好きなもの
シェリルが研究所を飛び出した日から数日が過ぎた。変わった事といえば、シェリルが台所で食事を作り始めるとグレンが顔を出しにくる事だろうか。
未だにグレンの寝る時間はバラバラで、床で寝落ちしている姿を見る事もあるし、研究室は片付けても片付けても汚れるのだが、グレンの生活が少しずつ改善されていることにジェフが喜んでいたので良いことにする。
いつもと変わらず、乱雑に散らばった資料の束を集めていたシェリルは、目の前に転がっていた魔道具に目を止めた。
「これって……メルビスさんの屋敷に来た時、足につけてた魔道具だよね? あの、空を飛ぶやつ」
「ん? ああ」
研究結果が書かれた紙を見比べていたグレンはシェリルの声に顔を上げる。本当はこの行動こそ最大の変化なのだが、当の二人は気づいていない。
魔道具を持ち上げているシェリルを視界に入れたグレンは頷きつつも眉間に皺を寄せた。
「作ったはいいが、両足に取り付けて飛ぶとバランスを取るのが難しい。俺も練習をしてあの状態だ。所長には簡単に使えなきゃ意味がないと却下された」
「何のために作ったの?」
「ニコラスくらい魔力が高ければ魔道具がなくても体を浮かせる事は出来るが、ほとんどの者は風を操って浮かぶ魔道具を使う」
シェリルはアクリムニアに来たばかりの時、城に連れて行かれる際に騎士が乗っていた円盤に棒状の持ち手がついた魔道具を思い出す。
「だが、あれは重量によってはかなり魔石を消費するし、魔道具が大きければ大きいほど高く飛べない。魔石をたくさん持って乗れば本末転倒だ」
「……なるほど。だから足裏につけるくらい小さな魔道具を作ったと」
「だが、練習しなければ乗れないものなど欲しい奴はいない、というのが所長の意見だ」
ふーん、とシェリルは魔道具に視線を落とした。迷子防止のネックレスから空飛ぶ魔道具までグレンの作る魔道具は様々である。
「どうして魔道具の研究にハマったの?」
それは素朴な疑問だった。グレンには何かを作りたいという定まった目的がないようだ。ただ魔道具を考える事自体が好きで、一つの事に没頭する子供のように真っ直ぐな眼差しを魔道具に向けているようにしか見えない。
グレンは暫し考える素ぶりを見せ、ボソリと呟いた。
「俺が魔術を使える手段だったから、か」
グレンが資料をめくる音だけがひどく大きく聞こえる。シェリルはグレンを黙って見つめるが、資料に目を落としているグレンの表情は見えない。
「この世界には魔術が当たり前にあって、使えない事に悩む奴なんかいない。呼吸をするのと同じ様に魔力を扱い、物心つく頃には魔術を操れるようになる。だが俺は違った。魔力量は人魚族一なのに残念だ、と何度も言われてきた。だから……魔術に惹かれてた」
周りにあって自分にないものに憧れる。
その気持ちがシェリルには少し理解できた。幼い頃は母親のいる村の子供を羨ましく思ったことがあるし、魔術にだって憧れた。素敵な恋人がいる人や可愛い新品の服を着た人に熱い眼差しを送ったこともある。
「魔道具というより、魔術が好きなんだね」
何故グレンが魔道具に拘るのか。それは、魔道具がグレンにとって唯一魔術と触れ合える手段であったから。
きっとグレンだって最初から呪いに対しても周りに対しても無関心ではなかったはずだ。けれど、魔術が個々の価値を決める世界で、心ない言葉をぶつけられていくうちに幼いグレンは関心を向けなくなった。
シェリルにグレンの気持ちが全てわかるわけではない。だが、シェリルもまた手に入らないものを望む事はやめて生きてきた。
神に祈ったとしても死んでしまった両親が帰ってくる事はないし、どれだけ鍛えても持って生まれた魔力量は変わらない。望んでも手に入らないものにしがみ付いたところで生きてはいけないのだから、自分が手に入れられる範囲にあるものを逃さない事こそが重要なのだ。
だから、シェリルは周りにどんなに蔑まれようと良い子でいようと心がけたし、苦境に立たされても踠き争ってきた。負けはしないと気を張り、走り続けてきた。
けれど、ふっと立ち止まり振り返ってみれば、自分の手には何も残ってなどいないかった。
「好きな事があるって……いいよね」
好きなもの。それは、とても貴重で贅沢な存在だとシェリルは思う。物でもいい、人でもいい。自分の心を震わせる、熱を傾けられるものに出会える人がこの世界にどれだけいるのか。
ただがむしゃらに生き、何か一つのものに向き合う余裕がなかったシェリルには見つけられなかった。
母は死ぬ直前まで父の事を愛し続け、父とシェリルの手を握りしめて幸せそうに息を引き取った。
父は自分の仕事に誇りを持ち、仕事に打ち込んで、仕事場でその生涯を終えた。
グレンは食べる事も寝る事も忘れるほどに目を輝かせながら魔道具と向き合っている。
羨ましーーかった。そう、今はもうシェリルの中で過去形になりつつある。
シェリルは今、少し楽しいのだ。朝起きて、顔を洗って、着替えて、ご飯を作って、寝る。それはなんら今までの生活と変わらない。
けれど、ご飯を作っていれば覗き込んでくる人がいて、黙々と料理を運び、一緒に食事をする。会話はないけれど、箸の運びだけで、相手の考えが手に取るようにわかる。真剣な表情で机に向き合う背を眺めている時間も、文句を言いながら部屋を片付ける時間も、一人で必死に生きていた時とは全く違う時間の進み方をしている気がする。
好きなものとも、熱中しているものとも違うのかもしれない。だけど、シェリルはこの時間がとても特別に思えた。
「……この魔道具、騎士様に渡したら上手くいくんじゃない? 剣の訓練と同様に訓練すればいいし、慣れたらあの円盤の魔道具よりも自由に飛び回れて、狭いところでも犯人を追いかけられそう」
「なるほど。騎士か。あいつらと関わりを持ちたくないから思い浮かびもしなかったが……ありだな」
「でしょ?」
「やっぱりお前と話してると面白い」
以前ならば、どうせ研究に役立つからでしょ!? と思ってしまっていた言葉もーー
「ふふふっ、そうでしょう?」
自然とシェリルの頬が緩む。魔道具が二人の会話を成り立たせる材料になるのなら、シェリルはいくらだって活用する。理由は簡単、この時間が楽しいからだ。
「早速所長のところに行ってくる」
「魔道具だけ持って行くんじゃなくて、これも」
シェリルは自分が積み上げていた紙の束の中から、数枚の紙を抜き出しグレンに手渡す。渡されたグレンは紙に視線を落とし僅かに目を開くと、ばっと勢いよく顔を上げた。青い瞳が大きく揺れている。
「おまっ……まさか、ここにある資料を把握してるのか?」
グレンの手にあるのは所長のところに持って行こうとしている魔道具の研究内容を纏めた資料であった。
シェリルは当たり前のように頷き返す。
「私がただ拾って集めてるだけだと思ってたの?」
「……確かに、机には研究中の資料、テーブルにはその他のものが。でも、字が」
「暇な時間はたっぷりあるから。人間の花嫁用の辞書をジェフさんに用意してもらったの。資料は教材みたいなものよ」
会話のタネにもなるしね、とシェリルは心の中で付け加える。文字を覚えようとしたのは、この世界に少しでも早く馴染んで、もし何かあったら一人でも生きていけるようにというのが理由だったけれど、今は素直に始めてよかったと思っている。
「凄いな」
心から溢れた気持ちがグレンの口からそのまま落ちた。女性のように細く、けれど男性らしい大きな手がシェリルの手を取り持ち上げる。様子を伺っていたシェリルは指に伝わるグレンの体温に息を止めた。
白く小さな手は水仕事で荒れ、指先が僅かに黒ずんでいる。その指先を見たグレンは目を細めた。
「わからない事があったら聞け」
「え、あ、でも、研究の邪魔になっちゃうし」
「邪魔されるのはいつもの事だ。普段の礼だと思っておけばいい」
「そ、それじゃあ、お言葉に甘えて」
手から離れていく体温を名残惜しく思いながら、疼く胸を誤魔化すようにシェリルは顔を伏せた。
グレンの足音がドアへ向かっていくのをシェリルは耳で追いかける。まるで引き寄せられているかのように自然とだ。すると、壊れる勢いで開かれたドアの凄まじい音がシェリルの耳に刺さり込んできた。
「グレンいるかっ!」
転がり込むように部屋に飛び込んできたのは、今まで見たことのない険しい顔つきのジェフだ。ジェフはドア近くにいたグレンを視界に入れると、両手でグレンの肩を掴む。
「シェリルさんのパートナーにお前は相応しくないと、城で行われた会議の議題に持ち上がっているらしい」
「……え?」
ジェフの言葉に先に反応したのはグレンではなく、シェリルだった。シェリルの声でシェリルがいることに気がついたジェフは、しまったと顔を歪める。けれど、シェリルに気づいた様子はない。それ程までにシェリルは動揺していた。
「そうか」
二人とは全く熱量の違う静かな声が、異様な程部屋に響いた。




