第二十一話 日本株式会社とヨーロッパ
アメリカでの交渉は無事に終わり、金銀の交換比率で損をすることがないまま、龍馬がニッポンカンパニー(商社)サンフランシスコ支店を開店します。
坂本龍馬がサンフランシスコに開設したニッポンカンパニーは、海舟会と佐久間象山の提案を受け、阿部正弘、島津斉彬が相談して作らせたもので、幾つもの目的を持った機関であったと伝えられる。
まず、最初の目的は異国の情報収集及び情報発信。
海外に日本人を駐在させることにより、その国の最新の情報を集めさせ、逆に国際世論を動かす為の情報を発信させる。
これまでは、オランダだけに頼ってきたものを日本自らが行うのだ。
国というのは利害関係で結びついている人の団体だ。
人種など、民族などをその構成要素とすることもあるが、人間関係に永遠がない以上、国と国との関係にも永遠の友人はいない。
日本とオランダは250年の付き合いであり、オランダは比較的日本に誠実であったことは事実であるが、オランダがいつまでも無条件で日本の味方である保証がない以上、自ら情報を収集、発信する能力を手に入れることは、どうしても必要なことであった。
これは、本来は領事館か大使館があればやる行動ではあるが、当時の日本はまだ日本本土に積極的に異人を受け入れる精神的風土はなく、領事館を開設しない代わりに商社を利用することを考えたのである。
第二の目的は武器輸入及び技術導入の窓口。
最新の武器や道具を買い取らせ、日本に送らせる。
その際に、教師として最新技術を持つ職人を日本に誘えれば、もっと良いとされていた。
日本は、250年もの間、他国との交流を減らし、社会の安定化を第一として、技術進歩を疎かにしていた。
ただ、日本国民の識字率や計算能力は世界的に見てもかなり高水準であり、欧米に劣るものでなかった為、最新技術や良い教師を手に入れられれば、欧米に追い付くことは可能であると考えられていたのだ。
第三の目的は、交易で利益を上げること。
ニッポンカンパニーは元々水戸斉昭が主張していた押し出し交易を実現するものであった。
異国と交易をすれば儲かるものであるというのは、当時の日本人の常識ではあった。
だが、異国を穢れだと考える水戸藩は日本で交易することを良しとせず、異国に行って交易をすれば良いと主張していたのである。
勿論、一方的に他国に行って、交易をすることなど、どの国でも認める訳がないことである。
だが、限定的とは言え、通商条約を結んだ後であるならば、逆に断ることは難しくなる。
そして、異国の商人が日本にやって来て物を売られるよりも、異国で取引をした方が得なことも多い。
異国の物を異国で買うなら、現地の値段で買えるので値段を吊り上げられる危険は少ないし、何が最新の技術で作成された物であるかの判断も容易だ。
更に、現地の人々に日本の製品を売る場合は、相手が何を求めるか需要を判断しやすく、値付けも自由にすることが可能だ。
ニッポンカンパニーには、後に腕利きの日本の商人が多数参加し、欧米の市場で大活躍したと伝えられている。
そして、第四の目的は、富の集中と国内の安定化。
これは開設当時から計画されていたとされる説と小栗がアメリカから帰ってきて齎した株式会社の知識が利用されたという説、そして結果として利益を齎したに過ぎないとする説とに分かれる。
だが、結果として、ニッポンカンパニーは富の集中と国内の安定化に貢献することになるのだ。
ニッポンカンパニーが活動する為には、当然ながら商品を買い付け、店を確保し、従業員に支払う為の資金(資本)が必要である。
その為、龍馬が最初にサンフランシスコ支店を立ち上げる際には、参勤交代軽減の代わりに各藩に上納させると決めた予算、本来は国防費に利用する資金の一部が流用されていた。
それが、小栗が日本に帰った辺りで大きく変わる。
幕府は、ニッポンカンパニーの株を売り出すことを決定し、希望する者は外様大名であろうと、市井の商人であろうと購入可能とすることを発表したのだ。
株の所有の過半数は幕府の所有とした上で、残りの部分を買いたいものが買えるようにする。
そして、ニッポンカンパニーが取引で儲けを挙げれば、経費を除いた利潤の中から、配当を得られること、異国に売りたい物、異国から買いたい物を幕府に申し出て売買の許可を得る権利を手に入れたのだ。
その結果、日本の多くの豪商が積極的に、株を購入。
更に、多くの商人がニッポンカンパニーに参加することとなる。
その上、予算に余裕のある藩も積極的に株を購入し、各藩は藩の特産品をニッポンカンパニーを利用して異国に売り出そうと活動することとなる。
このことにより、ニッポンカンパニーが安定している限り、株主の利潤が確保出来ることとなり、株を買った豪商及び株を買った富裕藩は、幕府の安定に協力する様になっていく。
小栗忠順は、幕府より、このニッポンカンパニーの初代代表取締役に任命され、辣腕を振るうこととなる。
そして、日本がアメリカにカンパニーを開設したというニュースは、一橋慶喜率いる遣欧視察団にも大きな影響を及ぼすこととなる。
ニッポン商社サンフランシスコ支店開設のニュースが欧米を駆け巡る頃、一橋慶喜率いる遣欧視察団は、丁度、オランダに到着する頃であった。
日本がアメリカに会社を作り、取引を始める。
その知らせはオランダに巨大な衝撃を与える。
何しろ、これまでは日本との取引はオランダが独占し、利益を挙げてきたのだから。
幸い、オランダはスクリュー船を寄贈したり、海兵育成の為に精鋭部隊を送り、訓練などしているので、他国と付き合ったことで、日本側がオランダに騙されていたと怒るようなことはないだろう。
だが、それでも、オランダの国力が衰えていることは、日本側に知られてしまうだろうし、その結果、徐々に日本が離れていく可能性は否定出来ないと考えられていた。
そんな中で、オランダにもまだ開設されていない日本の商社の支店が、アメリカに開設されたというのだ。
オランダが日本を支援し、スクリュー船を譲渡したり、海兵の育成に協力しているのは、只の親切ではない。
日本の好意を獲得し、交易上、今の優位を少しでも保つ為のものなのだ。
それなのに、日本がオランダよりアメリカを優先する様なことがあれば、今までのオランダの日本に対する投資が完全に無駄になってしまうではないか。
オランダは、日本を手放さない為に躍起になっていく。
オランダでその様な動きがある中、遣欧視察団がオランダ最大の港ロッテルダム港に到着すると、遣欧視察団にいち早く面会を求めた人物がいる。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである。
シーボルトも既に60歳。
シーボルト事件を起こして、日本を追放されてからも、既に28年もの年月が経っていた。
それまでの間、シーボルトは日本のことをヨーロッパに紹介し、日本ブームの先鞭を作り出していた。
そして、そのブームに乗って、オランダ、ロシア、アメリカ等、世界中を周り、陰で各国の首脳に働きかけ、日本開国を働きかけ続けてきていたのだ。
全ては日本に残した妻子と再会する為に。
そんな中で、オランダから連絡のあったシーボルト追放解除の知らせである(第三部十四話)。
シーボルトが飛びつかないはずはなかった。
シーボルトが来たことを聞くと、早速、慶喜は秘密裏にシーボルトとの会談を決める。
慶喜は、洋装に変装すると、髷を帽子で隠し、少数の供を連れて、シーボルト滞在のホテルに向かう。
通訳を任せるのは、適塾の元塾頭、橋本左内だ。
今回の派遣団には、幕府役人であるオランダ通詞は参加していない。
これは、派遣団に参加する者は、隠居するなどして、家を離れなければならないとされていた為である。
オランダ通詞は、世襲の地位であり、通詞自身が地位を捨てられなかったことに加え、幕府側もオランダ語が話せる貴重な人材を放したがらなかったことも原因だと考えられる。
シーボルトの部屋に入ると慶喜の席が用意され、慶喜の横に護衛が立ち、橋本左内は慶喜とシーボルトの間に立つと、シーボルトは慶喜の前に跪く。
「面を上げよ」
慶喜が言う言葉を左内が訳しても、シーボルトは頭を上げないのを見て、慶喜がニヤリと笑う。
「日ノ本を出て30年も経つのに、日ノ本の風習をまだ覚えておるのか。
まあ、良い。頭を下げたままでは話しずらいわ。面を上げよ。
それから、直答を許す。其の方が、長崎におったシーボルトか」
そう言われてもシーボルトは頭を下げたまま返事をする。
「はい。30年経とうと日本のことは忘れがたく。私の中で今も熱く燃えております」
「そうか。その為に、ロシアやアメリカを焚きつけて、日ノ本に開国を迫らせたか」
慶喜がそう言うと、シーボルトは思わず顔を上げ、慶喜に驚愕する表情を見せてしまう。
その様子を見て、苦笑する慶喜。
「何だ。そんなことも知らぬと思ったか。
聞くところによると、オランダ国王からの開国を促す手紙も其方の策謀だと言うではないか。
どうして、そこまで日ノ本を開国させようとしたのだ」
慶喜がシーボルトの目を見つめて聞くと、シーボルトも何度も逡巡した後に答える。
「私は、日本に帰りたいのです。日本に、残して来た妻と娘に会いたいのです。ただ、それだけでございます」
「ならば、日ノ本の地図など、ご禁制の品を日ノ本から持ち出さねば良かったのだ。
そうすれば、其方の医師としての名声は並ぶ者もなく、戻って来ることが出来たはずなのだ。
どうして、日ノ本の情報を持ち出そうとした?」
慶喜に問われ、シーボルトが答える。
「日本は素晴らしい国です。私は、この素晴らしさを世界に伝えたかったのです」
「其の方が日ノ本にいたのは3年。滞在出来たのは、長崎の出島の他に、鳴滝塾近辺だけであろう。
それで、日ノ本の何がわかる」
「遠くに行けなくても分かることは沢山あります。話を聞くことも出来ます。
清潔で、礼儀正しい人々の住む美しい国。
鍵を掛ける必要もないほど安全で、女性が一人旅出来るような国は世界の何処にもありません。
神社、お城、着物、女性、紫陽花、桜、紅葉、何もかもが美しい」
シーボルトの言葉に熱が籠り、目には憧憬が浮かんでいるのが解る。
その様子を静かに見詰める慶喜。
「いずれにせよ、どんな想いがあろうと、其方が国禁を破ったことは変わらぬ。
まあ、今回は、そのおかげで日ノ本を守ることが出来るのは皮肉なことではあるがな。
それで、伊勢守(阿部正弘のこと)が命じたという北蝦夷(樺太)が日ノ本の土地であることは広められたのか」
慶喜がそう言うと、シーボルトが頷き、テーブルを指さして応える。
「私は、この30年間、ヨーロッパに日本のことを紹介して来て参りました。
その為、日本学の権威として、有名になっております。
今回は、その名声を利用し、各国の新聞に、樺太、蝦夷、小笠原、対馬、琉球は全て日本の領土であることを寄稿させて頂きました」
「預かっておこう。オランダ語以外に、イギリス語が解る者もおるので、内容を確認させて貰う」
「それで、樺太を守ることに協力すれば、追放令を解除して頂けると伺ったのですが」
「武士に二言はない。内容に間違いがなければ、追放は解除しよう。
日ノ本に行きたいと言うのなら、帰りの船に乗せてやるわ」
佐内がその言葉を訳すと、シーボルトの目に涙が浮かぶ。
30年間挑み続けた日本への帰還が遂に実現するのだ。
シーボルトの胸は歓喜に満たされる。
だが、その様子を見て、慶喜が釘を刺す。
「だがな、日ノ本には、其の方を異国の間諜と疑う者もいる。
30年前の様な暮らしが出来るとは思うなよ」
そう言われて、シーボルトは慌てて否定する。
「スパイなんて、とんでもない。
私は日本人になり、生涯、日本で暮らしても、良いとさえ思ったのです。
開国させようとしたことも、それが日本の為になると信じてのことでございます。
日本に住ませて頂ければ、欧米諸国との対応など、お役に立てることも多数あるはずです」
その言葉に慶喜が皮肉に口を歪める。
「だが、其方は国法を破って、日ノ本の地図を持ち帰った。
結果として、日ノ本の為になったからといって、その様なことをした者を我らは信用せぬ」
そう言われて、シーボルトは愕然とする。
「では、日本に住むことは出来ないのですか?」
「日ノ本の役に立つ限りは、日ノ本への出入りを自由にしてやろう」
そう言って、慶喜は阿部正弘から聞いた海舟会の策を披露する。
「シーボルト、其方は日ノ本の間諜になれ」
思いがけない言葉にシーボルトは再び驚愕する。
「其方は、日ノ本の専門家のまま、こちらに住め。
日ノ本は好きでも、自分を追放した幕府に隔意を持っているように見せかけよ。
その上で、日ノ本についてどう考えているかの異国の情報を集め、我らの望む情報を異国に広め、誘導するのだ。
その方が、日ノ本で異国との対応を相談するより、余程役に立つ」
慶喜の言葉にシーボルトは暫し考えてから答える。
「先ほど、殿様は私が信用されないと仰いました。
その様な人間をスパイにして役に立つと本当に考えられているのですか」
「だから、日ノ本の役に立つ限りは、日ノ本への出入りを自由にしてやると言っている。
日ノ本を裏切り、害を及ぼすと看做せば、それで終わり。再び追放にするだけだ」
「妻と娘を人質にされるのですか」
「裏切らねば、問題なかろう。
それに、それが嫌ならば、今回、日本に来る時に、妻と娘を連れて行っても構わん。
日ノ本の為に、祖国を裏切れと申して居るのだ。嫌なら、それでも構わんよ」
慶喜が苦笑して見せると、シーボルトも苦笑して首を振る。
「私は日本人になることを望み、日本で生涯を終えることをも望んだ身です。
日本を他国から守る為に、情報を集め、また情報を流すことに何の躊躇いもありません」
「では、妻妾と娘はどうする?」
「日本に行った時に聞いてみます。
私と共に日本を出てヨーロッパに住むか。それとも、日本に住み続けたいのか。
妻と娘が、あの素晴らしい国を離れることに同意してくれるかはわかりませんが」
シーボルトが笑うと慶喜も笑みを浮かべる。
「良かろう。では、其方を雇ってやろう。報酬も別に渡す。
まずは、日ノ本のオランダ到着について、噂を広めよ。その上で、異国の反応を集めるのだ」
「畏まりました。全力を尽くさせて頂きます」
シーボルトは再び頭を深く下げる。
プリンス・ケーキとシーボルトによる、ヨーロッパ最初の日本ブームが始まる。
まあ、平八の意見を入れたステマ外交戦略と言ったところでしょうか。
さて、次はオランダとの交渉になります。
シーボルトにオランダのカードを教えて貰った慶喜がどんな合意を手に入れるのか、お楽しみ下さい。
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