シェリル対リスティア
ぼんやりとした意識が徐々に覚醒し始めた時、シェリルが最初に感じたのはひんやりとした冷たさだった。固く平らな所に横にされているのだろう。どれだけの時間そうさせられていたのか、体の節々が小さく悲鳴を上げている。
ゆっくりと重い瞼を持ち上げれば、薄汚れた天井が視界いっぱいに広がり、目線だけを動かして見てみたものの、窓のない壁や石でできた床があるだけで此処がどこなのかシェリルには全くわからなかった。
「ーーいッ」
身体を起こした瞬間に頭に走る痛み。シェリルは思わず頭を抱え込む。
シェリルが思い出せるのは、風で飛ばされ木の枝に引っかかった洗濯物を取るために手を伸ばしたところまでだ。洗濯物を取れたのかさえ覚えていない。糸が切れるようにプツリとその後の記憶がないのだ。
「あぁ……怒られそう」
誰になど考えるまでもない。もちろんグレンにである。あれだけ敷地内から出るなと言われていたのだ。この状態に陥ったのがシェリル自身の油断だと知れば、二度と跡が取れないのではと心配に思える程深く眉間に皺をつくり、苦言を呈してくるグレンが容易に想像できた。
だが、言い訳してもよいのなら、道路を挟んだ家の目の前の木という目と鼻の先程の距離に行くくらい大丈夫だろうと思っても仕方がないのではないか。敷地から出るのはほんの一、二分程度なのだ。まさかその短時間に攫われるなんて誰が考える。いや、結果的にこのような状況になっているのだから、何も言える立場にはないか。シェリルは諦めたように大きなため息を一つ溢した。
「こんな状況で何とも呑気ですこと」
この場には似つかわしくないほど可憐な声が耳に届き、シェリルは勢いよく顔を上げる。そして、入り口に立つ人物を確認すると眉を顰めた。
「本当にいちいち癪に障る人間ですわね」
侮蔑を含んだ眼差しでシェリルを見下ろすのは、男二人を従えたリスティアであった。リスティアはこの薄汚れた部屋では浮いてしまうような鮮やかなドレスや装飾品を身につけており、一目でシェリルと同じ立場ではない事がわかる。
「状況を説明していただけますか?」
シェリルは意識して平常心を心掛け、口元を引き締める。リスティアに動揺や怯えを悟らせては負けな気がしたのだ。
案の定、リスティアはシェリルの反応に不満感を露わにした。
「こんな可愛げもない女のどこがグレンを惹きつけるのかしら」
それは私も知りたい、とシェリルは心の中で答える。
その興味は女としてなのか、面白いからなのか。そばに居られればそれでいいと思っていたが、そばにいればいるほど答えが知りたくなっていく。グレンの心が欲しくなっていく。
きっとそれはリスティアも同じ。幼い頃から一緒にいて、恋心を抱き、グレンの全てが欲しいのだ。恋を知ったシェリルにはリスティアの気持ちが少しだけ理解できる。けれど、やはりリスティアを受け入れることはできなかった。
「これがリスティア様がグレンを手に入れるために選んだ手段ですか?」
シェリルの問いにリスティアは無害そうな可憐な微笑みを浮かべる。その笑みを見た瞬間、シェリルはぞわりと寒気を感じた。
「ええ、そうよ。この国にはね、何よりも血を重んじる者たちがいるの。魔力量が多い者の血、人間の花嫁の血、そして……初代王オーウェンを先祖に持つ者の血。それらを求める彼らに貴女を攫わせた」
「で、でも、それなら貴女様だって……」
「ふふふーー、彼らが一番尊うのは王族の血。そんな彼らがわたくしの魅力に落ちないとでも?」
あまりの自信にシェリルは言葉を失う。しかし、現に目の前の男達はリスティアに神を見るような眼差しを向けていた。その異様な光景にシェリルは眩暈を覚える。
「わたくしも攫われた事になっているの。彼らに抵抗したわたくし達は命を落としかける。だけど、死ぬのは貴女だけよ?」
「……なっ」
「わたくしを守ろうとして貴女は命を落とす。そこに助けが来るの。魔力があるのに救えなかった事を嘆くわたしくしを見て、グレンはどう思うかしら。あぁ、心配なさらないで? グレンの事はわたくしが支えます。貴女への興味だって、いなくなればすぐに消えるわ。それより、王族を守った人間の花嫁として皆に伝えられることを感謝してほしいくらいよ」
シェリルはリスティアが何を言っているのか理解できなかった。いや、できなかったのではなく、したくなかった。
何故、そんな恐ろしいことを平然と口にできるのか。小さな虫すら殺したこともないような無垢な顔で、まるで悪い事など一つもないというように。
「そ、その背後に立つ彼らはどうするのです!? こんな事をすれば罰せられても仕方がないのですよ?」
王族を攫う事だけでも重罪なはずだ。それに加え、人間の花嫁を殺めるなど死罪も免れないのではないか。必死に訴えるシェリルをリスティアは哀れなものを見るような目で眺めていた。
「何を言っているのかしら。彼らはわたくしのためならば命を落としても構わないと思っているのよ」
「リスティア様のためならば」
「本望でございます」
リスティアの両脇で頭を下げる男たちを見て、シェリルは狂ってる、と思わずにはいられなかった。
どうして己の命をかけようと思えるのだろうか。騎士は主や国を守るために命を張るし、家族のために命をかける者もいるだろう。王族であるリスティアを命をかけて守ろうとする者だっているに違いない。
けれど、目の前の光景は歪んでいる。リスティアは己の欲のために他者が命を落としても構わないと思っており、彼らもリスティアのためならば、それがただの我儘であっても命をかけると言っているのだ。それが尊い血を持つからという理由だけでである。
命はそんなに軽いものじゃない、とシェリルは嫌なほど知っている。失った命は二度と戻ってこないのだ。残された大切な人の心にぽっかりと穴を開けてしまうほどのもので、人によってその穴が大きくなることも小さくなることもない。命の価値はひとえに平等で尊い。
魔力がないからと勝手に生贄にされた時の虚しさ。子を産む道具扱いされた時の憤り。失ってから気づいた両親の愛の大きさ。誰かがそばにいてくれる喜び。それらは生きているから感じられるのである。
どれだけ世間に価値がないと見下されようと、命を軽く扱われようと、シェリルには産まれた事を喜んでくれた人がいて、いなくなって悲しむ人がいる。その人たちが生きているかなんて関係ない。そういう人がいた事に意味がある。
それはシェリルだけじゃない。この世界に生を受けたもの全てに当てはまるはずなのだ。
「何を言ってるはこっちの台詞よ。そんなことに他人の命を巻き込むんじゃないわよ!」
「なっ! 今、そんなことと言ったわね。貴女、無礼にもほどがあるわ!」
「何度でも言ってやるわ! 命よりも重い恋があってたまるもんですか。人を好きになることを否定なんてしない。だけど、人の死の上で成り立つ恋愛なんてあっちゃいけない!」
「何も知らないくせに勝手なことを言わないで! 今までわたくしが手に入れられないものなんてなかった。欲しいものは全て手に入れてきた。そのために王族としての厳しい勉強もこなしてきたわ。それなのに、魔力量のせいで子が望めないから結婚はできない? そんなことがあっていいはずがないでしょう!?」
リスティアにはリスティアの事情があるのだろう。夜会での立ち振る舞いを見ても、相当努力したのだとシェリルにもわかる。けれど、自分の命がかかっているのだ。はいそうですか、と受け入れられることではない。
「だからって殺されてたまるもんですか! 全てが思い通りにいくわけじゃないことを知りなさいよ! 私なんて思い通りにいったことなんてほとんどないわよ! 我武者羅に生きるだけで精一杯だったんだからぁあああ!」
「貴女を見ていると腹が立って仕方がないわ! グレンの横に当たり前のように立って、興味を向けられて。それは全てわたくしのものなのに!」
肩で息をしながら叫び合うシェリルとリスティア。そんな二人の会話の横で、男たちがシェリルに向けて剣を向ける。だが、シェリルに怯む様子はない。完全に頭に血が上っているようである。
「結局リスティア様は何でもかんでも他人任せなんですね。攫うのだって、殺すのだって、こんな魔力もないちっぽけな女とも戦えないなんて。そんな人にグレンの横は渡さない!」
「言わせておけば! いいわ、お望み通り、わたくしが貴女を殺してあげる!」
「しかしリスティア様、この部屋一体には魔力を打ち消す魔術が……」
「そんなもの消しておしまい!」
「しかし……」
「わたくしの命令が聞けないの?」
男がそれ以上反論する事はなかった。男が何かを呟くが、シェリルは何も変化を感じられない。けれど、やはり部屋に魔術はかかっていたようで、リスティアの笑みが深くなる。まるで獲物を見つけた猛獣のようなその目に、シェリルはゴクリと唾を飲み込んだ。




