練習した、一点の曇りもない無邪気な笑顔を張り付けて。


「ううん。わたし、今からお母さまとピアノを弾くの。最近、とっても楽しいのよ」


 嘘だった。

 本当は、また三人で駆け回りたい。木登りもしたいし、川でずぶ濡れになって笑い合いたい。

 けれど、自分のせいで大好きな兄たちが叱られるのを見るのは、もう二度と嫌だった。あんな恐ろしい母の目を見るのは、もう耐えられない。


(わたしがいい子にしてさえいれば、誰も傷つかない。そうよ。わたしがちゃんとしていれば……)


 ただ、それだけだった。ただ、怖かったのだ。自分のせいで、優しい兄が壊されていくのが。

 だから、ソフィアは心を殺した。


 演じ続けよう。母が望む娘を。誰からも文句を言われない完璧な淑女を。

 そうすれば、大好きな兄はもう、あんな風に痛い思いをしなくて済むはずだから。


 その日から、ソフィアは演技を始めた。

 いつしかその仮面が皮膚のように張り付き、本当の自分が何を望み、何に喜びを感じていたのかさえ、思い出せなくなってしまうとも知らずに。


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