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昨夜のことを謝らないと


 朝の光がカーテン越しに柔らかく差し込む。

 ソフィアはゆっくりと瞼を開け、見慣れたベッドの天蓋をぼんやりと見上げた。


「……朝?」


 無意識に呟いた次の瞬間、カッと大きく瞼を開く。


「えっ!? 嘘でしょう!?」


 ソフィアは飛び起きた。

 カーテンの向こうはすっかり明るい。間違いなく朝だ。もしかしたら昼の可能性もあるが、問題は、舞踏会がとっくに終わってしまっているという事実である。


「待って……。わたし、いつの間に戻って来たの?」


 昨夜の記憶が途切れている。

 回廊で兄フェリクスと遭遇し、恐怖に駆られて逃げ出したこと。その後、イシュの前で泣き崩れてしまったこと。

 そこまでは覚えている。けれど――。


「何も、思い出せないわ……」


 イシュは? 舞踏会は? レイモンドは……いったいどうなったのだろう?

 ソフィアが顔を青ざめていると、ノックの音がして、侍女のアリスが部屋に入ってきた。


「奥様! よかった、お目覚めになられたんですね!」

「……アリス」


 ぱっと明るい笑顔を見せて、アリスはソフィアの元に駆け寄る。

 いつもと変わらぬ彼女の様子に、ソフィアは安堵の息を吐いた。アリスの様子からして、どうやら事態はそれほど深刻ではなさそうだ。


「昨夜は本当にびっくりしたんですよ! 旦那様に抱きかかえられて帰ってこられて……ご病気なのかと思って、本気で心配したんですから!」

「ごめんなさい、アリス。……ところで、本当に旦那様がわたしを?」

「ええ、それはもう大切そうに! すぐにお医者様も呼ばれて、異常なしとの診断にとても安堵されていました!」


 アリスは手際よくカーテンを開けながら、身振り手振りを交えて昨夜のレイモンドの様子を生き生きと語る。


「旦那様は『余程疲れていたのだろう。しばらく休ませてやってくれ』とおっしゃって、私に奥様のお世話を命じてお部屋にお戻りになったんですけど、そのときの奥様を見る目ったら、もう……!」


 アリスはそこで言葉を切ると、ベッドの上のソフィアにずいっと顔を寄せた。


「それで、奥様! 昨夜いったい何があったんですか!? もしや、舞踏会で何か進展が!?」

「え、ええと……、それは……」

 

 ソフィアは気まずさに瞼を伏せる。


 進展――そんなものあるはずがない。記憶は定かではないが、おそらく、自分はイシュの腕の中で眠ってしまったのだ。その後のことはわからないが、舞踏会を途中退席することになったのは間違いない。

 つまり、自分はレイモンドに多大な迷惑をかけてしまったということだ。


 それだけではない。


「実はね、昨夜、王宮でイシュに会ったのよ」

「え? イシュ様にですか?」


 突然ソフィアの口から出たイシュの名前に、さすがのアリスも目を丸くする。


「そうなの。それで、色々あってイシュと庭園で話していたら……その、お酒が入っていた・・・・・・・・せいか眠ってしまって……その後のことを何も覚えていないの」


 眠ってしまった理由が「お酒」というのは嘘だった。本当は、兄フェリクスと遭遇してしまったストレスから眠ってしまったのだが、言えばアリスを心配させてしまう。

 それを危惧したソフィアは、咄嗟に苦しい嘘をついた。


 だが、アリスはその嘘を信じたようだ。あるいはイシュの名前に気を取られたのか、「イシュ様とお会いになったのですか?」と怪訝そうに眉をひそめ、記憶を探るように視線を動かす。


「アリス。旦那様は、他に何か言っていなかった? 主にイシュのこととか」

「うーん。特にイシュ様のお名前は出ませんでしたけど……でも確かに言われてみれば、どこか殺気立ったような感じはありましたね。奥様のことを心配しつつも、他に心配事があるみたいな……」


 その言葉に、ソフィアの胸はざわついた。


「やっぱり、旦那様はイシュと会ったんじゃないかしら。だとしたら……」

「イシュ様が、帝国行きのことを旦那様に話したんじゃないかと心配しているのですか?」

「いいえ、それはないと思う。でも、旦那様がわたしとイシュの関係に気がついた可能性がないとは、言い切れないじゃない」


 イシュとは守秘義務契約を交わしている。ソフィアの帝国行きや、服飾ブランド『サーラ・レーヴ』について、互いに他言しないようにと。この契約がある限り、イシュがソフィアの今後のことやブランドについて、第三者に話すことはないだろう。


 けれど、自分たちの関係がただの商売人と顧客の関係でないことは、少し調べればわかることだ。かねてより、人目のある場所では会わないようにしていたが、個室を貸してくれていた店の店主や、当時の親しい使用人たちは、ソフィアとイシュが友人以上の間柄であったことを知っている。


「わたし、旦那様に会ってくるわ。イシュのことを抜きにしたって、昨夜のことを謝らないと」


 そう言ってベッドから降りようとしたソフィアを、アリスは引き留める。


「待ってください。旦那様はもういらっしゃいませんよ。今朝早く、任地にお立ちになりましたから」

「え? でも、出発は三日後の予定じゃ」


 契約結婚の契約満了日まで残りひと月。ソフィアはレイモンドから、最後のひと月は赴任先についてきてほしいと言われていた。その出発は三日後の予定だったはずだ。当然ソフィアは一緒に行くものと思っていた。それが、どうして急に?


 困惑するソフィアに、アリスは『レイモンドからの伝言』を伝える。


「港で密輸船が見つかったとかで、昨夜急に辞令が下ったらしいです。奥様は予定通り三日後に出発してくれればいいとおっしゃっていましたよ。『挨拶ができなくてすまない』とも」

「……そう」


 その言葉に、時間的な猶予ができた安堵と同時に、わずかな不安が込み上げる。


(挨拶もなしに出発を? 今までだったら、どんなにお急ぎのときでも挨拶はしてくれていたのに)


 やっぱり、レイモンドはイシュと何か話したのだろうか。それとも、何もなかったからこそ、と考えるべきなのだろうか。


 ――イシュのこと。レイモンドのこと。兄のこと。それに、昨夜自分を探していたという母親のこと。

 何もかもがスッキリせず、モヤモヤだけが増えていく。


(あとひと月で契約終了だっていうのに、こんな調子で大丈夫なのかしら。何だか、不安だわ)


 ソフィアは小さく溜め息をついて、窓の向こうの青空を見上げた。


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