ソフィア……無事でいてくれ
四頭立ての馬車は、石畳を蹴り上げ激しく揺れている。
オルディナの喧騒が遠ざかるにつれ、車内は重苦しい沈黙が満ちていた。窓の外には、活気あふれる港町の雑踏がいつしか消え、代わりに豊かな緑と整然とした農地が広がる。しかし、車内の三人には、その美しい風景を眺める余裕などなかった。
レイモンドはイシュ・ヴァーレンを鋭い視線で見据えていた。隣には、ソフィアの侍女であるアリスが、顔面蒼白で身を縮めて座っている。馬車の振動に合わせて、アリスの手が膝の上で小さく震える。
レイモンドの胸には、焦燥が渦巻いていた。この男が、今、自分の妻を連れ去った犯人を追う馬車の中で、主導権を握っている。その事実が、レイモンドの苛立ちを加速させた。
最初に口を開いたのはレイモンドだった。
「それで――フェリクスがソフィアを連れ去った、とは、どういうことだ。説明しろ。それに、なぜソフィアがオルディナにいた?」
レイモンドは冷静さを保ちつつ、低い声で核心を突いた。
イシュは静かに目を細め、レイモンドを見返す。その瞳には、焦りも怯えもない。
「君の質問に答えるには、まず僕と彼女の関係を君に理解してもらう必要がある」
イシュは言葉を区切り、真剣な眼差しでレイモンドを見つめた。
「僕と彼女は仕事のパートナーだ。それは知っているかい?」
「ああ。彼女から聞いている」
イシュは一つ頷くと、淡々と語り始める。
「彼女は、君との契約結婚を終えたら帝国へ渡り、新しい生活を始める予定だった。もともと、そういう計画だったんだ。でも事情が変わった。僕が急遽イシュラに戻ることになり、彼女を帝国へ連れていくことができなくなったからだ。さらに、フェリクス卿の次の赴任先が帝国であることが決定した」
その言葉に、レイモンドの胸がざわめいた。ソフィアが結婚生活の後に国外で新しい人生を計画していた事実は、彼にとって決して小さくない衝撃だった。
三年間の生活が、彼女にとってはただの通過点でしかなかったのか――そんな思いが、じわりと胸に広がる。
「だから僕は、一週間前、彼女を誘ったんだ。『僕と一緒にイシュラへ行かないか』と。それが、さっき僕が乗ろうとしていた船だよ。……残念ながら、彼女は断りに来ただけだったみたいだけど」
「!」
イシュはわずかに肩をすくめ、隣のアリスを一瞥する。
――刹那、レイモンドの心臓がドクリと跳ねた。
こんな非常事態だというのに、彼女がイシュと共に去る選択をしなかったことに、安堵し、さらには暗い喜びすら感じている自分がいる。
同時に、腑に落ちる感覚もあった。ここ最近、彼女の態度に感じていた違和感。何かを隠し、迷っているような様子。その理由はこれだったのか。
「つまり……彼女の帝国行きは、ハリントン家にすら秘匿されていたと、そういうことか?」
「ああ、その通りだよ」
「理由は?」
「そんなの決まってる。実家に知られれば、止められるからさ」
イシュは窓の外、広がる牧草地に目をやりながら続けた。
「この国の貴族社会は古い。特にハリントン家のような名門は、伝統が全てといっても過言ではない。女性は家のために結婚し、子を産んでようやく発言権が得られる。女性が自由に将来を選ぶなど許されない。彼女のような才能ある女性にとって、鳥籠同然の世界だよ」
「……鳥籠」
イシュの言葉に、レイモンドは無意識に拳を握った。
確かに、イシュの言葉は理解できる。だが、これまでソフィアが実家のことを悪く言うところなど、ただの一度も見たことがない。
しかし、隣のアリスの横顔を盗み見れば、それが紛れもない事実であることが痛いほど伝わってきた。アリスは、主人の苦悩を知り尽くしている者の顔をしていた。
「……概ねは理解した。だが、やはり腑に落ちない。ソフィアが俺との離縁後にどういう計画でいたのかはわかったが、それがどうして、フェリクスがソフィアを連れていくことに繋がるんだ?」
レイモンドの問いに、イシュは視線を鋭くした。「それは――」と言いかけ、一度言葉を飲み込み、アリスに視線を送る。
アリスがおずおずと頷くのを待ち、イシュは再び口を開いた。
「彼女の母親が、君たちが離縁するつもりだと疑っているからだ」
「……何だと?」
レイモンドは息を呑んだ。
(契約結婚の事実を知る者は限られているはずだ。いったい、どこから情報が漏れた……?)
その瞬間、レイモンドの脳裏に、三日前の記憶がよぎる。
――軍港の屋敷のダイニング。夕食時。
『今日、君の兄が来たらしいな?』
レイモンドの問いかけに、ソフィアはフォークを止めた。
『ええ。久しぶりに国に帰ってきたから、顔を見るためにこちらに寄ってくださったの』
あの時の、微かに強張った笑顔。不自然な間の取り方。
レイモンドはハッとして顔を上げ、アリスを睨んだ。あの時ソフィアの様子がおかしかったのは、兄のオスカーに離縁のことを話してしまったからではないのか。
「もしや、オスカー・ハリントン卿が……?」
「違います!」
アリスが弾かれたように顔を上げ、声を張り上げた。
「オスカー様は何も知りません! ただ、知らせてくださったのです! 実家で大奥様とフェリクス様が話しているのを偶然耳にしたと……奥様と旦那様が離縁するというのは本当かと、心配して――」
レイモンドはアリスの必死な表情に、嘘はないと悟った。イシュが更に補足する。
「それと、もう一つ――君が知っておくべき事実がある」
まだあるのか。レイモンドは顔をしかめた。これ以上、何を聞かされるというのか。
イシュは淡々と、しかし決定的な言葉を告げた。
「フィアは七年前、フェリクス卿に襲われかけた。僕は偶然その場に居合わせて……未遂だったけど、そのときできた心の傷は、今も癒えていない」
――ガツン、と、頭を殴られたような衝撃がレイモンドを襲った。思考が一瞬、白く弾ける。
「……な、……に?」
レイモンドは絶句した。喉が引きつり、うまく声が出ない。
ソフィアが実の兄に襲われかけた? そんな馬鹿な話があるものか。
しかし、アリスが口元を押さえて震えている様子と、イシュの瞳の奥にある昏い光が、それが真実であることを残酷なまでに物語っていた。
「彼女はそのとき十六歳だった。……領地のマナーハウスで開かれた舞踏会で、フェリクス卿は酒に酔い、妹だとわからず手を出してしまったんだ。それを止めたのは、オスカー卿。彼はフェリクス卿を殴り飛ばして……僕が行ったとき、フェリクス卿は床で伸びていたよ」
「――っ」
「だが、その事件のことを、彼女の両親は何も知らない。あの場に居合わせたのは、オスカー卿と僕、そしてアリスの三人だけだ」
「……馬鹿な。オスカーは、両親に報告しなかったのか?」
レイモンドは、まるで底なしの沼に引きずり込まれるような、抗い難い吐き気に襲われた。
イシュは冷ややかに答える。
「もちろん報告しようとしたさ。でも、フィアが止めたんだ。もし両親が知れば、フェリクス卿は罰せられてしまう。それを危惧したんだろう。――でもその結果、フェリクス卿を意味もなく殴ったとして、オスカー卿が咎められた。彼はもともと両親とそりが合わなかったのもあって、最終的に、実家にいられなくなったんだ」
レイモンドの全身から、力が抜けていく。
フェリクスがソフィアを連れ去った理由。ソフィアが国外へ逃亡しようとした理由。レイモンドがソフィアから感じていた、どこか一線を引いているような違和感。全てが、この恐ろしい事実によって一本の線で繋がってしまった。
「……ソフィアは、そんなこと一言も」
「逆に聞くけど、そんな醜聞、君に話せると思う? 形だけの夫に話すとでも? 僕だって、あの場に偶然居合わせたから知っているだけなんだ。そうじゃなければ何も知らないまま……当然、今この場所にもいなかっただろうね」
「…………」
イシュの言葉が、鋭利な刃物のようにレイモンドの胸を抉った。
確かにその通りだ。そんな醜聞、話せるはずがない。未遂かどうかの真偽など、他人には証明できない。話せば好奇の目で見られ、あらぬ噂を立てられるだけだ。メリットなど一つもない。
それがわかっていたから、オスカーもまた、自分が泥を被ることで妹を守ったのだ。
レイモンドは深く目を閉じ、感情を押し殺した。
自分は何も知らなかった。ソフィアが抱えていた深い闇も、彼女を守るために矢面に立ったオスカーのことも。
だが、今は自分を責めている場合ではない。
ソフィアの実家が、娘に直接的な危害を加えるとは考えにくい。フェリクスとて、悪気があったわけではないのかもしれない。
だが、今、かつての加害者である兄と、閉ざされた馬車の中にいるであろうソフィアが、いったいどんな気持ちでいるのか。恐怖で怯え、声を押し殺して泣いているのではないかと思うと、どうしようもなく胸が痛んだ。
(ソフィア……無事でいてくれ)
オルディナからハリントン領のマナーハウスまでは約三時間。
レイモンドは、はやる気持ちを抑えるように拳を握りしめ、馬車が一刻も早く目的地に着くことだけを祈った。




