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わたしは、平気よ


 王宮の大広間は、まばゆい光に包まれていた。


 天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアが幾千ものクリスタルの粒を煌めかせ、光を四方八方に散らしている。

 天井や柱には精巧な細工が施され、磨き上げられた大理石の床は、シャンデリアの光を映して淡く輝いていた。


 その中を、色とりどりのドレスと燕尾服に身を包んだ貴族や高官たちが行き交い、笑い声とグラスの触れ合う音が絶え間なく響いている。


 ソフィアはレイモンドの腕に軽く手を添え、ゆっくりと広間を進んでいた。

 背筋を伸ばし、微笑みを絶やさぬよう心がけながらも、胸の奥は落ち着かない。



(旦那様は、どうしてあんなことを仰ったのかしら?)


 ウィンダム家の屋敷にて――舞踏会に向かう支度を終えた直後、迎えに来たはずのレイモンドは言ったのだ。

「いっそ欠席でも構わない」と。


 あまりに突拍子もない言葉に、ソフィアは返答を迷った。


 けれど、どう答えるべきかと逡巡した次の瞬間――彼は何事もなかったような笑みを浮かべ、「冗談だ」と言葉を取り消したのだ。



(とても冗談には見えなかったけれど)


 とはいえ、馬車の中でのレイモンドはいつもと変わらず穏やかで、何事もなかったかのように振る舞っていた。

 だからこそ、余計に不可解だった。


(それに、"わたしが浮かない顔をしていた"って……。確かに、舞踏会に気が乗らないのは本当だったけど、顔に出したつもりはないのに……)


 そんな思考を抱えたまま、ソフィアはレイモンドと共に、顔見知りの貴族たちと挨拶を交わしていく。



 やがて、楽団が荘厳なファンファーレを奏で始めた。


 ざわめきがすっと静まり、視線が一斉に大広間の奥――玉座のある高壇へと向かう。

 国王と王妃、王子や王女たちが入場し、定められた椅子に腰かけた。


 王族が揃うと、司会役の侍従が一歩前に進み、朗々とした声を響かせる。


「これより、今宵の舞踏会を開宴いたします。まずは、我らが国王陛下と王妃陛下による――」


 その言葉に合わせ、楽団が曲調を変え、ゆるやかなワルツの前奏が流れ出す。

 国王と王妃が中央へ進み、互いに一礼して踊り始めた。


 その優雅な動きに、会場の空気が一層引き締まる。

 やがて曲が終わり、王子や王女たちが順に踊り終えると、高位貴族の番が回ってきた。


 その中には当然、ウィンダム家も含まれている。


「我々の番だな。行こう」


 レイモンドが低く告げ、ソフィアの手を取る。

 その手は温かく、力強い。


「はい、旦那様」


 ソフィアは微笑み、周りの視線を集めながら、ダンスフロアの中央へと進んでいった。



 

 ファーストダンスは何事もなく踊り終えた。

 途中、侯爵家の次に踊る――伯爵夫人である――母と目が合ったような気がして動揺したが、ステップは問題なかったはずだ。


 そんなことを思いながらダンスを終え、拍手の中レイモンドと共に会場の端に移動していると、不意に横から問われる。


「さっき、何に気を取られていた?」

「え?」


 顔を上げると、レイモンドが不可解そうに見下ろしていた。


「ステップに違和感があった。この三年間、一度もなかったことだ。何か心配事があるのか? やはり、ここ数日君の様子がいつもと違う様に見えたのは――」


 ――"気のせいではなかったのでは"。


 そう言いかけるレイモンドを、ソフィアは笑顔で遮る。

 

「そのようなことございませんわ。けれど、もし旦那様がそのように思われたのだとしたら、理由は一つしかありません。ひと月後に迫った、約束のせいでございましょう」

「――っ」

 

 これは紛れもない事実だった。

 ソフィアが今最も懸念していること――それは、『無事に離縁を済ませ、帝国に渡る』こと。


 それに比べれば、母親から言われるであろう小言や、イシュが予想外に現れたことなどは、些細なことに過ぎない。


 ソフィアが視線を逸らすと、レイモンドは何か言いかけたが、そのとき、軍服姿の男が近づいてきた。

 肩の腕章から少尉であることがわかる。レイモンドの部下か何かだろう。


「ウィンダム大尉、少し宜しいですか」


 彼はそう言って、レイモンドに耳打ちする。

 するとレイモンドは小さく頷いて、「すぐに行く」と答えた。


「すまない、ソフィア。少し外す」


 酷く申し訳なさげなレイモンドに、ソフィアは少し同情した。


(こんなときまでお仕事だなんて、軍人って本当に大変ね)


「いってらっしゃいませ。わたくしはここでお待ちしております」

「ああ、すぐ戻る」


 ソフィアは微笑み、レイモンドを送り出した。


 レイモンドの背が人混みに消えると、ソフィアはそっと会場を見回す。


 ――母はどこにいるだろうか、と。

 そして、見つけてしまった。


 ファーストダンスを終えた母は、貴族夫人数人と談笑している。


 次の瞬間、視線がこちらに向きそうになり、ソフィアは反射的に顔を背けた。


(やだ、わたしったら、つい……)


 気付けば、足は会場の出口へと向かっていた。





 それから少し後、王宮の広間の外に続く外回廊を歩きながら、ソフィアはひとり溜め息をついた。


「……はぁ。わたしったら、本当に何をしているのかしら」


 片側は石壁、もう片側は庭園が広がり、灯りはあるが薄暗い回廊。庭園から吹く夜風が気持ちいい。


 けれど、ソフィアの心は沈んでいた。


「舞踏会はまだ始まったばかり……逃げたって仕方がないのに」


 母のことは嫌いではない。少し押しつけがましいところはあるが、愛情を持って育ててくれた。


 レイモンドと結婚する前、何年もフラフラしていた自分を――お見合いこそ数え切れないほどセッティングされたが――無理やり結婚させようとだけはしなかった。

 それについては感謝しているし、レイモンドを紹介したときは涙を流して喜んでくれた。


 そんな母が、娘夫婦に子どもができないことを、自分のことのように悩むのは当然だろう。それは、母が娘を想う愛故だ。


 それなのに、どうして自分は白状にも、このように母に背を向けてしまうのか――自己嫌悪が胸を締めつけた。


「やっぱり、戻らなきゃ」


 ソフィアは踵を返し、会場の方へ戻ろうとする。

 けれどそのとき、ひとつの足音が聞こえ、ソフィアは足を止めた。


(誰かしら、こんなところに。……わたし以外にも、人が?)


 数秒遅れて、暗がりから現れた人物の顔が、ぼんやりと灯りに照らされる。

 そこにいたのは、六つ歳の離れた実の長兄・フェリクスだった。


 ソフィアは無意識に息を呑む。


「ソフィ、ここにいたのか。母上がお前を探していたよ」

「……お兄様」


 どうして、兄がここにいるのだろう。


 ソフィアの上の兄――ハリントン伯爵家の嫡男――フェリクスは外交官として、隣国の大使館に派遣されている。その任期は五年で、まだ一年は残っていた。

 つまり、彼がここにいるはずがないのだ。


「いつ、お戻りになったのですか?」

「一昨日戻ったばかりだ。急遽、来月から赴任先が変更になってな。その準備の為に、一ヵ月の休暇を貰った」


 兄――フェリクスが歩み寄る。 優しく、賢く、誰からも慕われる優秀な兄。

 愛情深く、一度たりとも叱られたことがない――大好きだった兄。

 それなのに――ソフィアは、びくりと肩を震わせた。


「そうなのですね。……あ、お母様がお呼びなのでしょう? わたくし、会場に戻ります」


 早口で言い切り、兄の横を通り過ぎようとする。

 だがその瞬間、腕を掴まれた。


「待ちなさい」


 ひゅっと、息が止まりそうになる。

 

「ソフィ。まだ、この兄が恐ろしいか?」

「……っ」


 ソフィアは顔を上げられなかった。


 もうとっくに忘れたと思っていたのに、掴まれた腕の感触が、フェリクスの声が――あの夜の記憶を呼び起こす。

 酒に酔いつぶれた兄に押し倒され、服をはぎ取られかけた、あの夜を――。



「いやっ!」


 反射的に、全力で兄の腕を振りほどいた。

 体がガタガタと震え、呼吸が乱れる。


「お前――」


 兄の声が耳に届くより早く、ソフィアは踵を返していた。

 視界の端で、兄の顔が歪むのが見えたが、振り返ることはできなかった。


 胸が苦しい。喉の奥が焼けつくようで、うまく息ができない。


 足音が石畳に響き、裾が翻る。

 会場とは反対方向へ、無我夢中で駆けていた。



「――っ」

 


 脳裏にフラッシュバックする、あの夜の光景。


 強いアルコールの匂い、重くのしかかる体、首筋にかかる湿った息遣い――。


 下の兄が止めてくれたからいいものの、そうでなければ、どうなっていたか分からない。

 その記憶が、――蘇る。



 ソフィアはその記憶から逃れるように、暗い庭園に飛び出して、茂みの影にしゃがみ込んだ。


(大丈夫。大丈夫よ……もう、六年も前のこと。それに、お兄様はちゃんと謝ってくださった。お酒のせいだったって、悪気はなかったって、わかっているじゃない。……だから……大丈夫。……わたしは、平気よ)


 鼓動がバクバクと全身に響く中、ソフィアは自分に言い聞かせる様にして、ぎゅっと身体を抱き締めた。


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