第48話:ほんとの名前はーー④
「この子の名前、『月陽』がいいな、って―」
大きくなったお腹をさすりながら、夢見るように言った月子に、陽一郎は「ああ……」とだけ返す。
気がついたら、愛する女の身体の中に、知らない他人が潜り込んでいた。
陽一郎にとっては、そんな感覚に近い。
それを愛して慈しむ、妻の気持ちが理解できなかったし、むしろ、妻の関心が他に移った事への苛立ちすあった。
「私の名前と、陽一郎さんの名前から、一文字ずつとってみたの――」
そんな感情を持ってしまう自分に、陽一郎は絶望していた。
愛するものとの間に新しい命が宿る――
それは人道的にも、生物の本能的にも、正しい事であり、祝福されるべきことのはずだ。
でも自分は、その事実がただただ怖い――
自分のような男が、月子以外の人間と深く関わり、共に生活する未来を、陽一郎は想像できない。
名前の半分を与えた、自分の子供……。
陽一郎は、片方の手足をもがれ、動く事の出来ない哀れな男の姿が思い浮かんだ。
俺の夢への道は、ここで途絶えるのか……?
「昼は『太陽』が、そして夜は『月』が、この世界を照らしているの。私はこの子に、そんなみんなを照らすような人間になって欲しい」
月子は陽一郎の手を取り、そっと大きくなったお腹に当てた。
中に何かがいる――
陽一郎は、恐ろしかった。
「月陽……私のかわいい月陽……」
月子は歌う。
子守唄のように、目覚めの歌のように。
「どうかこの子には、幸せになってほしい――」
幸せになって――
どうか、幸せに――
陽一郎は、月子のお腹の中にいる『月陽』を恐れていた。しかし、月陽に語りかける月子の顔は、とても綺麗だと思った。
自分もなれるのだろうか……?
こんな、人の道を外れた出来損ないの男が、この子供の『親』という存在に――
――なれるよ。
何も言わない月子の目は、そう言っているような気がした。
手のひらに微かな動きを感じる。
なれるかもしれない。
月子と二人なら――
そして、『月陽』と名付けられるはずだった子供は、この世界に産み落とされ、同時に月子は、この世界から消えた。
月子のいない世界では、結局……陽一郎はなれなかった。
名前をつけねばならなかった。
このクソみたいな社会に生まれ落ちた以上、名前をつけなければ、面倒なことになるからだ。
『月陽』
月子のいない世界で、陽一郎はその名前が持つ重圧に耐えきれないと感じた。
自分の半身を分け与えれば、もうここの立場から逃げ出すことは出来ない。ない手足を補ってくれる月子は、もうこの世にいない。
月子が死んでから数日は、酒しか口にしていない。
冷蔵庫の中、月子が買っていたカブの漬け物を指先で摘んで、口に放り込む。
ああ、もう、これでいいや――
陽一郎は子供に『蕪太郎』と名付けた。
それは、絶望と、悲しみと、諦めの名前だった。
* * *
お母さんの日記帳を、影山さんは何度も何度も読み返していた。
それはきっと、影山さんが初めて聞いた、お母さんの『声』だった。
そしてその声は、お腹の中のにいる影山さんに、愛と希望を語りかけていた。
幸せになって欲しいと、強く願っていた。
部屋はどんどん夜に飲み込まれていく。
ノートに目を離せない影山さんに変わって、僕は手探りで部屋の照明スイッチを探して、点けた。
途端に浮かび上がる、影山さんのお父さんの退廃的な部屋模様。
僕は腹が立ってきた。
大人には大人の事情がある。これは、そういう類のものなのかも知れない。
でも、こんなのあんまりじゃないか。
お母さんが、子供の幸せを願って決めた名前を破り捨て、『蕪太郎』なんて名前をつけたお父さん。
一緒に暮らしながらも、父親らしい事など何一つせずに、自分の世界に閉じこもっているお父さん。
最低のクズ野郎じゃないか。
あの、怪異の『ツキヒ』に関われば、影山さんは危険な目に遭うに違いない。
もしかしたら、死んじゃうかも知れない。
あんなクズ野郎を救うために……?
あいつは、ナメクジのまま蠢いていた方が、お似合いじゃないのか……?
影山さんのお母さんは、影山さんを嫌ってなんかいなかった。影山さんは愛され、望まれて、この世界に生まれてきたんだ。
だから、その愛だけ胸に抱えて、前向きに生きていけばいいと思う。
僕と一緒に……生きていけばいいと思う。
あんな父親の事なんか忘れて――
「ねえ、影山さん……」足元に転がる原稿用紙を爪先で弄びながら、僕は言う「これ以上、ツキヒと関わるのは、やめようよ……」
影山さんは日記帳から顔を上げる。
でも、視線は僕の方を見ていない。押入れの中の仄かな闇を見つめている。
「お父さんは、もう、しょうがないと思うんだ。僕たちにはきっと、どうする事も出来ない。三浦さんに情報を伝えて、僕たちはもう――」
「いやだ」
影山さんの声は鋭かった。
「なんで? これ以上あいつと関わったら、影山さんだって危険かもしれないんだよ?」
「……阿部くんは、関わらなくていい。あたし一人で……絶対にあいつをぶん殴って、クソ親父を取り返す……」
「ダメだよ! 危険だ!」
「かまわない……」
「なんで!! あんな――」
僕は勢いに任せて言おうとした言葉を、あわてて押し留める。でも、やっぱり言わなきゃダメだ。
言わなきゃ、気持ちの収まりがつかない。
「あんな、クソ親父の事なんて捨てて……僕と一緒に……」
でも、その言葉は思っていたよりも覇気がなく、弱気の滴みたいに零れ落ちてしまった。
影山さんは僕を見た。
その鋭い目の奥にある、どうしようもないほどの悲しみが、僕に突き刺さった。
「あんなクソ親父でも――」
目の輪郭がボヤける。
冷たい蛍光灯の光を受けて、キラキラ輝く。
「あたしにとっては、たった一人のお父さんなんだよ……」
持ち主の消えた日記を胸に抱えて、影山さんは言った。
* * *
「今度の土曜日、お母さんの実家に行ってみようと思う……」
自室に戻った僕と影山さん。
影山さんは、ケースの中にあった日記の間に、数枚の写真を挟み込んで、折りたたみテーブルの上に置く。
「どこなの?」
「S島……」
S島はN県の西側に浮かぶ島だ。
フェリーで約3時間。小さい頃、家族旅行で一度行った事がある。
「日記の中に、実家の住所が書いてあった……。そこに行けば、もっとお母さんの事……知れるかも知れないから……」
お母さんの事。
そして、ツキヒの事も――
「僕も行くよ」
迷いはなかった。
影山さんが『お父さんを取り戻す』って決めたのなら、僕は全力で助けたい。
影山さんは口を開きかけて、再びとじて俯く。
時計の音が聞こえる。
時間の流れを奏でてくれる、古い時計だ。
「……いいの……?」
たっぷりと時間をかけて、影山さんは聞いた。
「うん」
「……ありがとう……」
素直な感謝の言葉が、乱され、ささくれ立っていた心に沁みる。
この言葉があれば、僕はどんな苦難だって、乗り越えられそうな気がした。
お読みいただきありがとうございます。
自分につけられるべきだった『本当の名前』を知ったかぶちゃんと阿部くんは、お母さんの故郷であるS島へ向かいます。
※S島は佐渡島がモデルです。幕田は新潟に住んでましたが、佐渡には一度も行った事ない。行きたかったなぁ……。動画とかで雰囲気を調べながら書こうと思います。
影山さんに刻まれた、『蕪太郎』という絶望と悲しみと諦めの呪い。
それでもかぶちゃんは、お父さんの事を、心のどこかで信じてるのかも知れないです。
ちなみに、阿部くんのモノローグは、開始当初より大人っぽくなったというか、表現に深みを持たせる感じでで書いてます。
彼の成長を表現したいです。
よろしければ、この先もお読みいただけるとありがたいです。




