剣鬼と剣姫。
――ルドア国王城にて。
「……来た」
男は走らせていた筆を静かに机上へと置くと、苦笑交じりに執務室の扉へと視線を向けた。
全く、毎日毎日よく飽きないものだと、灰色の髪を掻き上げて、大きく伸びをする。
それから、深く、長く、息を吐く。
胸の内に渦巻く何かを、吐き出すかの様に。
息を全て吐き終えて、やや心が軽くなったような感覚に見舞われた頃。
部屋の扉が勢いよく開いて、いつもの如くとある人物が姿を見せた。
「アルバート!!」
癖っ毛で、茶色交じりの金髪をふわふわ揺らしながら、書斎机へと突進してくる小さな彼。
ルドア国第二王子、クリストフ・ルドア・バルテル。
クリストフは茶色い瞳を大きく見開かせながら精一杯背伸びをし、机から顔を出してアルバートを見つめる。
そして、いつも通りのやり取りが、今日も始まるのだ。
「エレオノーラは帰ってきたか!?」
「……」
その、希望に満ちた問いに、アルバートは言葉を詰まらせる。
「……いいえ。まだですよ、殿下。ノーラが戻って来たら、直ぐにお伝え致します。ですから、もう暫くお待ちください」
「そうか……」
瞳が曇り、力なく机から顔を離す。
いつも通りの、この、……やり取り。
何て、虚しい繰り返しだろうか。
アルバートはクリストフの反応に困った様な笑みを浮かべながらも、その胸中は悲しみに包まれていた。
毎日毎日、エレオノーラの帰還を確認しに来るこの少年。
それに返答を返すたびに、現実を付けつけられているようで、アルバートの心はその度に深く沈むのだった。
けれど――、
「……じゃあ、明日帰って来るかもしれないな!!」
「……」
落ち込んだかと思ったら、今度は笑顔を見せるクリストフ。
その目には、またもや希望が輝いていた。
落胆しても、明日を見据えるその強さは、無垢で無知な幼さ故か。
彼はまだ、社会の厳しさも、人間の醜さも、どうにもならない現実も、何も知らないのだ。
明日が来ることを信じて疑わないその純粋さが、アルバートには眩しく感じられた。
「……そう、ですね」
「ああ!」
アルバートの返事を満足気に聞いて、クリストフは用は済んだとばかりに執務室を後にする。
そして再び静かになった部屋で、アルバートは項垂れる様に、組んだ両手に額を乗せた。
……日々、娘が帰ってこない現実に打ちひしがれる。
けれど――、それでも希望を捨てずにいられるのは、すっかり日常化してしまった、このやり取りがあるからかもしれない。
窓から差し込む日の光が背を照らす。そこでアルバートは、先程まで覆い隠していた雲が晴れたのだと悟った。
顔を上げ、クリストフが出て行った扉を見つめる。
「明日帰って来るかもしれないな……か」
先程の言葉を呟いて、深く、長く、息を吐く。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
明日への希望を宿した瞳で。
*******
自室のソファに腹這いで寝転がりながら、グレンは詰まらなそうに菓子を頬張る。
溜息交じりに窓の方を見遣れば、椅子の上で膝を抱えたロベルトが、虚ろな瞳で外を見つめていた。
「……あのさぁ。そうしてるだけなら、もう帰ってくんねぇ?」
「……」
「ショックなのは分かるけどさぁ、いい加減元気出せって。もう一月経つんだぜ?毎日毎日、鬱陶しい程に通い詰めて来やがって。外見るだけなら自分家でも出来るだろうが」
「……」
「おい。聞いてんのか?」
「……ノーラも、空、見てるのかな……」
「……」
空を見つめたまま、ふふふ……、と力ない笑いを零すロベルト。
グレンの手に持たれていたマドレーヌが、勢いよく握り潰される。
……堪忍袋の緒が切れた瞬間であった。
「いい加減にしろよテメェェエエ!!!うじうじうじうじ、鬱陶しいんだよ!!最初は大目に見てやってたが、もう限界だ!!帰れ!!今すぐ!!」
怒鳴り声を上げながらグレンは立ち上がると、扉を指差しながらロベルトを見遣る。
けれど、それでも反応はなし。
「おい!!黙ってねぇで、何か言いやがれ!!」
グレンはイライラしながらもロベルトのもとへと歩み寄り、遂にはその胸倉を掴んで、強引に顔を向けさせた。
これでも反応がなければ殴り飛ばしてやると、拳まで振り上げている始末である。
けれど――。
「……」
「はぁ……」
ロベルトの顔を直視して、気が萎える。
グレンは溜息と共に拳を下げると、胸倉を掴んでいた手を放した。
それにより、椅子の上で小さな尻餅を搗くロベルト。
「……邸じゃ、うじうじなんて出来ないよ。……母様達に、心配を掛けてしまうじゃないか……」
「ふぅん?」
「父様も母様も、ノーラの事でいっぱいいっぱいなのに、これ以上、余計な心労を増やして欲しくない……」
「……それで?」
「もう、一月も経つんだ。ノーラが居なくなって、一月だ。まだ、6才になったばかりなのに。まだ、あんなに小さいのに。父様も、私兵団の皆も、必死で探してるのに。もう、……一月も、経ってしまったんだよ……」
「……」
「……どうして、居なくなってしまったんだろう。……何か、悩んでいたのかな?もしそうなら、何故、僕は、気付いてあげられなかったんだろう……。僕は、ノーラの兄様なのに。いっぱい、傍にいた筈なのに。……も、もし、ノーラが、……」
言いかけて、言葉を切る。
何故かこの先は、言ってはいけない様な気がしたから。
その言葉を口にすれば、本当にそうなってしまうような、そんな予感がした。
気が付けば、涙は溢れ、頬を濡らす。
それを無気力ながらも軽く拭って、ロベルトは俯いた。
「――生きている!!」
「え……?」
突然、グレンが声を張り上げた。
それは、自分が言おうとしてやめた言葉とは、逆のもの。
ロベルトは咄嗟に顔を上げ、グレンを直視した。
「ふん。やっとこっちを見やがったな。……ったく、エレオノーラ嬢は生きているよ。当然だろう?あの歳で、神童と持て囃されたこの俺を、軽々と打ち負かす程の女だぞ。そんな簡単に死なれては俺が困る」
「……は、はは。……そう、だよね。君をズタボロに負かすぐらいだもんね」
「おい、そこまでは言ってないぞ」
「ノーラは可愛くて優しくて賢くて強くて可愛くて、最強だもんね」
「ねぇ、聞いてる?というか今、可愛い、二回言ったよな。この糞シスコン野郎」
「ふふ、ありがとう」
「違う。シスコン、褒め言葉チガウ」
……一月も、ではない。まだ、一月。
ロベルトは大きく息を吐きだすと、少し、胸の内が軽くなっている事に気が付いた。
椅子から立ち上がり、伸びをして、数歩歩いて振り返る。
「グレン。ありがとう」
「……だから、シスコンは褒め言葉じゃねぇって」
「ふふ」
それから僅か数分後、妹の話をマシンガントークで繰り広げ出すロベルトに、グレンは戦慄することとなる。
ノックも無しに勢いよく開かれた扉と共に、「兄上ー!!」と突進してきたクリストフが、この日ばかりは救世主に見えたという。
*******
癖のある茶色交じりの金髪をふわふわと揺らめかせ、長い廊下を優雅な足取りで歩む一人の女と、未だ拙い足取りの赤髪の幼子。
彼らは互いに手を握り合い、時折顔を見合わせては微笑み合う。
けれど少しして、廊下の突き当たりにある曲がり角より、薄緑の髪を靡かせた美しき女が姿を見せた。
そしてその女の隣には、彼女と同じ髪色をした男女の幼子。
楽し気に話をしていた彼らだったが、こちらの存在に気付くと話を止めて、笑みを湛えながら直進してくる。
金の髪の女は、一瞬眉を顰めるものの直ぐに表情を硬く引き締めて、我が子の手を固く握りしめた。
カツカツと、互いの靴音だけがやけに大きく廊下に響き、女達の距離が、その度に縮まっていく。
そして、ほぼ同時。……靴音が止んだ。
暫く互いに見つめ合い、固まる二人。
「――ごきげんよう。エイダさん」
「ふふ。ごきげんよう、フィオナ様?……く、ふふふ」
初めに口火を切ったのは、金の髪の女――フィオナ・ルドア・バルテル。
ルドア国現国王、ベルンハルト・ルドア・バルテルの妻であり、王妃。
そして、フィオナの挨拶に変わらずの笑みを浮かべている薄緑の髪の女――エイダ・ルドア・バルテル。
彼女もまた、フィオナと同じくベルンハルトの妻であるが、正室であるフィオナと違い、エイダの立場は側室。……にも拘わらず、この余裕の態度。
フィオナは憎たらし気に眉を顰めると、にまにまと口元を緩めるエイダの顔を睨み付けた。
「……何がそんなに可笑しいのでしょうか」
「くくく。……おっと、これは失礼?ふふ」
「……」
口元を軽く押さえ、笑う事を止めないエイダに、フィオナの苛立ちは増していく。
「……エイダさん。貴女、御自身の立場をよく分かっていらっしゃらないようね。側室の分際で、その態度は何かしら?今すぐその品のない笑いをお止めなさい」
「く、ふふふ。……いやはや大変申し訳ない、正室殿。何分、育ちが悪いものでして。……ぷ、くく、……あっはははははははは!!ひー、こりゃ駄目だ!!がっははははははは!!」
「……」
止めるどころか、遂には大声を上げて盛大に笑い出すエイダ。
その姿には、淑女としての品も、王族としての威厳もあったものではない。
「……あー、面白れぇ。やっぱ何年経っても慣れねぇわー。この、女の戦いっつーの?正室vs側室、みたいな?……あっははははは!!似合わねー、俺!!」
「お黙りなさい!!何ですか、そのふざけた態度は!!側室と言えど、仮にも陛下に嫁いだ身であるならば、少しは王族としての自覚をお持ちなさい!!」
フィオナは声を張り上げて、細めた瞳でエイダに鋭い視線を向けた。
その高圧的な態度は、厳しくありながらもどこか凛として美しく。
普通の人間であるならば、彼女の気品と気高さに、思わず頭を垂れてしまうことだろう。
……けれど、真に残念な事ながら、彼女の目の前に立つこの女――エイダは普通の人間ではない。
エイダは、フィオナの威圧に屈するどころか、益々笑みを濃くするだけであった。
「くっ、はー!!!フィオナ様ってば、可愛いお目めで必死に睨んでいらっしゃるぅぅ!!あっはははははははは!!!」
笑われ、茶化され、躱されて。
フィオナがどんな態度を取ろうとも、エイダには全く通じない。
この女は……。
怒りで奥歯を強く噛み締め、フィオナは怒鳴った。
「……この、無礼者がっ!!私を誰だと思っているのですか!!人を馬鹿にするのもいい加減になさい!!あなたなんて……っ!!唯のお飾りの癖に!!陛下が真に愛しているのはこの私よ!!第一王子を産んだぐらいで、いい気にならないで!!次の国王は私の息子がなるに決まっているでしょう!?側室の分際で!!自惚れないでちょうだい!!」
息を荒げ、感情をぶつける。
不満を、怒りを、全てを言葉に吐き出し終えた後、フィオナは我に返った様に口元を押さえ、はたとして目を見開いた。
「く、ふふふ。……へぇ?相変わらず素直なことですねぇ、フィオナ様?……でもまぁ、俺がお飾りってのは間違いではないし?側室ってのも間違いじゃあないな、うん。だから、そこは別にどうでもいい。俺は唯、楽に贅沢に唯々愉快に生きられればそれでいい。だからこそ、正室なんて糞面倒くせぇ立場、……こっちから蹴ってやった」
「……っ」
唇を、噛み締める。
――ああ、何という屈辱か。
自分は国王の正室であり、王妃。けれどその立場は、実際にはこの女のお零れでしかないのだ。
フィオナは怒りで目頭が熱くなるのを感じながらも、必死に耐えた。
どれだけ取り乱そうとも、この女の目の前で、涙だけは流したくはなかった。
それは、お零れであろうとも手に入れた、正室としての意地であり、女の意地。
だからこそフィオナは、睨むことを止めはしない。
「あっははははは!!おー、恐い恐い!流石は温室育ちですねぇ?迫力があり過ぎてチビりそうだ」
「……汚らしい。品も礼儀も学べぬ無能であるならば、せめてその御下劣な口を閉ざしていなさい」
「あはは!こりゃ手厳しい!……では、口を閉ざす前に少し。僭越ながら、この俺自らが教示をしてやるよ」
醜悪な笑みを浮かべながら、エイダはフィオナとの距離を更に詰める。
「先程の話の続きだが、確かに俺はお飾りであり側室だ。そして、俺はその立場で十分満足している。――だが、次期国王云々ってーのは、また別の話だろう?ガキ共の未来を、テメーが勝手に決めてんじゃねぇよ。自惚れんな。テメーがガキを王にするんじゃねぇだろうが。王になるはそいつ自身。何かを得たけりゃ、己で戦い掴み取れ。俺は自分のガキを王にしてぇだとか、そんな野心欠片も持っちゃいねぇが、戦いを邪魔するのだけは見過ごせねぇ。王になりたい奴はなればいい。そして戦え!!勝った奴が王になる!!実に単純で分かりやすいだろう!?親として、こいつらの将来が楽しみだなぁおい!!あっはははははははは!!」
仰け反り、額を押さえながら豪快な笑いを響かせるエイダ。
そしてそんな母の様子に驚く素振りもなく、エイダの子等もまた、にこにこと笑みを浮かべるのみ。
そんな、不気味とも言える異様な親子の様子を目に映しながら、フィオナは生唾を飲み込んで堅く口を閉ざす。
……いや、閉ざす事しか出来なかった。
動揺を、恐れを、悔しくも感じてしまった。
気丈な態度を取るその裏で、フィオナは手の震えを必死に抑えようと、息子の小さな手に力を込める。
「――っと、それと」
「……っ!」
一頻り笑った後、エイダは更に一歩詰め寄って、フィオナの顎を掴んで上げた。
フィオナの頬を、冷や汗が伝う。
「睨むっつーのは、こうするんだぜ?」
「ヒ……ッ!?」
急に向けられた、鋭い視線。
それと同時に、フィオナの身体はバラバラに切り刻まれた。
「――?……あ?」
目を、見開く。
変わらず目の前には、至近距離で向けられたエイダの突き刺す様な瞳があった。
……死んで、いない。
エイダの視線に込められた禍々しい程の濃厚な殺意によって、フィオナは一瞬、自身が殺される幻覚を見た。
呼吸が、上手く出来なかった。
「こー……らっ!!」
「うぐふっ!?」
不意に、気の抜けた様な穏やかな声が、殺意を破った。
エイダが横に吹っ飛ばされた事で視界が開け、未だ動悸が収まらない瞳で、フィオナは何事かと視線を彷徨わせる。
「全くもう……。剣姫が何をやっているのかしら?フィオナ様を苛めないで頂戴」
「ぐ、……剣鬼か。この、馬鹿力が……」
打ち付けられた壁を背凭れに、横腹を抱えながらズルズルと立ち上がるエイダ。
「クレアさん……」
フィオナは震える唇で、その名を呼んだ。
自分とは違う、くすみのない輝く様な金糸の髪。
王族に次ぐ権力を持つカーティス公爵の妻であり、世界最強の剣士“四剣将”の一人。
『剣鬼』――クレア・カーティス。
そして軽く咳き込みながらも、乱れた髪を豪快に掻き上げて、クレアへと鋭い視線をぶつけるエイダ。実はこの女もまた、四剣将の一人だったりする。
『剣姫』――エイダ・ルドア・バルテル。
4人いる世界最強の剣士が、一つの国に2人もいるこの状況。
国家間の戦力バランスは一体どうなっているんだと叫びたくもなるが、囲えちゃったもんは仕方がない。
こればかりは本人の意思である。
他の国が、「不公平だ」とどれだけ騒ごうとも、四剣将を強制的に国が動かすなど不可能。
それ程の実力を、彼らは有しているのだ。
「久しぶりね、エイダ」
「ああ。久しいな、クレア。……娘は、息災か?」
嫌味ったらしい笑みを浮かべ、答えの分かり切った問いを口にするエイダ。
穏やかな笑みを浮かべてはいるものの、クレアの目は笑っていない。
……二人の間に、火花が散った。
そして今まさに、嫁同士の間で戦争級の喧嘩が勃発しそうになっている事など、二人の旦那は当然知らない。知る由もない。
エイダを嫁に出来たベルンハルト、すげぇ。




