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あの男と、もう一度話さなければ


 同じ頃、レイモンドは沿岸警備隊の訓練に立ち会っていた。


 早朝は巡視船に乗り込み周辺海域の見回り。午後は新兵たちの未熟な操艦を見守りながら、自ら陣頭指揮を執る。


 海は荒く、うねりが容赦なく船体を揺らした。波しぶきが甲板を洗い、彼の纏う濃紺の軍用外套には、潮風と機械油の匂いが深く染みつく。髪は湿った風に煽られて乱れていたが、レイモンドはそれを払うこともしない。


「――艦尾かんびの角度が甘い! 面舵を切れ! この愚図どもが、船を沈める気か!」


 レイモンドの怒号が、轟く波音や海鳥の甲高い鳴き声を切り裂いて響き渡る。


 彼の指導は常に実戦を想定している。特に沿岸警備隊にとって、荒れた海での正確な操艦は、逃走を図る船を取り逃がさないための生命線だ。


 新兵たちは疲労困憊し、足をもつれさせながらも、その的確な指示に必死で食らいついていく。

 彼の周囲には常に張り詰めた緊張感が漂い、誰もが訓練に没頭していた。



 夕刻、訓練を終えたレイモンドはようやくおかに上がった。

 港湾施設の中は、潮の香りと鉄の匂いが混じり合い、独特な雰囲気を醸し出している。


 そうして施設の奥にある執務棟へ向かおうとした時、若い伝令の兵士が小走りで駆け寄ってきた。


「ウィンダム大尉殿、手紙を届けに参りました!」

「手紙? 誰からだ」

「カヴァリエール中尉殿からです」

「エミリオから?」


 レイモンドは眉根を寄せた。


(密輸船の件か? だが、公的書類は昨日のうちに事務方に届いていると聞いたが)


 不審に思いつつも封書を受け取り、レイモンドは早足で執務室へと向かった。



 軍の施設内にある、彼専用の私的な執務室。

 執務卓の上には、未決裁の書類や広げられた海図、そして天候計測用の真鍮製の気圧計などが並んでいる。全てが実務のための、無駄のない配置だ。


 レイモンドは椅子に腰を下ろすと、潮と油に汚れた革手袋を外して卓上に放り、ペーパーナイフで封を切った。


 中から出てきたのは、簡素な便箋が一枚。

 走るような筆跡で記されていたのは、まずは任せていた密輸船の件に関する完了報告だった。任務は滞りなく終わった、と簡潔に記されている。

 だが、続く文章を読んだ瞬間、レイモンドの口元が微かに歪んだ。


『――尚、情報収集の必要性を感じたため、数日間はオルディナに滞在する予定だ』


 文面の軽さ、そしてとってつけたような理由。長年の付き合いがあるレイモンドには、エミリオの本音が透けて見えた。


「……あいつ」

(仕事をさぼりたいだけだろう。オルディナの美食と酒でも楽しむつもりか? まったく)


 一昨日、自分の仕事を引き受けてくれたときは心底感謝し、友の情に胸を打たれたものだが、結局はこの体たらくだ。感動して損をした気分になる。


 学生時代からの友人で同僚でもあるエミリオの、奔放でどこか怠惰な仕事ぶりは今に始まったことではない。それなりに見知った間柄ゆえの大きな呆れを吐き出しそうになった、その時だ。


 追伸として記された最後の一文で、レイモンドの視線は凍りついたように止まった。


『追伸。三日後、ここオルディナから帝国経由で東大陸イシュラへ向かう船が出る。その船にイシュ・ヴァーレンが乗るという情報を掴んだ。――一度、腹を割って話してみたらどうだ?』


 刹那、レイモンドの手の中で、便箋がくしゃりと音を立てた。

 乾いた喉の奥から、重い息が漏れる。


「……イシュ・ヴァーレン」


 一昨日の夜――波打ち際でのソフィアの言葉が蘇る。


『イシュとは、仕事のパートナーです。決して、恋人同士ではありません』


 あの時の彼女の瞳に偽りはなかった。レイモンドは彼女の言葉を信じたし、ソフィアがイシュに対して異性の愛を抱いていないことを確信した。


 だが、イシュの方もそうであるとは思えなかった。


 王宮での舞踏会のときに見せた、あの男の露骨なまでの挑発的な態度。ソフィアを『フィア』と親しげに呼ぶ不遜な声。ソフィアを見る、あの熱を帯びた瞳。

 その全てが、レイモンドの脳裏にこびりついて離れない。


 そして何より、イシュが放った言葉――「今すぐ離縁するのがソフィアのためだ」。

 あれがずっと、棘のように心に刺さっていた。


 そもそも、あと一月もしないうちに契約結婚の期日は満了し、離縁することになる。それなのに、なぜあの男はそれを待たず「今すぐに」と言ったのか。


 まさかソフィアは、契約の満了を待たず、イシュと共にどこかへ行くつもりなのではないか? ――と、舞踏会の後に考えてしまった疑念を、レイモンドはまだ消しきれていなかった。


 とはいえ、イシュの言葉の真意を、ソフィアに追求するのはおかしな話だ。彼女を詰問し、疑いの目を向けて、さらに心を遠ざけることは、レイモンドにとって最も恐れる事態である。

 それに、昨日の展望台でのソフィアの様子も気がかりだ。


 何がというわけではない。ただ何となく、自分は何か大きなものを見落としているのではと、そんな思いが拭えなかった。


(彼女は俺に『自分のどこが好きなのか』と尋ねた。だが、俺の返事を聞いた彼女の反応は……俺を信じられないというより……もっと、何か……)


 となれば、問いただすべき相手はただ一人。


(イシュ・ヴァーレン……あの男と、もう一度話さなければ)



 ふと顔を上げ窓の外に目をやると、港に停泊する艦船のマストが、沈みゆく夕陽に赤く染まっていた。遠くから、潮騒しおさいが低く響いている。


(……三日後、オルディナに向かうか)


 エミリオの怠け癖に呆れながらも、彼のもたらした情報は、今のレイモンドにとって何よりも価値のあるものだった。


 レイモンドは、硬く握りしめた手紙を執務机の上に置くと、小さく、けれど確かな決意の息を吐いた。


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