東の魔女
「東の、魔女?」
シェリルは聞いたことのない名前に首を捻った。人を惹きつけるような魅惑的な赤い瞳に間抜けなシェリルの顔が映る。
「私を知らないの? ふーん、そう。貴女、人間ね」
ビクリと肩を揺らしたシェリルに女は口元を緩める。衰えを感じさせないハリのある肌に真っ赤な唇。しかし、落ち着き払った雰囲気からは大人の色気が滲み出しており、パッと見ただけだと四十代くらいか。だが、エレシースのように六十歳でも全くそうは見えない人もいる。ゆっくり老いていく人魚族なら尚更見た目で年齢など判断できない。
目の前に立つ人物の情報が上手く読み取れずシェリルは内心ビクビクと震えていた。
「そんなに怯えなくても。取って食いやしないわよ」
シェリルの気持ちを汲み取ってか、女は戯けたように両手を掲げてみせる。その際に女の赤いローブのフードが落ち、シェリルは思わず目を見張った。
視界を染めるのは真っ黒な長い髪。細くしなやかに靡くその髪にシェリルの視線は奪われた。美しく艶めく黒髪がひどくシェリルの記憶を揺さぶってくる。
「貴女……誰?」
聞かずにはいられなかった。会ったことなど無いはずなのに、何故か懐かしい気がする。
女は観察するようにじっとシェリルを見つめると、シェリルの髪に手を伸ばしてきた。すっと女の細い指がシェリルの黒髪をすくう。
「私の名前はミオーネよ。貴女の名前は?」
「シェリル、です」
「シェリル……良い名前ね。これも何かの縁。よかったら、うちにいらっしゃい?」
まるで魔術をかけられたようにシェリルは自然と伸ばされた手をとった。ミオーネは満足気に紅ののった唇を引き上げる。
そのままミオーネに手を引かれながら案内されたのは、森のずっと奥。目印などもなく、絶対に一人では辿りつけなさそうな場所に小さくて可愛らしい山小屋がポツンと建っていた。正直、歩いている間は本当に家などあるのかと不安が募っていたシェリルは密かに安堵の息を吐く。
「さぁ入って。今ハーブティーを淹れるわ。好きなところに座っていて」
ミオーネは家に入るとすぐに台所があるのだろう家の奥に消えていく。部屋のサイズに合った小さな木のテーブルに椅子が二脚。部屋に続くのかドアが一つあり、天井からは乾燥させている植物が吊るされている。可愛らしい柄のラグや置かれた小物はシェリルの好みと似ていて居心地がいい。
シェリルは椅子に腰を下ろして、まじまじと部屋の中を観察していた。
「どう? 気に入って貰えたかしら?」
「え、あ、すみません」
カップの乗ったトレーを手に戻って来たミオーネにシェリルは慌てて頭を下げた。渡されたカップの中からは良い香りが漂ってくる。胸いっぱいに吸い込んだシェリルの肩から力が抜けていった。一口飲めばスッキリとした口当たりで自然と表情も緩む。
「ふふふ。これも食べて?」
そう言ってミオーネがテーブルに置いたのは木の実の入ったパウンドケーキ。薦められるがままにケーキを口に運べば、ほんのり甘く、しっとりとしていて香ばしい木の実が良いアクセントとなり、あっという間に皿の上は綺麗になった。
「ご馳走様でした。とても美味しかったです」
「よかった」
テーブルに頬杖をしてシェリルを黙って見つめていたミオーネは嬉しそうに目を細める。その優しげな視線にシェリルはそわそわと落ち着かない気分になった。視線に耐えかねたシェリルが何か話さなければと話題を探していると、ミオーネはゆったりとした口調で声をかける。
「シェリルは人間の花嫁?」
「はい、そうです」
「……そう」
一瞬ミオーネの赤い瞳がギラリと光った気がしてシェリルは息を呑んだ。
やはり迂闊すぎたのかもしれない。シェリルはミオーネが悪い人だと感じなかった。だから初めて会ったというのに家にまで付いてきた。だが、人間の花嫁が人魚にとってどれ程の価値であるかを忘れてはいけなかったのだ。
「あの、私ーー」
「何か嫌な事でもあった?」
「え?」
「家出してきたのでしょう?」
シェリルは言葉を失い、顔を伏せた。ミオーネの言葉は正解のようで間違っている。家出とは、自分のいるべき場所から出ていくことだ。しかし、シェリルは自分がいるべきではないから出てきた。戻るという選択肢は元から存在しないのだ。
「人間がこの世界で生きるにはどうすればいいのでしょうか?」
質問を受けたミオーネは僅かに眉を寄せた。それが、何を甘ったれたことを、と訴えかけられているようでシェリルはミオーネから視線を外す。
「そうねぇ……一人では、難しいかもしれないわね」
「そう、ですよね」
「でも、私と暮らすなら難しくないわ」
「……え?」
思いもよらない提案にシェリルは驚いた表情のまま固まった。微笑むミオーネからは何を考えているか読めず、じわじわとシェリルの中に不安が広がっていく。
「私はそれでもいいってことよ。でも、その相手のことはもういいの?」
「……」
「話したくないのなら話さなくてもいいわ。でも、ただ逃げてきたようには見えないし、人間の花嫁である貴女が一人で生きたいと言うのはそれ相応の理由があると思って」
ミオーネは不思議な人だ。警戒しなければと何度も思うのに、顔を見ると何故か緊張が解れ、ポロリと本音を零しそうになる。今も誰かに聞いてもらいたいとシェリルの心の一部が泣き叫びかけている。
だが、話すとしても何を話せばいいのかわからない。どこに棘が刺さっているのか。何をすればこの心の靄を消せるのか。全く見当がつかなかった。
手を強く握り、押し黙ったままのシェリルを見兼ねたのか、ミオーネは飲み物のお代わりを淹れてくれる。カップに手を伸ばしたシェリルの手にはくっきりと指の跡が白くなって残っていた。
「私、今までに二回恋をしたことがあるの」
突拍子もない話題にシェリルは視線をミオーネに向ける。懐かしい記憶を思い出しているのか、ミオーネはどこか遠くを見ているようだった。
「一人目は燃えるような恋だった。私ね、女としては珍しいくらい魔力量が大きくて、魔術が上手いの。だから、昔から将来を有望視されていたし、結構モテていたわ。男の扱いは得意だとすら思ってた。でも、恋って恐ろしいわね。周りが全く見えなくなるの。世界には自分と彼しかいないような感覚に陥ってた。自信があった。愛されている自信がね。だけど違った。彼は私だけを選んではくれなかったの」
「……その後どうしたんですか?」
「もちろん怒り狂ったわ。自分が二番でいいなんて思えなかったもの。でも恋は一人じゃできない。燃やす燃料がなければ燻って、いつかは消えていく。それが長いか短いかは残っていた燃料次第ね。私は意外と長かった。それだけ自信があったのね」
自傷的な笑みを浮かべるミオーネからシェリルは目が離せなかった。
「逃げるように彼から離れた私が次に出会ったのが、私が恋した二人目の人。寡黙で私のことを無視するような人だったのよ? 最初は腹が立って仕方なかったんだから」
「ふふふっ、私と同じだ」
グレンと出会った頃を思い出し、シェリルは思わず笑いを零す。
「そう。同じなのね」
そう言って表情を緩めたミオーネにシェリルは観念したのか苦笑いを返したのだった。




