閑話 研究員は見たっ!
シェリルがメルビスの屋敷にいる時に研究員が遭遇した出来事。
細く薄暗い廊下を突き進む。目指すは研究所内にある台所だ。研究にのめり込みすぎて朝食以降なにも食べておらず、いつの間にか外は日が落ちてしまった。
ピークが過ぎれば腹が鳴ることはないが、空腹に気づいてしまうと一気に身体から力が抜ける。幽霊が徘徊するかのようにフラフラと覚束ない足取りで廊下を歩いていると、ある部屋から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「おいグレン、頼まれた通り買ってきたぞ」
研究員の一人であるグレンの部屋から聞こえてきたのは皆が認めるグレンの世話役、ジェフの声であった。部屋の前を通りすぎる際、開いたままのドアの中を覗き見れば、ジェフが何かが入った袋を渡していた。
以前はよく見かけた光景だ。食事をなかなかとらないグレンの元にジェフが食べ物を買って届ける。それが頻繁に行われていたせいで皆から世話役認定をされたのだが、最近はめっきり見る機会がなくなった。
それもこれもグレンが人間の花嫁を貰う者に選ばれたからだろう。彼女、シェリルはとても活発で明るい娘だった。人間の花嫁だというのに誰にでも気さくに話しかけ笑いかけてくれる。
グレンの食事を管理するようになり、研究所の台所を使うようになってからは、他の研究員達の分までご飯を作ってくれるようになった。最近では調理中に発生する匂いが廊下に漂う事で、朝昼晩を認識するようになってしまった。
しかし、今日は昼と夜にその匂いのサインがなかったのだ。シェリルのせいとは言わないが、研究に没頭し食事を抜いてしまった原因と言えるだろう。
明かりのついていない台所にたどり着く。明かりをつけてみてもガランとした台所は綺麗に片付いていて人の気配はない。
「あれ。何にもないのか」
勝手に温めて食べられるようにといつもコンロに置かれている大鍋はない。冷蔵保管庫の中にも料理はなく、がくりと力なく肩を落とした。
「おっ! 朝の残りが少しあるじゃないか」
小さな鍋に移し変えられ冷蔵保管庫に入れられていた朝の残り物だと思われる野菜スープに顔を綻ばせ、意気揚々と温め始める。シェリルは魔石を使って火をおこしていたが、大抵の者は魔術によって一瞬で温められる。
物心付いた頃から魔術に触れてきた者からすれば、魔術のない生活なんて想像もできないことだが、シェリルを見ているとそこまで不自由さは感じとれなかった。魔術で温めていれば、シェリルに凄いと賞賛されたくらいである。
料理を温め終わると台所横に備え付けられている椅子テーブルへ皿によそう事もせず、小鍋のまま野菜スープを運びいただくことにした。鼻をくすぐる良い香りが頭と腹を刺激する。早く食べようとスプーンを手にしたと時、入り口の方に人の気配を感じた。
思わず下げていた目線を上げれば、そこにいたのはさっきジェフと研究室で言葉を交わしていたはずのグレンだった。二人の間に暫し沈黙が流れる。
「……それ」
キョロキョロと辺りを見回していたグレンの目線が小鍋に向かったのに気づき、咄嗟に腕まで使って小鍋を隠した。これはここにあるシェリルの作った最後の料理である。渡してなるものか。豪勢なわけではないが、身体に染みるような優しい味のシェリルの料理はお気に入りなのだ。
グレンはいいじゃないか。シェリルの料理はグレンのための料理。他の研究員はおこぼれをいただいてるにすぎない。自分のためにこんなに美味しい料理を作ってもらえるなんて……贅沢者め。絶対に渡さん!
グレンは黙ったまま小鍋を見つめ続けている。綺麗な顔の男が無表情で見つめてくるとかなりの迫力だ。対象が小鍋というのが地味に残念でならないが。
「やらないぞ。これを見つけたのは私だ。それにグレンはジェフに何か買ってもらっていただろう」
「あれは……」
「食べ物じゃないのか?」
「食べ物だが濃くて美味しく感じなかった」
グレンの回答にポカンと間抜けな顔を返してしまった。とても淡々とした口調で言っているが、捉え方によってはシェリルの料理の方が上手い、と惚気ているようにしか聞こえない。
元々研究に関する事以外言葉数が少なかったグレンは、最近少しずつ話すようになった。それだけでも皆が驚くほどの変化だというのに、なんということか。
「シェリルさんはどうした。作ってもらえなかったのか?」
「……いないようだ」
「はぁあ!! 大丈夫なのかっ!?」
「……」
「お、おい。探さなくていいのか!」
「居場所はわかる」
「なら迎えに行けよ」
なにをちんたらやってるんだ。グレンの花嫁だろうが! とは口が裂けても言えなかった。グレンがここにきて初めて表情を崩したからだ。
それはまるで迷子の子供のようで、珍しいものを見たと内心驚く。だが、グレンの表情でシェリルがなにも言わず自分から研究所を出て行ったことがすぐにわかった。研究所は極秘の研究も行われているため出る事は容易だが、入る事は難しい。関係者でなければ面倒な手続きを踏まねばならないくらいだ。
「そんなに気になるならーー」
「気になるわけじゃ」
「嘘をつけ。いいから、帰りたくないと言われた時の事はその時に考えて行ってこい」
「…………ふぅ」
小さく息を吐きながらくるりと踵を返し、そそくさと廊下に消えていくグレンを見送り、改めて野菜スープと向き合う。少し冷めてしまったかとスープを温め直していると入り口の方から「あれ?」と声がかけられた。次から次へと忙しいと思いつつ顔を上げれば先程までグレンがいた場所にジェフが立っている。
「ギルさんだけですか? シェリルさんは?」
「ん? シェリルさんはいないが、グレンは居場所がわかるって言ってたぞ」
「ギルさんのそれ……あぁ、だから廊下に匂いが」
「匂い? ……なるほど。それでグレンが来たわけか。まぁ、心配はないだろう」
「そうですか」
ジェフの苦笑いにつられ笑いが漏れる。グレンにとってシェリルという存在がどんなものなのか気になるところではあるが、まずは明日シェリルの料理にありつけるかが重要だ。




