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君をあの男にだけは渡したくない



 石畳を叩く車輪の音が、夜の静かな街中に規則正しく響く。

 王宮を離れた馬車の中、レイモンドはソフィアを抱きかかえたまま、鬱々とした感情に身を焦がしていた。


(……イシュ・ヴァーレン)



 ヴァーレン商会――東大陸のナシール連邦・交易都市イシュラに本拠地を置く、世界有数の商貴族。香辛料や宝飾品、染料を扱うことから始まり、今や銀行事業にまで手を広げている巨大商会。


 その商会長アシュラフ・ヴァーレン氏の正妻の長子こそが、イシュである。

 彼には腹違いを含め二十人もの兄妹がいるが、正妻の男子はイシュと幼い弟の二人だけ。ゆえに、余程の不適格事項でもないかぎり、イシュが次期当主となるのは確実だ。


 つまり、イシュには権力がある。名声も、金も、何もかも申し分ない。

 ただひとつ問題があるとすれば、イシュラは一夫多妻制であり、イシュ自身すでに二人の妻と三人の子どもを持っているということだ。


 正直レイモンドは、その事実を知ったとき安堵した。「妻子があるなら、少なくとも今のソフィアと恋人関係であるはずがない」と。

 だが先ほど庭園で目にした光景は、その予想を無惨にも打ち砕くものだった。



(報告書によれば、あの男が妻を迎え入れたのはいづれもこの三年の間。にも関わらずソフィアまでをも求めるとは、あまりに強欲極まりない。ソフィアは、この事実を知っているのか?)


 腕の中で、静かな寝息を立てているソフィア。その無防備な姿に、レイモンドの心臓はぎゅっと締め付けられる。


(どうして君は、あの男と二人きりでいた? いったい何を話していた? これほど無防備な姿を晒せるほど、あの男に心を許しているのか?)


 思い返せば、舞踏会に出掛ける前から胸騒ぎはあった。

 イシュが今夜の舞踏会に参加するとの情報を得たときから、嫌な予感はしていた。そのせいで、「欠席しても構わない」とソフィアに口走ってしまったほどだ。


 それはソフィアの体調を気遣いつつも、彼女を信じきれない不安から出た言葉だった。

 契約期間の満了を待たずして、ソフィアが自分の元を去ってしまうのではという不安。



(――だが、まさか本当にこんなことになるとは……)


 今すぐ彼女を揺り起こし、問いただしてしまいたい。

 あの男といったい何をしていたのかと。少なくとも今はまだ、俺の妻であるはずだ。それなのに――と。


 だがそれと同じくらい、いや、それ以上に、真実を知る恐ろしさに苛まれている。


 何も見なかったことにしてしまいたい。聞かなかったふりをして、何事もなかったかのように明日を迎えられればと――相反する気持ちがせめぎ合い、葛藤が渦を巻く。


(俺は君に、社交は最低限でいいと伝えた。それでも積極的に参加していたのは、イシュの商売を助けるためだったのか? 俺の知らぬところで、あいつのために動いていたのか?)


 裏切られたような感覚が、胸を締めつける。



 この三年間、ソフィアはずっと隣にいてくれた。


 期限付きの関係であるにも関わらず、自分の体調を気遣い、人間関係を円滑に進め、屋敷や使用人たちの管理やフォローも忘れない。

 軍人を夫に持つ妻たちは、夫が任地に赴任している間、首都や領地の屋敷に愛人を好き勝手連れ込みドレスや宝石に散財する――そんなことも珍しくない中で、ソフィアは全てにおいて清廉潔白だった。


 何気ない毎日の挨拶や、自分に見せる笑顔、優しい声。


 そんな彼女の誠実さと律義さに惹かれ、いつしかあの微笑みが愛情であると愚かにも誤解した。それが全て契約上のものであったとわかったとき、当然のごとくショックを受けたが、それでも構わないと思った。


 彼女の言動全てが演技であろうと、そうと気付かせなかった三年間の彼女の姿は、自分にとっては紛れもなく「本物」だったのだから。


 けれど、もしそれが、あの男のためだったとしたら――。



「……っ」


 嫉妬の渦に呑まれそうになる。今すぐにでも引き返し、イシュの息の根を止めたくなる。

 自分こそが邪魔者だと理解していても、この気持ちを抑えることができない。


(ソフィア、すまない。俺は、君をあの男にだけは渡したくない)


 契約結婚の期日は、残りひと月。その日がくれば、ソフィアを手放さなければならない。

 その覚悟は決めていた。ソフィアを無理やり引き留めることは本意ではないのだから。


 ――しかし。


(別れるだけならいい。だが、妻子ある男の元へ嫁ぐなど、許せるものか)


 腕の中のソフィアを、無意識に強く抱き寄せる。

 彼女は小さく身じろぎしたが、目を覚ますことはなかった。その寝息が、焦燥感を煽っていく。


(とはいえ、彼女の意思を無視することなど……)



 答えは出ない。ただ、焦りが広がるばかり。


 けれど同時に、驚くほど冷静にイシュの言動を分析している自身がいた。それは彼が軍人として生きてきたが故の二面性だった。



 ――イシュの挑発。


『今すぐ離縁するのがソフィアのため』であるとの――あの言葉に、疑問が過ぎる。


(そもそも、なぜあの男は俺を挑発するような真似を? あれは本当に、俺への敵対心だけで発せられた言葉だったのか?)


 契約結婚の期限は残りひと月。つまり、あとひと月大人しく待っていれば、ソフィアは自動的に自分と離縁し、あの男のものとなるはずだった。


 それなのに、イシュはわざわざあの場で自分を挑発し、侯爵家を敵に回す危険を冒した。商会の次期当主である彼が、貴族を敵に回すことの恐ろしさを知らぬはずがないのに。


 つまり、あの挑発は――。



(ただの挑発ではなかったということか? だとしたら、どんな目的で……。本当にソフィアの為だったとでも言うのか?)



 そこまで考えて、レイモンドは短く息を吐いた。考えたところで答えに辿り着けるはずもない。

 半ば諦め、ソフィアの寝顔に視線を落とす。


「……わかっているのか、ソフィア。今君を抱いているのは、あの男ではなく、俺なんだぞ」



 ――早く目を開けてくれ。さもないと。

 


 腕の中で、規則正しい吐息を漏らすソフィア。


 その唇に吸い寄せられるように、レイモンドは顔を近づけた。ソフィアの吐息が鼻先をかすめ、今にも触れそうになる。

 だが、寸前で踏み留まった。


 一度触れてしまえば、きっともう止められない。

 それ以前に、この行為は重大な契約違反であることを、ぎりぎりのところで思い出した。



「……ああ、クソ」


 レイモンドは自己嫌悪のあまり、崩れ落ちるように背もたれに身体を預ける。


(何をやってるんだ、俺は。……こんなときに、正気じゃない)


 精神的負荷ストレスのあまり、身体がおかしくなってしまったのだろうか。七年もの間眠り続けていた情欲に、火が灯された感覚がする。


「……まるで拷問だ」


 レイモンドは湧き上がる熱情を必死に押し殺しながら、腕の中のソフィアに再び視線を落とし、深い溜め息をつくのだった。 


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