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伝えなくちゃ。一緒には行けないって


 三日後の午前。ソフィアはアリスと共に、交易港オルディナへ向かう馬車に揺られていた。

 馬車が進むにつれ、窓の外の風景がオルディナ特有の活気と喧騒を帯びていく。


 その馬車の中で、ソフィアはこの三日間のことを思い出していた。


(無事に今日を迎えられてよかったわ)


 オスカーが訪れてからの三日間、ソフィアはレイモンドと多くの時間を過ごした。

 ヴェルセリアの屋敷は首都に比べて十分の一に満たない広さであり、どこにいても人の気配を感じる。夕方以降、レイモンドが帰宅すると必然的に顔を合わせることになった。

 首都ではせいぜい午後のティータイムと夕食を共にする程度だったが、こちらの屋敷では、夕食後の読書の時間でさえレイモンドと一緒だった。

 ときおりレイモンドが何か言いたそうに、ソフィアを見つめることがあったが――それさえも、不思議と居心地の悪さを感じることはなかった。

 少なくともこの三日間、レイモンドと過ごした時間は、ソフィアにとって心安らぐものだった。


 だが、だからといって、レイモンドのもとに残る理由にはならない。


(旦那様は、わたしを引き留めたいのよね、きっと。……でも、やっぱりそれは難しいわ)


 ソフィアは諦めに似た気持ちで小さく息を吐く。

 すると、アリスが落ち着かない様子でソフィアの顔を覗き込んだ。


「奥様、本当に、イシュ様と一緒に行かれなくてよろしいのですか?」

「ええ。もう何度も話し合ったでしょう? お母様が動かれているのだもの。このままイシュと一緒に国外へ行ってしまったら、イシュを面倒ごとに巻き込むことになってしまうわ」

「それは理解できますが……。かといって、旦那様のもとに残るつもりもないのですよね?」

「そうね。オスカーお兄様が言っていたでしょう? お母様は、わたしと旦那様の間に子どもができないことを気にしている。このまま旦那様と一緒にいたら、お母様はわたしではなく、旦那様をお責めになるわ。それだけは、絶対に駄目」


 ソフィアは遠ざかる風景を見つめ、静かに言葉を継いだ。


「どちらにせよ、お母様がわたしと旦那様の離縁に勘付いてしまった――そのことは、旦那様にお伝えしないといけないわ。でないと、イシュだけでなく、旦那様にも迷惑をかけてしまうことになる」


 アリスは心配そうに息を呑んだ。


「それはつまり、大奥様との関係をお伝えする、ということですか?」

「……できればそれは避けたいけど、状況によっては、話さないといけなくなるわね」


 侯爵である彼を、自分の不始末で巻き込むことだけは避けなければならない。


(彼を巻き込まないようにするためには、わたし自ら実家に戻るのが最善なのだけど……)


 ソフィアの心中では、まだ結論は出ていない。だが、何があろうとレイモンドを巻き込んではいけないと、それだけは決めていた。


「とにかく、今日はちゃんとイシュに伝えなくちゃ。一緒には行けないって……」


 ソフィアは決意を固め、前を向く。

 そうして馬車に揺られること二時間――正午を迎える少し前、ようやく、オルディナの交易港に到着した。



 船が出るのは午後一時。

 港は、異国からの船乗りや商人たちでごった返していた。潮の匂い、異国のスパイスの香り、人々の喧騒、そして活気が、馬車を降りたソフィアの周りを包み込む。

 ソフィアはアリスと共に船が停泊する桟橋へ向かい、乗る予定だった船を探した。


 帝国経由の貿易船だ。東洋風の装飾が施された、ひときわ目立つサイズの大型船――それはすぐに見つかった。

 だが、港は広く、桟橋までは人混みをかき分けて進まなければならない。荷物を積んだ荷車や、大声で指示を飛ばす仲仕なかしたちが行き交い、歩くだけでも一苦労だ。


「あれですよ、奥様。人が多いので、はぐれないようにしてくださいね」

「ええ、わかっているわ」


 ソフィアはアリスと寄り添い、船に向かって歩を進める。イシュとの待ち合わせは正午。きっともう、彼は桟橋で待っているはずだ。


 ――そのときだった。

 ソフィアは、背後から突然、強い力で腕を掴まれた。


「!」


 思わず息を呑み、反射的に振り返る。

 するとそこにいたのは――兄、フェリクスだった。



 一方、レイモンドもまた、オルディナへやってきていた。

 エミリオからの手紙を受け取ってから三日。軍務を中抜けするため朝早く出勤し、午前中の仕事を急いで終えて、馬を飛ばしてきたのだ。


 イシュの乗る船は、事前にエミリオから教えてもらっていたため、迷うことなく、その船が停泊する桟橋へと辿り着いた。

 レイモンドは馬を降り、外套を整えながら辺りを見回す。


 すると、船の乗船口近くで、見知った一人の影と、その隣に立つ長身の男を見つけた。


 その影は、ソフィアの侍女であるアリスだ。そしてその隣の男は――艶やかな黒髪に、射抜くような赤褐色の瞳。あの特徴的な容姿は、イシュ・ヴァーレンに違いなかった。


(なぜ、アリスがここにいる?)


 レイモンドは眉をひそめた。ソフィアはイシュを「仕事のパートナー」だと説明していたが、なぜ、今日のこの時間、アリスがこの交易港にいるのか。

 アリスはソフィアの侍女。つまり、ソフィアもここに……?


 不審に思いつつ、二人に近寄っていく。

 すると、すぐに異変に気づいた。アリスは顔面蒼白で、切羽詰まった様子でイシュに何か訴えていた。

 それを受け、イシュは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに険しい表情になり、近くにいた部下と思われる者たちに手短に指示を出すと、その場を離れていった。


(……何だ?)


 レイモンドはアリスの元へ急ぎ、声をかける。


「アリス、なぜ君がここにいる? ソフィアも一緒なのか」


 レイモンドの声に、アリスはハッと振り返り、顔を青ざめた。


「だ、旦那様! どうして、旦那様がここに……!」


 質問で返され、レイモンドはぎくりとした。

 ソフィアに隠れてイシュと会おうとしたことを、口にはできない。


「仕事でちょっとな」


 レイモンドは感情を抑え、素っ気なく答えてごまかす。


「それより、君はひとりか? ここで何をしている」


 レイモンドの問いに、アリスは激しく動揺した。

 ソフィアがイシュに会いに来たことを、当然、レイモンドは知らない。――それを言うわけにはいかない、と、口ごもる。


「あ、あの……わたくしは……その、イシュ様に……」


 アリスは言葉を詰まらせ、ただオロオロとするばかりだった。


(……この狼狽えぶりは、もしや)


 レイモンドの疑念が深まる。が、そのときだ。

 背後から、「ウィンダム候」と声がかけられる。――戻ってきたイシュだった。


「僕が説明するよ」


 その声は低く重く、瞳は以前にも増して鋭い。

 イシュはアリスの前に立ち塞がるようにして、レイモンドの視線を受け止める。


「フィアが、フェリクス・ハリントン卿に連れていかれた。今、馬車を手配しているから、君も一緒にきたらいい」

「!?」


 レイモンドは困惑する。


「どういうことだ……?」


 事態があまりにも急で、そしてあまりにも不可解だ。

 そもそも、どうしてソフィアとアリスがオルディナにいるのか。ふたりは自分と同じように、イシュに会いに来たということなのか。


 それに、フェリクスはソフィアの兄だ。その兄が、どうしてソフィアを連れ去る必要がある?

 ――何もかもが、レイモンドにはわからなかった。


 混乱するレイモンドを、イシュは冷静に見つめる。


「ハリントン卿が向かったのは彼らの実家だろう。詳しい話は馬車の中でするよ。それでいいかい?」

「……あ、ああ」


 レイモンドは、この不可解な状況と、事態の異常さに圧倒されるあまり、イシュの言葉に黙って従うことしかできなかった。


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