第82話 眠らない塔と、微笑みの魔女
「ここが、L棟か~」
私は目の前にそびえ立つ、古びた煉瓦造りの建物を見上げる。
他の白亜の校舎とは違い、ここだけ時間が止まっているような重厚な雰囲気だ。
風に乗って、微かに薬品の酸っぱい匂いと、焦げ臭い匂いが漂ってきた。
私は意を決して、重い扉を押し開け、中へと入っていく。
建物の中は、外から見るよりもずっと広かった。
そして、独特の熱気に満ちていた。
多くの生徒が、忙しなげに廊下を行き交っている。
彼らは皆、片手には分厚い本を抱え、もう片方の手には羊皮紙の束や、奇妙なガラス器具を持っている。
すれ違う上級生たちの目は、どこか血走っているように見えた。
あれは、錬金術に関する専門書かな。
私はそう思いながら、彼らの邪魔にならないように、壁際を歩いていく。
それにしても、さすがは王立学園だ。
職人の工房のような熱気がありつつも、内装は驚くほど豪華だった。
廊下には、ふかふかの赤い絨毯が惜しげもなく敷かれている。
壁には、歴代の偉大な錬金術師たちの肖像画が飾られていた。
横にある大きなアーチ状の窓からは、春の柔らかな日が差し込み、舞い踊る埃すらキラキラと輝かせている。
「す、すごー……」
私は呆気に取られながら、キョロキョロと辺りを見回して歩く。
まるで、おのぼりさん丸出しだ。
私は案内図を頼りに、階段を上る。
木製の手すりは、長年使い込まれて、黒光りしていた。
カンカンと、私の靴音が、静かな踊り場に響く。
目指す教室は、二階にある『2-1』教室。
長い廊下の突き当たりに、そのプレートを見つけた。
「ここね」
私は、一度深呼吸をする。
そして、ドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開けて、教室に入った。
「……わぁ」
中に入った瞬間、私は思わず声を漏らした。
生徒が多いからなのか、教室はかなり広い。
ていうか、これは教室というより、大学の講義室だ。
正面の教壇に向かって、扇形に広がるように、階段状の座席がずらりと並んでいる。
黒板も巨大で、端から端まで移動するだけで一苦労しそうだ。
私はきょとんとして、入り口で立ち尽くしてしまう。
すると、後ろから私と同様な、真新しい服を着た新入生たちがやって来た。
彼らは空いている席へと向かっていく。
私もその流れに乗るように、慌てて足を進めた。
座席は自由なようだ。
前のほうは、やる気に満ち溢れた生徒たちですでに埋まっている。
かといって、一番後ろは、なんだかサボっているみたいで気が引ける。
私は、真ん中あたりの、端っこの席を選んで座った。
ここなら、目立ちすぎず、授業も聞きやすいはずだ。
周囲を見渡すと、まだ緊張が解けていないのか、キョロキョロと学生たちは視線を動かしていた。
隣の席の男の子は、貧乏ゆすりが止まらないみたい。
その向こうの女の子は、必死に教科書を読み込んでいる。
みんな、不安なんだ。
私だけじゃないんだと知って、少しだけ肩の力が抜けた。
私は、顔面を机に乗せる。
ひんやりとした木の感触が、火照った頬に心地いい。
「はあ、疲れた……」
入学式での騒動。
そして、慣れない場所への移動。
精神的にも、体力的にも、もう限界に近い。
早くお家に帰りたい。
ポムのふわふわのお腹に顔を埋めて、思いっきり深呼吸したい。
私がゴニョゴニョと、机に向かって文句を言っていると。
ふと、教室の空気が変わったのを感じた。
先ほどまでざわついていた生徒たちの話し声が、波が引くように、すうっと消えていく。
静寂が、教室を支配した。
「……ん?」
私は眠そうな目をこすり、顔を上げた。
そして、教室の奥、教壇の方を見る。
扉が開き、一人の女性が入ってくるところだった。
長い青紫の髪が、歩くたびにふわりと揺れる。
その色は、夜明け前の空のように、深く、そして神秘的だ。
切れ長の緑の瞳が、教室全体を静かに、値踏みするように見渡していた。
その視線は冷ややかで、それでいて、どこか熱を帯びているようにも見える。
彼女は、深緑色のローブの上に、肩までの短いマントを羽織っていた。
胸元の金色の留め具が、歩くたびにきらりと光る。
そこに立っているだけで、圧倒的な存在感を放っていた。
まるで、物語に出てくる、高位の魔導師そのものの雰囲気。
口元には、優しげな微笑みを浮かべている。
なのに、場の空気を一瞬で引き締めるような、不思議な威圧感があった。
うわ……絶対、あの人が先生だ。
私の勘が、警鐘を鳴らす。
あの雰囲気、絶対にただ者じゃない。
生徒たちは皆、彼女の一挙手一投足に釘付けになっている。
誰も、言葉を発することができない。
彼女は、教壇の中央に立つと、私たちをゆっくりと見回した。
そして、鈴を転がすような、美しい声で口を開く。
「皆さん、集まりましたね。私は錬金科の一年を担当する、アイラ・フェルノートと申します」
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