昔話③【化け物親子】
――長い、永い夢を、見ていたようだった。
それは酷く楽しくて、恐ろしい程に楽しすぎて、まるで悪夢のような夢だった。
「ふぁ……」
穏やかな春の昼下がり。
ぽかぽか陽気に眠気を誘われ、平原の真ん中で彼女は小さな欠伸を零す。
腰かける石は温かくて、吹きわたる風はどこまでも優しい。
女は大きく伸びをすると、不意に目の前を横切った蝶々を目で追いかけた。
ひらひらと、ひらひらと。蝶々は飛んでいく。
そして、辿り着いた先は――。
「アルファ」
女は美しい翡翠の瞳を優しく細めると、蝶々を頭に乗せる愛し子の名を呼んだ。
自身と同じ銀糸の髪に、翡翠の瞳。その容姿は幼いながらも美しく、一目で彼らが親子だという事を印象付ける。
「う?」
名を呼ばれた幼子はキョトンとした顔で振り返り、その手に持っていた花を口へと含んだ。
その様子に、女は「あらあら」と困った様な笑みを浮かべて、腰を上げる。
「それは食べ物じゃないわよ?アルファは食いしん坊さんねぇ。ふふふ」
女は我が子のもとへと近付くと、あむあむと動く口をくすぐって、涎だらけの花を取り出す。
それから、再び空へと飛んで行ってしまった蝶々を二人で見送り、女はアルファを抱き上げた。
「おかしゃん」
自身を包む母の胸にしがみ付き、顔を摺り寄せて甘えるアルファ。
ああ、温かい。何て愛おしい子だろうか。
女は、その温かな体温に心を和ませながら、アルファの頭に頬擦りをした。
広大な平原に2人、私とこの子だけの世界――。
何て、――満たされた世界だろう。
「アルファ。愛しいアルファ。……私の、宝物」
アルファを包み込みながらそう囁く彼女の声色は、どこまでも愛に満ちていて。
痛々しい程に、優しかった。
*****
それから数年の時が過ぎ。
女は小屋の前に置かれた椅子に腰かけながら、草木と一人戯れる我が子を見つめていた。
相変わらずの、自分と息子だけの世界。
そしてそれは、相変わらずの満たされた世界。……である筈なのに。
女はその顔に微笑みを浮かべながらも、その胸の内には不安が絶えず蠢いていた。
「……アルファ」
名を呼ばれ、「なぁに、お母さん?」と、土弄りを止めて振り向くアルファ。
その地面には、枝で書かれた文字らしきものが刻まれていた。
「……何でもないわ」
「そう?」
アルファは不思議そうに首を傾げると、直ぐに手元の本へと視線を移し、再び見様見真似で文字を書き始める。
「……」
女は無言で微笑んだ。悲哀の籠った瞳で。
思えば、アルファが生まれてから拙いながらも小屋を建て、この場所で6度目の春を迎えた。
静かな森林で、慎ましやかに暮らす日々。
森を出れば広大な平原が広がっていて、時折2人で遊びに行ったりもする。
ただ遠くを見つめ、夜になれば星空を。
木々に邪魔される事のない広い空は、世界は、どこまでも壮大で美しい。
そしてアルファは、そんな広い世界が好きだった。
森の外に広がる大平原は、幼い頃からずっと、アルファのお気に入りである。
「お母さんお母さん」
「どうしたの?」
不意に、アルファが本を持って母へと駆け寄る。
「これ、何て読むの?」
「……これは、“チェ”よ」
「これは?」
「“ヴァ”」
「じゃあ、これは?」
「……ごめんなさい。これはお母さんにも分からないわ……」
「そっか……。なら、いつか分かったら、今度は僕が教えてあげるね!」
「ふふ、ありがとう。楽しみにしているわね」
母の微笑みに、アルファは嬉しそうに頷くと、先程の場所へと戻っていく。
ただ、それだけのことなのに、僅かに遠ざかる我が子の背中が、何だかとてつもなく遠いものに思えて。
アルファが文字を一つ覚える度に、言い知れぬ不安感と、寂しさとが彼女を襲った。
「……アルファ」
「んー、なぁに?」
今度は生返事のみをして、先程覚えた文字の練習に夢中になるアルファ。
こちらを振り返らない、我が子。
「……」
女は、押し黙る。
ただ、それだけのことなのに。
「……お母さん?」
名前だけを読んで、続きを話さない母を不思議に思い、アルファは振り返る。
母は変わらずの笑みを湛えていた。
「……お勉強、楽しい?」
「うん!」
「そう……。アルファは偉いわね」
「えへへ」
照れくさそうに笑って、その視線は再び地面へ。
女は、寂しさに顔を歪ませた。
子供というものは、いつか親の元から巣立つもの。
理解していたことだけれど、自分達だけは違うとも思っていた。
人に交じっては生きられぬ、自分達だけは違うのだと……。
けれどアルファは、“外”の世界に興味を持った。
平原で遠くを見つめるその瞳には、まだ見ぬ世界への夢と希望とが溢れていて。
そんな中、森にある洞穴で一冊の本を見つけてきた。
土に埋もれる様にして残された、人間の忘れ物。
旅人のものか、大平原に住んでいた村民のものかは知らないが、この近辺に今や人間など住んでいないし、そもそも近寄らない。
ということは、この本は捨て置かれてから、少なくとも6年以上は経過している。
土で汚れてはいたが、雨風や日光に曝される事は無かった為、比較的状態はいい。
今ではすっかり、アルファの興味を引き付けてしまっている。
(……いつか、世界を見てみたいと言い出すのかしら。私から、……離れていくのかしら)
そうしたら、私はまた独り……。
女は眉を顰め、俯いた。
あとどれだけの年数で、アルファは私を必要としなくなるのだろう。
そう思うと、女はどうしようもなく怖かった。
何万、あるいは何億か。
本人すらも分からない程の時を、女は生きてきた。
(まだ、たった6年よ……)
あまりに、短い。
あと10年もしないうちに、アルファはきっと世界を知る。
やりたいことを、自分の力だけで成し遂げるようになる。
母を見て、己の能力を理解して、世界を旅するようになるかもしれない。
そしたら私は、……どうすればいいのだろう?
「……っ」
不安が、込み上げる。
(ああ、ダメだわ……)
――これでは、駄目だ。
女は悲しそうな表情で首を振る。
そして、アルファの小さな背中を見つめた。
(アルファにも、同年代の遊び相手がいれば……)
アルファの世界には、私だけ。
それで、いいのだろうか。
……いや、駄目だ。
だからこそアルファは、他の世界に興味を持ったのではなかろうか。
母以外の存在に。母以外の世界に。
そこで、女は気が付いた。
そして、思う。
(そうだ。創ればいいんだわ)
遊び相手がいないなら、兄弟を創ればいい。
化け物が二人しかいないならば、もっと増やせばいい。
子供が巣だっていくならば、次の子供を創ればいい。
「……ふふ」
女は笑んだ。
そして、自身の影を引っ張り上げて創った繭を腕の中に抱き、愛おしそうに頬を摺り寄せる。
――ああ、自分が寂しいからといって、母が子の自由を縛る事などあってはならない。
ならば、子が大きくなるたびに、私は再び子を創ろう――。
赤子の産声が森に響くのは、それから僅か数秒後。
初めて聞くその声に、アルファは驚き振り返る。
「……お母さん?」
その日、美しき原初の化け物は、3人目の化け物をこの世に生み出した。
******
それから4年の時が過ぎ、当然のことながら、化け物の子らは元気に育っていった。
母にベッタリだった幼子達が、いつしか自分達だけで遊びに出かける。
兄弟で遊ぶ彼らを遠目で一人見つめながら、彼女は子の成長にまたもや寂しさを感じていた。
とはいえ、やはりまだまだ幼い二人。
遊びから帰って来て、母の姿を見つけるなり満面の笑みで駆け寄って来る様は、何とも愛らしい。
「ただいま、お母さん!」
「ただいまー!」
「ふふ。おかえりなさい、アルファ。カイル」
女は2人を優しく抱きとめて、その頭を優しく撫でた。
そして、しがみ付いたまま離れようとしないカイルを抱き上げて、今日の報告を喜々として始めるアルファの話に相槌を打ちながら、3人で小屋へと入っていく。
「――それでね、昨日よりももっと高い所まで木を登ってね」
「そう。それはすごいわね」
「ぼくも登ったんだよ!」
「カイルは少しだったじゃないか。一本目の枝までだったろ?でも兄さんは7本目!」
兄の言葉に、頬を膨らませるカイル。
アルファは苦笑すると、直ぐさま「ごめんごめん」と謝った。
「ふふ。カイルもアルファも凄いわ。さぁ、お腹が空いたでしょう?ご飯にしましょうか」
「うん!ぼく、いっぱい食べるよ!」
「今日はお肉?お魚?」
「さぁ、どっちかしらね?」
「あー!お肉だ!」
「あらら。見つかっちゃった。正解よ」
「カイルずるしたー!」
「ふふふ」
賑やかで楽しい毎日。
女は、こんな日々がこれからもずっと続いていくことを、心から願った。
けれどある日、事件は起こる。
アルファが能力に目覚めた事が、その発端である。
「カイル!見ててごらん?」
「なぁに、兄さん」
いつものように、2人で森で遊んでいた時。
唐突に、アルファが自慢げな表情で弟を呼んだ。
振り返るカイルだったが、そこには何故か兄の姿がない。
「……兄さん?」
不安そうに顔を顰め、周囲を見回すカイル。
「ばぁ!!」
「わっ!?」
そこで、自分の影から兄が姿を現した。
カイルは驚いて、勢いよく尻餅をつく。
「兄さん!もう、びっくりしたぁ!」
「あはは!ごめんごめん!」
頬を膨らます弟の頭を笑いながら撫でる。
ドッキリの成功に、アルファは内心ほくそ笑んだ。
「さっきの、お母さんと同じだね。兄さんも出来るの?」
「うん。昨夜出来るようになったんだ。でも、お母さんにはまだ内緒」
「どうして?」
「一面、花が咲き乱れる場所が、ここじゃないどこかにはあるらしくってね。そこを見つけて、花をいっぱい摘んで、お母さんをびっくりさせようと思って」
「お花なら、森にも咲いてるよ?」
「あんなのじゃなくって!もっと、もっと凄いんだ!見渡す限りの花々が……って、本には書いてあった。多分、平原全部を花畑にした感じじゃないかなぁ?」
「平原全部を!?うわぁ、すごいなぁ!お母さんも喜ぶね!」
弟の賛同に、アルファは満足気に頷くと、脇に抱えていた本を開く。
まだ分からない文字もあるけれど、前後の文字の並びから自分で解読出来たものもあって、今ではほとんど読むことが可能である。
「ほら、これ!“砂漠を超えた先には、見渡す限りの花々が一面に咲き乱れていた”だって!」
「砂漠って?」
「砂しかない場所」
「えー、なにそれぇ。あはは!」
兄の話に笑いを零しながらも、見た事も無い不思議な場所の数々に、カイルは瞳を輝かせた。
「他にも、水しかない“海”って場所とか、雪と氷の大地とか、炎で燃え続ける山だとか……!世界って、凄いだろう!?」
「わぁ!想像も出来ないや!どんなとこなんだろう?」
「それをこっそり見てくるんだよ。それで花畑を見つけて、お母さんに見た事も無い綺麗な花をいっぱい贈るんだ。見てきた世界の話と一緒にね。お母さん、きっと喜んでくれるよ」
「でも、あまり遠くには行っちゃダメって言ってたよ?時々様子見に来るし、いなくなったら直ぐバレちゃうよ」
「ちょっと行って、直ぐ戻って来るから大丈夫だよ。一瞬だもん。心配なら、カイルはここに残ってればいいよ」
「……やだ。ぼくも行きたい」
親の言いつけを破る事に罪悪感を感じつつも、カイルは首を振る。
アルファは、「決まりだな!」と笑うと、さっそく弟の手を握り、影の中へと消えていった。
この日、人間も魔物も死に絶えた地より、二人の幼き化け物が解き放たれた。
彼らはまだ知らない。
自分達が化け物であるという事を。
そして、今まで親子のみで暮らしてきた、――その意味を。
日々、彼らは闇転移を繰り返す。
幼き兄弟は世界の広さを知り、更なる憧れを胸に抱いた。
多くの景色を見て、多くの人間達に出会った。
人間達は、可愛らしい彼らを見て笑みを浮かべ、優しく接してくれた。
2人は、外の世界がより好きになった。
「「ただいま、お母さん!」」
「おかえりなさい。今日も楽しかった?」
「「うん!!」」
「ふふ。でも、何があったのかは秘密なのね」
「もう少ししたら教えるよ!楽しみにしててね!」
「楽しみにしてて!」
「あらあら。何を企んでるのかしら。ふふふ」
女は幸せそうに微笑んだ。
こそこそと、二人で何か隠し事をしているのは気付いていた。
けれど、お昼やおやつの時間などに子を見に行く際、危ない事をしている様子はない。
万が一何かあったとしても、不死の子等が死ぬ事はない。
ならば、ある程度の自由は許すべきだろう。
束縛か、自由か。
その狭間で葛藤していたが故に、彼女は選択を誤った。
*******
――ある日。
正体のバレた幼き化け物達は、憎悪に塗れた人間達に捕まった。
闇転移を使えたアルファは逃げ出せたが、カイルまでは無理だった。
直ぐに母へと助けを求め、カイルのもとへと戻る。
そこで見た光景は、アルファが今まで抱いていた世界の美しさを、黒く染めてしまう程に悪意に満ちたものだった。
アルファは知った。これもまた、世界の一部だという事を。
カイルは、大勢の人間の前に曝されて、体を切り刻まれながら泣き叫んでいた。
僅かな時間であったとはいえ、幼子に恐怖と痛みを植え付けるのには十分だったろう。
初めて見る、人間達の歪んだ表情。
けれど、何故だろうか。アルファはその光景に、既視感のようなものを感じていた。
(これが、人間……)
アルファは目を見開いて涙を流す。
そして、母の言いつけを破った、己の愚かさを嘆いた。
女はその惨状に目を見開いて涙を流す。
そして、子に何も教えてこなかった、己の愚かさを嘆いた。
(ああ、眩暈がする……)
そこで、頭が真っ白になって、女の意識は途切れた。
気が付くと、一面に広がるは血の海。
女は、泣き叫んでいた。
猟奇的な器具と、人間の肉片とが転がる血の海に膝を汚し、力なく嗚咽を零すカイルを抱きしめる。
背後には、涙を流しながら「ごめんなさい」と謝罪の言葉を繰り返すアルファ。
(ああ、またこの夢)
ふわふわとした意識の中、泣き叫ぶ己の悲鳴を聞きながら、自分の意識が戻って来るのを感じていた。
(……いいえ、夢ではないわ。覚えている)
――これは、私がやったのね。
女は泣きじゃくり、カイルの頭に顔を寄せて包み込む。
楽しい悪夢は、全て現実。
そんなこと、全て分かっている。
「カイル……!!う、あ、ああ……!!」
カイルを強く抱きしめて、女は暫くの間、泣き続けた。
膝に感じるは、血の温かさ。
けれどその心に、先程殺めた人間達への罪悪感は微塵もなかった。




