小話 『発熱時の出来事。』
主人公が前世の記憶を思い出し、高熱を出してぶっ倒れた時のお話です。
「……え?」
アルバートは走らせていた筆を止め、目を瞬かせながら部下へと視線を向けた。
「ですから、その、……エレオノーラ・カーティス様が突然の発熱により倒れられ、危篤状態との事で――、」
二度目の言葉で漸く状況を理解したアルバートは、目を見開かせて椅子から跳ねる様に立ち上がる。
「……っ、馬車を」
「既に城の前にて」
「すまない。後は頼んだ」
「はっ」
伝達に来た部下と最低限の言葉を交わし、アルバートは早足で執務室を出て帰路へと急ぐ。
仕事もやりかけ。国王への報告もなしに早退。
だが、今のアルバートにとって、そんな事は些事でしかない。
というより、頭にない。
アルバートの脳内を占めるものは、娘の死に対する恐怖心と焦燥感のみであった。
「……遅い」
馬車に乗って数分。
当たり前とはいえ、通行人がいる度に速度を落とす馬車に、アルバートは苛立っていた。
……まぁ、今こうしている間にも娘の命が危ういのだから、彼の気が急くのも仕方がない訳だが。
アルバートは爪を噛み、貧乏揺すりに脚を上下させながら、更には舌を打つ。
「ここでいい。降ろしてくれ」
「しかし……」
「止めろ」
御者台へと繋ぐ小窓越しに、アルバートは御者に命を出す。
御者は戸惑いつつも馬車を止め、車両の扉を開けようと御者台から下りた。
そこで、一陣の風が吹く。
その突風に御者は目を瞑るが、直ぐに気を取り直して後ろの車両へと歩を速めた。
しかし、扉は既に開け放たれていて、車両の中は蛻の殻。
驚いた御者は周囲を見回すも、そこにアルバートの姿はどこにも無い。
「ああ、なるほど。……流石は旦那様」
その後直ぐに状況を把握した御者は、感心したように両手を打ち鳴らし、唯々感嘆の声を零すのだった。
「……チッ。最初からこうすれば良かった」
舌打ちと共に、アルバートは足を走らせる。
その速さ、正に風の如く。
「ブースト、ブースト、ブースト!!……クソッ。鈍ったな」
立場もそうだが、机仕事ばかりの現在の日常に於いて、すっかり不要となってしまった身体技能。
身体強化魔法を何重にも掛けた久しぶりの全速力に、脚の筋肉がビキビキと悲鳴を上げる。
普段使わないとはいえ、やはり最低限の鍛錬は必要だったと、アルバートは今更ながら猛省した。
「クソがぁぁああっっ!!!」
急な激しい運動の所為で、遂には脚を攣る。
それなりに激痛ではあったが、それでもアルバートは速度を落とすことなく走り続けた。
ノーラ、ノーラ、ノーラ……!!
頭の中は、そればかり。
通行人とも多く擦れ違いはしたが、突風と共に何かが通ったぐらいにしか認識されず。
しかし、置いてけぼりを喰らった事情を知る御者は、アルバートの遥か後方で馬車を走らせながら、強く思う。
頑張れ、と。
それから僅かな時間の後に、アルバートは邸に到着した。
直ぐさまセバスは駆け寄り、主人と並行して走りながら、事の状況を大まかに報告していく。
「……分かった。詳しくは後で聞こう」
「畏まりました」
それだけ言うとセバスは歩を止め、優雅に頭を垂れてアルバートの後ろ姿を見送った。
発熱前の奇行についてなど、アルバートも詳細を求めたい所ではあったが、今は娘の容体の方が優先である。
アルバートは部屋の前に着くと、勢いよく扉を開けて中へと入って行った。
「ノーラは!?」
額から流れる汗を気にも留めず、アルバートは声を荒げる。
ベッドには力なく横たわるエレオノーラの姿と、その小さな体に手を翳す医師や使用人達の姿が目に付いた。
アルバートの声に気付いた侍女の一人が急ぎ走り寄ってくるが、その顔は青白く、酷いものである。
魔力切れもあるのだろうが、恐らくは精神的な疲労の面が大きい。
震える声と、纏まらない報告内容から、彼女自身もパニック状態なのだという事が容易に読み取れた。
「さ、先程から回復魔法をかけ続けておりますが、ね、熱が、高すぎて……!呼吸が浅くなっては持ち堪えを繰り返している状態で、……あ、あの小さなお身体で、どこまで持つか――、」
「滅多な事を言うものではありませんよ!!」
侍女の言葉を遮り、ステラが声を張り上げる。
毅然とした態度を装ってはいるが、髪は乱れ、顔色は悪い。
「も、申し訳ありませんっ!!」
侍女は我に返ったように背筋を伸ばすと、アルバートへと深く頭を下げた。
「……いや。よく踏ん張ってくれた。疲労もあるだろうが、もう少し、どうか頑張ってくれ」
「はいっ!」
アルバートの言葉に侍女は大きく頷くと、急ぎ足で持ち場へと戻る。
そして彼女と入れ替わる様に、ステラが静かにアルバートの前へと歩み寄った。
「お帰りなさいませ、旦那様。……どうぞこちらへ」
「ああ」
ステラに案内され、エレオノーラの傍へと近付く。
回復魔法をかける医師や使用人達でよく見えなかったが、そこにはエレオノーラの手を握って泣き崩れるクレアと、そんな母に寄り添いながら、エレオノーラを涙目で見つめるロベルトの姿があった。
「……体力回復、解熱の魔法を皆で何重にもして掛け続けております。先程、僅かながら心の臓が停止。直ぐに医師による蘇生魔法が施され、一先ずは危機を脱しました。しかし、またいつ同じ状態になってもおかしくは御座いません。例え命は助かったとしても、これだけの高熱。脳に何かしらの後遺症が残る事も十分に考えられましょう。……もしもの時は、御覚悟を」
「……」
小声で囁く様に告げるステラの言葉に、アルバートの視界は揺らいだ。
脳内は真っ白。
クレアの泣き声が、耳鳴りの様に遠かった。
「……ノーラ」
クレアの隣に跪き、震える手でエレオノーラの顔に手を伸ばす。
その体温は唯々熱く、とても幼子が耐えられるようなものではない。
それでも必死に持ち堪え、苦しそうに息をする娘。
――ああ、生きている。
その実感が、アルバートを現実へと引き戻した。
5才の娘が頑張っているのに、父である私がここで挫けてどうする。
私に出来る最善の手は何か。
アルバートは思考を巡らしながら小さく嗚咽を零すと、いつの間にか流れていた涙を拭い、隣で泣きじゃくるクレアの肩を優しく抱いた。
「大丈夫だよ、クレア。大丈夫……」
「……っく、ひっく、……ノー、ラ、……うぅっ」
クレアの手元を見ると、その手は僅かに光っていた。
少しでも体力の足しになる様にと、休むことなく魔力を送り続けていたのだろう。
体力と魔力は別物ではあるが、回復の際には互いに干渉しあう性質を持つ。
魔力の早い回復には体力が不可欠であり、その逆も然り。
それは、剣技の代わりに魔法がほとんど使えないクレアに出来る、唯一の足掻きとも言えた。
「ロベルトも、よく頑張ったね。私の代わりに、ノーラと母様を守ってくれてありがとう。……辛かったろう?でも、もう大丈夫だからね」
クレアの傍に寄り添っていたロベルトを抱きしめ、アルバートはその強張った背を静かに擦った。
ロベルトは力が抜けた様にアルバートの胸に顔を埋めると、緊張が解けたのか、その小さな体は小刻みに震え出す。
「と、とう、さま。ノーラが、何度も、呼吸が止まって……」
「うん。大丈夫。大丈夫だ。父様に任せておきなさい」
ロベルトの体の震えが止まるまで、アルバートは優しく背を擦り続けた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「皆、よく持ち堪えてくれた。だが、ここからが長い。回復魔法が使える者は、交代で休息を取りつつ、どうか引き続き頑張ってくれ」
「はい!」という多くの返事が室内に響き渡るのを聞き届けた後、アルバートは顔を引き締めて扉へと歩を進める。
それから1人、静かにその場を後にした。
「――セバス。他の医師は」
廊下を歩きながら、いつの間にか当然の如く後ろに付き従っているセバスに、アルバートは驚くでもなく平然と口を開く。
「……申し訳御座いません。先程の医師が、現在呼べる中で一番の名医で御座います。出来れば医学長クラスの者をお呼びしたかったのですが、生憎と医学会の時期と重なり、各国に出払っております」
「そうか……」
アルバートは苛立たし気に眉を顰めると、手を三回打ち鳴らす。
直ぐさま一番近くに居た第三私兵団の一人が、どこからともなくやって来た。
「医学長達の足取りを調べろ。彼らが王都を発ったのは、ここ数日の内。まだ近場にいる者がいるかもしれない」
「はっ」
それだけ言うと、私兵団の男は頭を垂れて姿を消した。
「医学長達が捕まらなければ、今邸に居る者だけで耐えなければならなくなる。第一私兵団で回復魔法が扱える者がいれば、ノーラの部屋に集う様に指示を。それから――、」
「心得ております。勝手ながら現在、お嬢様の隣室と前方の部屋を、休息所として宛がいました」
「行動が早くて助かる。……そろそろ昼時。休憩を兼ねて、食事も交代で摂らせなさい。恐らく今日は夜通しになるだろうから、厨房には夜食の手配を頼む。無理を言ってすまないと、料理長に伝えてくれ」
「畏まりました」
セバスは優雅に腰を折ると、踵を返してその場を後にする。
「……」
それから1人、書斎へと辿り着いたアルバートは、静かに部屋の中へと入っていく。
険しい顔で書斎机へと歩を進め、椅子に腰かけた。
そして組んだ両手に額を乗せて、大きく長い息を吐く。
……手が、震えた。
机を汚すは、涙の跡。
「はぁ……」
息を大きく何度も吐き出し、目を瞑る。
その拍子に、目に溜まっていた涙が大きく零れた。
「……情けない」
震える声で、そう小さく呟く。
何が大丈夫だ。
何が父様に任せなさいだ。
私に出来る事など無いに等しいというのに。
「はは……」
自嘲染みた笑いが、零れる。
無理もない。彼とて人間。
見栄を張って恰好をつけたいだけの、唯の男だ。
夫として、父として、家長として、当主として、宰相として。
それらの肩書に恥じぬよう、アルバートは努めてきただけ。
しっかりしなければと、己を奮い立たせていただけ。
……いや、そう在らねばならなかったのだ。
その重すぎる立場上、家族を守る為には強い人間で在り続ける必要があった。
しかしそれは、細い綱の上を恐怖心を押し殺して、涼し気な表情で歩き続けろと言われているのと同じ事。
周囲はその恐怖心に気付くこともなく、空高く綱を渡るアルバートを下から見上げながら、流石だなと拍手を送るのだ。
「……何て無力」
彼は確かに超人染みている。
だが、彼は超人ではない。
人の域を超えない、唯の、孤独な人間である。
「すまない、ノーラ。私が代われたなら、どれだけ良かったか。何も出来ない父様を、どうか、……憎んでくれ」
手が震え、声が震え、肩が震え。
祈る事しか出来ない自分が、唯々憎らしくかった。
――その時、ノックが部屋に響き渡る。
「……っ!ぐすっ。……誰だ?」
返事も無しに、扉が開く。
アルバートは慌てて涙を拭った。
「……アル」
顔を覗かせたのは、涙で目を腫らすクレアだった。
「クレア……」
「ふふ。やっぱり居た」
クレアは微笑みながら部屋へと入ると、ソファに腰を下ろす。
そして、「こっちこっち」と隣の席を手で叩いた。
「……」
静々とその誘導に従って、アルバートはその席に移動する。
それを見届けた後、クレアはアルバートに肩を寄せて一度小さく笑うと、直ぐに口を閉ざした。
「……」
「……」
「……疲れてないかい?」
「アルこそ」
「……」
「……」
互いに肩を寄り添わせながら、穏やかな沈黙が続く。
感じるものは、肩から伝わる体温と、呼吸の音。
「……さっきは、ごめんなさいね。アルも辛かったでしょう?」
「……っ!」
「それなのに1人、任せてしまったから。……だから、交代」
「え……?」
クレアは少し距離を取って座り直すと、戸惑うアルバートの頭を自身の膝上に倒す。
そして、その頭を優しく撫でた。
「大丈夫よ。大丈夫……。だって、ノーラは強い子だもの。それに、私がノーラを死なせないわ。……私に、全部任せなさい」
「……!!」
子を宥める様な優しい声色で投げかけられた言葉。
アルバートは大きく目を見開くと、その瞳からは涙が止めどなく零れ始めた。
ああ、全く、君には敵わないな。
そう胸の内で呟いて、アルバートは体の力が徐々に抜けていくのを感じていた。
「……うっ、……っく、……どうして、ノーラが……」
「そうね」
「今朝は、元気で……、うぅっ」
「……うん」
「ノーラが、もし、もしも……!!ああ、どうしよう、どうしよぉっ!」
「そう、ね……」
「まだ、5才なのに……!!このまま、ノーラに、……っく、もしもの事があったら、私は……!!」
「……ゔん。ゔん。……ひっく。……大丈夫よ。絶対、だい、じょうぶよ……」
弱音を吐きながら、顔を覆って泣くアルバートの頭を抱きしめる様に蹲って、クレアは再び涙を流す。
嗚咽交じりに「大丈夫よ」と繰り返しながら。
アルバートを宥める様に、そして自分自身に言い聞かせるように、クレアは唯そればかりを言い続けて、ソファで二人、泣き続けた。
その後第三私兵団が、道中の川の氾濫により、ブルーノ医師が王都へ引き返しているという情報を掴んでくるのは、それから間もなくの事である。
――これは、エレオノーラが寝込んでいた際に起こった、とある一幕。
意識のなかった彼女に、当然知る由はない。
だが、実はエレオノーラは吸血鬼であるため、心臓は止まっても勝手に蘇生し、放っておいても死にはしない。
要は無用な心配であった訳だが、当然そんな事、彼らもまた知る由の無い事である。




