君の喜ぶ顔が見たいからに決まっているだろう
ガタン、ゴトンと、車輪の音が石畳に響く。
チャリティーから二日が過ぎた日の正午過ぎ、ソフィアはレイモンドとふたり、馬車に揺られていた。孤児院へ慰問に向かうためだ。
(プレゼントは多めに用意したし、アリスたちと皆で焼いたお菓子も十分にある。演劇は旦那様が手配してくださっているから……あと心配なのは、子どもたちが旦那様を怖がらないかだけね)
ソフィアは、向かいに座るレイモンドに視線を向けた。
レイモンドは女性好みのする端正な顔立ちをしているし、愛想も悪くはないが、鍛え抜かれた分厚い体躯と、180cmを優に超える身長は、子どもたちには威圧的に映るかもしれない。
(そう言えば、旦那様が子どもと話しているところは見たことないわね。もしかして、子どもが苦手だったりするのかしら? だとしたら、すごい今さらだけど、わたし、選択を間違えた可能性も……)
不意にそんなことを考えて、ソフィアは小さく息を吐いた。
(間違いだなんて、何を考えてるの。そもそも、断られると思って提案したのだから、こんなことを考えること自体がおかしいわ)
ソフィアは不意に思い出す。
二日前のチャリティーで、レイモンドを孤児院の慰問に誘ったときのことを。
あの時は当然、断られると思っていた。
孤児院の子どもたちに演劇を見せたい気持ちはあったが、私的な外出を慰問にすり替えれば、流石の彼も気分を害するだろうと。
けれど返ってきたのは、呆れでも怒りでもなく、優しい笑顔と迷いのない承諾だった。
(あんな風に了承してくれるだなんて思っていなかったわ。怒っても当然なのに。それくらい、旦那様はわたしのことを……?)
ソフィアはこれまでの三年間、『レイモンドの望む妻』を演じてきたつもりだった。
我が儘を言わず、不満を漏らさず、家を守り、夫の帰りを黙って待つ――それが母から教えられた"妻の役割"だったからだ。
当然そこには『夫を孤児院の慰問に誘う』などという項目はない。
孤児院への寄付は持てる者の義務とはいえ、貴族、ことに男性は、孤児院に足を運ぶことを嫌がるものだからだ。
けれどレイモンドは、嫌な顔ひとつせず受け入れた。
(もし母が側で聞いていたら、間違いなく打たれていたでしょうね。女性は男性に従うべきだというのが、母の考えだったから)
そんなことを考えていると、窓の外を流れる景色に違和感を覚える。
(? おかしいわ。道が違う)
これまでも郊外の孤児院を何度も訪ねてきたので、道は覚えている。
しかし今の馬車は明らかに逆方向、街の中心部へ向かっていた。
「旦那様、道が違いますわ」
声をかけると、レイモンドは『ようやく気付いたか』という顔でにやりと笑う。
「この道で合っている」
「え? ですが、孤児院は……」
「行先は孤児院ではない」
「どういうことですか? 寄り道でもなさるのですか?」
重ねて尋ねるが、それ以上の説明はない。
ソフィアは眉をひそめたが、仕方がないので、黙って到着を待つことにした。
やがて馬車は減速し、見慣れた首都中央広場の馬車止めで停止した。
止まった瞬間、扉の隙間から春の陽光とざわめきが一気に流れ込んでくる。子どもたちの笑い声と、甘い香り、木槌が柱を叩くような、乾いた音が耳に届いた。
(中央広場? どうしてここに?)
不思議に思いながら、レイモンドにエスコートされ馬車を降りる。
すると真っ先に目に飛び込んできたのは、巨大な舞台だった。
広場の中央に鎮座する演劇用の舞台が、陽光を浴びて輝いていた。
「――!」
(嘘でしょう!?)
ソフィアは目を瞬いた。
その舞台が、宮廷の祝祭に用いられる本格的なものだったからだ。
幅は十間以上、深紅のビロードの幕、磨き上げられた舞台板、金の縁取りの柱、梁には房飾り――すべてが豪奢に整っている。
舞台前には椅子がぎっしりと並び、視界の端まで続いていた。周囲では大道具係や衣裳係らしき人々が、最終確認の掛け声を飛ばしている。
「だ……旦那様、もしかして、これ……」
「君の目的は子どもたちを喜ばせることだろう? どうせなら、大きい舞台の方がいいと思ってな」
「それで、ここに舞台を? では、この数え切れないほどの椅子は?」
「これだけの舞台だ。せっかくだから、首都郊外のすべての孤児院の子どもたちを招待した。広場の使用許可も取ってある」
(信じられない、ここまでするなんて!)
呆気にとられたまま、ソフィアは広場全体をぐるりと見渡した。
舞台だけではない。広場には色鮮やかな旗や花飾りが揺れ、甘い菓子や温かいスープの机まで並んでいる。
「本当に、すべての孤児院の子どもたちを招待したのですか?」
「もちろんだ。一人残らず、君の名前でな」
「もしかして、この設営や馬車の手配も……」
「当然、君の名で手配した。首都中の運送業者や建築業者、イベント業者に舞台設営の職人。シェフやパティシエ、花屋まで合わせると、七十以上の業者に依頼したか。皆快く引き受けてくれたぞ」
「…………」
もはや言葉も出ない。スケールが違いすぎる。
「どうした? 嬉しくないのか?」
「……っ」
真顔で問われるが、ソフィアは何と答えたらいいのかわからなかった。
驚きと困惑で一杯で、喜びを感じている余裕なんてなかったのだ。
だがそのとき、ハッと、重要なことに気付く。
「プレゼントが足りませんわ!」
用意したプレゼントは四十個程度。
これだって、昨日のうちに準備するのは苦労したのだ。今から子どもたち全員分のプレゼントを用意するのは無理がある。
(どうしようかしら。プレゼントを渡すのは諦める? 会場にはお花もお菓子もあるし。でも、せっかく用意したのに)
が、そのときだ。
レイモンドの「問題ない。あれを見ろ」という声がして、ソフィアはゆるゆると顔を上げた。
そうしてレイモンドの視線の先を追うと、広場の隅に、大型の荷馬車が続々と入ってくるところだった。
「あれって……まさか!」
「ああ、そのまさかだ。君の用意したプレゼントを無駄にはできないからな。足りない分は俺が発注しておいた」
「……っ」
馬車は全部で二十台は下らない。
到着した馬車から、従業員たちが手際よく箱を積み下ろしていく。赤や黄色や青にラッピングされ、リボンのかかった沢山の贈り物。それが山のように積まれていく様子を見て、ソフィアは息をのんだ。
(まさか、本当にここまでするなんて……)
チャリティーからまだ二日しか経っていない。
つまり、準備期間はせいぜい三十六時間あったかどうか。いくらお金をかけたって、そんな短い時間でここまでのものを用意するのは並大抵のことではない。
それでも、レイモンドはやってみせた。
本当は、もっと夫婦らしい外出をしたかったに違いないのに。
「……どうして、ですか」
「? 何がだ」
「どうして、ここまでしてくださるのですか? わたしは、旦那様の気持ちを受け入れなかったのに。それどころか、いただいた宝石を全て返そうとしたのですよ?」
ソフィアには、自分が酷いことをしている自覚があった。
想いの詰まったプレゼントを突き返される、それがどれほど悲しいことか理解していた。
たとえ自分が宝石を受け取っても、レイモンドが気持ちを無理強いしてくるようなことはないと知っていた。
それでも宝石を返そうとしたのは、レイモンドに未練を抱かせない為でもあったけれど、本当のところは、受け取るのが怖かったからだ。
恋愛感情を抜きにしても、レイモンドの優しさに、心を動かされるのが怖かったから。
ほんの少しでも、この場所に未練を残すのが嫌だったから。
一度愛情を手にしてしまったら、きっと手放したくなくなってしまう。そうなるのを、恐れたから――。
「なのに……」
けれど、俯くソフィアに、レイモンドは平然と言いきるのだ。
「そんなの、君の喜ぶ顔が見たいからに決まっているだろう」――と。




